宵の倉敷河畔散策


ペデストリアンデッキは、かつて市内に存在した倉敷チボリ公園に倣った北欧的な雰囲気で、小さな屋外ステージもある。

駅前ロータリーにある時計台のからくり時計もアンデルセン童話がテーマになっている。

階下は観光バスやタクシー、自家用車が止まるロータリーになっています。

アンデルセン広場の階段上にいるアンデルセンの銅像。

人の往来が絶えない倉敷川畔から道一本隔てた、静かで落ち着いた時間が流れる本町通り。

古くは倉敷と早島を結ぶ街道で、倉敷川沿いより先に町となり箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねる場所でした。

現在も格子戸の宿、杉玉が軒に下げられた造り酒屋、阿智神社へと続く参道など、昔のままのような風景に出会うことができる静かな通りです。

特に夕暮れ時ともなると何とも言えぬ雰囲気で散策を楽しくさせてくれる。

空も晴れ渡り気持ちのいい散策です。

今橋より美観地区の光景。

現在の倉敷川の川幅は10メートル程ですが、船による物資の輸送がされていた頃には川幅20メートル程あったとされています。

最も栄えていた時期には、約40隻の船が物資の運搬を行っていたとされています。

月も出て、いよいよ雰囲気も盛り上がる。

「今橋」は大原美術館のコレクションの多くを選定し、自らも洋画家であった児島虎次郎がデザインした橋で、菊の文様のほか龍の彫刻も施されています。

行きかう川舟がなんともいい、もう少しいたいがタイムリミットです。

阿知の藤のデザインのマンホール。
周囲には「きれいな水を 未来に!」と倉敷市章。

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ジーンズの町児島

足袋・学生服・作業服と、繊維のまちとして発展し、国産ジーンズ発祥の地として生まれ変わった「児島」。
いま児島に新しいスポットが誕生しています。

レトロな趣のある味野商店街を中心に岡山のジーンズメーカーのショップを集めた「児島ジーンズストリート」には、児島ジーンズならではの「藍染め」を特徴とし、オリジナリティーあふれるこだわりの品々が販売されており、全国のジーンズファンからの注目を集めています。

JR児島駅の階段もジーンズ。

駅長室もジーンズ。

児島地区には現在も200社以上の関連業者が存在しており、世界でも稀なジーンズ産業集積地であり、国産ジーンズの約40%以上は児島で製造されています。

21世紀のジャパンブルー
 
藍染めは天然の原料を使った草木染めの一種。
その色合いを参考に、100年以上前、ドイツで生まれた合成染料が「インディゴ」である。

インディゴはいろいろなところで使われているが、最も身近なものがデニム。
現在、日本産のデニムは発色や耐久性に特徴があり、岡山県には倉敷市をはじめデニムの生産者が多い。
新たなジャパンブルーとして、岡山デニムは海外からも注目されている。

有松絞りも藍染の伝統芸術の一つ。
東海道の古い町並みと絞りの町 有松宿
投稿日時: 2013年10月14日
有松は池鯉鮒宿と鳴海宿の間宿である。 古い町並みがそのまま残り、江戸時代の風情が … 続きを読む →

わが故郷勝山は草木染によるのれんの町として有名です。
のれんのかかる町 町並み保存地区 勝山
投稿日時: 2013年5月24日
勝山は三浦藩2万5千石の城下町である。 昭和60年に町並み保存地区に指定され、昔 … 続きを読む →

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絶品ダコの下津井漁港散策


むかし下津井回船問屋「母屋」と周辺の町並み>

下津井節で全国的に知られている下津井魚港。

北海道で獲れたニシン粕、かずのこ、こんぶなどを満載して、日本海から関門海峡を廻って北前船が行き来していた。

その頃、下津井は「風待ち、潮待ち」の良港として知られており、下津井節はこの北前船の船頭たちによって伝えられたと言われている。

「むかし下津井回船問屋」は、江戸時代に金融業と倉庫業を営んでいた西荻野家の住宅を、明治初期に回船問屋高松屋(中西家)が取得したもので母屋やニシン蔵として使われていた。

