厳冬の琵琶湖岸


ラッセルをこなしやっと湖岸にたどり着く。
まだ降雪は続いている。

この時期湖岸を訪れる人は少なく、ほとんど踏み跡は見当たらない。

鉛色の空に輝く湖面、まさに冬の湖岸の風景。

湖岸では水鳥たちが元気に泳ぐ。

時たま散策の人とすれ違う、小さくなる人影、雪は降り続く、静かな湖畔の冬です。

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雪に埋もれた長浜城


寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。

直之は降り続いておりこの画像は晴れ間のちょっとした隙間に撮ったもの。
雪つりもこれくらいの積雪になると威力を発揮する。

長浜城の天守閣は、琵琶湖の方から撮影するには朝から晩までいい光に恵まれる。
逆に言うと、天守閣の入口側からだと早朝に限る。

湖岸はすぐそこに見えいるのだがふみ後はほとんどなく、ラッセルしながらの行軍。

やっとの思いで湖岸にたどり着く。
ここからの天守の眺めもなかなかのもの。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

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雪の豊国神社


安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民がその遺徳を偲んで建立。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としています。
 
大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は神社を取り壊すよう命じました。

町民は、一時、祭神を町年寄の家へ移し、八幡宮の古堂を移築して、商売の神様である恵比須神を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、長い江戸時代を過ごしました。

明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建された。

明治14年に村社、大正9年に郷社、大正11年に県社に列した。

雪中の清正公、寒そう。

この日の長浜地方は積雪45センチの大雪、膝までつかりながら参拝した。

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慶雲館


慶雲館は長浜市の迎賓館で、明治20年に明治天皇の行在所として実業家の浅見又蔵浅により建設された。館名は伊藤博文の命名と伝わる。

前庭に菅原道真を祀った社があります。

本庭の池泉回遊式庭園(国の名勝)は名匠7代目小川治兵衛平の代表作であるとともに、近代日本庭園の傑作の一つとして名高い。

表門から中門にいたるところまでの、平庭、高さ5メートルの巨石を用いた大灯籠や横綱像などを配置しているが積雪でほとんどが隠れてしまっている。

一時止んでいた雪も再び降り出した。

浅見又蔵氏は長浜市内で薬種商の三男として生まれ、22歳の時に浅見家の養子となりました。浅見家は長浜の地場産業である浜縮緬(はまちりめん)製造業を営んでいましたが、又蔵氏は長浜を代表する豪商に浅見家を育てあげました。

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雪の日 長浜訪問記


寒波の厳しいこの日琵琶湖岸の表情など撮りたく長浜を訪れた。
当日は雪が降ったりやんだり、ちょうどこの画像の撮影時は晴れだった。

積雪は約45センチ、その時の線路の様子。
車体の下部を雪の上に刻して列車は進む。

この日近江塩津行新快速は雪のため徐行運転で約45分の延着。
一般に彦根を境に積雪の状況が変わるといわれている。

長浜駅の曳山祭りのステンドグラス、白黒の世界に唯一彩を添えている。

駅前の秀吉、三成出会いの像も雪をかぶり滑稽な姿に。
当日の訪問先を順次紹介します。

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冠雪したメタセコイヤ並木


このところの寒波で冠雪したマキノのメタセコイヤ並木。

マキノピックランドを縦貫する県道には、延長約2.4kmにわたりメタセコイアが約500本植えられ、マキノ高原へのアプローチ道として高原らしい景観を形成しています。

近くには温泉ありスキー場ありで楽しめる場所。

京もこの警官をカメラにおさめようと多くの人が訪れています。

あたりは一面の銀世界。

それでも雪の命は短い、撮影している間にもどんどん溶けていきます。

メタセコイヤの実を見つけました。

車窓からの伊吹。

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近江八景「堅田の落雁」 浮御堂


近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。

平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。

現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。
境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

伝によれば、源信(恵心僧都)(942年 – 1017年)が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬(すく)いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。

よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したという。

荒廃したときもあったが、桜町天皇(1720年 – 1750年)(在位1735年 – 1747年)は禁中の能舞台をたまわり、これを再興した。
松尾芭蕉(1644年 – 1694年)も訪れた。

先代の堂は昭和9年(1934年)に室戸台風によって倒壊、現在の堂は昭和12年(1937年)に再建されたものである。
室戸台風の直後に竜巻も近くで発生している。

対岸の山は標高432mの三上山、近江富士とも呼ばれている。

湖畔にたたずむおんなひとり・・・・・・

ここは「おとせの浜」。

おとせの石の伝説

源平争乱の時代、堅田の出身で京都の源氏の屋敷に奉公していた、おとせと言う女性がいた。

おとせは、平家滅亡の際に源氏の白旗を守って大津に逃れ、平家の追手をさけて湖に飛び込むが、平家の侍に白旗を握った手を切り落とされて死んだ。

片腕はこの地に流れ着き、浜の石を血で染めた。

そして、片腕はおとせの子が指を開かせるまで、忠義を貫いて白旗を離さなかったという。

以来、この浜は、おとせの浜と呼ばれるようになった。

その子は母の遺志を継いで白旗を守護し、のち木曽義仲の武将手塚太郎光盛になったという。

この話は、寛延二年(1749)浄瑠璃「源平布引滝」に役名を小万と替えて取り入られている。
(大津市史より)

近江八景は比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、瀬田の夕照、石山の秋月、矢橋の帰帆、室町時代末期に選定された。

陽に輝くヨシがきれいです。

おとせの浜はかくれ桜の名所。

近くには「勾当内侍」の伝説も残る、桜のころにもう一度ゆっくり訪れたいものだ。

南北朝時代の武将として有名な新田義貞は、太平記によると、足利尊氏と戦って破れ、越前へ落ちのびる途中に、妻の匂当内侍を堅田に残したまま越前の藤島で戦死し、この知らせを聞いた内侍は京都嵯峨に草庵を構えて義貞の菩提を弔いながら余生を送ったとされています。

しかし、ここ、堅田に残る伝承によれば、匂当内侍は悲しみのあまり近くの琵琶湖琴ケ浜で入水自殺し、のちに村人たちによって内侍の霊を慰めるため石積みの塚が築かれ、野辺送りをした人々が野神神事衆をつくって内侍の霊を慰めてきたそうです。

その後、室町時代になって同地に野神神社が建立され、野神神事衆によって野神祭りが続けられています。

現在も毎年10月には入水伝説にちなむ野神祭りが行われるなど、悲しい物語が現実感を伴って感じられるところです。

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新年 佐川美術館

新年早々佐川美術館を訪問、こちらは1月2日より開館している。

1998年(平成10年)、佐川急便創立40周年を記念して開館。

冬枯れの木と影が印象的、彫刻家・佐藤忠良氏の作品が出迎えてくれる。

美術館の敷地は大部分が水庭(人工池)になっており、水の上に浮かぶように見える2棟の切妻屋根の展示館(竹中工務店設計・施工)は、そのデザインが高く評価されている。

夏季の夜間はライトアップされる。

広いエントランス、こちらにも佐藤忠良氏の作品。

館内は池を挟んで回廊のようになっおり、水に反射した影が揺らぎのように見えてきれいです。

まず、日本画家・平山郁夫氏の展示室へ。

氏は、日本画により「平和への祈り」を伝えるため、旺盛な制作活動を行い、わが国の風物をはじめ、日本文化の源流をもとめた「仏教伝来の道」シルクロードを題材にした作品を発表。

「樂吉左衞門館」は守破離がコンセプト。

守破離(しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。

守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。
破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。
離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。

階段を下りて行くと、地下にある樂吉左衛門館。

ライティングが素晴らしい。

展示室に入る前の広いロビー。

正面の壁の上は水面、太陽の移動とともに水面の揺らぎがフロアに映し出される。

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秀吉と長浜

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。

小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。

天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。

翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
 
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。

長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。

その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。
対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。

喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。
次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。

秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。
小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。
この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。

戦国時代の頃の話。織田信長は美濃の斎藤攻めで、堅城の稲葉山城の攻略が難航していました。

そのとき、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、城の背後からの奇襲を織田信長に進言。実行隊長となります。
木下藤吉郎は稲葉山城の侵入に成功。稲葉山城に火を放ちます。

そして、信長本隊に送った合図が 槍の先に付けた瓢箪だったという話です。
そして木下藤吉郎の活躍もあり、稲葉山城は落城。(1567年)

功あった木下藤吉郎に、織田信長が 瓢箪を馬印にすることを許可しました。
これが木下藤吉郎改め、豊臣秀吉の馬印が瓢箪となり、高々と掲げられるようになりました。

そして、快進撃の止まらぬ秀吉は 戦に勝つ度に馬印の瓢箪を増やしていきました。
その結果、秀吉の馬印のことを、千成瓢箪と言います。

「市章」を中央に、長浜城主であった「豊臣秀吉」の 馬印である「千成瓢箪」をデザインしたマンホール蓋。

「市章」は、「千成瓢箪」を長浜祭の曳山の数「12」を 周囲に配置し、中央に長浜の「長」を図案化したものです。

秀吉が活躍した稲葉山城の攻略、この時の功で千成瓢箪を馬印に・・・・
戦国武将の野望を物語る 岐阜城
今年3月に訪問した時の記事戦国の攻防を伝える美濃の名城 岐阜城がこちらにあります … 続きを読む →


千成瓢箪のデザインの角型マンホール蓋。

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大通寺 長浜御坊

大通寺は真宗大谷派の寺院。

同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。
本尊は阿弥陀如来。山号は「無礙智山」。
別名は「長浜御坊」。「長浜別院」、「大通寺」と略称される。

湖北の中心道場であった総坊を前身とし、慶長7年(1602年)に本願寺第十二代教如を開基として長浜城跡に創建。慶安4年(1652年)に現在地に移転する。

伏見城の遺構とされる本堂や大広間などの建築物(国の重要文化財)や、含山軒庭園と蘭亭庭園という2つの庭園(国の名勝)のほか、円山応挙や狩野山楽・狩野山雪らの障壁画など貴重な文化財を多数保有する寺院として知られる。

本願寺12世の教如上人が、湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりで、そのころは、長浜御堂と呼ばれていました。

安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され、御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築。

表参道から山門までの雰囲気が、「男はつらいよ」に出てくる柴又の帝釈天に似ていると感じる。

そうなんです!この大通寺の山門の下でも「男はつらいよ」のロケがされました。

急ぎ去れ  彼も親あり  花狐

「近江むかし話」によると、昔、大通寺(長浜御坊さん)に「お花はん」というきつねが住んでいたとか。

大通寺は、江戸時代には 琵琵湖岸の長浜城跡の中にあり 賑やかな街の中に移そうという賛成派と、反対派に意見がわかれ、本山(東本願寺)で決めてもらうことになったそうです。

お花はんは どうやら賑やかな街中に行きたかったらしく、お茶屋の娘に化けて 反対派の人たちの足止めをしたとか・・・で、今は この街中にあります。

お花ぎつねのオブジェ

明治のはじめ頃、大通寺に単身赴任してきたお坊さんがいた。

洗濯をしたある日、下帯だけ後で洗おうと思い縁の下に置いたままにしていたのだが、あくる朝、この下帯が本堂前に持ち出されていて、参詣に来た人々の目に入り大笑いされてしまった。

周囲の人に、赴任してきた時にお土産を「お花はん」に持ってこなかったからだと聞かされたお坊さんは、油揚げを買って大広間の天井へお供えした。

すると、それからピタリといたずらが止んだそうである。
大通寺では、今でも大広間に梯子がかけられていて、油揚げをお供えする人が後を絶えないという。

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