信長公廟のある本能寺

京都府

本能寺は京都の繁華街、河原町御池の南西角にある。
しかし当寺の本能寺はここにあったわけではない。

当時の本能寺は、現在の本能寺の南西、直線距離にして約600m、堀川高校の北、旧本能寺小学校跡(中京区油小路通蛸薬師山田町)であり、現在では石碑が1本建っているだけである。

総門、1879年に恭明院御門を移した。
法華宗本門流の寺院。

本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の十界曼荼羅である。
織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる。

塔頭が七院ある(恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院)。
1587年(天正15年)豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区寺町御池下ル)へと移転された。

伽藍の再建は1592年(天正20年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。
幾度となく焼き討ち&火災に遭っているため本能寺の【能】は【ヒ】が【去】という字になってます。

総門脇に立つ「日蓮上人辻説法」の像。

1929(昭和4)年再建の本堂。
京都大学教授だった天沼俊一氏による設計。

織田家の家紋とは別に、本能寺の境内にはお寺の紋として、結び雁金と鶴の丸の寺紋があちこちに見られます。
見ての通り、鳥の雁(がん)と鶴がデザインされています。

信長は本能寺を京都における定宿と決めていました。

記録によると当時の本能寺は現在の本能寺(京都区寺町御池下ル)から西南西へおよそ1.5Km四条西洞院にあり、壮大な伽藍を誇っていたといいます。

敷地は1万5千坪、東西50メートル、南北おそらく320メートルくらいの広大な寺域を持っていただろうと思われ、境内には塔頭が整然と建ち並び、その数30~40近くあったと思われます。

そして最盛期には3百人以上の僧侶が住んでいたのではと推定されます。
寺の周囲には、全て堀を割りめぐらしてあり、堀の内側には、高さ3メートル近い土塀がありました。

この堀と土塀の間にはさらに、堀を彫った時の土を利用して土堤がもうけてあったというまさに城のような構えの寺です。

信長が上洛のたびに本能寺を宿舎にしていた理由は、本能寺がこのような城構えをもった軍事的要塞だったからです。

加えて、当時京都の町衆=有力財界人がほとんど法華信徒であったという精神的に安らげる面からも信長にとってこの本能寺は、京都における最大の安全地帯だったと思われます。

本堂の奥(東側)の信長公廟
織田信長の三男、信孝が本能寺の変から1カ月後の7月3日に建立したという。

信長所持の太刀が納められているという。
織田信孝(1558-1583)は、安土・桃山時代の武将・大名。

神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛の養子となる。
伊勢長島一向一揆、越前一向一揆平定、四国征伐などに参戦、弔い合戦の山崎の戦い(1582)では、名目ながら総大将として明智光秀を撃破した。

その後の処遇に対して秀吉と対立、二度挙兵する。
だが、秀吉に降伏し、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、そこで自害した。

本能寺の変で、信長と共に亡くなった森欄丸らの合祀墓。

江戸時代前期の日蓮宗の僧・日甫(1607-1698)は、立花に優れた。
本能寺塔頭高俊院第4世院主。

号は大住院以信。
華道の2世・池坊専好に師事、1648年から1653年に江戸・紀州徳川家などの大名屋敷で活躍した。

その後京の宮中、公卿の間で活躍した。
境内に顕彰碑が立つ。

徳川家重夫人供養塔(一番下)、菅中納言局庸子の石塔(真中)、島津義久夫人石塔。

9代将軍・徳川家重(1712-1761)夫人は、江戸時代、伏見宮邦永親王(1676 -1726)の姫宮で、1731年、17歳で家重に嫁いだ。

江戸城西の丸に住んだことから「西の丸御簾中(ごれんちゅう)」と呼ばれた。
1733年、早産のあと、急逝し、寛永寺に葬られる。

信仰した当寺にも遺髪、爪が送られ、石段下に納められているという。

菅中納言局庸子(かんちゅうなごん の つぼね ようこ)は、江戸時代、五条中納言為庸の娘で、第112代・霊元天皇(1654-1732)に女官として仕えた。

本姓に因み「菅中納言局」と呼ばれた。
天皇の寵愛を受け、妙法院門跡堯親王、大覚寺門跡性感法親王を産んだ。

島津義久(1533-1611)は戦国時代から安土・桃山時代にかけての武将で、島津家当主、薩摩、大隈、日向などを領した。
夫人は、継室であり、種子島時尭の娘の円信院殿。

後伏見天皇7世皇孫、日承王墓。
日承上人(伏見宮第5代・邦高親王の子)は、幼少で入寺し、1543年、第8世貫主となる。

1543年、焼失した本能寺を四条西洞院に再興した。
数学の研鑚に努めて、多くの書物も残した。

浦上玉堂春琴廟所、右:浦上玉堂の墓・左:浦上春琴の墓。

玉堂琴士の号は、中国伝来の琴の銘からつけたもので、画とともに七弦琴も得意とした。

備前国岡山藩支藩新田(鴨方)藩士として37歳の時に大目付にまで進むが、寛政6年(1794年)旅先で二子を連れて脱藩。
以後、琴を背負って各地を放浪し、晩年は京都に住んだ。

画は独学だったらしく、画作は脱藩後、特に60歳、70歳代に集中する。
内面の揺れをそのまま筆墨に託す表現は、南画史上にも類を見ない個性的な世界を作っている。

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本能寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒604-8091 京都市中京区寺町御池下ル下本能寺前町522
電話:075-231-5335

市バス「京都市役所前」下車徒歩1分、地下鉄京都市役所前駅下車徒歩すぐ、京阪三条駅下車徒歩10分