新緑の西教寺


山門は坂本城のものを移築。

信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。
また、境内には光秀の供養塔が立っている。

参道は緑にあふれる。

フジの実も見事に成長。

最後の坂を登り切り本堂へ向かう。

本堂前方西側の納骨堂の裏側の一段高い石垣の上に、阿弥陀如来を中心に、不動・天部など計27体の石仏が並んでいる。

阿弥陀如来に随行し、笙や横笛・琵琶・琴などを奏でる二十五菩薩を軟質な青緑色の笏谷石の特色を生かして精緻に彫った秀作である。

天正12年(1584)に、近江栗田郡の富田民部進が、幼くして没した息女花清妙蓮童女のため、極楽浄土を願って、造立したもので、その旨を記した刻銘がある。

真盛上人廟に向かう。

地獄絵のような掛け軸。

茶の間。

手水、杓の形も美しい。

ちょうどこの日は明智光秀の命日(14日)にちなみ、光秀ゆかりの天台真盛宗の総本山、西教寺(大津市坂本)で追善法要が行われた。

全国の光秀ファンで作る「明智光秀公顕彰会」のメンバーら約100人が参加し、光秀に思いをはせた。

勅使門への石段、木漏れ日が美しい。

穴太積みの石垣はまるで城郭のよう。
石垣が西日を受けて輝く。

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新緑の日吉大社


緑濃いこの参道、紅葉期には真っ赤に染まる。

全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社。

通称として山王権現とも呼ばれる。
猿を神の使いとする。

西本宮と東本宮を中心とする400,000m2の境内は国の史跡に指定される。
社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。

大宮川、大宮橋から木漏れ日の川を見る。

見上げれば陽に透かしたしたシダの葉が美しい。

山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。

山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれている。

山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰。

独特の鳥居である事から、分霊社の中にはこの鳥居を模して建立する例も少なくない。

東本宮は、本来、牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(牛尾神社・三宮神社)のうち、牛尾神社の里宮として、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられている。

一段上の宇佐宮を目指す。

白山宮の境内に祀られている神々。

そもそも猿は全国に生息しているが、何故か古来より日吉といえば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになった。

「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿。

元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰した。

現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から再建されたもの。

信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した。

これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、当社を特別な神社と考えたため。

西本宮 本殿(国宝)

西本宮の祭神・大己貴神については、近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。

以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。

今日のお昼は創業三百余年の鶴喜そば。

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日吉大社と神猿(まさる)伝説


全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社。
通称として山王権現とも呼ばれる。猿を神の使いとする。

山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされる。

山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれている。

西本宮の楼門の軒下四隅には、それぞれ違ったポーズの神猿さんがお参りに訪れる方々を見守っています。

神猿さんは魔除けの象徴

そもそも猿は全国に生息しておりますが、何故か古来より日吉といえば猿といわれ、いつの頃からか魔除けの象徴として大切に扱われるようになりました。

「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。

猿は古く境内で飼われており、既に室町時代の記録にも登場する。

江戸時代の絵図等には「猿飼所」「猿厩」が記されている。

『日吉山王権現知新記』の記録では、神猿さんの食費として「一石(いっこく)」(大人一人が一年に食べる米の量)の予算(俸禄??)が当てられています。
小さい体でも、一人前のお給料を貰っていたのですね。

京都御所の鬼門にあたる猿が辻にある、魔除けの神猿 延暦13年(794)、都が平安京に遷都された。

このとき、京都の東北の鬼門に比叡山があり、鬼門の山があるのは地相が悪いと反対の声が上がりました。
しかし、鬼門である比叡山にはすでに日吉大社と延暦寺があり、日吉大社の大神によって守られていることからこの問題は解決し、京都が都に選ばれた。

山王七猿の和歌 「七猿歌」は天禄4年(973)、第18代座主の慈恵大師良源が日吉山王権現に願文を捧げられたとき、権現の使いである猿に因んで「さる」を詠みこんで作られた7種の歌の処世訓。

