彦根城


彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工された。

当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城された。

画像は中堀から二の丸佐和山口多門櫓、天守を望む。

二の丸佐和山口多聞櫓

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。
左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたもの。
現在、重要文化財に指定されています。

佐和山口多聞櫓の上や下に多くのサギや鵜。

多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。

佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。

二季咲桜

内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜。
昭和47年4月に水戸市より寄贈された。

玄宮園から天守を望む。

琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた。
4代藩主直興により延宝5年(1677年)に造営。

臨池閣の一部。

楽々園、槻(けやき)御殿は藩主の下屋敷で、玄宮楽々園の名で国の名勝に指定されている。

四代藩主直興が延宝5(1677)年に造営。
大書院、地震の間、雷の間、楽々の間など、工夫を凝らした部屋が残っています。

茶座敷(地震の間)
城主である井伊家は文化9(1812)年、11代藩主の直中(なおなか)が隠居するにあたり、下屋敷の大規模な増改築を行った。
その際、ここに「地震の間(ま)」が設けられた。

200年前前にいわば免震構造のような形になっているのです。

黒門跡。

黒門山道を西の丸目指して登ります。

見事な高石垣です。

今回も逆からの登城です。

彦根城は、明治に解体の危機にみまわれました。
しかし、今も往時の面影が今日によく残っているのは、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されたからでした。

一説には、随行した参議大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説。

また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹(いとこ)にあたるかね子が奉上したとも言われています。

今朝降った雪が残っています。

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城。

このうち、松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城の天守は国宝です。

現存天守の記事を見る

佐和山城跡を望む。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

多景島

竹生島

国宝彦根城天守は北西に附櫓(つけやぐら)が、さらに長い多聞櫓が連なります。

また、破風は変化の妙に富んでいます。

天守一層目の軒に並ぶ八つの「へ」の字形の切妻破風は、それぞれの大きさと奥行きに変化をもたせ、二層目は、南北を切妻破風、東西を入母屋破風とし、南北にが唐破風が設けられています。

太鼓門櫓の内部。

太鼓門櫓から西の丸三重櫓を望む。

本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。
10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれています。

三重櫓の東側一帯は桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わいます。

本丸への最後の関門である太鼓門櫓は、東側の壁が無く、柱の間に高欄をつけ廊下にしています。

登城合図用の太鼓の音を響かせるために考えられたのではないかといわれています。

太鼓門櫓を過ぎると、正面に天守が現れます。

時報鐘の前に立ち、右に太鼓門を見ながら仰ぐ天守雄姿は格別です。

佐和山城を嫌った直政は琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

時報鐘、城全体に響くようにと『鐘の丸』より移されたもので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれています。

幕末期12代藩主直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造のさい大量の小判が投入されました。



天秤櫓の上から表門山道を下る人々。

天秤櫓、表門から坂を上がって行くと廊下橋(非常時には落とし橋となる)が見えます。

この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。
まるで天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれています。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。

現存例の少ない築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

私は大手山道を下ります。

梅林、かつて、彦根城の公儀御用米の米蔵があった場所。

例年は、3月中旬から下旬にかけて、紅梅・白梅など約450本が春の訪れを告げます。

大手門橋跡る。

振り返って大手門跡を見る。

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車窓


寒波到来、雪景色の彦根城でもと思いたち電車に飛び乗った。
京都を過ぎるあたりの車窓からのうす雪の様子、いいですね。

車窓の雪景色を楽しみながら思いをはせる。

瀬田川を渡ります。

草津のあたりではなかなかの雪景色。

ちらほらと雪も降ってきました。

雪の近江路、然し段々と雪も少なくなり空も晴れてきたではありませんか。
結局目的地彦根では雪なし。

ま、車窓で楽しめただけでも良しとしよう。
車窓からの撮影で映り込みがありますがご勘弁を。

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草津宿


草津駅(画像左)から旧草津川(今は天井川)を超え右端の立木神社までの草津宿をあるきます。

天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であった。

高札場。

追分道標、「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」と刻まれた道標が建つこの地は、東海道と中山道のまさに分岐・合流地点。

かつて草津宿の追分見付と呼ばれていたこの地に、街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯が今に残されています。

