甲賀流忍術屋敷


忍者自身の住居として現存する日本で唯一の建物。

甲賀忍者の五十三家の筆頭、望月出雲守の旧宅。

望月出雲守と甲賀忍者

甲賀忍者を世に知らしめた出来事が、長享元年(1487年)の鈎の陣。

幕府の命に背く佐々木六角高頼討伐のため将軍足利義尚自ら大軍を率いて近江に来攻した時、甲賀武士団は佐々木六角氏に助勢し、山中でさまざまな奇襲攻撃をかけ、時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、佐々木六角氏を助けた戦い。

これを機に、望月出雲守を筆頭とする甲賀武士団の神出鬼没の戦術やその高い戦闘能力の印象が、「甲賀忍者」と呼ばれるようになり、その後戦国時代には、各戦国大名を影から支えていきました。

甲賀望月氏本家旧邸の歴史

江戸時代元禄年間(1688~1704年)に建てられたもの。

江戸時代に入り、世の中が安定を取り戻しつつありましたが、戦国時代から百年余りで乱世の記憶も覚めない当時、また甲賀ゆれ(豊臣秀吉による改易処分)等厳しい経験を重ねてきたこともあり、甲賀忍者として高度な資質、能力を有していた望月氏は、今後の不測の事態に備え、身を守るために自身の居宅に、多くのからくりを施したと考えられます。

奈良時代より、甲賀は、杣地方として巨大木が多く、京都奈良の建築物に多く使用され、そのような中で培われた巧みな建築技術や、また非常に合理的な思考、深い洞察力を有していた忍者として、攻撃目的のからくりでなく、素早くその場を離れることを最優先にするというからくりの考案設計技術等、防御建築(防衛建築)としての観点からも、非常に見応えがあります。

くノ一について

女中や小間使いとして潜入して諜報活動を行っていた女性の忍者も存在した。

忍装束を着て映像作品や漫画作品などで活躍するような通俗的な姿は、近代の創作とされる。

史実として武田信玄に仕えた歩き巫女の集団が有名。

「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するがこれとは異なる。

名称については「くノ一(くのいち)」といい、“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現を語源とする説明が一般的である。

その他陰陽道における房術である「九一ノ道」からきたとする説など、いくつかの説がある。

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奥田忠左衛門「信楽陶芸村」


奥田忠左衛門窯は明治21(1888)年に、この山裾で開窯した6代続く100年以上の歴史を持つ窯元。

山の斜面を利用した登り窯や古い形式の穴窯が完全な形で残っています。

窯屋と呼ばれた古い時代の作業小屋や粘土を板状に調整するタタラ小屋など、当時の窯元が持つ仕事場の佇まいを肌で感じる。

陶芸村ののぼり窯は、昭和9年に作られ全長約22m、全11部屋あります。

登り窯の壁は何回もの焼成によって壁が直接火にさらされているため、赤褐色のひいろ(火色・緋色、または炎色)や黒褐色を呈しています。

ちなみに2019年後期のNHK朝の連続ドラマ小説『スカーレット』 ヒロインは戸田恵梨香で、大阪で生まれて滋賀に移り住んで、信楽焼に出会います。

「スカーレット」とは?緋色のことです。

「緋色」というのは、火の色のことなのかもしれません。

以前の訪問先

信楽焼 宗陶苑
宗陶苑は江戸時代に築窯された日本最大規模の登り窯で現在でも信楽焼を作り続けている … 続きを読む →

日本最大規模の登り窯
宗陶苑の登り窯は昔乍らの11室より成る巨大登り窯。 今もなお使い続けている唯一の … 続きを読む →

ロケがどこで行われるのか気になるところですね。

そんな、窯の中の「窯中カフェ」でお茶を飲みながら、薪の火によって土が焼成し、描き出した幻想的な色合いの窯中をじっくりと鑑賞。

のぼり窯の中でちょっと一服!心に安らぎと癒しを与えてくれます。

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御斎峠 司馬遼太郎文学碑を訪ねる


炭窯跡

昭和48年に週刊朝日に連載された司馬遼太郎さんの「街道をゆく」「甲賀と伊賀のみち」 の中で「路傍から白い煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。

