住吉大社界隈 桜咲き始め


住之江公園の様子、開花宣言から約1週間、やっと咲いた。

今年はコロナウイルスの影響で今一つ盛り上がりません。

造幣局の桜の通り抜けも中止になってしまったし。

住吉公園も桜の開花はぼちぼちといったところ。

むしろユキヤナギがまだ幅を利かせています。

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長居植物園 春爛漫

新型コロナウイルス感染症拡大防止に向けた大阪市の対応に伴い、2020年2月29日(土)から臨時休館していたが3月20日より再開園。
早速出かけた。

同園では現在「桜ウィーク」開催中、咲きそろっているわけではないがかなりの種類の開花を確認できた。

画像はコウヨウ、現状では一番数が多い。

ニオイザクラ

エドヒガン

ヤマザクラ

ソメイヨシノ

オオシマザクラ

紅葉に小鳥が来ています、撮影中多くの小鳥を見かけた。

ヒヨドリ

ツグミ

ネモフィラ

リナリアグッピー

干潟では鳥の足跡を見つけた。

渓流の水たまり。
春の陽気が感じられます。

イロハカエデ、秋には見事な紅葉を見せてくれるがこの時期はまだ幼い葉っぱです。

ミツマタ

ニワウメ別名はねず。

マンサク

レンギョウ

サンシュユ

サンシュユ、クローズアップ。

シバザクラ

ムラサキハナナ

スモモ

ラベンダー

クリーピングタイム

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遣唐使船の守護神


唐に使いする朝廷官吏や留学生のほか遣唐使船を動かす主だった乗組員は、「難波ノ津」を出る前にかならずこの住吉大社に詣で、航海の神・海の軍神である「住吉三神」(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと))に渡海の無事を祈ることになっていた。

その海上安全の祭祀を司る神職(津守氏)は遣唐神主として遣唐使船に乗船し、船の舳先に立てた「三神」の護符の前で航海中ずっと神事を行うのである。

「津守」とは「津を守る(神職)」の意。

「反橋」は住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれています。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられている。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

「反橋」を渡ったところにある鳥居は四角柱で角鳥居と呼ばれています。

このような四角柱の柱は古い様式で大変珍しく、各本殿と拝殿の間に建っている木造朱りの鳥居が原形となっているそうです。

なお、額は陶製で、有栖川宮熾仁の筆。

「反橋」のたもとの古木。

神宮寺跡は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社のほとんどに設けられたという。

当寺は天平宝字(てんぴょうほうじ)2年(758)創建と伝えられ、津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。

明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。

なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

荘厳浄土寺について触れています。
住吉公園界隈の桜便り
この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。 画像は2013年3月30日訪問 … 続きを読む →


