チン電我孫子道停留場


我孫子道停留場(あびこみちていりゅうじょう)は、住吉区清水丘にある阪堺電気軌道阪堺線の停留場。

大阪市内区間と堺市内区間の境界駅でもある。

浜寺駅前 – 天王寺駅前系統の電車は、一部の除き本停留場で乗務員の交代を行っている。

入庫列車以外の当駅止まり列車は、一度浜寺駅前方面へ引き上げてから出庫待機線に入って恵美須町方面ホームに入る。

ただし、大きな遅れが出た場合は直接車庫に入って折り返す(これなら2分弱もあれば折り返せる)。

なお、日中の当駅始発恵美須町行きは天王寺駅前行きが出発するまで出発待機線を出ないが、ダイヤ上少しでも天王寺駅前行きが遅れると一本後の恵美須町行き列車が出発待機線まで来る事がある(なお、出発待機線は2両分あるので浜寺駅前方面本線を塞ぐ事は無い)。

1番のりばはホーム長さが2.5両分ほどあり、朝ラッシュや正月3が日などの列車錯綜時は手前の場内信号に併設されている誘導信号の指示で、2列車(ダイヤが混乱して、さらに続行列車が我孫子道止まりの場合に限り3列車)まで入線可能。

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早春の長居植物園


シバザクラも満開です。

ビオライエローピンクジャンプアップという名だそうです。

ムスカリ、地上すれすれに。

チューリップは見頃を過ぎていますが部分はまだまだきれいです。

まだ梅も残っています。

枯れ木の中に桜とレンギョウ。

春の草花、桜、レンギョウのコラボレーション。

竹林からハナナを透かして見る。

竹林の緑とハナナがさえます。

スモモもきれいに咲いています。

ヤナギがとてもきれいです。

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ナイトズー 天王寺動物園


いつもの動物園も、夜になるとまた違う表情をみせてくれます。
現在、天王寺動物園では春、夏、秋と期間限定でナイトズー(夜の動物園)を開催しています。

みどころはサファリゾーン アフリカサバンナ。

ハルカスを背景にキリン、ライオンなどのいるサバンナのゾーンは一番の人気スポット。

特にネコ科の生き物は昼間とは全然違う姿を見せてくれます。

メスのライオン二匹が並んでのんびり。でも昼はだいたい寝てるけど夜だから起きてる。

キリンは2頭います、こういうイベントをやると飼育係のおじさんたちは大変だね。

昼間はなかなか姿を見せないカバも夜になると姿を現します。

サイも昼間はあまり行動的でないのだが夜はよく動きます。

ムフロンは家畜として世界中で広く利用されているヒツジの原種のひとつとして考えられているが、体高は70~80cm程度で、野性のヒツジの中ではもっとも体が小さい。

これは、北アメリカに分布しているオオツノヒツジに比べるとふた周りほども小さい。

また、家畜としてのヒツジは、紀元前6000年頃にムフロンなどを原種として改良されたものだと考えられているが、現在のムフロンの野生種の分布域はコーカサス地方やイラク北部 、イラン北西部などとされている。

かつてはクリミア半島やバルカン半島などにも分布していたとされているが、これらのものは3000年前には消えてしまったと考えられている。

じゃがも夜は行動的。

ピューマも動き回るのでなかなかうまくとらえられない、この画像も被写体ブレ。

トラも動き回ってなかなかピントの合った画像が撮れない。

あー、楽しかった。

夜の7時を過ぎていますがまだまだ入館者は続いています。

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早咲き六角堂の御幸桜


頂法寺は、天台宗系単立の仏教寺院。
山号は紫雲山。本尊は如意輪観音(秘仏)。

西国三十三所第十八番札所。

正式の寺号は頂法寺(山号を冠して紫雲山頂法寺)であるが、本堂が平面六角形であることから、一般には「六角堂」の通称で知られる。華道、池坊の発祥の地としても知られる。

