盛夏に咲く花を訪ねて 住之江公園界隈


毎日うだるぅな暑さが続きます。
できるだけ木陰を求めて歩く。

蓮の花もそろそろ終わります。
しかし、厚さを跳ね返すように元気に咲く花たちがあります。

スモークツリーの名前は、この開花後の花穂が煙のように見えるところに由来。

和名のハグマノキ(白熊の木)は、その姿をハグマ(ヤクのしっぽの白毛)で作られた仏具の払子(ほっす)に見立てたもの。

浜木綿 (はまゆう)

「み熊野の
  浦の浜木綿 百重(ももへ)なす
  心は思(も)へど
  直(ただ)に逢はぬかも」

   万葉集 柿本人麻呂

茉莉花 (まつりか)

花名のジャスミンは、ペルシャ語の「ヤースミーン(神からの贈り物)」に由来するといわれる。

香りの王はジャスミン、香りの女王はバラといわれ、香水やジャスミン茶の原料にも使用される花。

クセになる魅惑の香りが花言葉にもあらわれています。

ジャスミン全般の花言葉は、
「愛想のよい」「優美」「愛らしさ」「官能的」

デュランタの仲間は南アメリカを中心におよそ30種が知られていますが、ふつう「デュランタ」の名前で栽培されているのは、デュランタ・レペンス(エレクタ)という種。

花色が濃い青紫で、花びらに白い縁取りが入る’タカラヅカ’が広く出回っています。

デュランタの名前は16世紀の植物学者C.デュランテスにちなみます。

日本では、サルビア・グアラニティカは「メドーセージ(あるいはメドゥセージ)」の名前で流通している事が多い。

しかし、実は元々のメドーセージ(Meadow Sage) は別に存在していて、サルビア・プラテンシス(Salvia pratensis) の事を指します.

葉を手で触るとアニスに似た香りが移りいつまでも良い匂いがします。

ムギワラギク

花の開ききる前の姿がおもしろい花。

その後外側から徐々に花が開いていき、最後にはポンポン咲きになります。

花色は豊富に揃い、花はカサカサしていてドライフラワーに最適。葉は長楕円形。

ひまわり

これからが盛りの花。

アリウム・ギガンテウム(Allium giganteum)は、葱坊主に似た赤紫色の大きな球状の花を咲かせるヒガンバナ科ネギ属の球根植物(多年草)。

アリウム(Allium)はラテン語でニンニク、giganteum(ギガンテウム)は巨大なという意味。

同じアリウム属には他に、チャイブ(学名:Allium schoenoprasum) があります。

禊萩 (みそはぎ)

「みそはぎ」は「みそぎはぎ」を略したもの。
 
「みそぎ」は水を注いで悪魔を払うこと。
 
「はぎ」は「萩」。

旧暦のお盆のときに、ミソハギの枝を水に浸して、仏前の供物に禊ぎ(みそぎ)をした。

長野県などでは、お盆の日に、花に水をつけて玄関先でおはらいをして祖霊を迎える。

カノコユリ

江戸時代にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトがカノコユリの球根を日本から持ち出し、初めてヨーロッパで知られるようになった日本のユリとされる。

花弁が著しく反転する。
 
鹿の斑点をぎっしり並べたような「鹿の子(かのこ)模様」に似ている、ピンクのつぶつぶが特徴。

ジギタリスは別名をキツネノテブクロ(英名のfoxgloveの直訳である)という。

西洋では暗く寂れた場所に繁茂し不吉な植物としてのイメージがある植物とされる。

いけにえの儀式が行われる夏に花を咲かせることからドルイド達に好まれると言われる。

「魔女の指抜き」「血の付いた男の指」などと呼ばれていた地域もある。

メーテルリンクは、「憂鬱なロケットのように空に突き出ている」と形容している。

ストケシア

白花や黄色などの花色もあるが、梅雨入りの前後によく咲く、やはり涼しげな色合いの花がいい。

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堺散策


河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。

仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。

1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。

摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。

およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。

その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。

日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。

堺博物館所蔵の河口 慧海画。

現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。

冬日の萬福寺
隠元禅師は中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持だった。 日本からの度重なる … 続きを読む →

河口慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。

種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。

現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。

江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されており、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。

