鳥取藩主 池田家墓所


鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。

また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。

これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。

元禄6年(1693年)に初代藩主池田光仲が没し、因幡国法美郡奥谷村、因幡国一宮宇倍神社の北隣に被葬されたことに始まる。

光仲より11代慶栄までの墓がある。
なお、最後の藩主である12代慶徳の墓は多磨霊園にある。

また、支藩である鹿奴藩(東館)、若桜藩(西館)藩主の墓も一部ここにある。

藩主の墓は亀趺円頭墓碑と呼ばれる。高さは各々約4.6メートルである。

亀趺(きふ)とは亀の形をした「趺」すなわち台座のことで、中国では貴族以上の身分に許された墓碑・記念碑の台座である。

この台座は諸大名の墓碑としては、ここ鳥取藩主池田家のものが唯一である。

ただし、2代藩主綱清の墓碑のみ、時の将軍であった徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。

また、5代重寛の世嗣で夭折した治恕と、11代将軍家斉の十二男で8代斉稷の養嗣子となっていたが夭折した斉衆の墓碑も同様に亀趺円頭墓碑となっている。

中央奥が初代藩主池田光仲の墓。

光仲の墓碑裏側には漢文で功績が刻まれている。
以後の藩主は銅板に功績が刻まれ墓碑の下に埋められている。

各藩主の墓前には廟門・霊廟・回廊が築かれていたが、明治以降老朽化のために撤去され現在はない。

現在は藩主墓も含め78基の墓碑がある。
鳥取池田家の特徴として正室の墓碑には実家の定紋が刻印されている。

また、8代斉稷の養嗣子で夭折した斉衆の墓碑には将軍家の定紋(三葉葵)が刻印されている。

江戸時代の大名家の墓制を知る上で貴重な資料として、昭和56年(1981年)10月13日に、国の史跡に指定された。

同年に史跡指定された大名墓所としては和歌山県海南市の長保寺和歌山藩主徳川家墓所・山口県萩市の東光寺萩藩主毛利家墓所・北海道松前町の法幢寺松前藩主松前家墓所がある。

これらは大名墓所として最初の史跡指定を受けている。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。

元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。

同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。

光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。

寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。

これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることとなる。
この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。

幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。

藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。

翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。

明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。

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因幡一宮 宇倍神社


宇倍神社は、鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。
式内社(名神大社)、因幡国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社

古代に清音で「うへ」神社と呼ばれたが、語義は不明。境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説もある。

祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。

『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。

吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったとある。

なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。

当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納したと知られる。

本殿

『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。

正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木を置く。

武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる。

明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされる。

宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)

昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う。

舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされる。

東には、中納言行平が百人一首に読んだ稲葉山がなだらかに連なり、南には因幡国庁跡や奈良時代の国司、大伴家持が万葉集に詠んだ歌碑があり、北には国指定史跡の鳥取藩主池田家墓所がある。

庭にはカラーが清らかに咲いています。

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因幡に大伴家持を訪ねる 因幡万葉歴史館


今日のお昼は道の駅「かわはら」

川原城址、美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられている。

ただし、当城が秀吉の本陣だったかどうかは不明。

城跡には犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれている。

展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されている。

因幡万葉歴史館は奈良時代~平安時代に因幡国国府が置かれていた国府町に立地する。

当地ゆかりの大伴家持ら万葉集の歌人と、因幡国の歴史民俗文化に関する資料を展示する。

因幡万葉歴史館の竣工を記念し、古代因幡の豪族伊福部家の67代目に当たる、戦後を代表する作曲家の伊福部昭に、大伴家持の万葉集の歌の作曲を依頼し「新たしき年の初めの…」を始めとする「因幡万葉の歌5首」の歌曲が誕生した。

歴史館の竣工式の日に国府町中央公民館で、25絃箏の野坂恵子など日本を代表する演奏家によって初演が催された。

伊福部昭の直筆による楽譜が歴史館に寄贈されている。

因幡の傘踊りは、100個の小鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、揃いの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。

万葉と神話の庭

一歩外に出れば、回遊式庭園があり、せせらぎに耳を傾けながら「万葉集」に詠まれた約40種類の植物や、国府町にちなむ彫刻を散策できます。

四季折々を彩る万葉植物を楽しめます。

かつら

秋、ハート形の形の良い葉が紅葉します。
材は楽器や家具に使われる。

向つ岡の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間に 嘆きつるかも   作者不詳 巻7-1359 
  
