高貴寺に石上露子を訪ねる

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開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。

弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。

高貴寺はのどかな平石の里の奥まったところにひっそりと建つ。

高貴寺の朱塗りの山門(総門)。
傍らに慈雲尊者揮毫の石標が建つ。

山門横の中興祖慈雲尊者揮毫といわれている結界石。
側面には「禁女人入門内」と刻まれている。

入り口で美男のお地蔵さんが迎えてくれる。

総門から、金堂に向かう参道。
右側の土塀の内側には学寮、本坊などがある。

『律院の性格をよくまもり、世間にはなるべく寺の存在を知れぬように努力し、例えば近鉄電車が沿線の観光資源としてパンフレットに寺の名前を印刷したい、といってもいっさい許さず・・・』と司馬さんは記す。

金堂、本尊五大明王、役行者、理源大師像が祀られている。
毎年一月十五日護摩供養に開扉。

石上露子の没後50年を記念し、命日に当たる2009年10月8日に歌碑除幕式が行われた。

歌碑「人の世の旅路のはての 夕づく日あやしきまでも 胸にしむかな」。

最晩年の露子の歌です。。

人生の旅路もそろそろ果てようかという私だが、沈み行く夕日を見ると、そのあやしいまでの美しさに胸を打たれる。

人生を達観したとみるか、まだまだ残り火が心にくすぶっていると見るか。

この歌を歌ってなお後に、露子は次男の不幸に遭遇することになるのだ。

次男の死後、露子は先立った2人の息子と自分の墓を、先祖代々の墓がある富田林の西方寺から、葛城山麓の山深い古寺「高貴寺」に移す。次男が好んだ寺だという。

「かつて、雑誌『明星』には、すぐれた五人の詩人があった。
晶子、とみ子、花子、雅子とこの露子とで、其うちの最も美しき女と唄われ、其歌の風情と、姿の趣とあはせて、白菊の花にたとへられてゐた」

地元でも美人で評判であり、わらべ歌で「富田林の酒屋の娘、大和河内にない器量」と歌われた。

自身の歌集の初発表は1959年10月30日のことであり、生前には一冊も発表されなかった。

露子の墓のある奥ノ院へと向かう。

旧家どうしの婿養子縁組で結婚。
文筆活動に夫の理解を得られることがなく、翌1908年には新詩社を退社させられ、本人の意思とは別に断筆に至る等、不幸な結婚生活を送った。

2男児を儲けるも、後年に夫の投機の失敗による杉山家の没落を経て夫と別居し、1931年(昭和6年)から「明星」の後身「冬柏(とうはく)」に再び短歌の寄稿を始める。

子供を病死や自殺で亡くす等し、晩年は生家で過ごした。
1959年(昭和34年)10月8日、脳出血で死去。享年78。

龍池の祠、奥の院に至る石段が続く。

奥の院御影堂、弘法大師座像が安置されている。

そこは弘法大師空海が三宝鳥を聞いた土地[空海作の七言絶句の漢詩「閑林に独り座す草堂の暁 三宝の声一鳥に聞こゆ 一鳥声有り人心有り 声心雲水倶に了了」(「後夜に仏法僧の鳥を聞く」『性霊集』巻十)を指す。

三宝鳥とは、その鳴き声から「声の仏法僧(ブッポウソウ)」の別名をもつ。
本種の鳴き声は日本語では「ウッ・コッ・コー」または「ブッ・ポウ・ソウ(仏法僧)」と聞こえ、この鳴き声の主は長年ブッポウソウだと考えられ、ブッポウソウはその考えによって名づけられた。

しかし、実際のブッポウソウは「ゲッゲッゲッ」と濁った声で鳴く。

夢の無い話だ。

十三重石塔と宝篋印塔、鎌倉建久年間造。

慈雲尊者霊廟。京都阿弥陀寺で亡くなった尊者の遺体は、郡山城を経由して運ばれ、ここ高貴寺の奥の院に埋葬された。
墓は五輪塔である。

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高貴寺への行き方歩き方

近鉄長野線「富田林」駅から金剛バス平石行終点下車
(富田林駅から約25分)徒歩約15分

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