大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。

北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。

紀州街道 市内延長5.4キロメートル

江戸時代に紀州・泉州の交易ルートとして栄えた道。

大道筋の東側には多くの古い町並みが残り、材木町東一丁の商店街には「右住よし 大さか」などの文字が刻まれた道標を見ることができます。

阪堺電気軌道1001形電車
「堺トラム」

阪堺電気軌道1001形電車は、2013年8月25日から営業運転が開始された、阪堺電気軌道が保有する路面電車車両。
車両の愛称は「堺トラム」。

上町線の天王寺駅前から住吉を経て阪堺線の浜寺駅前までの間で毎日定期運行されており、3編成のうちいずれか1編成がその運用に充てられている。

土佐藩士割腹跡の碑

妙国寺境内に建つ慰霊碑。

中央に建つ三基の石碑のうち左側は「土佐藩十一烈士之英霊」碑と右側は「佛国遭難将兵慰霊碑」。
この碑は1916年(大正5年)仏首相クレアマンソーが戦死した仏兵の碑を並び建てることを条件に承諾した。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)

王政復古直後の攘夷事件。
1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件。

このころこうした事件が相次いだが、成立したばかりの新政府は外国と事をかまえることの不利を考えて、箕浦猪之吉(隊長)以下20名(うち9名は、フランス艦長の申し出により助命)の土佐藩士に切腹を命ずるなど、フランス側の要求のすべてを認めた。

ウィキペディアより

堺環濠都市は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた貿易都市。
   
この地点(SKT960)の調査では環濠都市「堺」を象徴する4条の環濠が発掘された。

なかでも環濠1は幅17m、深さ4.5mの二段に掘られた巨大なもので、これまで確認されている環濠の中で最大級のもの。

環濠の北側には掘った土を盛り上げて土塁を造り、環濠都市「堺」の防御性を高めていた。

「黄金の日々」を謳歌した環濠都市「堺」の繁栄を如実に示す環濠といえる。こ

れほどの大規模な環濠も豊臣秀吉の命令で埋め戻されますが、これらの4条の環濠は、今日に続く環濠都市「堺」の出発点と言える記念碑です。

画像の人の大きさから堀の大きさが推定される。

浄 因 寺

錦光山浄因寺は、天文(てんぶん)年間(1532~54)紀伊雑賀(きいさいが)の郷士、名和修理介(なわしゅりのすけ)が本願寺顕如上人(けんにょしょうにん)紀州鷺ノ森(きしゅうさぎのもり)在寺中に功労があり、上人より尊正(そんしょう)の法号を授与されたので天正6年(1578)に、堺桜之町西七堂浜に一寺を開創したのが始まり。
  
和泉の国を守護していた藤堂高虎(とうどうたかとら)が「慶長の役」出陣の際、預かった庶子が後に出家して第7世住職尊順(そんじゅん)となる。 

その後大坂夏の陣(1615)の大火により焼失、現在地に移転。  

当寺ゆかりの人物で、日本演劇界に喜劇王として千以上の脚本を書き、製作・演出・俳優の四役を兼ね、喜劇王いわゆる「五郎劇」を始めた曾我廼家五郎は、幼少のおり浄因寺第15代住職祖父幻中然学(まもなかねんがく)にひきとっられて、生母の実家である当寺に居住していましたので、ここは五郎の住居跡でもあります。

浄得寺

大阪府堺市堺区にある寺院。
700年代、行基により建立。
通称、海船御堂と呼ばれている。

かつて、北旅籠町西に存在した海船の浜付近に位置していたため、海船御堂と呼ばれるようになった。

月蔵寺

大野道犬斎治胤の墓

宇賀徳社と供養塔の間にひと際目を引く南無阿弥陀佛の名号が彫られた大きな五輪塔がある。
豊臣秀吉側近の重臣で大野三兄弟(治長・治房・治胤)と称された内の三男、大野道犬斎治胤の墓である。 

父は大野佐渡守道犬で、内裏の修理造営職を掌り官位は太夫に次ぐ亮であった為に大野修理亮道犬と呼ばれた。

母は浅井長政の三姉妹の一人で、秀吉の側室である浅井茶々(淀君・淀殿)の乳母を勤めた大蔵卿局。

尚、三男の治胤は父道犬の名を採って大野道犬斎治胤と称した為に、一部の歴史文学書の間で父子を混同しているものがある

風間六右衛門の墓

長谷川藤広は着任以来病床にあり、元和三年(1619)十月二十六日に没した為に町割りは風間六右衛門の独断で進められたが、風間奉行はその昔越後・信濃両国を治めて日蓮聖人の弟子日昭上人を外護した篤信者、風間信昭の後裔であった所為か、法華寺院の敷地を他宗に優先して広く配置した。