六角堂には、御幸桜(しだれ桜)、平安しだれ桜、染井吉野の三種類の桜があります。

その中で、御幸桜が一番早く花を咲かせ、今、見頃となっています。
京都で一番早く、春の訪れを見せてくれる桜です。

聖徳太子によって創建されたとされるが、1974年から翌年にかけて実施された発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されている。

六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからである。

藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。

三十二世(二世)池坊専好の立花

室町時代後半に活躍した実在の人物。
応仁の乱の末に華道の精神を説いた池坊専応、全国に足を運び立花を伝えた池坊専栄。

その後を引き継いだのが池坊専好(初代)である。

華道家元池坊が住職を務める六角堂は、いけばな発祥の地。

仏前供花などを起源とするいけばなは室町時代に成立し、日本文化の重要な要素となりました。

六角堂は、池坊専慶、池坊専応、池坊専好など、数々の花の名手を輩出しています。

縁むすびの六角柳。

地蔵山の南側の一群は、小さな素焼きの鳩の置物に囲まれています。
この鳩は六角堂の授与品である”鳩みくじ”が入っている容器です。

鎌倉時代初期の建仁元年(1201年)、叡山の堂僧であった29歳の範宴(のちの親鸞)が、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の宗祖とされる法然の専修念仏に帰依したとされる。

本堂の東側にある十六羅漢。

羅漢は、仏の教えを守り伝えることのできる優れた僧に与えられる名前。

十六は四方八方を倍にしたもので、いたるところに羅漢がいる意味とされる。

十六羅漢の周りには猿のような「邪鬼」もいる。

邪鬼はひねくれて仏教を理解しない衆生を表すが、六角堂の邪鬼は改心して十六羅漢を守り、修行に励んでいる。

きっと穏やかな羅漢さんに心を打たれたのだろう。



見ざる・聞かざる・言わざるの像。

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京都御苑 糸桜が見頃を迎えました


京都御苑の早咲き桜で名高い糸桜が満開を迎えた。(2019.03.25撮影)

近衛池は干上がっているのが残念です。
水源は井戸水ですが、井戸水の枯渇なのか、改修のために水を抜いているのかは不明ですが、水面に映る桜は見られません

今日は京都御所では天皇皇后両陛下による茶会が開かれています。

明日は日帰りで橿原市の神武天皇陵を参拝され、あさって27日には再度京都御所で宮内庁職員主催の茶会が開かれます。

近衛邸跡の糸桜は、早咲きのものと遅咲きのものがあります。

3月下旬に見ごろを迎えるのは早咲きの糸桜で、ソメイヨシノが終わりに近づく頃に見ごろを迎えるのが遅咲きの糸桜です。

そのため、近衛邸跡の糸桜は、毎年3月下旬から4月中旬まで楽しめます。

一般に糸桜と言われますが、枝垂れ性の江戸彼岸(エドヒガン)で、いわゆる枝垂桜と同じものです。
やや遅れて咲く八重の枝垂桜は八重紅枝垂桜という園芸品種です。

近衛邸跡の中でも南東部のやや小さめの桜が最も開花が進んでおり、満開です。
奥に見えるのは京都御所の朔平門。

桃も見頃を迎えています。

白花と紅花のコラボレーションがきれい。

桃の花の花びらと新芽の緑がきれいです。

御苑の木蓮は花が低位置に咲くので大人の方であればすぐ近くで花を眺めることができ、望遠レンズが無くとも素敵な構図の写真が撮れます。

皇宮警察の訓練の行進に出くわしました。

出水の糸桜も満開です。

ユキヤナギも見頃です。

宗像神社、レンギョウがきれいです。

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真如堂


金戒光明寺から黒谷墓地を経由して、真如堂に通じるルートは、桜の美しさもさることながら、平安時代から戦国時代、そして幕末に至る壮大なドラマを体感できるいわば“歴史の道”でもあります。

