もうすぐ春


住之江公園の寒緋桜もそろそろ葉桜になろうとしています。

世間ではコロナウイルスで大騒ぎですが、二十四節気の啓蟄が先日済んだところです。

虫が冬眠から目覚め活動を始める頃と言われます、次の二十四節気は、『春分(しゅんぶん)』

暑さ寒さも彼岸までの例え通り一気に春がやってきます。

護国神社の梅もそろそろ終わりです。
すぐにでも春がやってきそうな雰囲気です。

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大阪城梅園


大阪城梅園、ただいま六分から7分咲かといったところ。

梅園といえば普通山間部を連想しますが、ここでは京橋の高層ビル群をバックに梅を見るのも何ともいえない風景。

普通には梅の萼は赤い色。
緑萼梅は萼が緑色、梅としては珍種の部類です。

当梅林は、大阪府立北野高校の卒業生(六稜同窓会)が開校100周年事業として、22品種、880本を大阪市に寄付した事で、昭和49年3月に開園となりました。

現在では97品種1240本を数える規模になっており、品種の豊富さでは関西随一の梅園となっている。

緋の司 (ひのつかさ)、普通咲きの中では比較的早く咲き始めます。

八重咲きの枝垂れ梅『呉服枝垂』、この花は枝垂れ梅の中でも主要品種のひとつとして数えられる、クレハシダレ(ゴフクシダレ)です。

実梅の代表種の一つ。
大阪城 梅林内にも約180本の白加賀が植えられています。

その名前から加賀の国(石川県)の原産みたいに見えますが、神奈川県旧加賀村で発見された品種です。

また、大阪管区気象台が定める大阪府の梅の標本木として、大阪城 梅林内の白加賀が採用されています。

梅の原産地は中国であり、奈良時代以前に、遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされたと言われています。

梅園が一番きれいなのは、2月中旬から3月上旬、これからが本番。

天守閣をバックに、一番のポジションかな。

蝋梅(ろうばい)もちらほらと一緒に咲いています。

天守台からの眺望、こちらもなかなかのポジションです。

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真如堂


金戒光明寺から黒谷墓地を経由して、真如堂に通じるルートは、桜の美しさもさることながら、平安時代から戦国時代、そして幕末に至る壮大なドラマを体感できるいわば“歴史の道”でもあります。

石薬師堂のあたりは山茱萸の花、満開できれいです。

ちょうど本堂の裏に出ます。

真正極楽寺は、天台宗の寺院で通称・真如堂と呼ばれる。
山号は鈴聲山(れいしょうざん)。

本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算。

永観2年(984年)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。

正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。
不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。

しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱に巻き込まれ、堂塔は焼失した。

本尊は応仁2年(1468年)比叡山黒谷青龍寺に、次いで文明2年(1470年)近江国穴太の宝光寺(穴太真如堂)に避難させた。

応仁の乱が終息すると文明10年(1478年)、一条西洞院に寺地を改めるが、文明16年(1484年)には旧地である神楽岡にもどって再建された。

本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したもので、完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので、「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、阿弥陀像は三度頷かれたという伝説がある。

黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。

文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。

なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。

いま梅が真っ盛り。

そして本堂横、アセビが見事。

斎藤利光の墓。

安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑された。
その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。

斎藤利光の遺体を真如堂の墓地に埋葬したのは、絵師の海北友松(かいほうゆうしょう)でした。

海北友松は、斎藤利三と親交があったことから、その首を真如堂に葬ったということです。
墓石には「斎藤内蔵介利三墓」と刻まれています。

真如堂よりの帰路、梅が見事です。

真如堂 涅槃の庭は東山(大文字山等)を借景にしています

真如堂から大文字を見るポイントはいくつかありますが、元三大師堂の前が一番人気でしょうか。

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北野天満宮界隈


旧称は北野神社。二十二社(下八社)の一社。
福岡県太宰府市の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。

末社・伴氏社(ともうじしゃ)