天台教学の要諦である【諸法実相】、【三諦円融】内蔵した御歌といわれ、〈宇宙の道理の相〉を心を鎮めて観得することを念じて詠みこまれたものといえるでしょう。

一、つらつらと うき世の中を思うには
   まじらざるこそまさるなりけれ

二、見聞かでも いわでもかなわざるものを
   うき世の中にもまじるならいは

三、つれもなく いとわざるこそうかりけれ
   定めなき世を夢と見ながら

四、何事も 見ればこそげにむつかしや
   見ざるにまさることはあらじな

五、きけばこそ 望みもおこれはらもたて 聞かざるぞけにまさるなりけり

六、こころには なにわのことを思うとも 人のあしきにはいわざるぞよき

七、見ず聞かず いわざる三つのさるよりも 思わざるこそまさるなりけり

東本宮参道の脇に霊石がある。

正面から見た凹凸(おうとつ)が、しゃがみこむお猿さんの形にそっくりなので、「猿の霊石」と呼ばれている。

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日吉大社へのアクセス、行き方歩き方

日吉大社公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目1-1

JR湖西線 比叡山坂本駅(徒歩20分)
京阪石山坂本線 坂本駅(徒歩10分)

明智一族の眠る西教寺

比叡山(848.3m)の南東山麓に大きな寺域を持つ。
全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山。

寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建し、のちに天智天皇(626-671)から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源(りょうげん)(913-985)が、続いて横川の源信(げんしん)(942-1017)が庵を結んで修行道場としたと伝えられる。

先ず念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓。

忠義が重んじられた時代、逆賊である光秀を堂々と弔うことができず、一見、誰の墓かわからない形で伝えられてきたという。

元亀2年(157D織田信長の比叡山焼き計ちの際、西教寺も災禍をこおむった。

その直後に築かれた坂本城の城主となったのが光秀でした。
光秀は西教寺の檀徒となるに及び、復興に大きく力を注ぎました。

天正年間には大本坊が再建されました。

その時の「天正年中明智公所造古木」が今も残されています。

総門は城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。

また、湖を渡った時の鞍、経筒及寄進状なども寺宝として残されています。
天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室煕才や一族の基とともにまつられている。

明智光秀公辞世句

順逆無二門
大道徹心源
五十五年夢
覚来帰一元

明智軍記】に見える。

熙子の墓。

光秀が諸国を放浪していて貧乏だった頃。

戦国武士たちは持ち回りで仲間を家に招き接待する習わしがあった。

光秀の番が回ってきた時、お金がなくて困っていましたが、当日熙子は見事な酒肴を用意して客をもてなし、光秀の面目をほどこした。

客たちが帰った後、いったいどうやって工面したのか尋ねたところ、熙子はかぶりものを髪からとってみせました。

すると美しかった熙子の髪は短く切られた断髪姿となっていた。

熙子は自分の髪を売ってお金を工面したのでした。
…という話が「名将言行録」などに載っているのですが、これも真実だったのかどうか確かめるすべはない。

この黒髪の話に感銘を受けた松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」という句を詠み、貧しく出世できないでいた弟子に贈り励ましたという。

石段を登り切ったところに真盛上人の墓所がある。

本尊阿弥陀如来坐像。

寄木造りの定印を結び結跏趺坐する丈六の阿弥陀如来。
肩幅が広く、目鼻立ちや体躯の肉取りには穏やかな中にも硬さが見られ、衣文は装飾性が強くなっている。

定朝様に近いが形式化が見られ、平安時代後期の作と考えられる。

「手白のましら(猿)伝説」

明応2年(1493)坂本にて、馬借[ばしゃく]などが主体となって起こった土一揆は、徳政令[とくせいれい]の発布を要求して日吉社に籠り、山門側がそれを武力でもって弾圧に乗り出したことにより、日吉社の建物はことごとく焼かれ、消滅。

西教寺の僧侶はこれを哀れみ、敵味方関係なく一カ所にあつめて念仏回向[ねんぶつえこう](供養)をして葬りました。

ところが、このことが山門の怒りに触れ、さらに一揆の首謀者を真盛上人と誤解したため、山門の僧兵が西教寺に攻め入ったといいます。

しかしそのとき境内には人影がなく、ただ不断念仏の鉦の音だけが響くばかり。

どっと中に踏み込んだ僧兵たちが見たのは、上人の身代わりに猿が念仏の鉦をついている光景でした。

日吉山王の使者である猿までもが上人の不断念仏の教化を受け、念仏を唱えている、そう受け取った僧兵はその場を立ち去ったといわれます。

このときの猿の手が白かったことから「手白のましら(猿)伝説」といい、上人の御徳は鳥獣にも及ぶほどであった証として語り継がれている。

こうして寺を護る猿として「護猿[ござる]」となり、縁がござる、福がござるといって親しまれ、ごえんと呼んで「五猿」と書き、五匹の猿がお念仏を唱えている姿にして、西教寺では商売繁盛のお守りとしている。