特に千利休ゆかりの南宗寺はもと宿院町にあった寺域から新たに拡張された堺の南端に振り当てられた為に、当然南宗寺を始め他宗僧俗からの非難が激しく起こり、江戸の寺社奉行は元和四年(1615)八月十四日に風間奉行に急使を送り、八月十五日に出頭するように命じてきた。

到底不可能な江戸到着命令を熟慮した風間奉行は江戸に向かう途中、並松の刑場辺りに至った時に籠の中で自刃してこれに応じた。

享年四十七歳、堺を再建する町割りに際しては町の殷賑を願うのみで他意のなかったことを自らの命を以て上奏したと考えられるが、町割り自体には些かの修正を加えられることもなく、寛永の頃には風間奉行の描いた通りに実現された。

その後約七十年を経て復興がなされた頃、元禄二年(1689)の『元禄堺絵図』を見れば、整然と整備された街並みと、他宗寺院に比して法華寺院の敷地が広大であったことや、柳寺町辺りの道路がこの地図に示された状態で現在も往時の佇まいを残していることがよく分かる。

本願寺堺別院

堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用されていました。

明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。

広大な県域を有し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。

堺県の廃止後、境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡となっています。

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幻の堺幕府と三好一族を訪ねる

堺では信長に先駆けること、その直前20年に三好長慶による堺幕府がありました。

海船政所跡

所在地: 堺市堺区桜之町西3丁他

海船政所(海船館とも)跡は、南海「七道」駅を降りてすぐ南に歩いていったところに石碑と案内板がありました。

四国阿波の三好長輝は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破り、細川澄元を援助し、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就きました。

長輝は京都に近く、阿波に渡るのに都合のよい堺に目をつけ、永正元年(1504)2月、海の見える海船町に館を建てることを計画、京都から堺に来て4月から工事を始めましたが、完成は孫の元長の代になり、大永元年(1521)3月に政所の号をもらいました。

その規模は桜之町3丁付近を中心に東西360歩(約652m)南北これに倍しとあり、錦之町にあった梅黄寺も政所跡といい伝えられていることから相当広い区域であったと想像されます。

建物は、館の中央に高楼を作り、楼上より常に四方を監視し、一旦ことが起きると鐘・太鼓を打ち鳴らし一族郎党に知らせたといいます。

元長歿後、政所は長慶・義興・義継三代相次いで、ここに住み、この政所は摂河泉(摂津、河内、和泉の国)の各支城の本城的な役割も果たしました。
『海船政所跡案内板』より

善長寺 縁起

勝軍山・善長寺は、天文18年(1549年)に三好政勝が、父宗三の菩提所として、宗三戦死の日(6月24日)を以て開基と定め、浄土宗粟生光明寺(京都)の顕空上人を請して開山とし。

三好政長(宗三は法名) 1491~1549
        従四位少将三好善長公・越前守

阿波の大名三好一族の武将、かの三好長慶も一族の一人で共に室町幕府の管領細川晴元の家臣として仕えた。

時あたかも戦国時代、下克上の世、畿内で次第に勢力を伸ばした三好長慶は一族の長老三好政長の存在がうとましく、政長の讒言によって父元長が誅殺された恨みもあり、晴元に政長父子の誅殺を請うたが受け入れられず。

これがため、晴元に叛旗を翻した長慶は晴元・政長と敵対した。

摂津国江口城に籠城した政長は援軍間に合わず、長慶軍の猛攻に会い討ち死にした。

細川晴元は将軍足利義輝を伴って近江に逃避、三好長慶が洛中で天下を手中にする。

三階菱に五つ釘抜

大永7年(1527)2月、丹波の波多野稙道・柳本賢治とそれに呼応した三好元長軍が管領・細川高国軍を桂川原の合戦で打ち破り、室町幕府は機能不全に陥りました。

同年3月、細川晴元と家臣・三好元長は、逃亡した12代将軍・足利義晴の兄・足利義維(よしつな)を擁して、兵8000とともに和泉国堺に上陸。

7月に義維が朝廷から次期将軍に与えられるのが慣例の従五位下・左馬頭に補任されると、晴元と元長は堺の顕本寺を本拠に「室町幕府」に代わる幕府体制を築き、近畿一円にその勢力を伸ばします。