追分とは道の分かれるところを指す言葉。
草津宿にある東海道と中山道との分岐点を「追分」という。

草津川の渡し、旧草津川は全国的にも有名な天井川で、平生は水がなく砂川とも呼ばれ、大名行列などの大規模な通行以外、仮橋が架けられず、通常は「徒歩(かち)渡り」(川の中を歩いて渡ること)が一般的でした。

天井川となっているため側道を土手の上まで上がります。

天井川の河底、今は市民の憩いの場になっています。

東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至る。

ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町である。

中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは明治19年(1886年)のことである。

その様子が「木曽海道六拾九次之内 草津追分」(右)に描かれている。 

板橋を渡った旅人の向こうに、民家の屋根だけが僅かに見える。
 
この川は天井川であるが故に浸水被害を繰り返しており、ついに昭和46年(1971)、新草津川に付け替えが行われ、旧草津川は廃川。

像「野風童」

込田公園。

昔はここに黒門がったところ。

道灌蔵、江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。

太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。

以後酒造りを生業として発展。
今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。

この辺りに貫目改所があった。

草津宿には、正徳2年(1712年)に全国5か所に設けられた貫目改所があった。
貫目改所は当宿のほか、東海道の品川宿・府中宿、中山道の板橋宿・洗馬宿に置かれた。

楽器屋さん、店舗の出サインがユニークです。

質屋さんの側面、住所表示がひっくり返っています。

八百久店舗兼主屋は滋賀県草津市草津3丁目に屋敷を構えている古民家です。

八百久は寛保年間(1741~1743年)から日用品(鋤、鍬、天秤、火鉢など)を扱う商家だった家柄。

何か突き出ていますがさて・・・・・

立木神社前の小川、見ていると突然鯉が飛びあがりました。

立木神社境内にある道標(1680)、かなり古いものです。

立木神社、社伝によると称徳天皇の時代である神護景雲元年(767年)、武甕槌命が常陸国(現・茨城県)の鹿島神宮より白鹿に乗って大和国(現・奈良県)春日神社への勧請の旅の途中、当地に到着した。

武甕槌命は持っていた柿の鞭を地面に刺して「この木が生え付くならば吾永く大和国三笠の山(現・春日大社)に鎮まらん」と言うと、柿の木が生成した。

それを見た里人はこの木を崇めて社殿を建立し、武甕槌命を祀り、社名を立木神社と称したのが始まり。

春日大社とは兄弟の間柄となるが、春日大社の創建は神護慶雲2年(768年)となっており、当社が兄といえる)。

右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標の中では比較的古いものといえる。

田中九蔵本陣、2軒あった本陣のうちのひとつで、現存しない。

篤姫(天璋院)が、嘉永6年10月6日(1853年11月6日)に御泊している。

田中七左衛門本陣に残る大福帳の一節に、篤姫(天璋院)の記録が残る

家屋の前にはこのようなプレートが残るのみ。

草津は古くから東西移動の際の交通の要衝だった。

室町時代には伊勢参宮で京都と伊勢の中継地点として発展し、応永29年(1422年)には将軍足利義持が伊勢に向かう際に、草津に大規模な宿泊施設「草津御所」の築造を開始している。

永禄11年(1568年)頃には、織田信長が足利義昭に和泉堺、近江の大津・草津に代官を置くことを願い出ている。

渇ッ!!

家屋の前にはユニークな道標が残る。

草津宿本陣(田中七左衛門本陣)、国の史跡。
2軒あった本陣のうちのひとつで、現存する本陣としては最大級である。

弘化三(1846)年の旧姿に復原され、平成8年(1996年)から一般公開されている。

「大福帳」には、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三など歴史上重要な人物の名前も多く残る。

疾駆!!

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馬の寺 石馬寺


石馬寺は、滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。

山号は御都繖山(ぎょとさんざん)。
本尊は十一面千手観世音菩薩。

自然石に刻された寺号碑が建っています。
この地には聖徳太子が建立された大門が建ってたそうです。

伝承によれば、今からおよそ1400年前に霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山(きぬがさやま)の山麓の松の木に馬をつなぎ山上に登った。

山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。

これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという。

聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵する。
登山口付近には、石馬が背中を見せている蓮池がある。

乱れ石積みのかんのん坂

山門跡から本堂へは、苔むした自然石の乱れ石積みの階段が続く。

この石段はかんのん坂と呼ばれ、百段ほど上ると途中で二つに分れ、左は山上の神社へ右へとれば寺へ達する。

古くより僧や行者をはじめ、多くの人々が信仰を求めて歩いた跡が偲ばれる。

上り出してすぐ左に僧坊跡。
未整理の石仏がごろごろころがっています。

しばらく石段を上ると左右に道があり、右手に曲がると石馬寺、左手に曲がると六所神社、直進すると雨宮瀧神社へ続く道のようです。

右手の案内板に「亡者の辻」とあります。

この辺りは霊がさまよう辻ということなのでしょうか?

