鎌倉五山第二位 北条時宗開基の円覚寺

臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位に列せられる。
本尊は宝冠釈迦如来、開基は北条時宗、開山は無学祖元である。
なお、寺名は「えんがくじ」と濁音で読むのが正式である。

北鎌倉駅は鎌倉五山第二位の円覚寺の門前にあり、横須賀線の線路も寺の境内を横切っている。
横須賀線は軍港横須賀への軍用路線として、海軍、陸軍の要請で明治二十二年に開通した古い路線である。

円覚寺もこの時、境内に線路を敷設することを許可したのであろう。
しかし、線路が通っていたも駅がないため交通が不便だったので、住民や名刹の住職らの要請で夏季簡易停車場が設置され、そして、昭和五年、正式の駅となった。

今のかわいらしい駅舎は夏季簡易停車場時代の建物だという。

白鷺池(びゃくろち)
円覚寺総門の手前、横須賀線の踏切を渡った向かい側に位置する池で、円覚寺境内の一部である。

明治時代、軍港横須賀に通じる鉄道(現・JR横須賀線)の建設にあたって、無理やり円覚寺境内に線路を通過させたため、このような位置関係になっている。

「白鷺池」の名前は、開山無学祖元が鎌倉入りした際に、鶴岡八幡宮の神の使いが白鷺に身を変えて案内したという故事に因むという。

鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した。

当寺では元寇で戦死した日本の武士と元軍(モンゴル・高麗等)の戦士が、分け隔てなく供養されている。

境内には現在も禅僧が修行をしている道場があり、毎週土曜・日曜日には、一般の人も参加できる土日坐禅会が実施されている。
かつて夏目漱石や島崎藤村、三木清もここに参禅したことが知られる。

山号を瑞鹿山(ずいろくさん)と称し、正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)と号する。
総門には瑞鹿山の額が掲げられている。

山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。

三門(山門)は天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものと言われる。
「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆とされる。
楼上には十一面観音、十六羅漢像などを安置する。

工事中の急な階段を上り、「洪鐘」(おおがね)を目指す。

梵鐘は仏殿東方の石段を上った小高い場所にある鐘楼に架かる。
寺では「洪鐘」と書いて「おおがね」と読ませている。

北条貞時の寄進によるもので、正安3年(1301年)、鋳物師物部国光の制作。
高さ2.6メートルを超える大作である。

銘文は、西澗子曇(せいかんすどん)が撰している。
鎌倉で最大の梵鐘で昭和28年11月14日、建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されている。

『円覚寺鐘 正安三年八月大檀那平貞時 住持宋西澗子曇 大工大和権守物部国光在銘』

仏殿は昭和39年(1964)年再建で、コンクリート造りだが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(さしず、設計図)に基づいて建てられている。

本尊の宝冠釈迦如来像、頭部に冠をかぶっているので「宝冠釈迦如来」と呼ばれる。
鎌倉時代の作。
胴体の部分は江戸初期に補造された。

天井画の「白龍図」は前田青邨の監修で日本画家守屋多々志が描いたもの。
建長寺の雲龍図は五爪だが、こちらは日本に多く伝わる三爪。

選仏場は元禄12年(1699年)建立の茅葺き屋根の建物。
坐禅道場である。

内部には薬師如来立像(南北朝時代)を安置する。
仏殿が再建されるまでは、この堂が仏殿を兼ねていた。

済蔭庵 (さいいんあん)(居士林)
第58世曇芳周応(どんぽうしゅうおう)の塔所。

本尊は不動明王。
現在は居士林、すなわち在家信者のための坐禅道場となっている。

建物は牛込(東京都新宿区)にあった柳生流の剣道場を、昭和3年(1928年)柳生徹心居士より寄進され移築したものである。

参道をさらに奥に進む。

妙香池(みょうこうち)
夢窓疎石作と伝える庭園の遺構である。

舎利殿(国宝)
神奈川県唯一の国宝建造物で、境内の奥に位置する塔頭・正続院の中にある。
「塔頭」とは禅寺などで、歴代住持の墓塔を守るために作られた付属寺院のことを指し、正続院は開山無学祖元を祀る、重要な塔頭である。