私は「梟の城」を書いたころのこの坂の情景をおもいだした。
下柘植次郎左衛門という人物がこの坂をのぼって行ったはずでった。

ちょうどその情景の中にいるこの老人をみていると、われながら滑稽だがはじめて遭ったような気がしなくなってきた。

老人は初老の男とふたりで、ござにすわっている。どちらも無口で「わしは稲本や」と老人がいい、わしは福森や、と初老のひとがいった。」
とある炭窯跡です。

街道をゆく-甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか-朝日文庫-司馬-遼太郎


伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。

付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。

多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。

御斎峠を目指す

案内板の内容。

ここ大杉谷は、昔より生活に深くかかわりのある処です。
東大寺造営の折、用材がこの奥より搬出されました。

下って鎌倉時代には、高倉社の別当補陀落寺建立され参拝者の道しるべとして奈良街道より「町石」が置かれ、熊野信仰が引越してきた感があると伝えています。

補陀落滝も「那智・不動・首落の滝」などの呼び名があり源義経がこの滝の名を忌み御斎峠越を避けたと源平盛衰記に記されています。

御斎峠展望台へ、80段あまりの階段をあえぎながら登る。

まさに絶景、伊賀盆地が一望。

伊賀の市街地、伊賀上野城も見える。

御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。

標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
 
また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。

伊賀国への歴史的交通路であり、壬申(じんしん)の乱(672年)時には大海人(おおあまの)皇子が伊賀から多羅尾にはいっている。

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関西最後のお花見 ミホミュージアム


ミホミュージアムのエントランスから枝垂れ桜の並木道が美術館へ続きます。

今日はあいにくの雨、しかし、日曜日とあって大変な人出です。

MIHO MUSEUMの本館は、駐車場に隣接するレセプション棟からさらに一山越えたところにあります。

レセプション棟からはしだれ桜の並木道がおよそ150mほど続き、まるで桜のカーテンのようです。

枝が長くしだれるのが特徴で、江戸彼岸よりも一層優雅な趣きがあります。

葉が出る前に淡紅白色の花が咲き、満開時には白くなります。

いよいよトンネルですが、桜の種類、傘の色のコラボレーションが素晴らしい。

「桃源郷」をイメージして造られているだけあって幻想的なシーンが続きます。

利用者の移動を助けるためと環境にあわせ、電気自動車がレセプション棟と展示館の間を往復していますが桜の最盛期は人でも多く混乱を避けるため運休です。

後ろを振り返るとトンネルの向こうに見事な桜。

壁面がピンクに染まっています。

移動すると壁面の色合いも変わってきます。

トンネルを抜けると吊り橋。

建築容積の8割が地下に埋没しているというこの建物は、周囲の自然景観保全に配慮したもの。

ミュージアムからの眺め、向こうに見える白い建物、あれは神慈秀明会の本部です。

左にあるのはカリヨン塔と呼ばれるもので、これまたI・M・ペイさんが設計したという。

本部は信者のみ立ち入り可能とのことで、一般人は立入禁止です。

ミュージアムは世界救世教から分立した宗教法人神慈秀明会の会主・小山美秀子のコレクションを展示するため、1997年(平成9年)11月に開館した。

雨に濡れた緑がきれいです。

設計はフランスのルーブル美術館のガラスのピラミッドやワシントンのナショナルギャラリー東館などを手掛けた世界的にも有名なI.M.Pei氏

コレクションは、ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本など、幅広い地域と時代に渡る優品2000点以上が含まれている。

「曜変天目」見学は平日の午後をお奨めします。
土日の午前中は約1時間待ちになっております。と、ホームページに断りが入っている、事実1時間並びました。

レストランでは自然農法で作られた作物が提供されているようなので、たぶん値は張るけど身体に良さそうです。
食べたかったな。

しかし長蛇の待ち行列に退散。

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海津大崎の桜散策


海津天神社の近くにバスを停め徒歩で海津大崎を目指します。

7年前にマキノから永原まで歩いた記録、当時はまだ元気だった。
海津大崎 琵琶湖随一の桜の名所を行く
桜の満開の時期に合わせ、JR湖西線マキノ駅から海津大崎を経て、JR永原駅までの約12kmの距離を徒歩で巡るという念願の散策を果たす。 … 続きを読む →