石薬師堂のあたりは山茱萸の花、満開できれいです。

ちょうど本堂の裏に出ます。

真正極楽寺は、天台宗の寺院で通称・真如堂と呼ばれる。
山号は鈴聲山(れいしょうざん)。

本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算。

永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。

正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。
不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。

しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔は焼失した。

本尊は応仁2年(1468年)比叡山黒谷青龍寺に、次いで文明2年(1470年)近江国穴太の宝光寺(穴太真如堂)に避難させた。

応仁の乱が終息すると文明10年(1478年)、一条西洞院に寺地を改めるが、文明16年(1484年)には旧地である神楽岡にもどって再建された。

本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので、「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある。

黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。

文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。

なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

いま梅が真っ盛り。

そして本堂横、アセビが見事。

斎藤利光の墓。

安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑された。
その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。

斎藤利光の遺体を真如堂の墓地に埋葬したのは、絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)でした。

海北友松は、斎藤利三と親交があったことから、その首を真如堂に葬ったということです。
墓石には「斎藤内蔵介利三墓」と刻まれています。

真如堂よりの帰路、梅が見事です。

真如堂 涅槃の庭は東山(大文字山等)を借景にしています

真如堂から大文字を見るポイントはいくつかありますが、元三大師堂の前が一番人気でしょうか。

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会津藩殉職者墓 思わず合掌 金戒光明寺


金戒光明寺、山号は紫雲山。
本尊は阿弥陀如来。

通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。
知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。

まさに城構、高麗門。

徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。

黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。

小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。

因みに山内の西翁院にある淀看みの茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。

また、黒谷古地図によると浪華城遥よう矚しょくとあり大坂城まで見えたという。

金戒光明寺の威風堂々たる山門は、1400年頃の創建で、応仁の乱で焼失後、徳川幕府の命で、1860年(萬延元年)に再建されたもの。

高さは約23mで、普段は非公開の楼上からは京都市内を一望できます。

京都守護職として会津藩がここに本拠を構えたのも、楼上からの市中監視が目的のひとつでした。

やっと本堂が見えてきました、ここまでかなりののぼり。

山門の先を進んでいると左手に「せいしまるさま」と書かれた銅像。

漢字で書くと「勢至丸」と言うこの人物は、開祖である法然上人のことです。
勢至丸は幼名です。

承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。
岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。

すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。

そこで法然は、うたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。
これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。

こうして法然はこの地に草庵を結んだ。
これがこの寺の始まりであるとされる。

ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と岡崎白川の本房を法然に与えた。

そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。

法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、白川上人信空はこの地に住み、白川門徒の拠点となった。

その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。

なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。

振り返って山門を見る、かなりの高度。

阿弥陀堂 – 慶長10年(1612年)豊臣秀頼が再建した。

御影堂(みえいどう) – 大殿(だいでん)とも言う。
法然75歳時の肖像(坐像)を安置。

昭和9年、火災により焼失1944年(昭和19年)に再建。
中山文殊と吉備観音を安置する。

梅の花がきれいです。

こちらも梅。

春日局の供養塔

春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。

お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。

明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。

しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。

その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。

三代将軍家光の実母は「ふく」であったとする説。

後に徳川家康は光秀とともに信長を討つ黙契があったと、光秀の血を引くおふく(後の春日局)に三代将軍光秀を生ませ信長の血脈を絶ったとの説がある。

大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城
淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運 … 続きを読む →


江-崇源院供養塔

崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。

姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。

3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。

お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。

2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。

文殊塔(三重塔)(重要文化財) – 寛永10年(1633年)建立。近年まで文殊菩薩と脇侍像を安置していた。
現在は御影堂に安置(これらの像は運慶作と伝えられるが実際の作者は不明)。

黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。

文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。

なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

会津藩殉職者墓は墓地をずっと北へ進んで寺の北東にあります。

金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。

会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。

しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。

慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。

ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。

山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』が有り、文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。

墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。

禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。

會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。

また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。

會津小鉄は本名上こう阪さか仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。

しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。

以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。

現在西雲院では、六月の第二日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家第十四代当主松平保もり久ひさ様ご列席のもと京都會津会主催で盛大に勤められている。