舎利殿は入母屋造、杮(こけら)葺き。
一見2階建てに見えるが一重裳階付きである。

堂内中央には源実朝が南宋から請来したと伝える仏舎利(釈尊の遺骨)を安置した厨子があり、その左右には地蔵菩薩像と観音菩薩像が立つ。
この建物は、組物(屋根の出を支える構造材)を密に配した形式(「詰組」という)、軒裏の垂木を平行でなく扇形に配する形式(扇垂木という)、柱・梁などの形状、花頭窓(上部がアーチ状にカーブした窓)や桟唐戸(さんからど、縦横に桟をはめた扉)の使用など、細部は典型的な禅宗様になる。

元から円覚寺にあったものではなく鎌倉市西御門にあった尼寺太平寺(廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀(室町時代中期)の建築と推定されている。

鎌倉時代建立の善福院釈迦堂(国宝、和歌山県海南市)や功山寺仏殿(国宝、山口県下関市)とともに、禅宗様建築を代表するものとして、評価は高い。

通常は非公開で、正月3が日と11月3日前後に外観のみが公開される。
なお神奈川県立歴史博物館に内部の当寸復元模型があり、上記の建築意匠を間近に確認することができる。

最奥の黄梅院(おうばいいん)を目指す。

円覚寺の創建開堂にあたっては、無学祖元の法話を聞くために山中から白鹿が出てきてこれに連なったという言い伝えがある。

その白鹿が出てきたというのがこの「白鹿洞」。
円覚寺の山号は「瑞鹿山」。
この山号には「めでたい鹿のお山」という意味がある。

黄梅院 (おうばいいん)
第15世夢窓疎石(夢窓国師)の塔所。
山号は伝衣山。

本尊は千手観音。
文和3年(1354年)、華厳塔(三重塔)の跡地に夢窓の弟子の方外宏遠が開創した。

観音堂、聖観世音菩薩が祀られていています。

円覚寺方丈方丈は元来は寺の住持の住む建物を指すが、現在では各種儀式・行事に用いられる建物となっている。

百観音霊場に一本だけ真っ赤なモミジが残っていた。

百観音霊場は江戸時代、拙叟尊者が境域に岩窟をうがって百体の観音像を祀ったことに由緒を発する。

その後荒廃したが、明治21年洪川(こうせん)禅師が発願して西国33体の観音像を新らたに刻み、補陀落迦観自在窟(ふだらかかんじざいくつ)と名づけて境内の一部に安置した。

勅使門 
この唐門は天保年間の1839年の建立。
屋根の形が弓を横にしたような形をしているので「唐破風」という。

中央が高く左右がなだらかな曲線になっています。
平安後期からの日本建築です。

真っ赤なモミジと黄色いイチョウの取り合わせがいい。

弁天堂への登り口、散り葉が美しい。

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円覚寺へのアクセス、行き方歩き方

円覚寺公式サイト

住所:神奈川県鎌倉市山ノ内409
電話:0467-22-0478

JR東日本横須賀線北鎌倉駅下車すぐ(駅改札を出たところが境内)

鎌倉五山第一位 日本初の禅専門道場 建長寺

鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山(初代住職)は南宋の禅僧蘭渓道隆で、第二世は同じく南宋の兀庵普寧である。

鎌倉五山の第一位。
境内は「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。

総門は天明3年(1783年)の建立。
1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたもの。

なお、般舟三昧院は後土御門天皇によって建立された皇室ゆかりの寺院で、もと伏見(京都市伏見区)にあり、現在は京都市上京区今出川通り千本東入るに所在する。

総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。
「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。

寺号は詳しくは建長興国禅寺(けんちょうこうこくぜんじ)という。

建長寺案内図
創建当時の建物は失われたとはいえ、総門・三門・仏殿・法堂(はっとう)・方丈が一直線に並ぶ伽藍配置は、創建当時の面影を残すものとされる。
なお、地形の関係で総門 – 三門間の参道は斜めになっている。

境内は1966年(昭和41年)9月12日、「建長寺境内」として国の史跡に指定されている。
庭園は1932年(昭和7年)7月23日、「建長寺庭園」として国の史跡および名勝に指定されている。

「建長寺庭園」の指定範囲は仏殿前のビャクシンの植栽と、方丈裏の庭園である。

総門を抜けると正面に立つ重層の門が山門(さんもん)です。
三解脱門のことで三門とも言います。

1775年,万拙和尚(ばんせつおしょう)が浄財を募り再建し,その時狸が助けたとの伝説から名狸の三門とも言います。

上層には五百羅漢などを安置するが非公開。

安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。
銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。