例年、見頃は4月中旬となり、近畿圏では遅咲きの桜名所として知られています。

まさに今日は満開です。

ただ寒気が入っているため肌寒い。

琵琶湖バレーは雪だった、気温はマイナス4℃とか。

桜のトンネルです、ただ路上駐車の不届きものには困ったものだ。

自転車で桜見物の人も多い、しかし、車の往来が激しく怖い。

日本のさくら名所100選」にも選ばれている海津大崎の桜。

樹齢80年を越える老桜から次世代へ引き継ぐ若木まで約800本の華麗なソメイヨシノがびわ湖岸4kmにわたり続きます。

海津大崎は、琵琶湖八景「暁霧・海津大崎の岩礁」としても知られる景勝地で、びわ湖随一の岩礁と、湖の碧、遠くに望む竹生島、その景色の絶妙なコントラストは何度見ても美しく、毎年多くの花見客で賑わいます。

誰が取り付けたのかブランコ、向こうでは女子会の宴会。

造り酒屋にチョイと立ち寄る。

戦前・戦後に京阪神からのスキー客を乗せた汽船が発着した桟橋跡。
町は大変な賑わいぶりだったという。

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海上から海津大崎の桜


菅浦の船溜まりから小型船で会場からの桜見物。

今日は折からの低気圧で湖上は時化ています、船外に出ないようにと言われるが船内からは御覧の通りの画像で絵にならない。

ご覧の通り湖は時化ています。

安全のためいつもとコースを変更していますといわれるがどう変更しているのかよくわからない。

できるだけ船外に近い席に陣取り、身を乗り出して撮影するわけで思った通りの画角には収まらない。

それでも色づき始めた山々の様子も見れます。

遠景です。

きょうはちょうどこちらの「奥琵琶湖を望む宿 つづらお」でお昼をいただいた。



船溜まりの近くまで戻ってきました、ご覧のように護岸が大きく崩れています、昨年の台風21号の影響と思われる。

あちこちで倒木も見られた。

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隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木


琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧のフィヨルドのような美しさ。

かつての監視門であった茅葺きの四足門(しそくもん)をくぐると、そこは懐かしい漁村の風景が広がります。

集落の東西の出入口には「四足門(しそくもん)」と呼ばれる茅葺き屋根の門、関所の役割と共に、有事の際には倒壊させてバリケードにしたという説も残されています。

764年(天平宝字8年)、藤原仲麻呂の乱の際に逃れた淳仁天皇の隠棲伝説も伝わり、須賀神社(旧・保良神社)の祭神として祀られている。

恵美押勝の乱で敗れた淳仁天皇が都を追われてこの地に隠棲したというものです。

通説では淡路の敗帝となり淡路(現在の兵庫県)に遷じられて崩御されたと伝わっていますが、実は「淡路」は「淡海」の誤読であり、都を追われた天皇が葛篭に乗り、琵琶湖を渡ってこの地で隠棲されたという逸話があります。

また、1573年(天正元年)、小谷城落城の際に浅井長政の子の万菊丸が菅浦の現・安相寺に逃れたという伝承もある。

ここからは土足厳禁。

『かくれ里』白洲正子 新潮社

正子は、こうした菅浦に伝わる話を『かくれ里』にこう書いている。伝承の真偽はともかく、「そのような伝説が、ひそかに伝えられて来た事実はやはり私の心をひく。そして、それが菅浦の歴史であり、信仰でもあることを、私は疑う気にはなれないでいる」。

千数百年を経た今も、語り継がれる伝説と人々の信仰心に正子は敬意すら覚えた。

往時この地は辺境の地に有って外界からの交通手段といえば湖上からの水運しかなく排他的で自主独立心の強い集落で、警察署や消防署も無く、惣と呼ばれる自治組織が発達していた。

菅浦は、天皇に供える食物を献上する贄人(にえひと)が定着したのが始まりとされる。

葛籠尾崎の付け根部分に位置する菅浦は、険しい山に囲まれているため、水運主体の隔絶された集落であった。

これにより早くから惣村(そうそん)が形成され、自検断を行使して、近江国を領有した京極氏や浅井氏の統治を嫌い、対立したこともあった。

浜辺には「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場が残る。

これら集落の掟と動向ならびに構造は、1917年(大正6年)に須賀神社より発見された「菅浦文書(すがうらもんじょ)」(国宝[10]、須賀神社蔵・滋賀大学経済学部付属史料館寄託)に詳細に記されており、近隣の大浦(大浦庄)との激しい争いもよく知られる。

また、菅浦は両墓制であり、門外の埋め墓へ遺体は埋葬され、門内の寺院境内に詣り墓が設けられている。

菅浦口より菅浦集落を望む。

山の中腹に奥琵琶湖パークウェイの桜並木が見える。

昭和46年に造られた奥琵琶湖パークウェイは大浦と月出の間 、全長18.8kmにわたる県営の有料観光道路として造られましたが、償還が終わり現在は無料で通行できます。

