早朝の散歩、とてもユニークな板金屋さん発見。
あちこちに「ヘコんでも復活」の文字。
ユニークな工作物があちこちに、挫折禁止もユニーク。
廃車にプランターもユニーク。
国道を走っていても嫌でも目に留まるアイデア、なかなかのものだ。
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あちこちに「ヘコんでも復活」の文字。
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5年前の記事
故郷の山河
ふるさとは遠くにありて思うもの・・・・・・ 故郷へ所要がありつかのまの里帰り、観 … 続きを読む →
画像は岡山駅頭にある六校生の像。
高下駄にマント下駄、台座に「青春感謝」と刻まれ、背面の由来文に「三年間の六稜生活は 弊衣破帽 文武両道に励み 時に街頭に出て放歌高吟することもあったが 『六高マン』の愛称で温かく見守られた」とある。
六高は、内田百閒、郭沫若、仁科芳雄など・・・多くの著名人を輩出した。
このブロンズ像は、岡山市出身の児童文学者坪田譲治の小説「風の中の子供」などに登場する善太と三平の兄弟をモデルにしており、像の2人の少年は譲治の生家の方を向いている。
美作落合駅。
1924年(大正13年)5月1日 – 作備線(当時)美作追分駅 – 久世駅間開通と同時に開業。完全な無人駅ではないが、駅員(地元住民へ簡易委託している)のいない時間帯がある。
朝晩の通学用のダイヤがメインで昼間はほとんど列車が走っていない。
車がないと住みにくい地域だ。
旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流である。
県の中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。
また、高瀬舟で木材や大豆、鉄などが運搬された。高瀬舟は初期の頃落合(真庭市落合町)から、その後美作高田(真庭市勝山地区)から岡山城下まで航行し、岡山城下の京橋付近をはじめ、久世、福渡、金川などに船着き場が設けられ、川湊として賑わいをみせた。
明治時代に入っても製鉄による「鉄穴流し」が行われ、土砂堆積による河床の上昇がみられていたため、幾度となく航路維持のため浚渫工事が行われていた。
河原のヨシは焼かれている、一面に霜が降りているが今年は積雪がほとんどなくスキー場は閑古鳥が鳴いている。
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ペデストリアンデッキは、かつて市内に存在した倉敷チボリ公園に倣った北欧的な雰囲気で、小さな屋外ステージもある。
駅前ロータリーにある時計台のからくり時計もアンデルセン童話がテーマになっている。
階下は観光バスやタクシー、自家用車が止まるロータリーになっています。
アンデルセン広場の階段上にいるアンデルセンの銅像。
人の往来が絶えない倉敷川畔から道一本隔てた、静かで落ち着いた時間が流れる本町通り。
古くは倉敷と早島を結ぶ街道で、倉敷川沿いより先に町となり箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねる場所でした。
現在も格子戸の宿、杉玉が軒に下げられた造り酒屋、阿智神社へと続く参道など、昔のままのような風景に出会うことができる静かな通りです。
特に夕暮れ時ともなると何とも言えぬ雰囲気で散策を楽しくさせてくれる。
空も晴れ渡り気持ちのいい散策です。
今橋より美観地区の光景。
現在の倉敷川の川幅は10メートル程ですが、船による物資の輸送がされていた頃には川幅20メートル程あったとされています。
最も栄えていた時期には、約40隻の船が物資の運搬を行っていたとされています。
月も出て、いよいよ雰囲気も盛り上がる。
「今橋」は大原美術館のコレクションの多くを選定し、自らも洋画家であった児島虎次郎がデザインした橋で、菊の文様のほか龍の彫刻も施されています。
行きかう川舟がなんともいい、もう少しいたいがタイムリミットです。
阿知の藤のデザインのマンホール。
周囲には「きれいな水を 未来に!」と倉敷市章。
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足袋・学生服・作業服と、繊維のまちとして発展し、国産ジーンズ発祥の地として生まれ変わった「児島」。
いま児島に新しいスポットが誕生しています。
レトロな趣のある味野商店街を中心に岡山のジーンズメーカーのショップを集めた「児島ジーンズストリート」には、児島ジーンズならではの「藍染め」を特徴とし、オリジナリティーあふれるこだわりの品々が販売されており、全国のジーンズファンからの注目を集めています。
JR児島駅の階段もジーンズ。
駅長室もジーンズ。
児島地区には現在も200社以上の関連業者が存在しており、世界でも稀なジーンズ産業集積地であり、国産ジーンズの約40%以上は児島で製造されています。
21世紀のジャパンブルー
藍染めは天然の原料を使った草木染めの一種。
その色合いを参考に、100年以上前、ドイツで生まれた合成染料が「インディゴ」である。
インディゴはいろいろなところで使われているが、最も身近なものがデニム。