直進すると雨宮瀧神社へ続く、特に何もないそうだ。

右に曲がり石馬寺へ向かう。

参道には五輪塔を中心に石仏が並んでいます。

永禄11年(1568年)、織田信長の兵火を受け、伽藍や院坊等が焼失する。

その後、寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた。
慶長8年(1603年)徳川家康により石馬寺が復興。

寛永11年(1634年)、徳川家光の上洛にあたり、旧神崎郡伊庭村に造営された御茶屋御殿の伊庭御殿を移して大方丈とした(旧本堂)。

正保元年(1644年)11月、奥州松島の雲居希膺(うんごきよう)を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院となる。

頂上が見えてきました。
石段は約300段。

本堂。

本堂脇に不動明王石像。
ユニークです。

本堂から鐘楼を見る。

太子駒繋ぎの松。

さりげなく壁面に聖徳太子筆と伝わる、石馬寺と書かれた扁額。

『かくれ里』白洲正子 新潮社

繖山の裾を東へ向かっていくと、近江商人発祥の地である東近江市の五個荘に出る。
白洲さんは、まちはずれの石馬寺(いしばじ)を拝した。

「苔むした自然石の石段がつづく。(中略)下から見あげる茅葺きの本堂は美しい」(同)と描写し、お堂の中へ。

「私の興味をひいたのは、水牛に乗った大威徳明王であった。
等身大一木作りの、のびのびとした彫刻で、ことに水牛がすばらしい。

頭をちょっと左にかたむけ、恭順を示しながら、一朝事であれば飛び出しそうな気配である」。

苔と石組に圧倒される小堀遠州の庭園 教林坊


教林坊 総門。

教林坊は、滋賀県近江八幡市安土町にある天台宗の仏教寺院。
聖徳太子により開かれたと伝わり、石窟に祀られた伝聖徳太子作の石仏「赤川観音」を本尊とする。

教林坊 表門。

総門から暫くは大した紅葉もなく少しがっかり、しかし表門あたりからにわかに錦秋の真っただ中。、

境内は2000坪、紅葉は300本近くあり、滋賀屈指の紅葉の名所です。

由緒も趣もある教林坊だが、昭和50年頃から後継者に恵まれず無人になっていた。

庭園は地元の人々が手入れをしていたが、本堂をはじめ建物は荒れ果て「お化け寺」と呼ばれるまでになっていた。

廣部光信氏が住職に就任したのは平成7年のこと。
私財を投じ、ご自身で大工仕事も行いながら復興に尽力し続けた。

地域の人のあたたかな支援にも助けられ、現在は立派な姿を取り戻し、寺を訪れる人も増えている。

寺名は林の中で太子が説法したことに由来するとされ、境内を真っ赤に染める紅葉の名所および巨石を用いた桃山時代の庭園で知られている。

書院を抜けると小堀遠州作の石の庭園があります。もともとこの辺りは古墳があって、佐々木氏の名前の起源も御陵(みささぎ)から来たと言われています

そんな古墳の巨石を利用した見事な庭園が広がっており、教林坊が「石の寺」と言われる所以となっています。

境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩があり、木々に囲まれたこの岩の上で観音の教えを説いたところから号が「教林坊」となったといわれる。

