カクレキリシタンをご存知でしょうか、偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)をさすこともあるが、カクレキリシタンという宗教が存在する。
江戸時代潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教や神道、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするものに変化していった。
このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず、今なお独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する。
現地では「古ギリシタン」「旧キリシタン」「元帳」などと呼んでいるが、学術的には、これを「カクレキリシタン」(すべてカナ表記)と呼ぶ。
これまでの研究・調査によると、大正から昭和30年代の頃には約2万人~3万人弱の「カクレキリシタン」の信徒がいたと推計されているが、近年、過疎や高齢化による後継者不足、生活様式の世俗化などによってその数は急激に減少している。
少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があったり、結婚などを機に個人・家族単位でカトリックになった人もいるが、それよりも多くの人がキリシタンの信仰をやめて仏教や神道だけになっている。
地域によっては、明治以降カトリックに復帰せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化によってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで元々のキリスト教から程遠いものになってしまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える原因の一つになっているとも考えられている。
最近まで伝承が継続されている地域としては、長崎県の長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や五島列島、さらに平戸市の平戸島や生月島(旧北松浦郡生月町)などの地域が挙げられる。
そして生月島では、現在最も多くカクレキリシタンの組織が残っており、独自の信仰行事がいまも伝承されている。
平戸市生月町博物館「島の館」には、生月島のカクレキリシタンが信仰の対象としてきた「納戸神」の一部が展示されているほか、カクレキリシタンの人たちによるオラショがCDに収録されて出版もされている。
一部の隠れキリシタンの神話では、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後神に赦しを請うと神はこれを聞き届けてしまう、というものがある。
旧約聖書の義の神とは明らかに異質なものとなっており、西方キリスト教(ラテン教会)の中核ともいうべき原罪の観念が消滅するに至っているようだ。
大阪府茨木市北部(千提寺地区)の高山右近旧領に大正時代まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。
こうした中から、現在神戸市立博物館蔵の重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」もこの地の旧家で発見されている。
現在茨木市立キリシタン遺物史料館で「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。
ウィキペディア参照