現在、日本産のデニムは発色や耐久性に特徴があり、岡山県には倉敷市をはじめデニムの生産者が多い。
新たなジャパンブルーとして、岡山デニムは海外からも注目されている。
有松絞りも藍染の伝統芸術の一つ。
東海道の古い町並みと絞りの町 有松宿
投稿日時: 2013年10月14日
有松は池鯉鮒宿と鳴海宿の間宿である。 古い町並みがそのまま残り、江戸時代の風情が … 続きを読む →
わが故郷勝山は草木染によるのれんの町として有名です。
のれんのかかる町 町並み保存地区 勝山
投稿日時: 2013年5月24日
勝山は三浦藩2万5千石の城下町である。 昭和60年に町並み保存地区に指定され、昔 … 続きを読む →
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下津井節で全国的に知られている下津井魚港。
北海道で獲れたニシン粕、かずのこ、こんぶなどを満載して、日本海から関門海峡を廻って北前船が行き来していた。
その頃、下津井は「風待ち、潮待ち」の良港として知られており、下津井節はこの北前船の船頭たちによって伝えられたと言われている。
「むかし下津井回船問屋」は、江戸時代に金融業と倉庫業を営んでいた西荻野家の住宅を、明治初期に回船問屋高松屋(中西家)が取得したもので母屋やニシン蔵として使われていた。
母屋を中心に、むかしの下津井にまつわるさまざまな資料を展示している。
下津井名物「干しダコ」~むかし下津井回船問屋の隣の店で販売している干しダコ
明石では干しダコの最盛期が夏であるのに対して、下津井では冬。
これは明石が産卵期を迎える前のタコを干してお盆に向け京阪神地区へ出荷するのに対し、下津井では冬の気温差を利用してより旨みを凝縮した大きな干しダコを正月に向けて出荷しているためだと思われます。
明石も下津井も潮の流れが速く、そのせいで太くがっしりした足になり歯ごたえと甘みが増すといわれてます。
下津井駅
かつての四国往来に由来する、下津井 – 丸亀航路との連絡駅であり、駅舎南側から下津井港の発着場まで連絡通路が設置されるなど、同航路との連絡の便が図られていた。
陣羽織
凌波隊の指導者が所有していたもの。
写真では分かりにくいですが、法被には紋の下に白い兎が刺繍されています。
凌波隊とは、幕末に下津井で生まれた民兵隊。
下津井に何カ所か設けられた台場を守っていた。
当時の繁栄を物語る看板。
明り取り窓。
今日のお昼は食事処「Cantina登美」で。
前の海で獲れた新鮮な魚介類を使った「蔵定食」。
海鮮丼、タコ天、あなご丼等、また、ピザやパスタなどもあります。
高い天井、太い梁などかつての豪商ぶりが感じられる。
瀬戸大橋の架橋に併せ沿岸道路が整備されたため港も近代化が進んでいるが、常夜灯や雁木が一部残っており、街中には江戸時代に廻船問屋や遊郭が軒を並べた頃の面影が残り、岡山県によって町並み保存地区に指定されている。
散策中に見かけたかわいい人形。
どの家の軒先にもアルミ缶風鈴がきらきら。
街には遊郭もありました。
北前船が港に入ると船乗り達の上陸を待ちかねているお女郎さん達が「まだかな、まだかな」と声をかけたそうです。
その「まだかな」という声が、そのまま小さな橋の名前になりました。
それを「まだかな橋」と言います。
元は海岸にあったこの橋(桟橋)も海岸の拡張工事で埋め立てられてしまいました。
今は元の海岸近くの埋め立て地の下になってしまい、わずかに遺構と思われるものが残っているだけです。
下津井港に突出した浄山には、祇園宮の社殿があり、この境内からの瀬戸の眺めは絶景です。
祇園神社下から瀬戸大橋を望む。
ここは、釣りバカ日誌18 「ハマちゃんスーさん瀬戸の約束」のロケ地。
スーさんを探すはずが美しい瀬戸内海を前に我慢できなくなり、防波堤で釣りを始めたハマちゃんとスーさんが偶然出会うシーンの撮影が行われた。
映画「ひるね姫」の舞台、倉敷市下津井(しもつい)。
ひるね姫聖地のロケ地スタンプラリーが行われており、巡回バスの「とこはい号」にも「ひるね姫」が。
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正面が、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫
「月」の平坦な壁は中秋の名月の午後10時の方向を指している。
安らぎの場所。ここは休らう所である。
ためらい、足をとめ、休息する。穏やかな気持を取り戻す。
「休」という漢字のかたちからみてわかるように「人が木により憩う」ごとく。
庇の下で雨宿りをしたり、影のなかで強い日差しを避けて息づく生き物たちのように。護られてある休息。
三日月のかたちの大きな部屋。その端から入ると、白い大きな平面の壁に取り付けられた3体の黄金色の≪HISASHI≫たちがいる。
HISASHI <この有機的な形態は、雲のようにも見えるが、作者の行為をとおして「時」が凝固したオブジェたちである。
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≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!