菅原道真の母君が大伴氏の出身であることから、こうよばれています。

伴氏という家柄は由緒正しき家計であり、遡ると国家形成の時代から政治に深く関与している。

大伴氏といい、飛鳥時代から政権の中枢に関わっていて、万葉集の編者である大伴家持もその家系につながる人物である。

かつては石造りの五輪塔が置かれていましたが、明治維新の神仏分離政策により東向観音寺に移されました。

東向観音寺の本堂の左手「行者堂」の奥に、巨大な石造の五輪塔がある。
これは、北野天満宮参道の伴氏社にあったものを、明治の時代に、ここに移したもので忌明塔(いみあけとう)と呼ばれ、菅原道真の生母である、大伴氏を祀る石塔である。

道真公の母は伴氏の娘という以外、詳しいことは分からない。

絵馬堂

絵の若者は「阿新」、「くまわか」といいます。
南北朝時代の人で、公家・日野資朝の子です。
 
父の資朝は後醍醐天皇に取り立てられましたが、天皇の討幕計画の露見により、自らも佐渡へ流されました(いわゆる正中の変)。

子の阿新は、父に会うため佐渡に向かいますが、守護・本間入道は面会を許さず、逆に資朝を斬ってしまいます。

父の敵討ちを誓った阿新は、本間の屋敷に潜入しますが、敵は不在で果たせず、代わりに父を斬った入道の嫡子・本間三郎を討ちます。
 
しかし、阿新は追っ手に迫られ危機一髪。かろうじて逃れ、湊へ向かう途中、年老いた山伏と出会います。

ちょうど一艘の船が湊を出ようとしており、山伏は法力で逆風を起こして船を湊へ引き戻します。阿新は、無事に乗船して越後に脱出するのでした。

これが「太平記」などに見える阿新の物語です。彼は、のちに日野邦光(国光)と名乗り、父と同じく後醍醐天皇に仕えたそうです。
 
絵に描かれた場面は、佐渡を脱出する阿新と山伏(大膳坊ともいう)を画いたもの。
すでに出帆した船を法力で引き戻す山伏を力強く描いています。

織部形石燈籠

この形は織部形といわれ下部分(竿部分)にマリア像らしきものが彫られているためマリア灯籠、キリシタン灯籠とも呼ばれています。

飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕った伊勢国度会郡(現・三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたものともいわれている。

人形浄瑠璃、菅原伝授手習鑑の主題ともなっている伝承。

松向軒

豊臣秀吉が北野天満宮で大茶会を催した際に、細川三斎が作った茶室を復元したもの。

影向(ようごう)の松のそばにあったので、「松向軒」と名付けられたと言われています。

大徳寺の塔頭・高桐院にも同じ名前の「松向軒」がありますが、こちらは、1628年(寛永5年)に三斎が作った茶室を移築したもの。

高桐院は細川家縁のお寺ですので、三斎(忠興)と妻ガラシャのお墓がある場所です。

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競い合うように咲き誇る梅の花 北野天満宮


御土居は紅葉で有名だが梅園もまた見事。

すでに京都を制圧していた豊臣秀吉は天正15年(1587)聚楽第を京都に建てた。 

戦乱で荒れ京都果てた京都の都市改造を行った。 

1590年 北条氏を打ち破り天下統一を果たし、天正19年(1591年)1月 全長22.5 キロメートルの御土居の建設を始め、わずか3ヶ月で3月に完成した。

御土居とは南北 8.5キロメートル、東西 3.5キロメートル、全長 22.5キロメートルの土塁で外側を掘で囲んでいた。 

土塁の上には竹が植えられた。 

外部からの侵略に京都を守るため、また堤防の決壊、鴨川の氾濫による洪水から京都の町を守るため建てられたといわれている。

梅園では1本の樹に紅梅と白梅が乱れて咲く「思いのまま」など、1,500本、50品種の梅が植えられているので、楽しめる期間が長いのです。

2万坪の境内一円に、さまざまな種類の梅が植えられています。
その数は50種、約1,500本。

梅苑には白梅、紅梅、一重、八重と、とりどりに咲く梅の間を縫うように散策路が延びています。

紅梅殿や本殿などの周辺の梅も素晴らしいですが、こちらの梅苑の様子はさらに圧巻。

『東風吹かば匂いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな』
菅原道真公が太宰府に左遷されるとき、庭に咲く梅の木に別れを告げて詠った歌だそうです。