こうした動きに朝廷は、逃亡中の将軍・義晴も無視できず、義維に将軍職を与えることこそなかったものの、実質的には「堺幕府」を認めていました。

このことは当時の公家たちの日記にも「堺公方」「堺大樹」「堺武家」などという表現があります。

この「堺公方府」ですが、三好元長などの阿波国人衆だけでは維持できず、柳本賢治などの山城・摂津国人衆の連合体にならざるを得ませんでした。

のちにこられ連合体が内紛の元となり、「堺公方府」は成立してから僅か5年後の天文元年(1532)細川晴元の要請で集まった10万の一向宗徒によって崩壊してしまいます。

三好元長戦死の碑、開口神社

三好元長は室町幕府管領の細川国高と将軍擁立を巡って死闘を繰り広げた阿波の武将。

その子供に三好氏をもっとも栄えさせた長慶がいる。

元長は堺に堺幕府を開くべく将軍を擁立し、京都の将軍を擁立する細川高国と争った。

一進一退の末、本願寺一向宗の一揆にとどめを刺され、この地で戦死したという。

この開口神社の近くに堺幕府の置かれた顕本寺があった。

顕本寺

大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。

しかし、享禄4年(1531年)6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌5年(1532年)6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。

そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。

元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。

顕本寺にある長慶の墓。

三好氏の菩提寺南宗寺惣門

南宗寺(なんしゅうじ)は大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。

弘治3年(1557年)当時、畿内髄一の実力者に上り詰めた河内飯盛山城主・三好長慶が非業の死を遂げた父・三好元長の菩提を弔うべく、大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建した。創建当時は堺市宿院町付近にあったと伝える。

大坂冬の陣において、徳川家康が後藤基次に槍で刺されて落命したという伝説があり、密かに家康をお祀りしたとされている。

2014年7月6日、三好長慶公の座像建立除幕式

「戦国天下人 三好長慶公 1522-1564
文武相備在家菩薩」とある。

晩年の三好長慶は、穏やかな暮らしを望んでいたと言われています。

彼は風流を好み、身のこなしも爽やかで、大言を言う事もなく、唄や茶を好みました。

合戦に行く時も、連歌仲間に 「ちょっと用事を済ませてきます」 と言って出立していき、そして帰ってきた後に、勝ち戦や武功を自慢する事もなかったと言います。

元々、彼が 細川家 と戦ったのは お家再興 のためであり、己の「野望」はなかったようです。

ですが、だからこそ、野心家である 松永久秀 や、権威の回復に燃える 将軍・足利義輝 に付け込まれたのかも知れません・・・

三好長慶 の死によって、近畿には再び権力闘争の嵐が吹き荒れます。

そんな中、それを利用して 将軍・足利 義輝 が三好家の追放と 京都 の奪還を狙いますが・・・

三好家 の重要な家臣団 「三好三人衆」 は、松永久秀 と共にこの将軍 「足利義輝」 を暗殺してしまいます。

彼らは 足利家 の親類を別の将軍として擁立しようとしますが、「将軍殺し」 である彼らへの風当たりは強く、各地で内乱も発生してうまく行きません。

その結果、三好三人衆 と 松永久秀 はケンカ状態となり、ちょうどそこに 織田信長 が 足利義輝 の弟 「足利義昭」 を奉じて京都に進軍して来たため、あっという間に 三好軍 は敗退、京都 や 大阪 も 織田信長 によって支配されてしまいます。

大和の国主である 松永久秀 は独立して 織田家側 に付き、残った四国の領土も、「土佐(高知県)」 の 「長宗我部家」 の侵攻を受け、次々と敗北・降伏していきました。

こうして、戦国初期に最大勢力を誇った 三好家 は、跡形もなく消失する事となります・・・

妙国寺

三好実休は大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。

生年には大永6年(1526年)説もある。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。

早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。

署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日(1532年9月8日)であり、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦[10]に三好勢の責任者として参加した。

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった。

細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。

その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。

また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。

この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。

実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。

しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。

永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。

しかし永禄5年(1562年)、紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。享年36。

また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。
跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。
実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた。