「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫ 「太陽」の軸は南北軸。
斜めの不気味な黒い円筒は、後ろに回り込めば入り口があって、これは上階に繋る螺旋階段であった。
人ひとりがやっと通れるほどの狭さ。
螺旋階段の柱の主軸は傾いているし、手探りでまるで「胎内潜リ」のように、黄色い段々を登ってゆく。
階段室の出口に辿り着こうとすると階段のいくつかがない。
足で探ると階段が黒く塗ってあって見えないだけなのだった。
注意を全身で払えということなのかととりあえす納得する。
上方には凸面鏡があり、自己と空間の像の変形によって遠近と上昇下降のイメージが狂わされる。そして問題の〈部屋〉に出る/入る。
前方から光が襲って来る。
この部屋は真南を向いている。
そしてシルエットになった一対の渦巻、中国伝来の「陰陽」の模様(太極図)。
よく見て、空間関係を調整して了解しようとすると、左右にやや小さいが京都の龍安寺そっくりの石庭が、実は真南を向いた円筒の部屋の中心軸を対称にして対に置かれている。
しかしなぜ龍安寺なのだろう? アラカワ/ギンズは、人工によって〈懐かしさ〉を「建築する」ことを目指している。
この部屋に「心」と名付けているのもそれによる。
前方正面の黒い円筒の向こうが螺旋階段になっており、先ほど登ってきたところだ。
天井とは対照になっている、そして、ベンチもシーソーも軸線に対してすこし偏芯している、平衡感覚がおかしくなってくる。
最初の計画案では、垂直の円筒型の建築物の中に倒立した法隆寺があって、「胎内潜り」のように、その法隆寺を潜って行くと何時しか建物の外部に出ているというものであったという。
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ワイヤを使った流れるような曲線を表現した「うつろい」の世界。
入り口を入ると喫茶室、目の前に「うつろい」の世界が広がる。
奈義の地と水との関りをテーマとした宮脇愛子氏のアート空間「うつろひ」
夫は建築家の磯崎新。
磯崎は2番目の夫であり、最初の夫は中央公論社の編集者で、後に鉄道紀行作家として活躍した宮脇俊三であった。
宮脇姓の頃に彫刻家として成功したため、俊三との離婚・再婚後も宮脇姓で活動している(宮脇との結婚前の姓は荒木。)
「大地」の中心軸は、秀峰那岐山の山頂に向かっています。
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今回の青春18切符旅行記は岡山県の奈義町にある奈義町現代美術館。
美術館という枠が拡張して、美術品と建物が一体化している、いわば第三世代美術館だ。
コスト比較、通常の交通費、15280円 青春18切符2370円
所要時間 4時間
大阪~姫路、ノンストップの新快速は大阪発7時51分が一番早い、それなりに乗客も多いので早めにホームへ。
このコースの難点は姫路岡山間、快速がなく、時間帯によっては1時間以上列車がないこと。
小刻みに乗り継ぎを検討するか、それでもダメな場合は、諦めて途中下車するなりで時間を有効に使う。
6番線ホームでは駅弁を売っている、旅の楽しみの一つだ。
また、津山線はローカル線には珍しく快速が走る
右手奥に見えるのが目指す、奈義町現代美術館、手前にあるのが「PIZZERIA La gita 奈義」
ナポリ最古の石窯メーカーGIANNI ACUNT社の石窯で一瞬のうちに焼き上げ、ナポリピッツァの表面はパリッ中はもちもちとした食感、薪の香ばしい香りが楽しめます。
本日はマルゲリータ 1,300円をいただいた。
奈義町現代美術館は美術館という枠が拡張して、美術品と建物が一体化している、いわば第三世代美術館だ。
町立図書館、観光案内所は前面のシンボルロードにパラレルに置かれるが、現代美術館は道路計画からの制約を飛び越え、この土地の自然条件にもとづいた固有の軸線を持つ。
すなわち「太陽」の軸は正確に南北軸と重なり、「月」の平坦な壁は中秋の名月の午後10時の方向を指し、「大地」の長軸は秀峰那岐山の山頂に向かっている。
この布置の「見立て」を更に拡張していくと、那岐という聖なる山を中央に据えて、手前に〔大地〕がひろがり、左右に〔月〕と〔日〕が配されるという構図となり、容易に、六曲一双の日月山水図屏風を想起することも可能であろう。
将来、奈義町の文化的中心軸となるように計画されているシンボルロードに沿って、奈義町現代美術館、奈義町立図書館、奈義町観光案内所の建築群が配置されている。
現代美術館、町立図書館は共通のエントランスを持ち、芝生広場の南端、竹藪の中に観光案内所が設けられた。
この円筒形の建物、左側の高い建物、それぞれが美術品だ。
もうすでにトンボが飛び交っています、加増をクリックして拡大してお楽しみを。
奈義町現代美術館のポスター、展示室「大地」、「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫からなる。
「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫展示室「大地」「うつろい」の画像。
最初の計画案では、垂直の円筒型の建築物の中に倒立した法隆寺があって、「胎内潜り」のように、その法隆寺を潜って行くと何時しか建物の外部に出ているというものであったという。
正面が、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫
それぞれについては個別に掲載します。
奈義町の全体模型、美術館から車で7.8分山道を登ると「那岐山麓 山の駅」がある。
中央に江戸時代から伝わる伝統伝統芸能の「横仙歌舞伎」、周囲に町の木イチョウ、町の花ウメをデザイン。 「なぎ」「おすい」の文字。
汚水管マンホールの蓋
説明文はホームページを参照しています。
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鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。
また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。
これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。
元禄6年(1693年)に初代藩主池田光仲が没し、因幡国法美郡奥谷村、因幡国一宮宇倍神社の北隣に被葬されたことに始まる。
光仲より11代慶栄までの墓がある。
なお、最後の藩主である12代慶徳の墓は多磨霊園にある。
また、支藩である鹿奴藩(東館)、若桜藩(西館)藩主の墓も一部ここにある。
藩主の墓は亀趺円頭墓碑と呼ばれる。高さは各々約4.6メートルである。
亀趺(きふ)とは亀の形をした「趺」すなわち台座のことで、中国では貴族以上の身分に許された墓碑・記念碑の台座である。
この台座は諸大名の墓碑としては、ここ鳥取藩主池田家のものが唯一である。
ただし、2代藩主綱清の墓碑のみ、時の将軍であった徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。
また、5代重寛の世嗣で夭折した治恕と、11代将軍家斉の十二男で8代斉稷の養嗣子となっていたが夭折した斉衆の墓碑も同様に亀趺円頭墓碑となっている。
中央奥が初代藩主池田光仲の墓。
光仲の墓碑裏側には漢文で功績が刻まれている。
以後の藩主は銅板に功績が刻まれ墓碑の下に埋められている。
各藩主の墓前には廟門・霊廟・回廊が築かれていたが、明治以降老朽化のために撤去され現在はない。
現在は藩主墓も含め78基の墓碑がある。
鳥取池田家の特徴として正室の墓碑には実家の定紋が刻印されている。
また、8代斉稷の養嗣子で夭折した斉衆の墓碑には将軍家の定紋(三葉葵)が刻印されている。
江戸時代の大名家の墓制を知る上で貴重な資料として、昭和56年(1981年)10月13日に、国の史跡に指定された。
同年に史跡指定された大名墓所としては和歌山県海南市の長保寺和歌山藩主徳川家墓所・山口県萩市の東光寺萩藩主毛利家墓所・北海道松前町の法幢寺松前藩主松前家墓所がある。
これらは大名墓所として最初の史跡指定を受けている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。
元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。
同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。
光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。
寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。
これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることとなる。
この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。
幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。
藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。
翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。
明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。
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