一休寺はあくまで通称で、正式には酬恩庵(しゅうおんあん)といいます。
創建は鎌倉時代で、その後荒廃していたお寺を一休宗純が復興した。
酬恩庵という名は、宗祖である南浦紹明の「恩に酬いる(報いる)」というところから来ている。
「住吉大社で森女と邂逅 溺る一休」をご覧ください。
盲目の森女を愛し続けたという話は有名な話、一休は住吉で森女と会った。
「美人陰有水仙花香」(美人の陰<ほと>に水仙の花の香有り)という題がついた漢詩がある、要するに性愛を赤裸々に詠んだものである。
水上勉は、一休が盲目の森女の膝を枕に、静かに死出の旅に招かれたていったと考えたようだった。
一休和尚筆七仏通戒偈、「悪いことはするな、よいことをせよ」の意。
元は一休禅師、蓮如上人、蜷川新衛門の三人によるお手植えの杉として500年の緑を湛えていたが 寿命となり今は昭和40年に植えられた2代目である。
禅師は文明13年(1481)11/21に88歳で示寂されたがこれに先立って文明7年(1475) ここに寿塔を立て慈楊塔と名付けられた。
前面の庭は禅院式枯山水の様式で室町の古風を存している。
現在墓所は宮内庁が御陵墓として管理をされており門扉に菊花の紋があるのもそのためである。
総門をくぐると石畳の参道が続きます。
両脇には楓が植えられ足もとには隙間なく苔がしきつめられています。
都会の喧噪を忘れゆっくりとした時間を過ごすことが出来ます。
この時期「杉苔」が美しい。
ボケも実をつけています。
方丈は住職の接客や仏事を行うところ。
江戸時代慶安3年(1650)に加賀三代目藩主前田利常公の 寄進により再建された。
同候は元和元年(1615)大阪夏の陣で大阪に向かう途中、 当寺に参詣した。
一休禅師への崇敬の念を起こすとともに寺の荒廃を嘆き酬恩庵再興に乗り出した。
玄関を入ると奥に囲炉裏があり、手前には一休さんのとんち話に出てくる虎の絵が。
涼しげな風情です。
襖絵は狩野探幽斎守信の49歳の時の筆によるもの。
ショウショウ八景、林和靖、陶淵明が描かれている。
今現在あるのは複製画であり本物は寺の宝物殿に収蔵している。
方丈中央の内陣を昭堂と称しここに一休禅師の木像を安置してある。
この木像は一休禅師逝去の年に高弟墨済禅師に命じて作らせたもので自身の頭髪と髭を植えたとされている。
方丈の廊下、板目が美しい。
よく見るときれいな継ぎ目が見える、宮大工の腕の見せ所だろう。
取っ手にも菊のご紋が。
北庭は禅院枯山水としての蓬莱庭園である。
東北隅に約2メートルの巨石を配しいわゆる観音石として用いている。
これに他の集団石組をもって枯滝落水の様子を表現している。
その昔、正面には木津川を上下する白帆を眺めることが出来また晴れた日には比叡山を望んで楽しんだと言われる。
これら三方からなる庭園は江戸初期のものとしては第一流であり当代庭園の白眉とされている。
この作庭は石川丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の3名の合作とされている。
方丈を取り巻く回廊を歩きながら庭を楽しむ。
ちょうど沙羅の咲く時期で、その散り花が美しい。
庭にたくさんの石仏があり散策を楽しいものにしてくれる。
なにか、とぼけたようなな表情がいい。
とんち話の一休さんを想像させるような石仏も。
少年時代の一休さん。
手に箒をもち掃除をしている。
現在の世の中の汚れもこの箒で一掃して明るい世の中にしたいとの願いがこめられている。
「このはしわたるな」一休さんのとんち話に出てくる話ですね。
京田辺市にはいたるところに一休さんの像やイラストがある。
一休寺にも2、3の一休像がある。
そのなかで、この像は、どこか抜けていて秀逸だ。
髑髏面、一休作という宝蔵。
能楽観世流三代音阿弥元重、十五代元章、十九代清興、江州観音寺城主佐々木承禎、 茶人寸松庵等禅師の遺徳を慕ってこられた名士の墳墓がある。
一休寺へのアクセス、行き方歩き方
京都府京田辺市薪里ノ内102
電話:0774-62-0193
・近鉄「新田辺」駅から1.5km、徒歩25分、タクシーで約5分
・JR「京田辺」駅から1km ・京阪バス「一休寺」か「一休ヶ丘」下車徒歩5分(近鉄新田辺駅西口にバスロータリーから乗車)