しかし、実際には武野紹鴎に茶道を学び、妙国寺を創建したりと文化への造詣は深く残した功績も大きい。

これは父の三好元長が堺の町衆との間に深い人脈を持っていたことが、実休が茶人達と交流する切っ掛けとなった。

堺の有名人の内、最も実休と親しくしていたのは津田宗達(津田宗及の父)であり、他には、今井宗久、北向道陳、千利休などとも交流し、彼らを自室に招いている。

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疎水の昼下がり

長瀬川は現在水路状の川となっていますが、以前は柏原市の安堂付近から河内平野を数本に分かれて北流していた旧大和川の主流で、広い所では、川幅が約700mもある大河でした。

宝永元年(1704)の付け替え工事により現在の長瀬川には遊歩道が設けられ、市民の憩いの場となっています。

春先にはカルガモ親子の姿が見られ、近在の人の楽しみの場となっている。

元気に疎水を泳ぐ姿を取材しようと出かけたのですが、あいにくご休憩中でした。

川には、カルガモ、白サギ、ゴイサギなどの水鳥、コイやフナ、時期によっては、ボラの稚魚の大群も見ることができます。

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雨後の住吉公園

梅雨入り以来初めての本格的な雨、小降りになったので公園へ出かける。

雨が似合う花

くすんだ紫陽花の色は太陽の下よりも雨雲の下のほうが映えます。
花のグラデーションがぼかしの効果になって、美しい風情を醸し出します。

万葉集には二首のみ。

言問はぬ木すら味狭藍諸弟(もろと)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり(大伴家持 巻4 773)

紫陽花の八重咲く如やつ代にをいませわが背子見つつ思はむ(しのはむ)(橘諸兄 巻20 4448)

日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用に広く栽培され、多くの品種が作り出されている。
原産地は日本で、ヨーロッパで品種改良されたものはセイヨウアジサイ と呼ばれる。

幕末に来日した医師で博物学者のシーボルト(1796〜1866年)はアジサイをヨーロッパに紹介したことで知られています。

彼は日本人妻の楠本滝(くすもとたき)を「オタクさん」と呼んでいたようで、アジサイを「ハイドランジア・オタクサ」と命名しました。
「ハイドランジア」とは「水の器」という意味。種子の入っているサヤが水の器に似ているからです。

しかし、すでにアジサイは18世紀に中国経由でヨーロッパに伝えられ、別の学名がついていたので学名としては却下。ですが、ヨーロッパでは、今もアジサイは「オタクサ」と通称されています。

ノウゼンカズラの古名は「ノウセウ(陵苕)」または「ノセウ」で、それが訛って「ノウゼン」となった。

また蔓が他の木に絡み攀じ登るため「カズラ」の名がついた。
また古くは「まかやき(陵苕)」とも呼ばれた。

「ノウセウ」については凌霄(りょうしょう)の朝鮮読み「ヌンソ」の訛りとする説もある。

正岡子規の俳句に「家毎に凌霄咲ける温泉(いでゆ)かな」がある。

草むらに落ちた花、草むらの露がきれいです。

雨の止み間にスズメもお散歩。

旅人に 雨降り花の 咲きにけり」・・・・・一茶 (江戸からの途中、雨の中、長野豊野町の正見寺にてホタルブクロを詠む)