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春告草咲く 長居植物園


別名が、春告草とも呼ばれていて春を告げる花として昔から親しまれている「ウメ(梅)」の花。

寒中に花を探し求める人々。

寒梅こそ、感に堪えない。
季冬の風にそよぐ一輪に、春の風を予感する。

冬枯れの景観に落とされた一点の薄紅(ウスベニ)に、爛漫の仄かな兆しをとらえる。

洒落めくが、観梅の妙だ。

芭蕉が詠めば、こうなる。

    梅が香に 
     のつと日の出る 
      山路哉

「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」菅原道真が大宰府に左遷される時、道真の愛した庭の梅の花に別れを惜しんで詠んだ歌。後に庭の梅木が道真を追って大宰府に飛んできた、という「飛梅伝説」がある。

「桃栗三年、柿八年、柚
(ゆず)の馬鹿野郎十八年、梅はすいすい十六年」種を植えてから実を収穫できるまでの期間を指す俚謡。本来は「桃栗三年柿八年」で一つの諺。「物事は簡単にうまくいくものではなく、一人前になるには地道な努力と忍耐が必要だ」という教訓である。

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島津家別邸「仙巌園」


鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)

幕末の頃から廃仏毀釈運動の煽りを受けて薩摩藩領内の寺院を廃止する機運があったが、明治2年3月24日、島津忠義の正室である暐(てる)姫が死去した際、葬儀を神式で行うことが決まったことをきっかけとして薩摩藩領内の寺院の排斥が一気に進行、かつて島津氏歴代当主の菩提を弔っていた福昌寺も廃絶の憂き目にあった。

その代わりとして同年11月に忠義が鹿児島郡坂本村山下鶴峯(現鹿児島市照国町)に祖先を祀る神社を創建しこれを竜尾神社と号したのに創まる。

仙巌園(せんがんえん)は鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。
別名磯庭園(いそていえん)。敷地面積は約5ha。

1658年(万治元年)に第19代当主であった島津光久によって造園され、その後も歴代当主による改築が重ねられてきた。

借景技法を用い、桜島を築山に、鹿児島湾を池に見立てた素晴らしい景色と広大な庭園が特徴で、1958年(昭和33年)に国の名勝に指定された。

錫門

赤い色が印象的なこちらは錫門。
江戸時代は藩主とそのお世継ぎだけが通ることを許された門です。

青い空、緑の木々を背景に、赤い色がとてもあざやかです。

仙巌園から見た桜島

桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な景観を楽しむことができます。

庭園から磯御殿の方向を望む。

幕末には第28代当主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こした。

1857年(安政4年)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ灯火として用いたことから、日本のガス灯発祥におけるルーツの一つとして挙げられる場所にもなっている。

園内は梅が今を盛りと咲き誇っています。

磯御殿
島津家の別邸として利用された磯御殿は、見事な書院造り。

明治21年からは焼失した鹿児島城に代わり、島津忠義公爵一家の住まいとなっていました。
昭和32年に島津家に返還され、現在は島津興業が管理公開しています。

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かおり風景100選 枚岡梅林


枚岡梅林はかおり風景100選の一つとされるが、ウメ輪紋ウイルスに感染した梅の木が多数確認されたことから、平成28年度中にすべての梅の木が伐採さた。

一の鳥居は神社からは線路の向こう側となる枚岡駅の西側にある。

駅から少し登ったところに二の鳥居がある。
二の鳥居脇の社名標は明治40年(1907年)に日露戦争戦勝を記念したもので、三条実美の書物から字を拾った。

とっても珍しい神事があるのが、この『揚巻結び(あげまきむすび)』の鳥居。

12月25日に新しい注連縄をかける時、鳥居の下でみんなで大声で笑うんです!
なんでも笑い声で、天岩戸に隠れてしまったアマテラスを誘い出す神事なんだとか。

鳥居から坂を上り、46段ほどの階段を登ると拝殿に着く。
嘉永6年(1853年)に駅前に建てられた社名標には「元春日平岡大社」とあり「平岡」の表記や大社号が使われていたとわかる。

