筑紫君磐井の墓と考えられている岩戸山古墳

九州

岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市にある前方後円墳。
九州地方北部では最大の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)に造られたと推定される。

ここは古墳の前方部、鬱蒼とした森の状態であまりの大きさと相まって墳丘全体を実感出来る観察場所はありません。

被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている。
文献から被葬者と築造時期を推定できる日本で数少ない古墳の1つ。

527年にヤマト王権に対抗。
古代史上の大事件「磐井の乱」です。

翌年、磐井が敗れると、九州の豪族の力は急速に衰えます。
しかし磐井一族は、ヤマト王権に支配される中で生き延びるために火の国と婚姻関係を結ぶなどして、手を組みながら生きていったのです。

磐井は大陸との交流を持っていました。
当時の交通は海路。

船を造り、船を操る者が、強い者でした。
筑後川、有明海を通じて大海を渡り、大陸と行き来しました。

百済と深い関係を持っていたヤマト王権とは違い、新羅との独自の交流ルートを持っていた磐井。

やがて朝鮮半島を統一する黄金文化華やかな新羅との間を、独自に、堂々と行き来したのでしょう。

少し離れてみるとなんとなく古墳の感じがするがこれが限度。

住居のレプリカも展示されているが、出土品は資料館に展示されている。

別区の石製品群(レプリカ)。

古墳脇にある大神宮。

「馬門石」は,熊本県宇土市網津町字馬門付近に産する凝灰岩で、約9万年前の阿蘇山の噴火により流れ出た火砕流が堆積し、数年から十数年をかけて冷えて固まったもの。

この堆積岩は「阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)」と呼ばれ、ふつうは灰色~黒褐色ですが、馬門地区に堆積した岩層にはピンク色のものが含まれており、別名「阿蘇ピンク岩」とも呼ばれています。

この石は比較的軟らかいため加工がしやすく、またその美しい色が珍重され、昔から鳥居や眼鏡橋など色々な構造物の石材として利用されてきました。

また日本列島内においても、真の継体天皇陵と目される今城塚古墳(大阪府高槻市)を始めとする畿内古墳の石棺部材に阿蘇ピンク石(馬門ピンク石)が見られることから、九州から西日本・畿内へ文化を波及させるだけの力を有したとされる(阿蘇ピンク石の畿内流入は530年頃で終息)。

これらから、王権側が看過できないまで九州勢力が成長したことが乱の背景になったと考えられている。

裸形で力士像の上半部と思われる。
頭部、下半部、両腕を欠損していますが、下腹部の形状や胸部の縦線刻から力士が連想できる石人です。

褌(ふんどし)を両手で持つ表現がある石人。

有名な石人像、磐井征伐に来た大和の兵士によって、破壊されたという。

石馬、出土したのは、鳥取県米子市の石馬谷古墳とここの2例だけ。
非常に貴重な副葬品です。

金製垂飾付耳飾り(立山山8号墳出土)、一族の古墳群からは朝鮮半島製と思われる副葬品が出土する。

この金製耳飾りは、磐井と半島との緊密な関係をうかがわせる。
岩戸山歴史資料館に実物がルーペで見られるように展示されている。

岩戸山古墳へのアクセス、行き方歩き方

福岡県八女市大字吉田1549他

西鉄久留米駅から、西鉄バス(八女営業所行)で「福島高前」バス停下車