乙女を我がものにし、成長を待っている間が待ち遠しく嘆かわしい。カツラの新緑は乙女にふさわしく初々しいものです。

9つの鳥や犬などをモチーフにした彫刻が庭園のいたるところに配置されています。

時の広場

時を刻む日時計をモチーフに、さる・とりなどの「十二支」の彫刻が各方角に配され、悠久の時を感じることができます。

少し離れた場所に家持の歌碑があります。

新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄(作者 大伴家持 巻20-4516)。

読み方:「新」は「あらたしき」、「年乃始乃」は「年の始めの」、「波都波流能」は「初春の」、「家布敷流由伎能」は「今日降る雪の」、「伊夜之家餘其謄」は「いやしけよごと」。

口訳:新年と立春が重なり、おまけに目出度い雪が降っている。このように良いことが重なって欲しい

『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。

この歌碑の右側に佐々木信綱が大伴家持の「新しき 年の始めの・・・」から1200年の祭典で詠んだ歌碑が近くにあった。

歌碑:ふる雪の いやしけよ事 ここにして うたいあげけむ ことほぎの歌

口訳:お目出度い雪が降って良いことが重なるこの地で祝福の歌を歌う。

藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす
 今城の岡を 鳴きて越ゆなり 読み人知らず

巻10-1944

藤波は藤の花。「今城(いまき)の岡」は奈良県大淀町内の地名その他諸説あって未詳。

「藤の花の散るのを惜しみ、ホトトギスは今城の岡を鳴きながら越えていった」という歌である。

これらの歌碑から少し離れた所に在原行平が因幡の国司として赴任する時の歌碑があった。

この歌は古今和歌集巻8-365に乗っていて百人一首の歌でもある。

歌碑:たちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ(在原行平 古今和歌集巻8-365)

口訳:お別れして、因幡へと去ったら、稲葉山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。
故郷からの便りでそう聞いたらすぐ帰ってこよう

国府支所の玄関前に展示されていた展示用 カラーマンホール。

町の花「さつき」、町の木「松」、 中央に日本の滝百選「雨滝(あめだき)」が描かれています。

上部に「因幡のふる里」、下部に「こくふ」の文字。
農業集落排水 汚水管マンホール蓋

族(やから)に諭す歌一首

ひさかたの天の戸開き高千穂の 獄(たけ)に天降(あも)りし皇祖(すめろき)の神の御代より櫨弓(はじゆみ)を手握り持たし 眞鹿子矢を手挟み添へて大久米の ますら健男(たけお)を 先に立て 靭取(ゆきと)り負せ 山川を 磐根さくみてふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従(まつろ)はぬ 人をも和し掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の橿原の畝傍の宮に宮柱 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の天の日嗣とつぎて来る君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方(すめらへ)に極め尽して仕へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立てて 授け給へる 子孫(うみのこ)のいやつぎに見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき清きその名ぞ凡ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名断つな 大伴の氏と名に負へる 丈夫(ますらを)の伴 (巻二十・四四六五)

【口語訳】
天の戸を開き高千穂の岳に降りられた天孫の昔から、はじ弓を手に持たれ、真鹿子矢を脇にはさみ、大久米のますらおたちを先頭に、靫を背負に山川の岩を越え、国を捜し求め、荒れ狂う者たちを鎮圧し国を静めて、橿原の畝傍に宮を建てて、天下をお治めになった天皇の代々の御代に、清い心で仕えてきた祖先から引き継いできた官職であるとお言葉をいただいた大伴家の子孫たちが代々、語り伝えて鏡にすべき立派な名前である。
おろそかにして先祖の名を絶やしてはならない、大伴の氏の名を持つますらおたちよ。

そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。
仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

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因幡に大伴家持を訪ねる 因幡国庁跡


因幡国庁跡(いなばこくちょうあと)は、鳥取県鳥取市国府町中郷に所在する、律令制下の地方行政機関の中心施設跡。

1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。

発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。

因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる。

758年、家持は因幡守に就任する。
絶頂にあった仲麻呂政権が旧勢力を嫌っての左遷だったとされている。
 
新しき年の初めの 初春の今日降る雪の いや重け吉事
(巻二十・四五一六)
 