また太子が観音と出会った霊窟に、本尊の石仏や聖徳太子が瞑想したと伝えられる止観石が残されている。

庭園は巨石もろとも見事な苔に覆われており、緑のじゅうたんの上に落ちる紅葉や草花の赤が映えます。

書院南面庭園は「普陀落の庭(ふだらくのにわ)」と呼ばれ、室町時代に作庭された。苔庭には飛石による苑路が設けられている。

書院も江戸時代前期に作られたもので、ヨシ葺きで合掌造りとなっています。

書院の周りでは落ちた紅葉の葉が赤い絨毯のように広がっています。

太子自作の石仏・赤川観音は子宝を祈念した村娘に子を授け、その娘が難産で苦しみ安産を祈ったときは帝王切開によって助けたという言い伝えがあるため、子授け・安産のご利益があるとされ、「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」とご詠歌に詠われるように、困難な願い事も二度詣ですれば叶う「再度詣りの観音さま」としても信仰されている。


石仏、紅葉が冴えていました。



境内の紅葉を取り囲む竹林の青も美しく見ごたえがあります。

赤が見事。



『かくれ里』白洲正子 新潮社

白洲正子は著作「かくれ里 石の寺」の中で、~麓の石寺という部落は、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊というささやかな寺が一つ残っているだけである。~
と紹介しており、麓の雰囲気も含めひっそりとした侘びさびの世界を味わえる場所となっています。

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甲賀流忍術屋敷


忍者自身の住居として現存する日本で唯一の建物。

甲賀忍者の五十三家の筆頭、望月出雲守の旧宅。

望月出雲守と甲賀忍者

甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣。

幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦い。

これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。

甲賀望月氏本家旧邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたもの。

江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。

奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。

くノ一について

女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。

忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作とされる。

史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。

「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる。

名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。

その他陰陽道における房術である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。

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奥田忠左衛門「信楽陶芸村」


奥田忠左衛門窯は明治21(1888)年に、この山裾で開窯した6代続く100年以上の歴史を持つ窯元。

山の斜面を利用した登り窯や古い形式の穴窯が完全な形で残っています。

窯屋と呼ばれた古い時代の作業小屋や粘土を板状に調整するタタラ小屋など、当時の窯元が持つ仕事場の佇まいを肌で感じる。

陶芸村ののぼり窯は、昭和9年に作られ全長約22m、全11部屋あります。

登り窯の壁は何回もの焼成によって壁が直接火にさらされているため、赤褐色のひいろ(火色・緋色、または炎色)や黒褐色を呈しています。

ちなみに2019年後期のNHK朝の連続ドラマ小説『スカーレット』 ヒロインは戸田恵梨香で、大阪で生まれて滋賀に移り住んで、信楽焼に出会います。

「スカーレット」とは?緋色のことです。

「緋色」というのは、火の色のことなのかもしれません。

以前の訪問先

信楽焼 宗陶苑
宗陶苑は江戸時代に築窯された日本最大規模の登り窯で現在でも信楽焼を作り続けている … 続きを読む →

日本最大規模の登り窯
宗陶苑の登り窯は昔乍らの11室より成る巨大登り窯。 今もなお使い続けている唯一の … 続きを読む →

ロケがどこで行われるのか気になるところですね。

そんな、窯の中の「窯中カフェ」でお茶を飲みながら、薪の火によって土が焼成し、描き出した幻想的な色合いの窯中をじっくりと鑑賞。

のぼり窯の中でちょっと一服!心に安らぎと癒しを与えてくれます。

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御斎峠 司馬遼太郎文学碑を訪ねる


炭窯跡

昭和48年に週刊朝日に連載された司馬遼太郎さんの「街道をゆく」「甲賀と伊賀のみち」 の中で「路傍から白い煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。