ホタルブクロの名の通り蛍の飛ぶ頃に咲き、丁度その頃は梅雨の時期に当たるので、一茶の句にあるように雨降り花の別名もあって、季節感のある花の名前を持っている。

また、雨が降り出しました、カモたちも雨宿り。

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五百羅漢とアジサイ 正俊寺


久貝因幡守正俊を弔い、息子である正世が建立した久貝家菩提寺。

父の名より長尾山正俊寺と命名された、曹洞宗の寺院。

鎌倉時代に作られた高さ4.3mの花崗岩製の十三重塔が本堂左手にあり、大阪府有形文化財に指定されている。

アジサイ園のすぐ隣を交通量の多い車道が走っているが園内は訪れる人も少なく静かにアジサイを観賞できる。

アジサイ園は2か所あって、かなり広い。

入口付近の第一紫陽花園はブルー系と白、第2紫陽花園は赤系と紫系がとても綺麗。

羅漢とアジサイの組み合わせはユーモアがあってなかなか面白い。

このような絵が園内随所で撮れる。

かわいいお地蔵さんとアジサイ。

アジサイは杉木立の中に植えられており、直射日光が遮れれており撮影にはおあつらえ向き。

前半は五百羅漢の撮影に時間を費やしたが最後は思いっきりマクロ。

日陰の撮影で背景も暗くならない。

アジサイ園には約1万5000枝の字祭が植えられており、ほぼ貸切状態での撮影だ。

入り口は無人ですが、環境保存協力金という形で100円を支払います。

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我が坪庭にも初夏の気配


フェイジョア(学名:Feijoa sellowiana、別名:フィジョア)はフトモモ科の常緑低木、フトモモ科の熱帯果樹としては珍しく-10℃ほどまでの耐寒性がある。

夏に径4cmほどの花をつける。花弁は内側が赤褐色、外側が白色で分厚く、糖分を含んで甘みがある。

果実にはパイナップルとバナナの中間の様な芳香があり、生食またはジャムやゼリーなどの加工食品、果実酒などに利用される。
果実は通常、自然落果したものを更に追熟させてから食べる。

殖やし方は接木、挿木、食用には適さないが生垣などに実生繁殖も行われる。
また、枝の先に混合花芽を形成するので強い剪定を行うと翌年の開花、結実量が悪化する。

ナンテン、先端の葉の間から、花序を上に伸ばし、初夏に白い花が咲き、晩秋から初冬にかけて赤色(まれに白色)の小球形の果実をつける。

花言葉は「私の愛は増すばかり」、「良い家庭」。

垣が梅雨に重なり、雨除けをしてやらないと雨で散ってしまう。

鬼百合、花びらは反り返る。葉の付け根の上部分にはムカゴができ、これが土に落ちて増える。
よく似た小型のコオニユリ(小鬼百合)はムカゴはつけず種を作る。

トマトもやっと実を付けた。

きゅうりも勢いよく実を付けている。

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雨後の散策


雨上がりの住吉大社、清々しい風が吹き抜ける。

太鼓橋がすっかり水分を吸いこんでいる、雨に濡れた木の質感がとてもいい。

ここはどういう神社なのですか?若い女性から聞かれた。
そうか何も知らずに朝から参拝している人もいるのか。

まさに今止んだばかりというタイミング、人もまばらだ。

濡れた屋根の質感がいい。

檜皮葺の屋根の質感、何とも言えない雰囲気だ。

カモがそこいら中歩き回る、餌を啄んだり、寝転んだり、おそらく飼っているカモが全て陸に上がっているものと思われる。

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青葉の散策


青葉の住吉大社を散策、気持ちのいい朝だ。

太鼓橋の西側は鬱蒼と茂る大木の杜。

緑のシャワーを浴びながら颯爽と歩く。

緑の中サギが佇む。

鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われたという。

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卯の花の咲く頃


住吉大社卯の花苑が公開中。

住吉大社にとって卯の花は特別、鎮座日が、神功皇后摂政11年の卯年の卯月の卯日と伝えられている、「卯の葉神事」にはかかせない花となっている。

北海道南部から九州までのウツギの自生地を調査し、現存する日本のほぼ全種を移植したという。

すみよしの ゆふしでなびく 松風に
うらなみしろく かくるうのはな

(後鳥羽院皇子 光台院親王)
歌碑に寄り添うように卯の花が咲いています。

ウツギ(空木、学名:Deutzia crenata)はアジサイ科ウツギ属の落葉低木で、ウノハナ(卯の花)とも呼ばれる。

ウツギ属に属する種の他にも、何々ウツギという名の木は次のように数多く、花の美しいものや、葉や見かけがウツギに似たものなどがある。
アジサイ科:バイカウツギ、ノリウツギ
スイカズラ科:タニウツギ、ニシキウツギ、ツクバネウツギ、ハコネウツギ
ドクウツギ科:ドクウツギ
フジウツギ科:フジウツギ
ミツバウツギ科:ミツバウツギ
バラ科:コゴメウツギ

など。

 「卯の花を
  腐(くた)す
  霖雨(ながめ)の
  水はなに
  寄る木積(こづみ)なす
  寄らむ児(こ)もがも

   万葉集 大伴家持

卯の花も
  いまだ咲かねば
  ほととぎす
  佐保の山辺に
  来鳴(きな)きとよもす

   万葉集 大伴家持

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