『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。
 
そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。

仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

暗殺計画の首謀者は藤原良継ら、仲麻呂の身内である。

良継の兄は広嗣で、橘諸兄政権のとき、吉備真備と僧・玄防の排斥を聖武天皇に奏上し、沈下していた藤原氏の復権をにらんだ人物である。

聞き入れられずに赴任先の大宰府で乱を起こし、このときの連座で良継は伊豆へ流罪となった経験を持つ。
 
流罪を解かれた後、良継は地方官を経て在京官僚に復帰するが、芽が出ないでいた。

仲麻呂の息子たちは参議にのばっで将来の少中大納言、あわよくば大臣職までを約束されるが、良継は50歳近くとなっでも従五位上。

ぎりぎり貴族と呼ばれるばかりの立場である。

これが伝統体制勢力である佐伯今毛人、石上宅嗣、そして家持を誘った。
 
これはいわば藤原氏の内輪もめで、計画はすぐに仲麻呂側に漏洩してしまい、良継、今毛人、宅嗣、家持は逮捕された。
 
時に家持は40代半ば、脂は乗りきっでいるが位階は従五位上である。

左遷による地方生活が長いことに、中央へのかなりの反発心が為っだことが想像されるが、心情を図れる歌は残っていない。

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しまなみ海道行ったり来たり

村上水軍上を訪ねる旅、それはまさにしまなみ海道を訪ねる旅でもあります。

因島大橋~多島美景観に調和する優美な吊橋~

しまなみ海道で尾道側から2番目の「因島大橋」です。

中央支間長770mは完成時には日本一の長さで、この橋を作るために培われた技術は以降の長大橋建設に大きな影響を与えました。

橋は2層構造になっていて、下の部分は徒歩や自転車などでも通行することができます。

隣接する大浜PAから歩いていくこともできるので、約1時間のお気軽な海上散歩を楽しむことができます。

多々羅大橋~県境に架かる世界最大級の斜張橋~

しまなみ海道の尾道側から4番目の橋で、広島県と愛媛県との県境にかかる斜張橋です。

この橋は完成時には斜張橋として世界最長を誇り、その鳥が羽を広げたような美しい姿は見る者を圧倒します。

また橋の支柱の下で手を叩くと「鳴き竜」と呼ばれる、パーンと乾いた音が反射しながら空に向かって登っていくような現象が体験できます。

大三島側から眺めた生口島。

多々羅大橋を渡っている最中にも感じるのですが、「生口島には妙に高い山があるなあ」ということです。

島というか、海から突き出た山のように見えます。
橋の上から眺めると、圧迫感を感じるほど。

この山はこのあたりの離島の中では傑出して高い山で、観音山(かんのんやま)といって、標高が472メートルもあります。

標高が高いことから、雨乞いや祈祷に昔から利用されてきたようです。

生口島サービスエリア、平山郁夫書の碑が建つ。
平山画伯は生口島の生まれです、美術館もここにあります。

一般には、西瀬戸自動車道周辺地域振興協議会が公募した愛称である瀬戸内しまなみ海道または、単にしまなみ海道と呼ばれる。

「しまなみ」の呼称は、本道路の開通後、広島県東部や愛媛県北部の複数の団体・企業等の名称に用いられている。
なお、橋自体の名前は「瀬戸内海大橋」。、

海峡部の橋梁として新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本とすることもある)がある。

伯方・大島大橋~多島美に調和した桁橋と吊橋~

伯方島と大島間の風光明媚な宮窪瀬戸に架かる橋で、伯方橋は桁橋、大島大橋は吊橋です
大島と今治間の海の難所・来島海峡に架かる世界初の三連吊橋。

空にそびえる6基の主塔、美しく弧を描くケーブルが優美な姿をみせており、20世紀の架橋技術の結晶といえるものです。

来島海峡大橋での夕日の景色

冬至をはさんで前後1ヶ月の11月下旬と1月下旬、世界初の三連吊橋の主塔が一直線に並ぶ中に真っ赤な夕日が沈む珍しい風景が楽しめます。

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村上水軍 因島水軍城

昭和58年、水軍のふるさと因島に築城された、全国でもめずらしい城型資料館。

村上水軍は南北朝から室町戦国時代にかけて、この辺りの海路を制覇し、水軍王国として活躍しました。

この因島水軍城は、金蓮寺の住職が、因島村上水軍の資料館と因島を代表する観光地を作ろうと構想したもので、昭和58年(1983年)に完成。

金蓮寺の北にある小高い山の上にあり、資料館は城の形をしています。

この外観は歴史家の奈良本辰也氏が監修したもので、本丸は水軍資料館、二の丸は展示室、隅櫓は展望台となっています。

「黒潮に 男ありけむ 八幡船」入り口には勇ましい碑が建つ。

八幡大菩薩の旗を掲げ、朝鮮半島から中国、東南アジアまでその名をとどろかせました。