母屋を中心に、むかしの下津井にまつわるさまざまな資料を展示している。

下津井名物「干しダコ」~むかし下津井回船問屋の隣の店で販売している干しダコ

明石では干しダコの最盛期が夏であるのに対して、下津井では冬。

これは明石が産卵期を迎える前のタコを干してお盆に向け京阪神地区へ出荷するのに対し、下津井では冬の気温差を利用してより旨みを凝縮した大きな干しダコを正月に向けて出荷しているためだと思われます。

明石も下津井も潮の流れが速く、そのせいで太くがっしりした足になり歯ごたえと甘みが増すといわれてます。

下津井駅

かつての四国往来に由来する、下津井 – 丸亀航路との連絡駅であり、駅舎南側から下津井港の発着場まで連絡通路が設置されるなど、同航路との連絡の便が図られていた。

陣羽織
凌波隊の指導者が所有していたもの。

写真では分かりにくいですが、法被には紋の下に白い兎が刺繍されています。

凌波隊とは、幕末に下津井で生まれた民兵隊。
下津井に何カ所か設けられた台場を守っていた。

当時の繁栄を物語る看板。

明り取り窓。

今日のお昼は食事処「Cantina登美」で。

前の海で獲れた新鮮な魚介類を使った「蔵定食」。
海鮮丼、タコ天、あなご丼等、また、ピザやパスタなどもあります。

高い天井、太い梁などかつての豪商ぶりが感じられる。

瀬戸大橋の架橋に併せ沿岸道路が整備されたため港も近代化が進んでいるが、常夜灯や雁木が一部残っており、街中には江戸時代に廻船問屋や遊郭が軒を並べた頃の面影が残り、岡山県によって町並み保存地区に指定されている。

散策中に見かけたかわいい人形。

どの家の軒先にもアルミ缶風鈴がきらきら。

街には遊郭もありました。

北前船が港に入ると船乗り達の上陸を待ちかねているお女郎さん達が「まだかな、まだかな」と声をかけたそうです。

その「まだかな」という声が、そのまま小さな橋の名前になりました。

それを「まだかな橋」と言います。

元は海岸にあったこの橋(桟橋)も海岸の拡張工事で埋め立てられてしまいました。

今は元の海岸近くの埋め立て地の下になってしまい、わずかに遺構と思われるものが残っているだけです。

下津井港に突出した浄山には、祇園宮の社殿があり、この境内からの瀬戸の眺めは絶景です。

祇園神社下から瀬戸大橋を望む。

ここは、釣りバカ日誌18 「ハマちゃんスーさん瀬戸の約束」のロケ地。

スーさんを探すはずが美しい瀬戸内海を前に我慢できなくなり、防波堤で釣りを始めたハマちゃんとスーさんが偶然出会うシーンの撮影が行われた。

映画「ひるね姫」の舞台、倉敷市下津井(しもつい)。

ひるね姫聖地のロケ地スタンプラリーが行われており、巡回バスの「とこはい号」にも「ひるね姫」が。

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奈義町現代美術館 展示室「月」の部屋


正面が、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫

「月」の平坦な壁は中秋の名月の午後10時の方向を指している。

安らぎの場所。ここは休らう所である。

ためらい、足をとめ、休息する。穏やかな気持を取り戻す。

「休」という漢字のかたちからみてわかるように「人が木により憩う」ごとく。

庇の下で雨宿りをしたり、影のなかで強い日差しを避けて息づく生き物たちのように。護られてある休息。

三日月のかたちの大きな部屋。その端から入ると、白い大きな平面の壁に取り付けられた3体の黄金色の≪HISASHI≫たちがいる。

HISASHI <この有機的な形態は、雲のようにも見えるが、作者の行為をとおして「時」が凝固したオブジェたちである。 関連記事[catlist categorypage="yes"]
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奈義町現代美術館 展示室「太陽」の部屋