初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。
上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。

梵鐘
三門右手の鐘楼に架かる。
国宝。高さ約2.1メートル。

建長寺創建当時の数少ない遺品の1つとして貴重である。
建長7年(1255年)、鋳物師物部重光の制作。

撞座の位置が高い点など、全体に復古的な作風を示す鐘である。
銘文中の「建長禅寺」は、日本における「禅寺」の語の初見とされている。

建長寺の梵鐘は関東一美しい梵鐘とされており、音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」とも呼ばれています。

梵鐘の奥には嵩山門(すうざんもん)。
塔頭西来庵は開山蘭渓道隆の墓塔を守る塔頭寺院である。

三門の右手にある嵩山門が入口だが、そこから先は修行道場のため、一般の立ち入りは禁止されている。

仏殿
重要文化財。
寄棟造で単層裳階が付く。

芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。

建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。

建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。

建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。
また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。

法堂は重要文化財で、禅宗以外の寺院の「講堂」に相当する建物。
方三間、裳階付、銅板葺き。文化11年(1814年)の建立である。

内部には千手観音坐像を安置する。
鎌倉最大級の木造建築で2005年に重要文化財に指定された。

法堂は住職が説法するところなので、住職があがる法座はあっても尊像は安置しないのが本来の姿なのだが、建長寺の法堂には千手観音が安置されている。

天井画は小泉淳作筆の雲龍図。
どこまで逃げても龍の目が着いてくる

本尊前の釈迦苦行像は、釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)をしている姿を現している。

ガンダーラ文明の遺産でラホール中央博物館に安置されている像の模造。
2005年の愛知万博に陳列された後、パキスタン国より建長寺に寄贈された。

平成21年4月、堂内に華厳小宝塔が安置された。
吉田管長の願いにより諏訪の宮大工が製作したもの。

建長寺には創建当初より華厳塔が建立されていたが、度重なる火災によって焼失し、以後再建されていない。
この塔の製作には、大華厳塔復興の願いが込められている。

唐門は重要文化財で方丈入口の門。
仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。
関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。

唐門というのは、中国式という意味ではなく、屋根が唐破風になっている門のことです。

方丈庭園
作庭は、開山の蘭渓道隆と伝えられています。
この庭園のほかにも、東光寺庭園(山梨)を作庭したとされています。

庭園は国の史跡・名勝に指定され、平成15年に復元されました。

方丈脇からの参道は高い杉が特徴的、傍らに真っ赤なモミジが残っていました。

天源院は、建長寺第十三世「南浦紹明」の塔所として紹明没後二十余年後に創建された。
紹明は幼いころから天台学を学び、15歳で建長寺開山である蘭渓道隆に師事し、正元元年(1259年)に宋に渡り、虚堂智愚の法を継ぐ。

没後の延慶二年(1309年)、後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初。

方丈脇から塔頭へ通じる参道は味わい深い。
写生をする人がたくさんいます。

正統院(しょうとういん)は、第十四世高峰顕日(こうほうけんにち)の塔所。
本尊は文殊菩薩。

高峰顕日は後嵯峨天皇の皇子といわれ、鎌倉では第二世兀菴普寧(ごったんふねい)に学び、無学祖元の法を嗣ぎ法衣と法語を授かったといわれている。

ハトが気持ちよさそうに水浴しています。

堂前にあるビャクシン(白槙、和名イブキ)の古木7本は開山蘭渓道隆手植えと伝えるもので、樹齢約750年といわれる。
幹周/6.5m、樹高/13m、鎌倉市の天然記念物に指定されています。

最も大きいビャクシンは三門から見て左手から2本目です。

建長寺へのアクセス、行き方歩き方

建長寺公式サイト

JR横須賀線北鎌倉駅下車徒歩15分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)5分「建長寺」下車徒歩すぐ
JR横須賀線・江ノ島電鉄鎌倉駅下車徒歩25分、江ノ島電鉄(江ノ電バス)10分「建長寺」下車徒歩すぐ バスは渋滞が多い。