西教寺には、合計4つの庭園がある。
庫裏南側・客殿西側・書院南側・書院北側の庭です。

それぞれに趣が異なる庭園で見ごたえがあります。

本堂の前に苔むした梅の老木が一本、見事な花を咲かせています。

宗祖大師殿からの眺めは格別。

春霞で霞んでいるが正面に近江富士が見える。
紅葉期には絶景となる。

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西教寺へのアクセス、行き方歩き方

西教寺公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
TEL:077-578-0013

JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分 ◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分

ビエリ守山にて


雨風が激しいので近くのビエリ守山に避難、昼食と休憩です。
明るい廃墟で有名なピエリ守山。今は立派に営業している。

早速店内でズームダウン左ふり回転、作品作りに取り掛かる。


美女を発見。

こちらにも魅力的な人が。

屋外ははあいにくの天候、近江富士が近くに見える。

琵琶湖大橋とエリ。

ビエリ守山港と比叡。

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ビエリ守山へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県守山市今浜町2520-5

琵琶湖線(東海道本線) 守山駅より近江鉄道バス「守山ラフォーレ線」(木の浜線)で約30分「ピエリ守山」停留所下車。
湖西線 堅田駅より近江鉄道バス、江若交通バス「堅田ラフォーレ線」(堅田駅 – ピエリ守山線)で約15分「ピエリ守山」停留所下車。

春を先取り 第1なぎさ公園の菜の花畑

今年は暖冬のため、定番の雪の残る比良山とのコントラストは望めないなあと考えつつ公園へ。

しかし、神は見捨てていませんでした、なんと! 虹がかかっているではないか。

この日は雨の予報、北から天気が崩れるとの予報、丁度この辺りが境目になってるようで時折り雨粒が。

しかし、鉛色の空と菜の花の黄色のコントラストが見事。

悪天候のため多くの人はいません。

堤防で撮影中の人を画角に入れつつ撮影中、なんと、カモの群れが、ラッキー。

最後にこの美しい光景を太陽の鉛筆でサッとひと掃き。

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第一なぎさ公園へのアクセス、行き方歩き方

住所 : 滋賀県守山市今浜町

第一なぎさ公園はJR守山駅からバス「第一なぎさ公園」下車、すぐ。
マイカーは名神・栗東ICから約15キロ。無料駐車スペースあり。入園無料。

念仏小僧と羅漢像 西教寺

寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建し、のちに天智天皇(626-671)から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源(りょうげん)(913-985)が、続いて横川の源信(げんしん)(942-1017)が庵を結んで修行道場としたと伝えられています。

その後、長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。

寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)という。

羅漢とは修行した僧の、最高位に達した僧を云う。

大岩と大石を配した岩は「雲雷鼓掣電、降雹樹大雨」(観音経の一句)の中で菩薩が大衆に向かって説法している場面を表している。
菩薩(石座)から羅漢に説法を説いている一面である。

不断念仏相続が脈々と続いている当山では「水鳥樹林皆念仏」「見来安養在人間」と沢庵禅師が詠んだ如く、全山、念仏がこだましている。

思わず子供たち、念仏を唱えずにはおれない。親は子供の成長を楽しみながら、念仏の御加護によって安養世界に導かれるのである。

可愛い童子の姿に思わず笑いが止まらない。







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西教寺へのアクセス、行き方歩き方

西教寺公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
TEL:077-578-0013

JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分 ◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分

明智光秀が再興に尽くした 西教寺

光秀は、本能寺の変で主君織田信長を討ち、非道な逆賊のイメージが強い。
だが、領地の近江坂本周辺では、善政を敷き、教養に秀でた名君として、今も住民らに慕われている。

坂本城から移築されたという総門、堂々とした構えで、騎馬武者がくぐれる高さという。

総門前の石碑には「明智光秀公と一族の菩提寺」とあります。

昭和33年に大本坊を改築の際、「天正年中明智公所造之古木」と彫った古材が屋根裏から出てきた。
明智光秀公と妻煕子夫人の木像が安置されている、現大本坊は、昭和33年に完成されたものである。