「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫ 「太陽」の軸は南北軸。

斜めの不気味な黒い円筒は、後ろに回り込めば入り口があって、これは上階に繋る螺旋階段であった。

人ひとりがやっと通れるほどの狭さ。
螺旋階段の柱の主軸は傾いているし、手探りでまるで「胎内潜リ」のように、黄色い段々を登ってゆく。

階段室の出口に辿り着こうとすると階段のいくつかがない。

足で探ると階段が黒く塗ってあって見えないだけなのだった。
注意を全身で払えということなのかととりあえす納得する。

上方には凸面鏡があり、自己と空間の像の変形によって遠近と上昇下降のイメージが狂わされる。そして問題の〈部屋〉に出る/入る。

前方から光が襲って来る。
この部屋は真南を向いている。

そしてシルエットになった一対の渦巻、中国伝来の「陰陽」の模様(太極図)。

よく見て、空間関係を調整して了解しようとすると、左右にやや小さいが京都の龍安寺そっくりの石庭が、実は真南を向いた円筒の部屋の中心軸を対称にして対に置かれている。

しかしなぜ龍安寺なのだろう? アラカワ/ギンズは、人工によって〈懐かしさ〉を「建築する」ことを目指している。

この部屋に「心」と名付けているのもそれによる。

前方正面の黒い円筒の向こうが螺旋階段になっており、先ほど登ってきたところだ。

天井とは対照になっている、そして、ベンチもシーソーも軸線に対してすこし偏芯している、平衡感覚がおかしくなってくる。

最初の計画案では、垂直の円筒型の建築物の中に倒立した法隆寺があって、「胎内潜り」のように、その法隆寺を潜って行くと何時しか建物の外部に出ているというものであったという。

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奈義町現代美術館 展示室「大地」


ワイヤを使った流れるような曲線を表現した「うつろい」の世界。

入り口を入ると喫茶室、目の前に「うつろい」の世界が広がる。

奈義の地と水との関りをテーマとした宮脇愛子氏のアート空間「うつろひ」

夫は建築家の磯崎新。

磯崎は2番目の夫であり、最初の夫は中央公論社の編集者で、後に鉄道紀行作家として活躍した宮脇俊三であった。

宮脇姓の頃に彫刻家として成功したため、俊三との離婚・再婚後も宮脇姓で活動している(宮脇との結婚前の姓は荒木。)

「大地」の中心軸は、秀峰那岐山の山頂に向かっています。

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青春18切符旅行記 奈義町現代美術館

今回の青春18切符旅行記は岡山県の奈義町にある奈義町現代美術館。
美術館という枠が拡張して、美術品と建物が一体化している、いわば第三世代美術館だ。

コスト比較、通常の交通費、15280円  青春18切符2370円
所要時間 4時間

大阪~姫路、ノンストップの新快速は大阪発7時51分が一番早い、それなりに乗客も多いので早めにホームへ。

このコースの難点は姫路岡山間、快速がなく、時間帯によっては1時間以上列車がないこと。
小刻みに乗り継ぎを検討するか、それでもダメな場合は、諦めて途中下車するなりで時間を有効に使う。

6番線ホームでは駅弁を売っている、旅の楽しみの一つだ。
また、津山線はローカル線には珍しく快速が走る

右手奥に見えるのが目指す、奈義町現代美術館、手前にあるのが「PIZZERIA La gita 奈義」

ナポリ最古の石窯メーカーGIANNI ACUNT社の石窯で一瞬のうちに焼き上げ、ナポリピッツァの表面はパリッ中はもちもちとした食感、薪の香ばしい香りが楽しめます。

本日はマルゲリータ   1,300円をいただいた。

奈義町現代美術館は美術館という枠が拡張して、美術品と建物が一体化している、いわば第三世代美術館だ。

町立図書館、観光案内所は前面のシンボルロードにパラレルに置かれるが、現代美術館は道路計画からの制約を飛び越え、この土地の自然条件にもとづいた固有の軸線を持つ。

すなわち「太陽」の軸は正確に南北軸と重なり、「月」の平坦な壁は中秋の名月の午後10時の方向を指し、「大地」の長軸は秀峰那岐山の山頂に向かっている。

この布置の「見立て」を更に拡張していくと、那岐という聖なる山を中央に据えて、手前に〔大地〕がひろがり、左右に〔月〕と〔日〕が配されるという構図となり、容易に、六曲一双の日月山水図屏風を想起することも可能であろう。

将来、奈義町の文化的中心軸となるように計画されているシンボルロードに沿って、奈義町現代美術館、奈義町立図書館、奈義町観光案内所の建築群が配置されている。

現代美術館、町立図書館は共通のエントランスを持ち、芝生広場の南端、竹藪の中に観光案内所が設けられた。

この円筒形の建物、左側の高い建物、それぞれが美術品だ。
もうすでにトンボが飛び交っています、加増をクリックして拡大してお楽しみを。

奈義町現代美術館のポスター、展示室「大地」、「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫からなる。

「太陽」の部屋 ≪遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体≫展示室「大地」「うつろい」の画像。

最初の計画案では、垂直の円筒型の建築物の中に倒立した法隆寺があって、「胎内潜り」のように、その法隆寺を潜って行くと何時しか建物の外部に出ているというものであったという。

正面が、「月」の部屋≪HISASHI-補遺するもの≫

それぞれについては個別に掲載します。

奈義町の全体模型、美術館から車で7.8分山道を登ると「那岐山麓 山の駅」がある。

中央に江戸時代から伝わる伝統伝統芸能の「横仙歌舞伎」、周囲に町の木イチョウ、町の花ウメをデザイン。 「なぎ」「おすい」の文字。
汚水管マンホールの蓋

説明文はホームページを参照しています。

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鳥取藩主 池田家墓所


鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。

また、通常大名が江戸城に登城する際は刀を玄関前で家来に預けなくてはならなかったが、鳥取池田家は玄関の式台まで刀を持ち込むことが出来た。

これは鳥取池田氏の他には御連枝や越前松平家の一門といった徳川家一門の親藩と、やはり他の外様大名より家格の高い加賀藩前田氏のみに許された特権であった。

元禄6年(1693年)に初代藩主池田光仲が没し、因幡国法美郡奥谷村、因幡国一宮宇倍神社の北隣に被葬されたことに始まる。

光仲より11代慶栄までの墓がある。
なお、最後の藩主である12代慶徳の墓は多磨霊園にある。

また、支藩である鹿奴藩(東館)、若桜藩(西館)藩主の墓も一部ここにある。

藩主の墓は亀趺円頭墓碑と呼ばれる。高さは各々約4.6メートルである。

亀趺(きふ)とは亀の形をした「趺」すなわち台座のことで、中国では貴族以上の身分に許された墓碑・記念碑の台座である。

この台座は諸大名の墓碑としては、ここ鳥取藩主池田家のものが唯一である。

ただし、2代藩主綱清の墓碑のみ、時の将軍であった徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。

また、5代重寛の世嗣で夭折した治恕と、11代将軍家斉の十二男で8代斉稷の養嗣子となっていたが夭折した斉衆の墓碑も同様に亀趺円頭墓碑となっている。

中央奥が初代藩主池田光仲の墓。

光仲の墓碑裏側には漢文で功績が刻まれている。
以後の藩主は銅板に功績が刻まれ墓碑の下に埋められている。

各藩主の墓前には廟門・霊廟・回廊が築かれていたが、明治以降老朽化のために撤去され現在はない。

現在は藩主墓も含め78基の墓碑がある。
鳥取池田家の特徴として正室の墓碑には実家の定紋が刻印されている。

また、8代斉稷の養嗣子で夭折した斉衆の墓碑には将軍家の定紋(三葉葵)が刻印されている。

江戸時代の大名家の墓制を知る上で貴重な資料として、昭和56年(1981年)10月13日に、国の史跡に指定された。

同年に史跡指定された大名墓所としては和歌山県海南市の長保寺和歌山藩主徳川家墓所・山口県萩市の東光寺萩藩主毛利家墓所・北海道松前町の法幢寺松前藩主松前家墓所がある。

これらは大名墓所として最初の史跡指定を受けている。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男(輝政の弟)の長吉が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。

元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。

同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。

光政は在封していた16年の間に鳥取城下町の基盤を整備した。

寛永9年(1632年)備前国岡山藩主・池田忠雄(利隆の弟)が死去し、その嫡男で光政の従兄弟にあたる池田光仲が家督を継ぐと、幼少であることを理由に鳥取藩へ移封され、代わって光政が岡山へ入った。

これ以後、池田氏の分家筋が因幡・伯耆国32万5,000石を治めることとなる。
この忠雄死去の前後に、鍵屋の辻の決闘に関わることで大きな注目を集めた。

幕末、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の兄であったため、敬幕・尊王という微妙な立場をとった。

藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、文久3年(1863年)には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件(本圀寺事件)が発生した。

翌年の禁門の変で親しい関係にあった長州藩が敗戦し朝敵となると、これと距離を置くようになるが、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では官軍方につき、志願農兵隊山国隊などを率いて転戦した。