絶景パワースポット 江の島散策

湘南を代表する景勝地であり、古くから観光名所。
神奈川県指定史跡・名勝、日本百景の地。

交通機関の駅名などでは江ノ島と表記することも多いが、住居表示・公文書等で使われる公称地名は「江の島」と表記する。
古くは江島神社(日本三大弁天の一つ)に代表されるように「江島」と表記されていたこともある。

大阪を8時に出発してもう13時30分だ、バスの車窓からは富士の姿も。

富嶽三十六景相州江の島、江の島の風光は多くの浮世絵に描かれ、歌舞伎の舞台となるなど、広く知られるようになる。
明治維新の廃仏毀釈により、与願寺は宗像三女神を祀る江島神社となり、宿坊は一般旅館へと転業した。

社伝によれば、欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝える。

瑞心門
神門は龍宮城を模した竜宮造の楼門。

朱塗りの大鳥居をくぐって正面の幅広い階段が江島神社の表参道である。
瑞心門の先で右折し、福石の所で左折して辺津宮に到る。
相当急なので「男坂」と呼ぶ。

一方「女坂」は江の島交番脇から右へバイクの走れる簡易舗装の道を進み、江の島市民の家の先で細い石段を上る。
石段だからさほど楽ではない。

江島神社辺津宮
1206年(建永元年)に良真上人の請願により、源実朝 が田寸津比売命(たぎつひめのみこと)を勧進して建てたもので、当初は「下之宮」と呼ばれていた。

辺津宮の境内の奉安殿には、八臂(はっぴ)弁財天と、 日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天が安置されています。

江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せました。
世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江・竹生島、江島の弁財天のこと。

八坂神社
御祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
社殿:銅葺、入母屋造り。江戸時代は、天王社として祀られ、弘化元年(1844年)に再建。

明治六年に「八坂神社」と改称された。
平成十三年に改築。

例祭:御神体は命の御木像。
昔、対岸の腰越に祀られていた社が大波で流され、御窟前の海中に沈んでいた御神体を漁師が拾い上げて、ここに祀ったもの。

祭礼は華麗を極め、毎年七月十四日に近い日曜日に、渡御が行われます。
島の人々が列をなして、天王囃子という里神楽にて優雅な調べを奏でながら、神輿は辺津宮より参道を練り、弁天橋から海に舁ぎ入れ、囃子を奏でる中、浮きつ沈みつ真裸体になって揉み合い、勇壮な禊が行われます。

上陸後、ゆかりの腰越まで渡御されるのを古例とした、湘南唯一の夏祭りとして有名。

辺津宮の境内からの眺め、ヨットハーバーの向こうは相模湾。

江島神社中津宮
853年(仁寿3年)に円仁(慈覚大師)が龍窟(現・岩屋)に籠もり、弁才天よりお告げを受け、建てたもので、当初は「上之宮」と呼ばれていた。
祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。

江の島の地域猫
1980年代頃から江の島では捨て猫が急増し、現在では至る所で多数の野良猫を見かける。
猫好きな観光客や釣り人がエサを与えるなどしたため、ほとんどの猫は人を恐れない。
島内の至る所で猫が無防備な姿でいるため、猫好きの人間もよく訪れる。

島の周囲は切り立った海蝕崖に囲まれ、ことに波浪の力を強く受ける島の南部には下部には海蝕台(波蝕台)が発達する。

江島神社奥津宮
本宮または御旅所(おたびしょ)と称されていた。
祭神 多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)。

八方睨みの亀の絵
1803年(享和3年)画家・酒井抱一が描いた「正面向亀図」。
傷みが激しいため抱一筆の原画(藤沢市指定文化財)は改築時に辺津宮奉安殿に収蔵されている。

代わりに1926年(大正15年)4月、東大資料編纂室長の浦永峯光氏が酒井抱一の末流野沢堤翠に摸写を依頼したものが掲げられていた。
現在掲げられているのは1994年(平成6年)片岡華陽筆になる復元画である。

亀石
玄武岩の柱状節理断面が磨かれて亀甲紋が現れたもの。

山田検校顕彰碑と座像
箏曲「江の島曲」の作曲者である山田流琴曲の開祖・山田検校を顕彰し、1917年(大正6年)4月10日の検校100年忌に幸田露伴らによって建てられた。

