いにしえの風情ただよう 高島びれっじ


駅前に10メートルぐらいのガリバーの特大銅像があり、ガリバーが敵国の艦隊を拿捕するシーンである。

これは高島市内に『ガリバー旅行村』のキャンプ場があるため。

いにしえの風情ただよう旧城下町、高島市勝野。
陣屋の惣門や武家屋敷が今なお残っています。

築150年の旧商家を商工会の有志が手づくりで改修し「びれっじ」として再生しました。
現在は1号館から8号館まで整備されています。

ここはびれっじ3号館■淡海堂(スイーツ・お酢)

びれっじ6号館■Wani Cafe(ワニカフェ)(ランチ・パスタ)

大溝まつりの曳山の収納庫も見える。

趣のありそうな路地を入ってみる。

ここはレンタルサイクル店、店先のマキは冬季のストーブ用かな。

コスモスの咲く広い空間、いきなり足元からキジが飛び立った、山里の風情を残す空間だ。

古い板塀も残る。

造り酒屋を見つけたが残念ながらお休み。

大溝城下で特に注目されるのは、幅約1メートル、深さ1メートルほどのまちわり水路が町並道路の中央を流れていること。

その水路は、南北の主な四通 りに敷設されている。
もともと大溝は山水やわき水に恵まれ、堀割を活用して町屋に引水していた。

そうした引水流路の錯綜状態を、町割の整備とともに四つの 水路に改修したのがまちわり水路であって、飲用・防火の生活水路であった。
したがって、城下の町屋は井戸を持たない

未だにその水路が保存されているのも素晴らしいですが、当時の上水道(古式水道)は今現在においても使われているそうです。

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竹生島


竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大きい島。
右側には伊吹が見える。

湖岸波除石

近江今津は、1595年から明治まで金沢藩前田家の近江領だった。
1700年代に幕府の許可を得て、湖岸波除石垣を造った。

波除石垣の完成以降、水害から守られ古い街並みが石垣より少し内陸側に出来、 町は発展した。

クルーズ船と琵琶湖周のうた歌碑。

島全体が花崗岩の一枚岩からなり、切り立った岩壁で囲まれているのが特徴である。

「観音堂」「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」が見える。

竹生島港には琵琶湖周航のうた歌碑が建つ。

この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。

その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。

4.瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
 古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
 仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
 眠れ乙女子 やすらけく

165段の石段を上った広場左手に「本堂(弁才天堂)」が建てられている。

本堂前の広場にある「石造五重塔」の横から更に石段を登った狭い場所に、朱塗りも鮮やかな「三重塔」と、「宝物殿」が建てられている。

今津方向を眺める、波にきらめく陽光がきれいだ。

「観音堂」から「都久夫須麻(つくぶすま)神社本殿」までの間に「舟廊下」が通じている。

舟廊下と呼ばれているのは、これが秀吉の御座舟を利用して造られたことに由来するといわれる。

「舟廊下」も唐門、観音堂と同じ年、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼が片桐且元に命じ、京都から移築したものとされている。

龍神拝所

竹生島港からの伊吹山。

今津港へ向かうクルーズ船の航跡、陽を受けて虹がかかりきれいだ。

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延暦寺里坊群の一つ旧竹林院


坂本の里坊には、美しい庭園がみられるところが多い。

『滋賀県の歴史散歩』(山川出版社)によれば、坂本には借景の自然、山から流れる渓流、豊富な石材、苔に適した土質と気候という条件がすべて揃っている。

青年僧の修行道場ではなく、延暦寺の僧侶の隠居所だったということも大きい。

旧竹林院は、こうした里坊のひとつで邸内には主屋の南西に約3,300㎡の庭園が広がり、2棟の茶室と四阿(あずまや)があります。

大宮川を引き込んで曲水とし、竹林院は、延暦寺の里坊の中で最も高い格式を持つ寺院でした。

八王子山を借景にした庭園は、地形をたくみに利用しながら滝組と築山を配し、四季折々の風情をかもし出しています。

大津市指定文化財の、四阿(あずまや)。

この茶室は「天の川席」と呼ばれる、二つの出入り口を持つとても珍しい構造になっている。

明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で衰退して土地は個人の手に渡った。
現在の庭園はこの時代に改修されたものであり、近代庭園として国の名勝に指定されている。