境内には今開催中の大相撲立浪部屋の土俵があります。
コロナの影響で無観客での開催となって寂しい限りです。

津守王子は、九十九王子の6番目の王子。

大阪市住吉区墨江2-3の墨江小学校にあったが現在は姿を留めていない。

現在は住吉大社境内の摂社・新宮社に合祀されたとも、住吉区沢之町1-10-4の止々呂岐比売神社(若松神社)に合祀されたともいわれている。

津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり宮司家でもあった津守氏にちなんだものである。

熊野御幸をした天皇、上皇たちは、この地の住吉大社に和歌を奉げた。

熊野御幸記を歩く②住吉大社~信太山
熊野御幸記を歩く第二回、今回は住吉大社~信太山まで20㎞だ。 津守王子跡 津守王 … 続きを読む →


五大力パワーもコロナにはかなわなかった。

神仏習合の影響で、神宮寺の五大力尊信仰と結びついた。
その「五大力さん」というのは、仏教の中の、五人の明王のことです。

住吉大社への観光は路面電車の阪堺電車。

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雨に咲く花


コロナウイルスの影響で植物園にも行けない。

雨の日、なんばパークスのパークスガーデンを訪れた。
パークスガーデンは1階のエントランスから9階まで、段丘状に広がる屋上庭園。

ガーデン内にはユキヤナギやアカシア、ベニバスモモ、ニワウメなど、さまざまな花が植えられている。

園内には花水木の広場、せせらぎの杜、はらっぱ広場、ステップガーデンなどがあり、都市の中のオアシス的空間として親しまれる。

・平成24年度 『都市のオアシス』に認定されました

・平成26年度 アメリカCNN局の『世界で最も美しい空中庭園トップ10』に選ばれました

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南海ホークス

若い人は「南海ホークス「」と聞いてもピンと来ないかもしれない。
今の「福岡ソフトバンクホークス」だ。

88年に南海の名物オーナーだった川勝傳が死去すると、同年9月にダイエーへの球団売却が発表された。

10月15日の南海の大阪球場ラストゲームは超満員となり、6-4で近鉄に勝利。

監督だった杉浦の「行ってまいります」というあいさつを最後に福岡へ旅立った。

2003年に大阪球場跡地は「なんばパークス」という大型商業施設になった。
最上階は植栽が植えられ、公園のようになった。

その一角に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が開設された。

画像は杉浦の監督時代のユニフォーム。

エース杉浦忠が日本シリーズ4連投4連勝という伝説を残したシリーズ。

今では考えられない記録です。

鶴岡監督のスタジャン。

愛称は鶴岡親分・ツルさん。
初代「ミスターホークス」「ドン鶴岡」とも呼ばれた。

南海ホークスの黄金時代を築いた名監督で、日本プロ野球史を代表する指導者の一人。

一軍監督として通算1773勝を挙げた実績から、プロ野球史上最多勝監督としても知られる。
また、勝率.609は歴代監督の中でも唯一の6割超えである。

「なんばパークス」のキャニオンストリートにはピッチャーズプレートとホームベースの位置が残されている。

特徴的だったのは、37度の急傾斜だった内野スタンド。

酔っぱらいが転げ落ちた逸話もある。

ギャラリーには選手の写真、トロフィー、ユニフォーム等々記念の品が展示されている。

しかしこのギャラリーには、南海最大の功労者である野村克也に関する記録は一切残されていない。

また周辺の公園風のスペースには「なんば」にゆかりの人物の手形が展示されているが、ここにも野村のものはない。

バットやユニフォームなどの展示がないだけではない。
年表にさえも「野村克也」の文字は一切ない。

先日亡くなられた時も献花台すら用意されなかった。
いろいろと確執があったようだがそれにしても寂しすぎる。

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いつかソール・ライターのような写真を撮りたいと思いながらなかなかチャンスを見つけられないでいる。

今日はお手頃の雨、いそいそとパークスへ出かける。

ソール・ライターの写真は雨のシーンが比較的多い、上から俯瞰するような構図。

真似てみたがそう簡単ではない。

写真家ソール・ライター(1923-2013)

初めて自分のカメラ、デトローラを母親に買ってもらったのは12歳の頃。

家族の中で、唯一の理解者だった妹のデボラは、お気に入りのモデルだったようで、多くのポートレートが残されています。

1946年、23歳になった年、画家になることに大反対する父親の理解を得られぬまま、ついに神学と決別、夜行バスでニューヨークを目指しました。

こんな体の一部を写した写真も彼の作品に多い。
もう少し色っぱい写真がとりたいのだが・・・・

ソール・ライターにとって終の棲家となった1952年に移り住んだ東10丁目のアパートは、彼がこよなく愛した場所でした。

現在、ソール・ライター財団の事務所となっているライターの人生を見つめ続けたこの空間に、今でもその魂が息づいています。

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もうすぐ春


住之江公園の寒緋桜もそろそろ葉桜になろうとしています。

世間ではコロナウイルスで大騒ぎですが、二十四節気の啓蟄が先日済んだところです。

虫が冬眠から目覚め活動を始める頃と言われます、次の二十四節気は、『春分(しゅんぶん)』

暑さ寒さも彼岸までの例え通り一気に春がやってきます。

護国神社の梅もそろそろ終わりです。
すぐにでも春がやってきそうな雰囲気です。

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司馬遼太郎記念館 菜の花


菜の花忌も終わり、間もなく1ヶ月になろうとしているが菜の花ロードの菜の花はまだ健在です。

遠景の黄色い服を着た人たちがボランティアで毎日花の世話をしています。

リヤカーに水を積んで水やりをして歩きます。

司馬さんの書斎の前はたくさんの花で埋まっています。

ふりむけば 又咲いている 花三千仏三千 司馬遼太郎

司馬さんが1986年に書いた碑文、閉鎖された大阪府河内長野市の施設から返還され記念館の庭に据えられている。

花いっぱい、仏さまいっぱいの風景。

市民を楽しませている菜の花だが月末には撤収される。

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「大阪くらしの今昔館」で江戸時代にタイムスリップ!