明治政府に登用された鳥取藩士は、河田左久馬、北垣晋太郎、原六郎、松田道之らがいる。

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因幡一宮 宇倍神社


宇倍神社は、鳥取県鳥取市国府町宮下にある神社。
式内社(名神大社)、因幡国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社

古代に清音で「うへ」神社と呼ばれたが、語義は不明。境内社の国府神社に合祀された「上神社」に由来するとする説もある。

祖神を祀ったとされる伊福部氏の居住したころが創建と思われる。

『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。

吉田家本『延喜式神名帳』には、仁徳天皇55年、三百六十余歳の武内宿禰が因幡国の宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずになったとある。

なお、本殿裏に残る2つの「双履石」は古墳の一部であり、後に武内宿禰に関する伝説がつくられたとされる。

当地は遺跡が多く、国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心であり、当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、同一宮とされた。承徳3年(1099年)、因幡守となった平時範が国府に初登庁した翌日に当社に参拝して奉幣や告文を行い、郡司からの利田請文を奉納したと知られる。

本殿

『二十二社註式』にある大化4年(648年)の創建以降、社殿はたびたび再建され、現在の本殿は明治31年(1898年)の再建。

正面三間側面二間の三間社流造の正面一間に向拝を縋破風で付け千木・鰹木を置く。

武内宿禰命は360余歳の長寿であったため長寿の神とされる。

明治32年(1899年)、神社で初めて拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度社殿や祭神が図案となったため、金運・財宝の神ともされる。

宇倍神社獅子舞(無形民俗文化財)

昭和34年指定。
因幡地方特有の麒麟獅子舞で山陰独特の獅子舞の原形を伝え、先導役の猩々と獅子の頭役、後役が各1名、太鼓・鉦鼓・能管からなる囃子方3名の計6名で構成され、「入座の曲」の調べにあわせて舞う。

舞は「三方舞」を本式とし、単調でゆるやかな動作は伎楽や能楽に近いとされ、現在は廃れた樗谿神社獅子舞を受け継いでおり、因幡に伝承される各神社の麒麟獅子舞の多くは、この影響を受けたとされる。

東には、中納言行平が百人一首に読んだ稲葉山がなだらかに連なり、南には因幡国庁跡や奈良時代の国司、大伴家持が万葉集に詠んだ歌碑があり、北には国指定史跡の鳥取藩主池田家墓所がある。

庭にはカラーが清らかに咲いています。

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因幡に大伴家持を訪ねる 因幡万葉歴史館


今日のお昼は道の駅「かわはら」

川原城址、美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の小丘に建てられ、1580年の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられている。

ただし、当城が秀吉の本陣だったかどうかは不明。

城跡には犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれている。

展望台の内部は、旧河原町の観光案内所と資料館となっており、羽柴秀吉が因幡平定後に発した感状などが展示されている。

因幡万葉歴史館は奈良時代~平安時代に因幡国国府が置かれていた国府町に立地する。

当地ゆかりの大伴家持ら万葉集の歌人と、因幡国の歴史民俗文化に関する資料を展示する。

因幡万葉歴史館の竣工を記念し、古代因幡の豪族伊福部家の67代目に当たる、戦後を代表する作曲家の伊福部昭に、大伴家持の万葉集の歌の作曲を依頼し「新たしき年の初めの…」を始めとする「因幡万葉の歌5首」の歌曲が誕生した。

歴史館の竣工式の日に国府町中央公民館で、25絃箏の野坂恵子など日本を代表する演奏家によって初演が催された。

伊福部昭の直筆による楽譜が歴史館に寄贈されている。

因幡の傘踊りは、100個の小鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、揃いの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。

万葉と神話の庭

一歩外に出れば、回遊式庭園があり、せせらぎに耳を傾けながら「万葉集」に詠まれた約40種類の植物や、国府町にちなむ彫刻を散策できます。

四季折々を彩る万葉植物を楽しめます。

かつら

秋、ハート形の形の良い葉が紅葉します。
材は楽器や家具に使われる。

向つ岡の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間に 嘆きつるかも   作者不詳 巻7-1359 
  