苔の美しい庭園です。

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豊臣秀吉寄進と伝わる日吉三橋

白洲正子 近江の旅|古代から継がれる石の文化と木地師の伝説

正子の旅は近江各所に及んでいるが、その旅は「石」と「木」と対話し、日本の美を再確認することではなかっただろうか。
そうして、石の文化を訪ねた先が、比叡山の麓にある日吉大社だった。

比叡山は最澄の開山で知られるが、日吉大社の縁起はそれよりもずっと古い。
大社に向かう長い坂道の参道を上っていくと、美しい姿の山が正面に見える。八王子山、または比叡山に対して小比叡[おびえ]とも呼ばれる。日吉大社の日吉は、「ひえ」と読むのが正しいようだ。

山上には古代より神が降臨するといわれ、信仰を集める巨岩「磐座[いわくら]」が鎮座する。
『古事記』には、大山咋神[おおやまくいのかみ]と鴨玉依姫[かもたまよりびめ]をまつると記され、日吉大社の境内全体が古代信仰の霊地とされ、周囲には古墳も多い。

最澄はこの神体山の麓で生まれ、小さい頃より古代信仰に触れたことが、天台密教を開く助けになったといわれている。
日吉大社境内の岩や巨樹にはしめ縄が飾られ、石と木それ自体が今も信仰の対象である。

その境内に、見事な石橋が架かっている。奉納したのは豊臣秀吉だ。構築はおそらく穴太衆[あのうしゅう]の手によるものだろう。
麓にある穴太地区はその石工集団の故郷で、戦国時代の築城に大きな役割を果たした。

正子は、穴太衆の優れた石造技術は、巨石を加工し墳墓を築いた古代から受け継がれたものではないかと推理する。

白洲 正子のエッセイ 「かくれ里」

白洲 正子のエッセイ 『近江山河抄』

三本の石橋の中で一番上流に架かる橋は『大宮橋』

大宮橋は、西本宮へ真っ直ぐ向かう参道に架かる橋で、花崗岩製の石造反橋ですが、木造橋の形式をそのまま用いた珍しい橋。

橋の両側に格座間を彫り抜いた高欄をつけるなど、日吉三橋の中で最も手が込んでいる豪壮雄大な石橋となっている。

重要文化財 建造物
日吉大社日吉三橋 大宮橋 一基
(大津市坂本五丁目)

大宮橋は、西本宮(大宮)へ向かう参道の大宮川にかかる花崗岩[かこうがん]製の石造反橋[そりはし]ですが、木造橋の形式をそのまま用いています。

幅五・〇メートル、長一三・九メートルで、川の中に十二本の円柱の橋脚をたて、貫[ぬき]でつなぎ、その上に三列の桁[けた]をおき、桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡しています。

両側に格座間[こうざま]を彫り抜いた高欄[こうらん]をつけるなど、日吉三橋のうちでも最も手が込んでおり、豪壮雄大な構造の、代表的な石造桁橋。

天正年間(1573~1592)豊臣秀吉が寄進したと伝えられていますが、木橋が現在の石橋に掛け替えられたのは、寛文九年(1669)のこと。

大正六年(1917)八月、日吉三橋の一つとして国の指定文化財となりました。 (現地説明板)

下流から見上げると高欄下部は苔むして風格がある。

日吉三橋の真ん中に架かる橋は『走井橋』。

走井橋は日吉三橋の中で最も簡素な構造の橋ですが、橋の傍らにある走井という清めの泉があり、そこでお祓いをするための重要な橋で、比叡山回峯行などでは必ずこの橋を渡るといいます。