因島、能島、来島にあった村上三家は、14世紀に因島を支配した村上師清が祖になっているとも言われ、因島には24の城があったそうです。

因島水軍城がある場所は、片刈城の家老の居宅跡と言われています。

城の向かい側にある山にも青陰城があり、海を見張るために、島中に城や見張所があったことがわかります。

水軍資料館でまず目に留まるのは、戦国時代末期に水軍で使われていた大阿武船の模型。

排水量は200トンを越える巨大なもの。
また、上の文字が書かれた上り旗は、「上」の漢字の左側下が撥ねられているのが因島村上水軍の証。旗の上部にある横線が少ないほど位が高い印です。

手火防台から見える金蓮寺の本堂裏、ここには村上水軍の墓地があります。

この寺は村上氏の菩提寺で、以前は外浦の谷間にあったものを現在の場所に移し、同時に因島各地にあった石塔類を裏山に集めたと伝わっています。

墓銘は読めなくなっていますが、歴史を感じる宝篋印塔や五輪塔が立ち並びます。

二の丸では、人形を使って再現した水軍戦法会議が展示されていて、勇姿を見ることができます。

こちらの盃状穴石は、元重井町一本松にあったもの。

盃状穴とは、人が何らかの目的で石等の道具を使って彫った盃状の穴で当時の風俗等を知ることができる貴重な民俗資料です。

外国の先史時代の墓にあるのが古く、日本では山口県の弥生時代前期の墓にあるのが最初の発見です。

女性を表現し、最初は再生を願って墓に彫り、後には子宝・安産・豊作を願うものに変わったと考えられます。

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因島水軍城へのアクセス、行き方歩き方

広島県尾道市因島中庄町3228-2

本州方面から-しまなみ海道「因島北IC」から約5分
四国方面から-しまなみ海道「因島南IC」から約10分

JR山陽本線尾道駅から因島土生港行きバスで約37分「要橋」乗換、島内路線バス大浜行き約8分「水軍城入口」下車、徒歩約10分

小早川水軍の拠点 三原城

小早川水軍は三原湾の大島と小島を石垣でつないだ海城で、天守台は大島の中心にあった。
また、小早川水軍の母港の役割も果たす海賊城でもあった。

臨海一番櫓址前方は、当時は海であった。

JR三原駅南側のペアシティ三原西館(三原国際ホテルなどが入居しているビル)西側に残る本丸中門跡。

濠はJRによって分断された北側の濠に通じ、海水を引き入れていた。

駅のコンコースに残る小早川隆景の名前。

三原城は永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景によって整備が始められたとされる。

後に隆景は、現在の沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。
これが三原城の原型を成したものと思われ、三原要害とも呼ばれていたようである。

元和5年(1619年)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入り、広島藩の支城として幕末まで利用された。

最盛期の構造は、天主台を北(陸側)に頂いた本丸、その東・西・南側に二の丸、そしてそれらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けた梯郭式の城であった。

さらには海に向かって船入りを開いており、郭を隔てる縦横の堀の重なりも加わると、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

明治27年(1894年)、山陽鉄道三原駅建設の際に、城地は駅用地に使用され、また石垣も糸崎港建設の用材として大部分が撤去された。

その後、東築出から馬ノ口の海側には、国道2号が敷設されることになり、これにより海からも遠く離れることになった。

現在窺われる遺構としては、天主台とそれを取り巻く3方の堀、駅の南側の船入櫓の石垣および、本丸中門跡・臨海一番櫓跡の石垣・堀を残すのみである。

この裾を引いた扇の勾配の美しい姿は群を抜きます。

しかも余人では真似るべきではないといわれた「アブリ積み」という特殊の工法は、古代の石積形式を400年以上経た今でも立派に伝えています。

天守台跡のむこうは三原駅新幹線ホーム。

昭和50年(1975年)の山陽新幹線開業では、同新幹線と山陽本線の三原駅(高架改良後)が本丸および天主台跡を貫いていることもあり、城地は寸断され現在の姿になる。

2004年度より天主台跡を囲む堀の周囲の景観を保存し、公園化する工事が進められている。

本丸跡。

船入櫓跡、城南東の小島に手を加えた海上の櫓で、瀬戸内海に面していた。

三原を代表する祭り「やっさ祭り」で披露されるやっさ踊りは、この城の完成を祝い、老若男女を問わず、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、祝酒に酔って思い思いの歌を口ずさみながら踊り出たのがはじまりと言われている。