私は「梟の城」を書いたころのこの坂の情景をおもいだした。
下柘植次郎左衛門という人物がこの坂をのぼって行ったはずでった。

ちょうどその情景の中にいるこの老人をみていると、われながら滑稽だがはじめて遭ったような気がしなくなってきた。

老人は初老の男とふたりで、ござにすわっている。どちらも無口で「わしは稲本や」と老人がいい、わしは福森や、と初老のひとがいった。」
とある炭窯跡です。

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか-朝日文庫-司馬-遼太郎


伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。

付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。

多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。

御斎峠を目指す

案内板の内容。

ここ大杉谷は、昔より生活に深くかかわりのある処です。
東大寺造営の折、用材がこの奥より搬出されました。

下って鎌倉時代には、高倉社の別当補陀落寺建立され参拝者の道しるべとして奈良街道より「町石」が置かれ、熊野信仰が引越してきた感があると伝えています。

補陀落滝も「那智・不動・首落の滝」などの呼び名があり源義経がこの滝の名を忌み御斎峠越を避けたと源平盛衰記に記されています。

御斎峠展望台へ、80段あまりの階段をあえぎながら登る。

まさに絶景、伊賀盆地が一望。

伊賀の市街地、伊賀上野城も見える。

御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。

標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
 
また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。

伊賀国への歴史的交通路であり、壬申(じんしん)の乱(672年)時には大海人(おおあまの)皇子が伊賀から多羅尾にはいっている。

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関西最後のお花見 ミホミュージアム


ミホミュージアムのエントランスから枝垂れ桜の並木道が美術館へ続きます。

今日はあいにくの雨、しかし、日曜日とあって大変な人出です。

MIHO MUSEUMの本館は、駐車場に隣接するレセプション棟からさらに一山越えたところにあります。

レセプション棟からはしだれ桜の並木道がおよそ150mほど続き、まるで桜のカーテンのようです。

枝が長くしだれるのが特徴で、江戸彼岸よりも一層優雅な趣きがあります。

葉が出る前に淡紅白色の花が咲き、満開時には白くなります。

いよいよトンネルですが、桜の種類、傘の色のコラボレーションが素晴らしい。

「桃源郷」をイメージして造られているだけあって幻想的なシーンが続きます。

利用者の移動を助けるためと環境にあわせ、電気自動車がレセプション棟と展示館の間を往復していますが桜の最盛期は人でも多く混乱を避けるため運休です。

後ろを振り返るとトンネルの向こうに見事な桜。

壁面がピンクに染まっています。

移動すると壁面の色合いも変わってきます。

トンネルを抜けると吊り橋。

建築容積の8割が地下に埋没しているというこの建物は、周囲の自然景観保全に配慮したもの。

ミュージアムからの眺め、向こうに見える白い建物、あれは神慈秀明会の本部です。

左にあるのはカリヨン塔と呼ばれるもので、これまたI・M・ペイさんが設計したという。

本部は信者のみ立ち入り可能とのことで、一般人は立入禁止です。

ミュージアムは世界救世教から分立した宗教法人神慈秀明会の会主・小山美秀子のコレクションを展示するため、1997年(平成9年)11月に開館した。

雨に濡れた緑がきれいです。

設計はフランスのルーブル美術館のガラスのピラミッドやワシントンのナショナルギャラリー東館などを手掛けた世界的にも有名なI.M.Pei氏

コレクションは、ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本など、幅広い地域と時代に渡る優品2000点以上が含まれている。

「曜変天目」見学は平日の午後をお奨めします。
土日の午前中は約1時間待ちになっております。と、ホームページに断りが入っている、事実1時間並びました。

レストランでは自然農法で作られた作物が提供されているようなので、たぶん値は張るけど身体に良さそうです。
食べたかったな。

しかし長蛇の待ち行列に退散。

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海津大崎の桜散策


海津天神社の近くにバスを停め徒歩で海津大崎を目指します。

7年前にマキノから永原まで歩いた記録、当時はまだ元気だった。
海津大崎 琵琶湖随一の桜の名所を行く
桜の満開の時期に合わせ、JR湖西線マキノ駅から海津大崎を経て、JR永原駅までの約12kmの距離を徒歩で巡るという念願の散策を果たす。 … 続きを読む →


例年、見頃は4月中旬となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。

まさに今日は満開です。

ただ寒気が入っているため肌寒い。

琵琶湖バレーは雪だった、気温はマイナス4℃とか。

桜のトンネルです、ただ路上駐車の不届きものには困ったものだ。

自転車で桜見物の人も多い、しかし、車の往来が激しく怖い。

日本のさくら名所100選」にも選ばれている海津大崎の桜。

樹齢80年を越える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸4kmにわたり続きます。

海津大崎は、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎の岩礁」としても知られる景勝地で、びわ湖随一の岩礁と、湖の碧、遠くに望む竹生島、その景色の絶妙なコントラストは何度見ても美しく、毎年多くの花見客で賑わいます。

誰が取り付けたのかブランコ、向こうでは女子会の宴会。

造り酒屋にチョイと立ち寄る。

戦前・戦後に京阪神からのスキー客を乗せた汽船が発着した桟橋跡。
町は大変な賑わいぶりだったという。

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