重要文化財 建造物 日吉大社日吉三橋 走井橋 一基
(大津市坂本五丁目)

走井橋は、大宮橋のすぐ下流にかかるお祓いをするための石造反橋[そりばし]。

日吉三橋の中で最も簡素な構造で、幅四・六メートル、長十三・八メートルを測ります。
川の中に方柱の橋脚をたてますが、その数も六本と少なく、また桁も省かれ、橋脚の頭に継ぎ材をおいて、橋板をかけています。

橋板に反りをつけることで、軽快な感じをよく出しています。
走井橋の名は、橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来します。(現地説明板)

上流の大宮橋と比べますと橋脚も少なく、また桁も省かれた簡素な構造の石橋ですが、板橋に反りをつけることで軽快な感じになっています。

走井橋を渡ったところの大杉の根元に鎮座するのは走井祓殿社。

御祭神は瀬織津比咩・速開都比咩・気吹戸主・速佐須良比咩

御祭神の四柱は大祓祝詞に登場する神様で、天下四方の罪穢れを水によって祓い清めて消滅してくれます。

日吉三橋で最も下流に架かる橋が『二宮橋』。

二宮橋は東本宮(二宮)へと続く参道に掛けられていることから「二宮」という名前がつけられています。

二宮橋も走井橋と同じような簡素な構造の橋となっていますが、こちらの橋は桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡し、両側に高欄をつけ、大きさも大宮橋とほぼ同じ幅となっています。

二宮橋は天正年間に豊臣秀吉により寄進されたと伝えられている木橋を、後に石橋に架け替えられたもので石橋としては日本では最大、最古とされています。

重要文化財 建造物 日吉大社日吉三橋 二宮橋 一基
(大津市坂本五丁目)

二宮橋は東本宮(二宮)へ向かう参道の、大宮側に架かる花崗岩製の反橋ですが、木像橋の形式によって作られたものです。

川の中に12本の円柱の橋脚を立て、その上に三列の桁を置き、桁上に継ぎ材を並べ橋板を渡し、両側に高覧をつけています。

上流に架かる大宮橋とほぼ同規模で、幅5.0メートル、長さ13.9メートルを測りますが、構造はより簡単で、橋脚の貫もなく、高欄も板石と擬宝珠付親柱で構成されています。(現地説明板)

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天海の廟所 慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の復興に尽力した天海の廟所。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする建物で、堂内には木造慈眼大師坐像(国の重要文化財)を祀る。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の阿弥陀如来座像のほか、 歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

穴太積の前に並ぶ13体の阿弥陀仏石仏の前には歴史上の各界著名人の供養塔が立ち並ぶ。

天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏のうちの13体の石仏(安土桃山時代)

白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

白洲正子 『近江山河抄』

穴太の石垣と紅葉の散策
日吉大社は滋賀県屈指の紅葉名所として知られており、境内に3000本ものモミジが燃 … 続きを読む →

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延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡


坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

1615年(元和元年)江戸幕府に仕え「黒衣の宰相」とも称された天台宗の僧天海が、後陽成天皇から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺。

滋賀院の名は1655年(明暦元年)後水尾天皇から下賜されたもの。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

芭蕉句碑

叡慮にて賑ふ民や庭竈

「庭竈」とは、正月三が日間、土間に新しい囲炉裏を切って薪を焚き、囲りに主人家族、奉公人らが集まって大服茶、酒、焼餅などを飲食して団欒する民間行事。

正面の勅使門(御成門)は門跡寺院の風格がある。

二階の東側の障子を開けると琵琶湖が見え、その向こうに遠く近江富士(三上山)がくっきりと浮かぶ景色は良い眺めで、いかにも天台宗の偉い地位に就いた人の隠居所という感じ。