座像は戦時中に供出されたが、近年当時の鋳型が発見されたことから、山田流箏曲協会が残された土台上に再建し、2004年(平成16年)4月10日除幕された。

龍宮大神(わだつみのみや)
1994年(平成6年)篤志家により新しく祀られた。
岩窟の入口に巨大な龍の像が睨みを利かせる。

児ヶ淵へはこの階段を下りる、党内はアップダウンが多く、日ごろ運動不足の人には少々きついかも。

夕日に照らされる稚児ヶ渕句碑。

芭蕉の句碑は右から二番目。
「疑ふな潮の花も浦の春 はせを」
芭蕉の『いつを昔』に出てくる句で、三重県の二見ヶ浦で詠まれたものです。

児ヶ淵は江の島南西端の幅50mほどの隆起海食台。

大島、伊豆半島、富士山が一望でき、1979年(昭和54年)かながわ景勝50選の一つに選ばれた。

稚児ヶ淵の名は、1659年(万治2年)の中川喜雲の『鎌倉物語』などに見られる鎌倉相承院の稚児白菊と建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする話に基づく。

ここから眺める晴れた日の夕景は美しく、磯釣りのスポットとしても知られる。

「緑の広場」からの夕景。

「江の島シーキャンドル」も夕日に輝く。

相模湾の彼方には富士の姿も。

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江の島へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒251-0036 神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
電話:(0466)22-4020 江島神社

小田急線片瀬江ノ島駅、または江ノ島電鉄江ノ島駅から徒歩約15分

さまざまな石垣が残る徳川将軍が座す天下一の城 江戸城

江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城。
近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

間近に見える唯一の櫓、辰巳櫓、巽櫓などとも書きます。
方角の「辰巳」(東南)にあるのでこう呼ばれています。

正式には「桜田二重櫓」といいます。

写真の左奥にあるのが桔梗門です。
右手に進むと大手門です。

櫓の左の壁に出窓のようなものが見えます。
「石落とし」ですね。
出窓の下の部分には隙間があり、登ってくる敵に石を落とすために作られました。

江戸城の大手門。
大名や役人が本丸に登城、下城する際の正門で、枡形門形式の門となっている。
元和6年(1620年)、外様大名の伊達政宗等の外様大名の御手伝普請で築造されたものであった。

明暦の大火(1657年)で消失し、再建されたが太平洋戦争の戦火で消失し、現在のものは昭和42年に復元されたものである。
現在は、この門の中の、本丸、二のノ丸、三の丸跡が整備され、皇居東御苑として公開されている。左の堀は桔梗濠である。

大手門は 高麗門と渡櫓門で構成された桝形門になっています

大手門の渡櫓 (わたりやぐら) の屋根で、睨みをきかせていた鯱 (しゃち) です。
江戸中を焼き尽くした明暦の大火 (1657年) で前のものが焼失してしまったため、その後すぐに作られたものだそうです。

尚、現在ある渡櫓と鯱は、戦災の後に復元されたものです。

大手三ノ門跡

大手下乗門・下乗門・極楽門ともいう。
大正8年(1919)宮内省諸施設を建設する際、桔梗門から天神濠に至る旧二の丸と三の丸の間の濠約3.9haが埋められたため、門前の石垣沿いの濠も下乗橋も現在はない。

この橋前で御三家(尾張・紀州・水戸の3徳川家)を除くすべての大名・役人は、駕籠をおりて徒歩にて入門をした。

同心番所…同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前はこの番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人はここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。

約50mもある長い建物は百人番所。
ここでは常に100人の同心が、オールナイトで警備をしていました。

本丸の石垣にあった築石。

大番所…本丸へと通じる中之門警備のための詰所。大番が詰めていた。

中之門を入り大番所前を左に進むと、正面に大形の石材で積まれた石垣を見ながら登る坂道があります。
この坂は、もともと江戸城 東側に広がる低地と本丸の位置する台地との境にあたり、これを登りきると、本丸正門の中雀門(ちゅうじゃくもん)があります。

この門は、文久 3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時に類焼し、石垣の表面は、熱によりボロボロになっています。