道路に立っている看板などには桜並木4000本と宣伝されています。

パークウェイは月出側の道路がいたる所、崖が崩壊しており大浦~菅浦経由の一方通行で運用されています。

沖に竹生島が見える、葛籠尾崎と竹生島の間は、沖合約2Km。

今日はドンピシャの満開、少し肌寒いが気持ちよく花見ができた。

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いにしえの風情ただよう 高島びれっじ


駅前に10メートルぐらいのガリバーの特大銅像があり、ガリバーが敵国の艦隊を拿捕するシーンである。

これは高島市内に『ガリバー旅行村』のキャンプ場があるため。

いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野。
陣屋の惣門や武家屋敷が今なお残っています。

築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。
現在は1号館から8号館まで整備されています。

ここはびれっじ3号館■淡海堂(スイーツ・お酢)

びれっじ6号館■Wani Cafe(ワニカフェ)(ランチ・パスタ)

大溝まつりの曳山の収納庫も見える。

趣のありそうな路地を入ってみる。

ここはレンタルサイクル店、店先のマキは冬季のストーブ用かな。

コスモスの咲く広い空間、いきなり足元からキジが飛び立った、山里の風情を残す空間だ。

古い板塀も残る。

造り酒屋を見つけたが残念ながらお休み。

大溝城下で特に注目されるのは、幅約1メートル、深さ1メートルほどのまちわり水路が町並道路の中央を流れていること。

その水路は、南北の主な四通 りに敷設されている。
もともと大溝は山水やわき水に恵まれ、堀割を活用して町屋に引水していた。

そうした引水流路の錯綜状態を、町割の整備とともに四つの 水路に改修したのがまちわり水路であって、飲用・防火の生活水路であった。
したがって、城下の町屋は井戸を持たない

未だにその水路が保存されているのも素晴らしいですが、当時の上水道(古式水道)は今現在においても使われているそうです。

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竹生島


竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大きい島。
右側には伊吹が見える。

湖岸波除石

近江今津は、1595年から明治まで金沢藩前田家の近江領だった。
1700年代に幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を造った。

波除石垣の完成以降、水害から守られ古い街並みが石垣より少し内陸側に出来、 町は発展した。

クルーズ船と琵琶湖周のうた歌碑。

島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれているのが特徴である。

「観音堂」「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」が見える。

竹生島港には琵琶湖周航のうた歌碑が建つ。

この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。

その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。

4.瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
 眠れ乙女子 やすらけく

165段の石段を上った広場左手に「本堂(弁才天堂)」が建てられている。

本堂前の広場にある「石造五重塔」の横から更に石段を登った狭い場所に、朱塗りも鮮やかな「三重塔」と、「宝物殿」が建てられている。

今津方向を眺める、波にきらめく陽光がきれいだ。

「観音堂」から「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」までの間に「舟廊下」が通じている。

舟廊下と呼ばれているのは、これが秀吉の御座舟を利用して造られたことに由来するといわれる。

「舟廊下」も唐門、観音堂と同じ年、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じ、京都から移築したものとされている。

龍神拝所

竹生島港からの伊吹山。

今津港へ向かうクルーズ船の航跡、陽を受けて虹がかかりきれいだ。

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延暦寺里坊群の一つ旧竹林院


坂本の里坊には、美しい庭園がみられるところが多い。

『滋賀県の歴史散歩』(山川出版社)によれば、坂本には借景の自然、山から流れる渓流、豊富な石材、苔に適した土質と気候という条件がすべて揃っている。

青年僧の修行道場ではなく、延暦寺の僧侶の隠居所だったということも大きい。

旧竹林院は、こうした里坊のひとつで邸内には主屋の南西に約3,300㎡の庭園が広がり、2棟の茶室と四阿(あずまや)があります。

大宮川を引き込んで曲水とし、竹林院は、延暦寺の里坊の中で最も高い格式を持つ寺院でした。

八王子山を借景にした庭園は、地形をたくみに利用しながら滝組と築山を配し、四季折々の風情をかもし出しています。

大津市指定文化財の、四阿(あずまや)。

この茶室は「天の川席」と呼ばれる、二つの出入り口を持つとても珍しい構造になっている。

明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で衰退して土地は個人の手に渡った。
現在の庭園はこの時代に改修されたものであり、近代庭園として国の名勝に指定されている。

苔の美しい庭園です。

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