滋賀院庭園 – 伝小堀遠州作

縁側の下はすぐに池になっており、池の中央には5mもある実に立派な石橋が架けられている。

石橋を渡ると滝口があり、権現川の水を取り入れた清流が、音を立てて勢いよく流れ落ちる。

「羅漢の間」の奥には「座主接見の間」があり、天台座主の公式儀式や接見は全てこの間で行われた。
一段と高い上段の間があり、厳かな雰囲気が漂う。

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一足遅い初夏 ガーデンミュージアム比叡


標高840mの比叡山頂の庭園美術館。

1.7haの園内に1,500種10万株の花が咲き乱れるここガーデンミュージアム比叡は、フランスの設計者により2001年にオープン。

標高840mからの眺望、近江大橋が見える、湖畔の高い建物は大津プリンスホテル。
ここは夕日の鑑賞ポイント。


岩場のあたり、ポピーが背伸び。

花の庭、バラを絡ませた6つの大アーチと、両側に広がる帯状の花壇が美しい。

里では見頃を過ぎたクレマチスも今が盛り。


庭園は、モネがジヴェルニーに作った自宅庭園をモチーフにしている。

お昼はテラスで雄大なパノラマを楽しみつつ。

印象派ガイダンスコーナーでは、印象派の歴史や日本文化との関わり、モネの生涯と彼が愛した庭などについて、モネを模したロボットと大型スクリーン映し出される映像で楽しく紹介。

見晴らしの丘からの雄大な眺望。

香りの庭

南仏プロバンスの丘陵をイメージした庭園。

陽光あふれる中、ラベンダーやローズマリー、タイムなど、心癒すハーブの香りを楽しむ。

園内にはモネ、ルノワール、ゴッホなどフランス印象派画家たちの作品が陶板画として45点飾られて、季節ごとに表情を変える花々とともに、訪問者の心を魅了。




水連の咲く池、藤の絡まる太鼓橋、シダレヤナギ、アヤメ、ショウブなど、モネたちが愛したモチーフをふんだんに取り入れ、彼らが思い描いた日本風の庭園を再現。




こもれびの庭、4月下旬から6月にかけてシャクナゲがさきそろう花の回廊。


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旧逢坂山隧道


旧逢坂山トンネルは、明治13年6月28日に完成した、日本人技術者だけで始めて造ったトンネルである。
全長664.8m、東海道線大津~京都間の旧線大津(現在の膳所)~大谷間にあって、大正10年7月31日まで使用されていた。

担当技師の國澤能長は、明治4年に見習技師となり、外国人について大阪~神戸間の線路建設に従事。明治11年、京都~大津間の工事で主として逢坂山トンネルを担当した。鉄道記念物に指定されている。

このトンネルは開業から130年以上経過しており、大変古いトンネルである。

確かに廃トンネルには違いはないのだが、路線の廃止後も活躍してきた。
廃止直後は生活通路として使用されてきた。

また、戦時中は住居を失った人が一時的に住みついたりもした。
そして現在トンネル内は京都大学による地震測定の研究が行われているようである。

さらに鉄道記念物として文化財にも指定されており、現在もなお生き続けるトンネルなのである。

扁額に刻まれた碑文は三條実美の揮毫による「楽成頼功」。
「落成」ではなく「楽成」となっているのは落盤に通じる「落」の文字を避けたからだと言われている。

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3箇所の蝉丸神社と蝉丸説話


蝉丸神社下社  滋賀県大津市逢坂1丁目15-5
 祭神---豊玉姫命(或いは、道反大神-チガヘシ)
 合祀---蝉丸

かなり老朽化が進んでいる。

以前の訪問記
琵琶の名手蝉丸
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水 … 続きを読む →


逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀貫之

「今やひくらん望月の駒、云々」は、八月十五日夜の日に、ここで信州の牧場から来た馬を、朝廷に引渡す行事があり、
満月にちなんで「望月の駒」と呼ばれた。・・・・・このことを詠んだ歌は多いが、中でも有名なのは紀貫之の作である。

『近江名所図会』という、江戸時代に書かれたガイドブックがある。
「蝉丸の社内にあれども、長明[無名抄]に、その時すでに水かれたるよし見えたれば」とある。
江戸時代以前に、すでに水は枯れていたらしい。