元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き打ちによって西教寺が全焼、本堂・丈室・鐘楼・僧厨等が焼失した。

坂本城主となった明智光秀が、西教寺を菩提寺にしようとして、復興には特に心を用い大壇越となって、坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建した。

小説「細川ガラシャ夫人」は女流作家三浦綾子が昭和48年1月から2年5ケ月に亘って執筆。

初めての歴史小説。

この小説の中に「鉦の音」「縁」の中に光秀が坂本城主になってから、西教寺の不断念仏の鉦の鳴る本堂へ、妻煕子、末娘玉子(細川ガラシャ夫人)、左馬助光春(家臣)、郎党を連れての参詣の様子が描かれている。

坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓。

忠義が重んじられた時代、逆賊である光秀を堂々と弔うことができず、一見、誰の墓かわからない形で伝えられてきたという。

本能寺の変のわずか11日後に敗死した光秀。

謀反の動機は様々に説かれるが、いまだ謎に包まれている。
信長を倒し、どのような天下を夢見たのだろうか。

近くに早逝した妻・熙子(ひろこ)の墓もひっそりとたたずむ。
側室をとらず、夫婦仲むずまじかったという光秀らしい。

芭蕉句碑「月さびよ明智が妻の咄せむ

作家の中島道子氏の『明智光秀の妻煕子』という小説の序文に次のように煕子夫人のことが書かれている。

人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は、軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を詠んでいる。
その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている。明智光秀の妻である。

比較的近年まで、光秀は逆臣、叛将とのみ言われてきたにもかかわらず、封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのは、まさに自由人芭蕉その人であった。

明智が妻の句は『奥の細道』の旅の途次、越前は丸岡に足を止めた折、耳にしたことを後、伊勢の門弟山田又玄の妻に贈ったものである。

月さびよ 明智が妻の 咄せよ 芭蕉
まさに、この一句に人生感(観)があらわれていると言えよう。

本能寺の変、山崎の合戦、坂本城の攻防と続く戦乱の中で、美濃国の妻木城城主でありました妻木藤右衛門廣忠の一族・郎党も討死していきました。

山崎の合戦の後、妻木一族が坂本城を守るために、多数の兵士とともに奮戦したのです。
しかし、秀吉の軍勢に敗れ、一族は自害したと言うのです。

廣忠は、天正10年6月14日、坂本城の落城後、明智一族に殉死した人々を西教寺に葬り、供養した後、同18日、煕子(廣忠の娘)の墓前で自刃したと伝わるのです。

明智光秀に嫁いだのは、妻木廣忠の娘・煕子でした。

鐘楼堂、陣鐘は、形状などから平安時代の作とみられ、光秀が坂本城の城門とともに寄進した。

長らく境内の鐘楼につるされ、撞(つ)くこともできたが、傷みが激しく昭和62年以降は収蔵庫で保管されている。

本坊にある光秀像。

光秀が「時は今 あめが下しる 五月かな」と発句すると、威徳院行祐の「水上まさる 庭の夏山」が続き、第三に里村紹巴が「花落つる 池の流を せきとめて」と詠んだといいます。

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西教寺へのアクセス、行き方歩き方

西教寺公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
TEL:077-578-0013

JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分 ◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分

紅葉の穴場 西教寺

西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いとは言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。

西教寺へは徒歩で辿った、途中琵琶湖のビューポイントが沢山ある、晩秋の野にはススキが揺れていた。

総門をくぐると、参道の左右に計6か寺の子院が並ぶ、既に盛りを過ぎているが紅葉のトンネルとなる場所。
訪問してわかったが゜紛れもなく紅葉の穴場だ。

参道の正面突き当たりには勅使門があり、その左に宗祖大師殿、奥の小高くなった場所に本堂、客殿、書院などが建つ中心伽藍があり回廊で結ばれている。

山門の辺りはまだまだ紅葉が見事だ。

山門の右を見ると真っ赤な紅葉。

山門を潜り振り返る、見事な紅葉。

濡れた参道に散りモミジ、見事な風情を独り占め。

荘厳な風格を誇る本堂(重文)、739年建造、本堂・客殿・書院などが建つ中心伽藍は、回廊によってつながっている。

宗祖真盛上人廟への石段。

伏見城の遺構を移したという客殿、その内部の狩野派(かのうは)による人物・花鳥襖絵(ふすまえ)など、多くの見所がある。

元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き打ちによって西教寺が全焼、本堂・丈室・鐘楼・僧厨等が焼失した。