マンホールの蓋にも名残が残る。

「三原には過ぎたるものが3つある」という言葉があり他藩から羨ましがられた。

第一に三万石の居城に相応しくない規模の三原城、第二に月渓院に関係する徳川将軍家の「葵」の紋、第三に日光東照宮の修理を10日間で成し遂げた鈴木方衛(すずきなみえ)という家臣がいたということであると伝えられている。

月渓院については、なぜ徳川家縁の姫が外様である広島藩、さらにその家老職で既婚者であった浅野忠真へ側室としての輿入れが認められたか、月渓院が江戸城内において忠真に一目惚れをし、何度もなだめた末、どうしても曲げなかったので下賜という扱いで忠真に輿入れしたという。

また徳川家光の乳母であった春日局が、当時、小早川秀秋の補佐役であった夫・稲葉正成と共に三原城で過ごしていたため、この輿入れに深く関与したと考えられている(また、江戸幕府の「一藩一城」の方針にも関わらず、大名でもない広島藩の一家老の居城の存続が認められていたのは、春日局および月渓院に縁があったことが大きな要因であったとされている)。

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三原城跡へのアクセス、行き方歩き方

広島県三原市城町

JR山陽本線、三原駅下車すぐ。駅が天主台の上に建っている。

天主台跡へはJR三原駅コンコース内からのみ入ることができ、通路は朝6時から夜10時まで開いている。
入場券は不要である。

舟入櫓跡は市の港町公園となっているので常時見学できる。

伝説の岡山市 桃太郎コース

『岡山市は桃太郎市に改名します!』2013年1月29日、岡山市長による架空の記者会見動画がインターネット上で流れ話題騒然!でも、もともと岡山市は「桃太郎」にゆかりの深い街。

桃太郎と名が付く場所や桃太郎をモチーフにしたオブジェがあふれているんです!

岡山駅東口にある郵便ポストにも桃太郎がいます。
王道の桃太郎像とは対照的に、ポップな衣装とキュートなポーズで異彩を放つ桃太郎。
ポストの上に寝転んで、手にはきびだんごではなく筆を持っています。

JR岡山駅東口広場の桃太郎像、何故か檻に入れられています。

全線において、電線類地中化や歩道のタイル舗装化が施されている。
また中央分離帯には岡山電気軌道の併用軌道と柱が設置されている。

柱は架線と照明の機能を兼ね備えており、架線部分は「吊り橋」が、照明部分は「桃」がそれぞれデザインされている。

桃太郎大通り(ももたろうおおどおり)は、岡山県岡山市北区の岡山駅前と岡山電気軌道城下駅 (しろした)を結ぶ延長約1kmの目抜き通り。
いわゆる駅前通りとしての性格を持つ。

「人間道路会議賞」人と車と道路のよりよい関係の実現を目指した道路整備を広く社会にアピールすることを目的に今後の道づくりのモデルになる優れた道路に与えられる賞です。

町を歩いていると目に入るのが、マンホールに描かれた桃太郎。

こればかりでなく、消火栓の蓋や側溝の蓋にも桃太郎や桃が描かれています。

「ももたろう」はもちろん、愛らしい「いぬ」、「さる」、「きじ」の銅像が点在。

橋の欄干には桃が。

桃太郎大通りから見える「若き日の母」の像。
長崎平和祈念像の作者として有名な彫刻家北村西望(きたむら・せいぼう)の作品。

妖怪ウォッチで話題になった「もんげー」は、岡山弁がルーツ?!だけど、岡山県人はそんなに「もんげー」を使わないんですよ。

おまけにその「もんげー」が岡山県のキャッチフレーズになってしまい、岡山県は大騒ぎ??