白洲正子の説
四の宮をすぎると、間もなく逢坂山へかかり、大谷の集落から、滋賀県に入る「関の清水」は、蝉丸神社(下社)の中にあるが、これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという。

『近江山河抄』より

蝉丸神社上社  滋賀県大津市逢坂1丁目
 祭神---猿田彦命
 合祀---蝉丸(逆髪とする説もある)

関蝉丸神社上社は、急斜面にある。。

何故、蝉丸神社が3カ所も。

東海道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として創建されたと考えられている。

上社と下社に分かれ、祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀し、下社は豊玉姫命に蝉丸霊を合祀する。

社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野岑守が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。

貞観17年(876年)に従五位下を授かった近江国「坂神」がこれに相当する国史見在社と見られている。

平安時代中期の琵琶法師で歌人として知られた蝉丸が逢坂山に住んでいたことから、その死去後に彼も上社と下社に祀られるようになった。

天禄2年(971年)には円融天皇から下された綸旨により、以後歌舞音曲の神としても信仰されるようになった。

蝉丸神社は後から造られたため「分社」となっています。

目の前には、名神高速道路の高架橋が、国道一号線を横断するように架かっている。

近世に道が掘り下げられた事などから、関のあった場所は現在では定かでない。

しかし、逢坂2丁目の長安寺付近にあった関寺と逢坂関を関連付ける記述が更級日記や石山寺縁起に見られる事などから同寺の付近にあったと見られる。

なお、これとは別の滋賀県大津市大谷町の国道1号線沿いの逢坂山検問所(京阪京津線大谷駅の東)脇には「逢坂山関址」という碑が建てられている。

逢坂は、「合坂」(『日本書紀』)、「相坂」(『万葉集』)、「会坂」とも書かれた。
 
本来の「逢坂」の意味は、「あふさか」であり、「人が坂に出合う」の意という。
また、「二つの坂が出合う」場所として峠も意味した。

古墳時代-弥生時代はこの「人が坂に出会う」だった。

200年頃、14代・仲哀天皇没後、竹内宿禰は、忍熊王(おしくまおう)らの反乱を逢坂で鎮圧した。
この時、両軍勢が出会った坂が逢坂だったという。

その後、平安時代以降は、「人と人が出合う」意味に変わっていく。

この急な階段を上がったところが 蝉丸神社分社(蝉丸神社) 大津市大谷町
 祭神---蝉丸
 合祀---猿田彦命・豊玉姫命

ここはウナギのかねよで有名。
優雅な庭園を眺めながら堪能 日本一のうなぎ 「かねよ」
琵琶湖疏水の散策に出かけ、京都と滋賀の県境・逢坂山に店を構える明治5年創業の老舗 … 続きを読む →

蝉丸説話

小倉百人一首の中でも有名な蝉丸(せみまる)は、平安前期の歌人。
また、盲目でありながら、大変な琵琶の名人であったともいわれている。

しかしそれ以外となると、色々な逸話は残されているものの、その正確な人物像は定かではありません。
なぜなら蝉丸は、その本名を始め、血筋や生没年さえも不詳とされているからです。

諸説としては、第五九代天皇の宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えた蔵人見習いであったとか、第六十代天皇の醍醐天皇の第四皇子であったなどというものもあります。
しかし、そのどれもに確実性はなく、推察の域を出ないそうです。

特に、「今昔物語集」の中に収録された蝉丸と源博雅に関する話は有名。
逢坂の関に庵を構えていた蝉丸を、当時、管弦の名人と評判であった源博雅が訪ね、三年がかりにしてやっと、琵琶による秘曲を蝉丸に伝授されたという話です。

また、逢坂の関に庵を構えていたという蝉丸は、逢坂の関の守護明神として祀られており、蝉丸自身が琵琶の名手であったことから、芸能や歌舞伎の祖神としても崇められています。