乙女を我がものにし、成長を待っている間が待ち遠しく嘆かわしい。カツラの新緑は乙女にふさわしく初々しいものです。

9つの鳥や犬などをモチーフにした彫刻が庭園のいたるところに配置されています。

時の広場

時を刻む日時計をモチーフに、さる・とりなどの「十二支」の彫刻が各方角に配され、悠久の時を感じることができます。

少し離れた場所に家持の歌碑があります。

新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其謄(作者 大伴家持 巻20-4516)。

読み方:「新」は「あらたしき」、「年乃始乃」は「年の始めの」、「波都波流能」は「初春の」、「家布敷流由伎能」は「今日降る雪の」、「伊夜之家餘其謄」は「いやしけよごと」。

口訳:新年と立春が重なり、おまけに目出度い雪が降っている。このように良いことが重なって欲しい

『万葉集』は家持のこの歌をもって終わる。
因幡国に着任したその挨拶として詠んだ歌とされ、万葉全歌をしめくくる歌であるとともに、以降に家持の歌はない。

この歌碑の右側に佐々木信綱が大伴家持の「新しき 年の始めの・・・」から1200年の祭典で詠んだ歌碑が近くにあった。

歌碑:ふる雪の いやしけよ事 ここにして うたいあげけむ ことほぎの歌

口訳:お目出度い雪が降って良いことが重なるこの地で祝福の歌を歌う。

藤波の 散らまく惜しみ ほととぎす
 今城の岡を 鳴きて越ゆなり 読み人知らず

巻10-1944

藤波は藤の花。「今城(いまき)の岡」は奈良県大淀町内の地名その他諸説あって未詳。

「藤の花の散るのを惜しみ、ホトトギスは今城の岡を鳴きながら越えていった」という歌である。

これらの歌碑から少し離れた所に在原行平が因幡の国司として赴任する時の歌碑があった。

この歌は古今和歌集巻8-365に乗っていて百人一首の歌でもある。

歌碑:たちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今帰りこむ(在原行平 古今和歌集巻8-365)

口訳:お別れして、因幡へと去ったら、稲葉山の峰に生えている松ではないが、私の帰りを待ち遠しく思ってくれるだろうか。
故郷からの便りでそう聞いたらすぐ帰ってこよう

国府支所の玄関前に展示されていた展示用 カラーマンホール。

町の花「さつき」、町の木「松」、 中央に日本の滝百選「雨滝(あめだき)」が描かれています。

上部に「因幡のふる里」、下部に「こくふ」の文字。
農業集落排水 汚水管マンホール蓋

族(やから)に諭す歌一首

ひさかたの天の戸開き高千穂の 獄(たけ)に天降(あも)りし皇祖(すめろき)の神の御代より櫨弓(はじゆみ)を手握り持たし 眞鹿子矢を手挟み添へて大久米の ますら健男(たけお)を 先に立て 靭取(ゆきと)り負せ 山川を 磐根さくみてふみとほり 國まぎしつつ ちはやぶる 神をことむけ 服従(まつろ)はぬ 人をも和し掃き清め 仕へ奉りて あきづ島 大和の國の橿原の畝傍の宮に宮柱 太知(ふとし)り立てて 天の下 知らしめしける 皇祖(すめろき)の天の日嗣とつぎて来る君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇方(すめらへ)に極め尽して仕へ来る 祖(おや)の官(つかさ)と 言立てて 授け給へる 子孫(うみのこ)のいやつぎに見る人の 語りつぎてて 聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき清きその名ぞ凡ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 祖(おや)の名断つな 大伴の氏と名に負へる 丈夫(ますらを)の伴 (巻二十・四四六五)

【口語訳】
天の戸を開き高千穂の岳に降りられた天孫の昔から、はじ弓を手に持たれ、真鹿子矢を脇にはさみ、大久米のますらおたちを先頭に、靫を背負に山川の岩を越え、国を捜し求め、荒れ狂う者たちを鎮圧し国を静めて、橿原の畝傍に宮を建てて、天下をお治めになった天皇の代々の御代に、清い心で仕えてきた祖先から引き継いできた官職であるとお言葉をいただいた大伴家の子孫たちが代々、語り伝えて鏡にすべき立派な名前である。
おろそかにして先祖の名を絶やしてはならない、大伴の氏の名を持つますらおたちよ。

そして、764年、家持は因幡守から薩摩守へ、重ねての転任というかたちで再び左遷させられている。

慎重に行動するよう戒めた「族に諭す歌」から約7年後にして家持が、今度は自らが戒められる側に回ったからである。
仲麻呂暗殺計画に参画したのだ。

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