明治維新時の忘れることのできない悲劇の一つが松平容保と会津藩の悲劇である。

白虎隊の少年たちだけではなく、戦場で死んだ人たち、集団自殺した国家老・西郷頼母の家族21人や多くの武士の家族たち、邪魔者と見られバンザイ突撃を強いられた老人たちなど、 多くの人たちが死に追いやられた。

会津攻撃軍の残虐行為の犠牲者や、戦闘を避けて避難中、増水した川におちて溺死した者なども数知れずであった。

生き残った武士たちと家族約1万3000人は恐山山麓一帯(青森県下北半島のむつ市)に強制移住させられた。その後斗南藩として小川原湖東岸一帯に移住するが、農業についても、牧畜業についても、その他の職業についても、職業能力も職業経験も無いまま、慣れぬ異郷で辛酸な生活を強いられた。

明治4年の青森県の記録には「移住した会津人、1万3,027人のうち、3,300人ほどが各所出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに廃疾のもの6,027人、幼年のもの1,622人、男子壮健の者2,388人ほどの見込み」とあった。

会津藩の人たちにとって、下北の地は格子なき牢獄であり、 日々、餓死していくその姿はまさしく挙藩流罪であった。

どれを取り上げても心痛む話ばかりである。

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聖護院門跡


聖護院(しょうごいん)は本山修験宗総本山(本庁)の寺院。
聖護院門跡( – もんぜき)とも称する。山号はなし。

開基(創立者)は増誉、本尊は不動明王である。
かつては天台宗寺門派(天台寺門宗)三門跡の一つであった。

日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。
1872年(明治5年)の修験道廃止令発布後、一時天台寺門宗に属したが、1946年(昭和21年)修験宗(のち本山修験宗)として再び独立して現在に至る[1]。

天台宗に属した後も聖護院の格は大本山であった。

また、この寺院は近畿三十六不動尊の第十八番霊場でもあります。

静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。

明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった。

江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。
宮門跡でもあり寺社勢力でもあった。

明治までは、当時西側にあった「聖護院村」から鴨川にかけて広がっていた「聖護院の森」の中に寺があったため「森御殿」とも呼ばれ、 現在も近隣の住民に「御殿」と呼ばれることがある。

なお、聖護院の森は、紅葉の際の美しさから「錦林」とも呼ばれ、 現在も「錦林」の語が地名に使われている。

聖護院の南西には、平安時代に「聖護院の森」の鎮守として熊野神社が祀られ、 「京の熊野三山」(残り2つは若王子神社、新熊野神社)のひとつとされるなど篤い信仰を受けたが、 応仁の乱で焼失した後、寛文6年(1666年)に道寛法親王によって再興された。

長屋門

門と居住スペースが一体化した建物を言うが山門の中に建てられているため門としての役割はなく、土間、納戸として使用されていた。

大玄関

山門正面にあり宸殿への入口である。

内部には桃山障壁画の遺風を残す堂々とした老松が狩野永納、益信の筆によって描かれ、その構図は見るものを圧倒する。中の1面に筆による落書きが残る。

本堂

昭和43年に建替えられた。江戸時代の本堂と外観はほぼ同様である。

重要文化財の本尊、脇仏は耐火式空殿と内内陣に祀られ、南北両面に収蔵庫を持つ形となっている

。主な法要は宸殿で行われており、本堂は加行道場としての一面を持っている。

宸殿(しんでん)の前に広がる白砂場は、庭園ではなく、あくまで修行の場という位置づけだそうです。

実際にこの場所では護摩行なども行われます。

祇園祭の役行者山では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。

左京区南部の地名である「聖護院」は本寺院に由来し、その境域は旧愛宕郡聖護院村にほぼ相当する。

和菓子の聖護院八ツ橋や、京野菜の聖護院大根・聖護院かぶ・聖護院きゅうり発祥の地である。

また、このお寺は江戸時代後期にあたる、1788年(天明8年)と1854年(安政元年)の内裏炎上に際し光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用していたため、「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されています。