能楽の『蝉丸』では次のような話となる。

蝉丸は醍醐天皇の第四皇子であったが、生まれつきの盲であったため、逢坂の関に粗末な庵を与えられて捨てられる。

前世の報いのため、来世の幸せのために、従容と運命を受け入れる蝉丸。

そこへ一人の狂女がやってくる。
生まれつき髪の毛が逆立って櫛が通らない異形故に遠ざけられ狂乱した、蝉丸の姉宮である逆髪宮であった。

逆髪は琵琶の音色に惹かれて庵を訪ねると、そこには弟宮の蝉丸があった。
薄幸の姉弟はそこで互いの不運を嘆き、慰め合う。

しかし時が来て、逆髪宮は別れを告げて、いずこともなく去っていってしまう。

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関寺の牛塔


長安寺の前の名称は関寺。

関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった大寺院である。
平安時代日本三大仏の一つ関寺大仏は特に有名である。

鎌倉時代時宗宗祖一遍上人が遊行し「おどり念仏」を奉納。
慶長の兵火に羅災の後、寺の名称を長安寺と改めた。

昔、長安寺のある一帯は「関寺」と呼ばれ、大寺院があった。

平安時代に復興工事が行なわれた際、資材の運搬に一頭の牛が見事な働きをした。
その牛は仏の化身と噂され、時の権力者である藤原道長まで拝みに来たという。

しかし、工事終了と共に牛は死に、霊牛の供養塔として作られたのが牛塔だという。

「これと匹敵するのは、逢坂山を越えた所にある、関寺の牛塔であろう。

石塔寺との間には、約三百年のへだたりがある。
ここはもはや大陸の残り香はなく、完全に日本のものに化している。

人工から再び自然に近づいたといえようか。
はっきりした形は失ったかわり、漠然とした大きさと、暖かみにあふれ、笠をのせたような印象をうける。

牛塔とか牛塚と呼ばれるのは、横川の恵心僧都が、関寺の再興をはり、工事のために牛を使役していた。

その牛が、迦葉菩薩の化身であるという噂が立ち、前関白道長や、頼通が、拝みに来るという騒ぎだったが、噂にたがわずその牛は、工事の終了とともに死んでしまった。

その供養のために建てたのが、この宝塔であるというが、俗に和泉式部とか、小野小町の塔とも呼ばれている。

「年々に牛に心をかけながらこそ越えね逢坂の関」と、式部が詠んだからで、小町の方は、謡曲の「関町小町」から出た伝説に違いない。

が、牛や美女では不似合いで、よほど名のある高貴な人か、もしかすると、恵心その人の供養塔だったかも知れない。
いずれにしても、こんな美しい石塔が、二つながら近江の地にあることは、良材に富んでいたのはもちろんだが、その裏にある石の信仰と伝統のたまものといえよう。」

白洲 正子のエッセイ 『かくれ里』より


境内には、元亀二年の織田信長の比叡山焼き討ちなどにより、比叡山山麓の坂本付近に埋もれていたものを、昭和三十五年に百体、境内に移し祀った「埋もれ百体地蔵」がある。

埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。

小野小町といえば、平安時代の歌人で絶世の美女とされる。
彼女は、晩年を山科(京都市)の随心院のあたりで暮らしたといわれる。

大津から逢坂山を越えれば、山科である。

あらすじを少し紹介すると、僧侶が弟子たちを連れて、近江に住む和歌の上手いおばあさんに歌を教わりに行きます。

おばあさんと話をしているうちに、僧侶はこの人が、実は小野小町なのでは?と気づくという話です。
関寺小町は能の中でも最も難しい曲目だそうです。

小堂(本堂)の前にて。牛塔にちなんで、牛の置物が置かれている。

本堂の右側に建つ庫裏の横から石段が始まり 参道となる。

園城寺の境内に続く山道を登る。
途中には西国三十三カ所めぐりの石仏が処々に立っている。

崩れかけの石積みもある。
山道は落ち葉が積もり、人の訪れを感じさせない。

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