吉田神社は、859年に京都の守護神として、都の表鬼門に位置する吉田山に創建された。
通称「神楽岡」と呼ばれ、霊域として崇められていた。
御神徳《厄除開運、方除、良縁と女性に特別の得を授ける神として知られる》
藤原家は、都が大和(平城京:奈良)にあった時は都の東に春日神社を建て氏神を祀り、長岡京(京都府長岡京市)に遷都した時は近くにあった大原野神社に氏神を祀った。
そして、平安京では吉田神社 を建て奈良の春日神社の神を移しているのである。
神社に仕えた吉田家は、全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
「徒然草」の吉田兼好もその一門である。
今宮社・木瓜大明神(こうりだいみょうじん)の鎮座起源は不明らしい。
祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、大雷神、建速須佐之男命の三神。
牛頭(ごず)天王(建速須佐之男命)を木瓜大明神と称するのであるが、その木瓜大明神が御神祭にないのが不思議。
若宮社 (摂社)、祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、例祭は毎年4月18日。
水徳の神様で、後醍醐天皇の延元元年(1336)吉田兼熈(かねひろ)が社殿を造り奉祠した。
神鹿像、昭和32年(1957)、吉田神社御鎮座千百年記念事業の一つとして、境内の一角に鹿を遊ばせたが、鹿の増加と周辺地区への配慮から打ちきられた。
その後、昭和60年(1985)、神鹿として鋳造した。
日本の国歌でも出てくる「さざれ石」(学名:石灰質角礫岩)。
石灰石が長い年月、雨水で溶解され、粘着力の強い乳状液が小石を凝結し巨岩となり、苔むしたものをいう。
世を重ねるたびに益々盛んに繁栄する意味を象徴する、めでたい石である。
ここに置かれている石は、竹下内閣の時の「ふるさと創生」記念事業の一環として、岐阜県春日村から奉納されたもの。
吉田神社 大元宮の東側にある、山上へと続く遊歩道への南側入り口右手に「紅もゆる歌碑道」の道標がある。
山頂からは南側にある広場の一角に三角点があり、その近くに「紅萌ゆる丘の花」記念碑がある。
「紅萌ゆる丘の花」というのは、この山のすぐ近くにあった旧三高(現京都大学)の逍遥の歌であり、丘とは吉田山(神楽ヶ岡)のことを指している
菓祖神社、祭神は田道間守命、林浄因命のニ神を祀る。昭和32年(1957)、京都菓子業界の総意により創建。
兵庫県の中島神社、和歌山県の橘本神社、奈良県の林神社の祭神を鎮祭する。
境内を菓子業者の石柱が囲む。
例祭は、春は4月29日、秋は11月11日。
山蔭神社、祭神は藤原山蔭卿、相殿は恵比須神。
藤原山蔭卿は、吉田神社創建の大役を果たした人。
また、山蔭卿は、我が国においてあらゆる食物を調理、調味づけられた料理飲食の祖神で、四条流包丁道の元祖としても知られている。
昭和32年(1957)全国の料理関係者が創建に協賛。
例祭は毎年5月8日。生間流包丁式が厳粛に奉納される。
大元宮中門、斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)。
吉田神道の根本道場。
正式名称は「日本最上神祇斎場所日輪大神宮」という。
もと吉田家(卜部(うらべ)家)私邸にあったのを文明16年(1484)に吉田兼倶(かねとも)が移建し、今の斎場所大元宮と伝承された。
大元宮(国重要文化財)、斎場所大元宮の本殿で、平面八角形の社殿が特徴で、南向き亀腹の土台。
なぜ「八角」なのかはわからないが、文献では中国には古く(前2世紀頃)から八角形の宗教哲学が成立していることから、中国古代の宗教思想の影響を受けているものと推測出来る。
本殿(重要文化財) 慶長6年(1601)の建物で平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造、茅葺き、棟に千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造で、神仏習合・陰陽五行を統合した吉田神道の理想を形に表している
幽斎桜、細川幽斎は天正8年(1580)丹後に左遷され、吉田山より京都の風情を込めた桜木を移植しその心を慰めたといい、現在400年の爛漫と咲くしだれ桜に成長し、舞鶴市天然記念物として、丹後吉田の瑠璃寺にその威容を誇っている。
平成16年、吉田神社創建1050年を記念して、瑠璃寺より苗木を懇請し、里帰りを果たす。
吉田神社への行き方歩き方
【住所】左京区吉田神楽岡町30
【電話番号】075-771-3788
京阪電車 出町柳駅下車 徒歩約15分
市バス 京大正門前下車 徒歩約5分