史実としての創建時期はあきらかでないが、社伝によれば、初代神武天皇即位前3年、神武天皇の侍臣で中臣氏の祖の天種子命(あめのたねこのみこと)が、天皇の命で神津岳の頂に祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。

「平岡(枚岡)」の社名は神津岳の頂が平らだったのによる。
中臣氏の支流の平岡連(ひらおかのむらじ)の氏神とされた。

白雉2年(650年)、平岡連によって山頂から中腹の現在地に移された。
山頂には現在も奥宮がある。

梅の名所もウメ輪紋ウイルスには勝てなかった、本殿脇にわずか一本紅梅が咲いていました。

枚岡神社の「宮水」。

むかし、「宝基の森」の「白水井」と呼ばれる井戸には、白い湧水がたまっていたそうで、「お乳のでにくい母親が飲むとお乳がでやすくなる」「見えにくくなった目が見えるようになる」、と言い伝えられてきて、実際に昔、宮水がそそぎこんでる池のそばで、「悪い目が良くなりますように」と願掛けしていた年寄りが、池の鯉が跳ねたしずくが目にはいるや、「その日から目が見えるようになりました」と感謝して、神社に鯉を奉納したそうです。

枚岡神社の神域は、「枚岡山」なる森林です。
神津嶽からの二尾根すべて境内であり、枚岡神社の「神奈備」でありました。

この神奈備から湧き出る水は、ふるくより枯れることなく豊富で綺麗な湧泉となり、出雲井・豊浦を流れている川の水源となり枚岡の村々を潤おしてきました。

そしてこの湧水は、雨が激しく降ると「白く」濁る時がありました。

それは、雨により地中に多く含まれた「石灰質」が水の中に溶けて流れてきたためです。

その水で沸したお湯は無色透明で、霊験あらたかな「宮水」なので、近在の銭湯では「霊泉」として珍重していたとも伝え聞きます。

枚岡神社境内にある梅林は、約2ヘクタールの広さに「芳流閣(ぼうりゅうかく)」や「豊後(ぶんご)」など約30品種約320本の梅が植えられている。

このほど、農林水産省と府の調査でウメ輪紋ウイルスに感染した梅の木が多数確認されたことから、平成28年度中にすべての梅の木が伐採された。
伐採後は3年ほどの経過期間をおいて、梅林再整備の検討が行われる予定。

今回確認されたウイルスは、人や動物には感染せず、また、感染した果実を食べても健康への影響はまったくないという。
梅の名所もしばらくお預けです。

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間もなく一番きれいな時期を迎えます 大阪城梅園


間もなく暦の上では雨水、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。

大阪城梅園の花の期間は長く12月下旬から3月中旬まで。

梅園が一番きれいな時期は2月下旬~3月上旬とされる。

梅園は画像の右側、雁木坂を下ったところにあります。

梅林は「市正曲輪」という場所にあります。
豊臣時代に秀頼の後見人であった片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷のあった場所。

江戸時代には城内警備に当たる大番職を助勢する加番職のための三つの屋敷(加番小屋)が南から順に立ち並んでいた場所でした。

しかし戊申戦争の折りに全て焼失しており残っていません。

梅は、大阪万博後に北野高校同窓会から22品種880本を寄贈されたことに始まります。
それも現在では100品種1270本を超える梅の数となり、様々な種類の梅が楽しめるスポットとなっています。

一重野梅(ヒトエヤバイ)

金獅子(キンジシ)

金獅子の名はその枝振りが唐獅子の頭髪に似ているところから付けられ たようです。

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小雨の梅園





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