「妖怪ウォッチ」のサブキャラ、コマさんが使う台詞として話題に、びっくりすると、すぐに「もんげー」という。

「ものすごい」の岡山弁は、でーれー、ぼっけー、そしてかろうじて「もんげー」らしい。

岡山駅西口のバスターミナル横の広場にある銅像。

銅像の下には「青春感謝」と書かれたプレ-トがあり、後ろ側面には下記の説明板がついていました。

『第六高等学校は明治三十三年岡山市に創設され西暦二千年に創立百年を迎えた。

昭和二十五年廃校までの五十年間を操山で過ごした六高生の中から国家有為の人材を多く輩出した。

三年間の六稜生活は弊衣破帽、文武両道に励み、時に街頭に出て校歌放吟することもあったが「六高マン」の愛称で温かく見守られた。

ここに感謝の誠を捧げると共に二十一世紀に向かって日本の将来を背負って立つ君たち若人にこの像を贈る。

平成十二年三月 第六高等学校 同窓会 会長 木村睦男 撰文 京都教育大学 教授 谷口淳一 彫』

平成十二年(2000年)、旧制第六高等学校の創立百周年記念祭が行なわれた際に、第六高等学校同窓会長であった元参議院議長木村睦男氏が、青春の3年間を第六高等学校で過ごしたことを偲んで、寄贈したものらしい。

全国に伝わる桃太郎の物語は,実は大和政権(大和朝廷:大和王権)による全国統一の戦いと深く関わっているようです。

鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で,一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われています。

有力説の一つとしては、第7代孝霊天皇の第3皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命兄弟の吉備国平定における活躍と、岡山県(吉備国)の温羅伝説に由来するものとする説がある。

これは、古代の大和政権と吉備国の対立構図を、桃太郎と鬼の争いになぞらえたとするものである。

この説をもとに、岡山では笹ヶ瀬川が桃太郎の桃が流れた川と伝承が残っている。

甦る古代吉備の国 謎の鬼ノ城
鬼ノ城は、吉備高原の最南端、鬼城山(きのじょうざん 標高397メートル)に遺る神 … 温羅は当地を拠点とし、討伐に赴いた吉備津彦命と戦って敗北したのち、吉備津神社の御釜殿の下に埋められたという…続きを読む

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故郷の山河

ふるさとは遠くにありて思うもの・・・・・・
故郷へ所要がありつかのまの里帰り、観光もない短い滞在です。

今回は真庭リバーサイドホテルへ宿をとった『大人の隠れ家』をコンセプトにしたホテル、目覚めると朝焼け、しかし、小雨が降っている。
朝もやと朝焼けのコラボレーションかな。

真庭市(まにわし)は、岡山県の北中部に位置し鳥取県と境を接する市。

2005年3月31日、上房郡北房町、真庭郡勝山町・落合町・湯原町・久世町・美甘村・川上村・八束村・中和村の5町4村が合併により発足した。

面積は、県下自治体の中で最大だ。

朝食後、旭川の土手を散策。
川霧が立ち、山はガスに覆われている。

旭川(あさひがわ)は、岡山県を流れる一級河川で、旭川水系の本流。
同県中央部を流域とし、吉井川・高梁川と並び岡山三大河川の一つに数えられる。

上流域では中国山地の山々を流れ深い谷を形成し、中流域では吉備高原のなだらかな丘陵地や扇状地性の盆地(落合盆地)などを形成しながら蛇行している。

モノクロにすれば水墨画の世界。

高瀬舟で木材や大豆、鉄などが運搬された。

高瀬舟は初期の頃落合(真庭市落合町)から、その後美作高田(真庭市勝山地区)から岡山城下まで航行し、岡山城下の京橋付近をはじめ、久世、福渡、金川などに船着き場が設けられ、川湊として賑わいをみせた。

動物は、源流部に、特別天然記念物のオオサンショウウオが生息し、上流部は清流を好むアマゴ、カジカ、スナヤツメなどが、湯原ダムには、コイ、ギンブナ等が生息し、カルガモやマガモ等のカモ類が飛来している。

