口之津から鬼池へ

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空模様は相変わらずはっきりしないまま、ただ無性に蒸し暑い。
今日は島原の口之津から天草の鬼池へフェリーで渡る。

どちらの港も何もない殺風景なたたずまいを見せるが歴史的には多くの事件、出来事があった。

口之津町(くちのつちょう)は、島原半島の南端の町、船員の町として知られる。
島原の乱の発端となる口之津事件についても触れねばなるまい。

1562年 有馬義直がイエズス会の宣教師 ルイス・デ・アルメイダを招き、貿易港として開港、1567年 南蛮船(ポルトガル船)が入港した。

のちに三池炭鉱から採掘される石炭の輸出港として明治時代に繁栄。
現在も国立口之津海上技術学校があり、船員を養成している。

2006年3月31日、周辺7町と対等合併し、南島原市となり消滅した。

対岸の天草下島まで 4.4 km、早崎海峡(または早崎瀬戸)を渡る30分の船旅だ。

島原半島南部沿岸は起伏の激しい岩礁底が広がり、南端の瀬詰崎から対岸の天草下島まで 4.4 km ほどで、有明海の入口に位置することから、全国的に見ても潮流が早く日本三大潮流のひとつに数えられている。

水深最大150m、潮流は最大8ノットと云われ、プランクトンの発生が活発で魚の餌の宝庫であることから、多くの魚種が集まる絶好の漁場が形成されている。おもに真鯛・アラカブ(カサゴ)・伊勢海老・ヒラメ・ブリ(ハマチ)・カワハギ・アジ・真ダコ・ミズイカ(アオリイカ)など。

また、豊富な魚に集まるミナミバンドウイルカの群れも見られるため、最近ではイルカウォッチングも観光資源として定着している。

悲劇の城 原城で紹介した談合島も見える。

対岸、右手方向へ目をやるとこれから訪れる富岡城のある砂嘴が見える。

対岸の鬼池行が見えてきた。
「オンノイケ(鬼池)の久助どん」という人買いが島原の子守唄に出てくる。

『おどみゃ~ 島原の~』の歌詞で始まる『島原の子守唄』は、多くの方がご存知のことと思います。

貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たちを哀れむ一方で、少数ながら成功して帰ってきた「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したこの唄は、宮崎康平(本名一彰 1917~1980年)作詞・作曲による戦後の創作子守唄です。

 
 おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
 梨の木 育ちよ
 何の梨やら 何の梨やら
 色気なしばよ しょうかいな
 はよ寝ろ 泣かんで オロロンバイ
 鬼(おん)の池ん 久助(きゅうすけ)どんの 連れんこらるばい

意味は、
私は島原の梨の木のある家で育った。
何が梨だろう・・・色気も何も無い・・・
早く寝ろ!泣くんじゃない!
鬼池の人買いが連れ去りに来るぞぉ。
(鬼池は島原の対岸,天草の地名)

貧しい農家の娘たちが対岸の口之津から石炭運搬船の石炭庫に閉じ込められ、遠い南方の島々や、北は、シベリアまで売られていった悲しい物語で知られる。

暗くよどんだ島原から明るい天草にやって来た、港では多くの海鳥の出迎えをうける。

口之津事件について触れる。

まるで鬼畜の如くの松倉重政父子の所業については悲劇の城 原城ですでに述べたとおりだ。

長くなりますが司馬遼太郎の街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)を引用します。

大百姓で与左衛門というものがいた。
与左衛門は宗甫から「なおコメを30俵出せ」と言われた。
しかしないため出せなかった。

「しばしご猶予ねがいます」と哀願したが宗甫は許さず、「無いというのなら、水責めだ」として、若い息子の嫁をとらえて籠に入れ、川にほうりこんだ。

昼夜6日漬けつづけた。

田中宗甫は武装兵数人を連れて村にとどまっている。
「出せば籠をあげてやる」

というのだが、与左衛門には一粒のコメもなかった。
与左衛門はせめて被拷問者を男に代えてくれとたのんだ。

自分か、あるいは息子なら少しは耐えられるかと思ったのである。

しかし宗甫はゆるさなかった。
男は耕作の道具であるために生かしておかねばならない。

嫁は、臨月のからだであった。
6日目に水中で産みおとし、次いで母子とも水籠の中で死んだ。

ここまで追いつめられれば、魚でも陸を駆けるのではないか。

島原の乱の本質は、宗教一揆ではなかった。

口之津村の大百姓与左衛門の嫁を川の中に漬けているあいだ、家老の隠居宗甫は村から動かない。

「米を出せ」
という宗甫の恐喝のために、与左衛門の親類一統があつまっている。
有るものなら親類が代わって出したいのだが、無いために寄り合うだけで思案首を集めていた。

結局、嫁が死に、その死体が新生児の死体とともに運ばれてきた。

「この仇をうつ」
というふうに、寄合の気合が変わるのは当然なことだある。

たれもが似たような目にあわされてきて、しかもこの先は餓死しかない。

死んだ嫁は、水溜りのように小さな海一つを隔てた天草からきていた。
実家の父もすでにきていた。

「どのみち、死ぬのだ」

という気分がこの事件で人々をけっしゅうさせた。

人々が宗甫の宿舎をとりまき火をかけたときは、七、八百人になっていた。

宗甫が夜陰にまぎれて島原城下をさして逃げた、ひとびとが追った。

ひちひち人数が増え、城下に突入したときは数千になっていた。

松倉の徒党は、城門を閉ざし、鉄砲をうちかけた。
寛永14(1637)年10月下旬のことである。

首魁の松倉家勝は江戸にいた。
農民が蜂起して二日後の10月27日、城代が江戸の勝家に急報を送った。

「・・・・・百姓共きりしたん、俄かに立ち上がり・・・・人数五、六千程御座候」
とあり、きりしたんということばが使われている。

蜂起の段階においては宗教色はなかったが、一揆が形成されてゆくにつれ、結束のためもあり、彼らは切支丹にもどったのである。

やがて積極的に切支丹色をつよめてゆく。

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