10階 展望フロア 桂米朝の歓迎の挨拶が流れ、9階の江戸時代の大坂の町並みが一望できる。

「 なにわ町家の歳時記 」 商家の賑わい。

9階は江戸時代の天保期(1830年代)の大坂の町家と町並みを専門家による学術的考証のもとに、伝統的工法を用いて実物大で復元し、家具・調度を置いて当時の暮らしを再現している。

木戸門を入ると、大通りの両側には商家が並び、路地の奥には裏長屋がある。

屋根に猫、路地に犬・鶏、見上げると雀など、さりげなく置かれているのがいいですね。


風呂屋さん

風呂屋の中には、ガイダンスシアターがあります。
ナレーションは、桂米朝さん。

小間物屋さん

びん出し,びんつけ油、元結 なんでも見揃っています。

古本屋さん


へっついさんもあります。

裏長屋の暮らしが再現されています。

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大阪城


今日は玉造口からの登城を目指します。

玉造口定番屋敷跡、江戸幕府にとって大阪は江戸に次ぐ最重要の城だった、大坂城には玉造口とほぼ反対側の京橋口の二か所に定番が設けられており役目は城の出入り口での守衛、城内警備が主な仕事だったようです。

南外堀、大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。

石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。

幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。

内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。
櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

大阪城には四つの出入口があります。
その内の一つが青屋口です。
そこの桝形にある門が青屋門と呼ばれています。

2度焼失しており、明治時代に陸軍が、昭和になり大阪市が再建しています。

青屋門と言う名前は、戦国時代の石山本願寺の青屋町から来てますが、この「青屋」というのは、染物屋のことです。

またの名を「紺屋(こうや)」と呼ばれていました。
染物とは紺色に染めることから来ているのでしょう。

。青屋門から本丸に登城するには、本丸の北側にかかる極楽橋という橋を渡ります。

一説によるとこの橋は、大坂本願寺時代、豊臣期大坂城の時代にも存在しており、現在の大阪城でもその名称が引き継がれています。

秀頼、淀殿ら自刃の地

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。
城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。

潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。

しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。

ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。

秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

山里丸石垣の機銃掃射痕

山里口出桝形

隠し曲輪の入り口。
何の表示も無いので、ほとんどの観光客はここを素通りしていきます。

この奥に広場があるとは、誰も気付きません。

姫門を出て西へ行くと南北に長い帯曲輪に出ます。

「隠し曲輪」と呼ばれ、城が攻められた時に兵士を隠しておく曲輪とされています。

隠し曲輪と言われるだけあってここに曲輪があることは分かりづらく、本丸に人があふれている時でも、落ち着いて大阪城を感じることができる場所ともいえます。

「隠し曲輪」の石垣構築工事を担当した伊予大洲藩、丹波園部藩の刻印石が多くみられます。

天守東側を堀に沿って歩く、ミライザ(前の大阪市立博物館。旧第四師団司令部庁舎)の裏手。

前面に何か祭祀の場所のようなものがある。

馬印櫓は3層の櫓であったが、明治維新の折に焼失した。

解説板によると此処にあった櫓には、家康が大坂の陣で用いたという馬印が納められていたということです。

大坂城代は、この馬印を拝するのを例とし幕末に大坂城を訪れた14代将軍家茂もこの櫓で馬印を拝覧したそうです。

右先方は梅園。

今日は違うアングルから天守を。

桜門桝形の巨石 蛸石と振袖石。

桜門

西側から見た空堀

南仕切り門跡・太鼓櫓跡、前方は石山本願寺推定地。

大手口桝形と巨石

独古組み(どっこぐみ)

こちらは大阪城の追手門に使われている継ぎ手を再現したもの。
当時は継いだ状態からは内部構造がどうなっているか不明で、X線による解析で内部構造が分かったそうです。
縦にも横にも動かない、とても難解な組木です。

大手門からの堀。

大手門

生玉神社御旅所跡

南外堀の石垣の高さは大阪城で2番目となっていて、堀の幅も広いので雄大な外堀の景色を楽しめます。

築城技術が全盛で、さらに南外堀は築城の最終段階でつくられたこともあるので 石垣の石組の完成度が非常に高くなっています 

二番櫓、三番櫓、四番櫓、五番櫓、七番櫓は第二次世界大戦の空襲と戊辰戦争の大火により焼失しています。現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

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