また、ニホンザルやイノシシ、ムササビなどもみられる。

ホッと心が安らぐヒノキの回廊=岡山県真庭市役所、木を素材にしたユニークな市庁舎です。

木質バイオマス利用を強力に推し進めている自治体ですので、産業観光部内に木質バイオマス課という部署があります。

また、市役所本体建物に隣接してエネルギー棟があり、そこで発生した木質バイオマス利用エネルギーを市役所へと供給しています。

バスの待合所は日本で初めて構造躯体(柱や梁のこと)にCLTを使用した建築物です。

CLTとは、クロス・ラミネーテッド・ティンバーの頭文字を取ったもので、直交集成板とも呼ばれます。
 
板の木目が層ごとに垂直に交わるように重ねて接着して出来ており、強度・断熱・耐火・遮音性に優れ、施工が速く、軽いことが特徴。

ヨーロッパではその優れた製品性能が高く評価され、これまで高層建築物の躯体に使用されてきた鉄筋コンクリートに代わる建築材料として需要は飛躍的に拡大しています。

真庭関連の過去の記事、併読をお勧めします。

紅葉の神庭の滝逍遥
国の名勝と岡山県立自然公園に指定されている神庭の滝は、高さ110m、幅20m。 … 続きを読む

のれんのかかる町 町並み保存地区 勝山
勝山は三浦藩2万5千石の城下町である。 昭和60年に町並み保存地区に指定され、昔 … 続きを読む

日本の滝百選 西日本一 神庭(かんば)の滝
高さ約110mの断崖から幅20mで豪快に落下する、西日本有数の規模を誇る名瀑。両 … 続きを読む

旧遷喬小学校 迎賓館を思わせる明治のモダンな校舎
真庭市南部の観光スポットとして映画やテレビのロケでも使用される迎賓館を思わせる明 … 続きを読む

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世界最古の庶民のための公立学校!閑谷学校(しずたにがっこう)

古民家を訪ねてシリーズを始めたばかりですが、季節の話題を挟ませていただきます。

今回は「東洋のマチュピチュ別子銅山と山陽しまなみ秋景色」というタイトルのツアーです。
秋晴れの難波からのスタートです。

秋らしい雲の広がる中、淀川を渡る。

最初の訪問地は閑谷学校。

岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校。

藩士のための教育施設(藩校)「岡山学校」に続き、岡山藩立の学校として開かれた。
建築は2期に分けて行われ、32年の月日を費やした。

他に例をみない手間隙かけた質とスケールを誇り330余年の歴史をもっている。
地方の指導者を育成するために武士のみならず庶民の子弟も教育した。

また、広く門戸を開き他藩の子弟も学ぶことができた。

2本の巨大な楷(かい)の木や周辺のもみじが美しく、秋の紅葉名所でもある。

と、言うのがうたい文句なのだが今年はご覧の通り無残な姿。
夏の高温のせいだとか。

画像は「聖廟」

国宝 講堂(こうどう)は元禄十四年(1701)の完成で内部は十本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁でとりまいている。

材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。

学校建築としては唯一の国宝。
儒学の殿堂にふさわしい様式を備えている。

講堂内の黒光りする床も、10本もケヤキの丸柱も、江戸時代のまま、床は漆塗りで鏡のように光を反射している。

「読初の儀」は、約340年前に創設された旧閑谷学校が江戸時代から教えていた儒学(朱子学)の祖・孔子の徳をたたえる儀式「釈菜(せきさい)」(10月)と並ぶ二大行事。

旧閑谷学校を直営していた岡山藩が廃止された明治期以降、途絶えていましたが、平成17年、論語の精神を現代に生かそうと復活させた。

厳冬期、昔ながらの作法で花頭窓(かとうまど)を開け放ち 、ヒノキの床に正座して執り行われますが、参加者には「リンとして、厳粛な気持ちになる」と人気があります。

その後、全員で、ネルの布で約100畳の広さの床を磨きます。

建物の屋根は耐久性の高い備前焼瓦で葺かれた。

使用されている瓦は、釉薬を使用しない窯変瓦で、備前焼技法が応用されている。

焼き具合によって1枚1枚色合いが違うのが特徴である。
また一般の瓦が寿命60年といわれるのに対して、閑谷学校の瓦は300年経過しても殆ど割れないまま使用できている。

高い耐久性は高温で焼結されている為であるが、制作過程で変形が起きやすく、屋根に拭いたときに隙間ができて雨漏りしやすいという欠点がある。

そのため様々な漏水対策が施されている。

重要文化財 石塀(せきへい)、校門の左右から出て、閑谷学校の施設をすべて囲み全長七六五Mにもおよんでいる。

河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団によって築かれたもので「切り込み接ぎ式」の工法が用いられており、元禄十四年(1701)に完成した。

内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けており、三百年を経て今も端然たる姿をたたえている。

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閑谷学校へのアクセス、行き方歩き方

岡山県備前市閑谷784
0869-67-1436

JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分。