坂本城主となった明智光秀が、西教寺を菩提寺にしようとして、復興には特に心を用い大壇越となって、坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建した。

昭和33年に大本坊を改築の際、「天正年中明智公所造之古木」と彫った古材が屋根裏から出てきた。

明智光秀公と妻?子夫人の木像が安置されている、現大本坊は、昭和33年に完成されたものである。
昭和の木造建造物では、滋賀県内最大の建造物と言われている。

書院庭園、明治初期の作庭。

天正18年(1590年)、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都・岡崎の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることとした。

法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移された。
寺の別名を「兼法勝西教寺」というのはここから来ている。

現在、西教寺客殿の仏間に安置される、秘仏・薬師如来坐像は、法勝寺の遺物とされている。

「兼法勝西教寺」という石標と駒札が見えている。

西教寺の護猿(ござる・・守りざる)・・西教寺の法難を救う

1493年、坂本の地で徳政一揆が勃発。

比叡山の僧兵たちが、西教寺の真盛上人が関わったのではないかとして、西教寺を襲撃してきました。
その時、本堂の鉦をならし続けて急を知らせたのが手が白い猿でした。

猿が真盛上人の身代わりとなって鉦を撞いていたのです。

その猿は日吉神社の神のおつかえであるとして、僧兵達はその場を撤退したということです。
搭頭の屋根瓦には猿が随所に置かれています。

勅使門へ降りる石段から見上げた景観、素晴らしい。
まさに紅葉の穴場にふさわしい。

辺りは城壁と見まがう石垣、もちろん穴太積だ。

散りモミジも見事。

一面モミジの絨毯。

勅使門脇の見事な紅葉。

十三重石塔は江戸時代前期の作で、鎌倉時代などの石塔より時代が下がり、粗雑な作りになっている。

時代が下がると、石塔建立の需要が大幅に増加した為、粗製濫造の傾向が加速される。

また、発注する側も塔を寄進する行為そのもの重視するようになり、石塔の優美な美しさが消えていく。

宗祖大師殿唐門前からのレイクビュー、正面に近江富士を配し、本来は枯れ枝が紅葉の枝のはず。

宗祖大師殿唐門を額縁に見立てる、見事な景観だ、紅葉が残っていれば最高の景観。

宗祖大師殿は、明治11年別派独立が公許されたのを記念して、宗祖真盛上人像を安置するため建立されたもの。

宝珠丸像、真盛上人は、紀貫之の末裔で幼名は宝珠丸。

母が地蔵菩薩から宝珠を授かった夢をみて上人を身籠ったのでこう名付けたと言われる。

門前にある沢庵禅師の碑、江戸時代の禅僧沢庵禅師(1573~1645)が、慶長19年(1614)5月頃に42歳の時、近江を巡歴し「石山行記」という紀行文に書かれている文で、沢庵禅師は京都を出発し石山寺、三井寺を参詣で、琵琶湖を船で坂本に渡り西教寺を訪れている一節である。

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西教寺へのアクセス、行き方歩き方

西教寺公式サイト

滋賀県大津市坂本5丁目13番1号
TEL:077-578-0013

JR湖西線『比叡山坂本』駅 下車、江若バス約7分(西教寺下車)、又は徒歩30分 ◎京阪電車『坂本』駅下車、江和バス約4分(西教寺下車)、又は徒歩25分

坂本の紅葉またまだきれいです


12/5坂本訪問、駅前は濡れた地面に落ち葉が積り、朝日が射しています、とてもきれいです。

もうすでに紅葉も終末期に近く、葉を落とした木が目立つがまだまだきれいな姿を見せてくれています。

歩道は落ち葉がとてもきれい。

落ち葉に陽が射して雰囲気が盛り上がる。

ベンチの落ち葉もいい。

濡れた歩道と落ち葉そして陽が射し込む、いい取り合わせだ。

快晴の空に飛行機雲、そして紅葉。

歩道わきの結界の綱が張られた大石と落ち葉。

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