寺務所前2階大仏間。

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信長の定宿は本能寺でなく妙覚寺

今回妙覚寺を訪問して初めて、信長の定宿が妙覚寺であったことを知った。

特に本能寺の変が歴史的に有名なため、本能寺が信長在京中の定宿だったと思われている節がありますが、実は信長が定宿としていたのは上京区の妙覚寺です。

織田信長が上洛時の宿所に妙覚寺を選んだのは、当寺の19世日饒(にちじょう)上人が斎藤道三の子であった縁からだとされています。

斎藤道三は美濃の領主で、娘の濃姫は織田信長に嫁いでいます。

信長の上洛20数回のうち、妙覚寺を宿所した回数は18回です。

妙覚寺大門は、豊臣秀吉が1590年に建設した聚楽第の裏門を1663年に移建したものと言われています。

大門は、聚楽第の裏門を移築したもので、梁の上には伏兵を配置できる空間が設けられている。

西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構です。

春になると桃山時代の豪壮な大門前で、枝垂れ桜が花を咲かせ、地元の人たちの目を楽しませてくれます。

妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。

山号は具足山。塔頭が三院ある(善明院、實成院、玉泉院)。

1378年(永和4年)、日実によって創建された。

日実はもと妙顕寺の僧であったが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため同寺から離脱し、小野妙覚の外護により、四条大宮に妙覚寺を建立した。

実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。寺は1466年(寛正7年)、近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げる。1483年(文明15年)には足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した。

1536年(天文5年)の天文法華の乱際に寺は焼失し、堺に避難した。

その後、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙覚寺は1548年(天文17年)、二条衣棚の旧地に再建された。

1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。

明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく二条御所へ向かうが、果たせず自害する。

明智軍によって信長と信忠が討たれるに伴い、本能寺と二条御所の一部が放火され焼失したことが『兼見卿記』『日々記』などに書かれているが、妙覚寺がこの事件に遭難して焼失したということを伝える史料は現在の所一つも確認できない。

このため、妙覚寺は本能寺の変では焼失どころか無傷であった可能性も指摘されている。

唐門わきにある狩野元信の墓の石標。

寺は1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。
1595年(文禄4年)、妙覚寺21世の日奥は、不受不施の立場から、秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した。

寺は1788年(天明8年)、天明の大火により焼失するが、その後再建されている。

妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。

妙覚寺庭園は、紅葉の穴場。

本堂前の庭園に密集して紅葉が植えられていてココでしか見れない風景。

庭園拝観者は、お茶とお茶菓子がいただけます。

一般公開はしていますが、法要・行事で拝観できない時があるので出来れば連絡を入れてから拝観するのが望ましい。京都駅からのアクセスは、京都市営バス9系統、乗車時間約27分。

塔頭の善明院。

こちらももくれんは今盛りだが桜はまだ蕾。

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水火天満宮


水火天満宮(すいかてんまんぐう)は、旧社格は村社。

水難火難避けの神といわれる。
地元の人には「水火の天神さん」として親しまれている。

狭い境内に2本の紅しだれ桜、まだ蕾だが今日(3/20)明日の陽気で一気に開花へと進むだろう。

桜の穴場スポットなので、じっくりと楽しみたい人にはうってつけの場所。

本殿、御神体の鏡が見えます。

923年(延長元年)、醍醐天皇の勅願により水難火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅命があり、菅原道真の神霊を勧請し建立された[2]。

以前は同じ上京区の上天神町にあったが、堀川通の拡張に伴って1952年に現在の場所に移転した。

境内には、末社六玉稲荷をはじめとし、道真の霊が降り立ったといわれる登天石、近年出世した人が寄進した出世石、眼病に効くといわれる井戸水「金龍水」や安産の石「玉子石」がある。

日本最初の天満宮として知られ、水難火除けの御利益があるとされている神社。

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