当初、太田道潅が「精勝軒」と呼ばれた櫓を作り、富士山や海の眺望を楽しんだといわれていますが、富士見櫓は、その跡地に作られました。

富士見櫓は、高さ15.5mほどの三重の櫓で、万治2年(1659年)に再建されたものが今に残っています。江

戸城の建物の中では、現存する貴重な建物です。また、富士見櫓を支える石垣は、自然石をそのまま積み上げた堅牢な「野づら積み」だそうです。

南西方向からの富士見櫓
天守閣焼失後は富士見櫓が天守閣に代用されたといわれている。

慶応 4年(1868)の新政府軍と彰義隊との戦争(上野戦争)の時、新政府軍の指揮官であった大村益次郎は、富士見櫓から上野寛永寺の堂塔が炎上するのを見て、勝利を確信したという。

その後、関東大震災により倒壊、大破したが、主要部材に旧材を用いて再建している。櫓の高さは約15.5メートルで、石垣の高さは約14.5メートルある。

松の大廊下跡の碑

元禄14年(1701)、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刀傷事件であまりにも有名な松の廊下は、本丸の大広間と白書院(将軍との対面所)とをつなぐ廊下で、江戸城内で2番目に長い廊下であった。

廊下に沿って襖戸に松と千鳥が描かれていたのがその由来であるといわれ、畳敷きの立派な廊下であったという。

当時の地図には、桑畑や茶畑が点々と見られ、空き地の有効活用をしていました。

午砲台(ごほうだい)とはかつて報時のための午砲(空砲)を撃っていた場所のことである。

午報所とも呼ばれた。1871年、午砲の制が定められ全国各地に設置されている。
空砲の音はドンとも呼ばれ親しまれたことから、後にドン山などという愛称が付けられた午砲台も存在する。

かつて江戸城本丸には15棟の多聞があったが、富士見多聞は、その中の唯一の遺構である。
この辺りはアジサイの名所でもある。

石室:金蔵や抜け穴などと諸説あるが、火災や有事の際の調度品を保管する場所であったと考えられている。

右手に竹林がありました。
ここは天皇陛下のお考えで整備されたそうです。

これはモウソウチクの変種で、節が交互に膨らみ、亀甲状になっています。

この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。
これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。

現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。
江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけ存在したのでした。

天守台から本丸:振り返れば現代的な風景が広がります。
ここに多くの殿舎が建ち並んでいた。
まさに伏魔殿であったことだろう。

現在、芝生の張り替え工事が行われていた。

この巨大さ、人と比較すればよくわかります。

北桔橋門の両袖には、白い築地塀が残されていて、天守閣の背後の守りの重要性を感じます。
この辺りの石垣は、江戸城の城壁の中でも、最も高く(18.5m内外)堅牢に野面積み(のづづみ)という工法が用いられています。

また、強度が落ちないように「ひずみ」という工法もとられています。
さらに、角の稜線部は算木積工法がとられています。

「桃華楽堂(とうかがくどう)」 です。 

昭和41年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を記念して建てられた音楽堂で建物の屋根は テッセンの花を模し 八角の外壁には有田焼・信楽焼などの陶片が用いられているほか 玄関には鬼瓦の代わりに金色の雛人形が飾られているとか。

「緑の泉」という噴水池。

皇居正門鉄橋(二重橋)

正門(江戸城の西の丸大手門)は普段は閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外は使われない。使用される時は皇居前広場 正門石橋 正門 正門鉄橋 宮殿というルートをたどる。

木造橋時代に橋桁が上下二段に架けられていたことから、「二重橋」と呼ばれるようになった。

正門石橋。二重橋だと誤認されることがあるが、この石橋の奥にある正門鉄橋が「二重橋」である。

手前の石橋は江戸城の西丸大手橋があった位置で、現在の石橋は明治20年(1887年)の建造である。
二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋である」との誤認が多い

通称「二重橋」と呼ばれている正門鉄橋の上から伏見櫓を見ます。
伏見櫓は三代将軍家光の頃、京都の伏見城から移築されたと伝えられているそうです。

正門 飾り電燈は、1964年新宮殿造営のときつくられた。

気になる皇居の住人の出自

昭和三年、昭和天皇の弟の秩父宮殿下の妃に、外交官で松平容保の子である松平恆雄(つねお)の娘・勢津子がなる。
ただしこれは会津との和解などというものではなく、むしろ恆雄夫人で鍋島直大(閑叟の子)の娘である松平信子の力がものを言ったのだ。

この松平信子の姉が梨本宮伊都子(なしもとのみやいつこ)妃殿下で、その娘が大韓帝国最後の皇太子だった李垠(りぎん)殿下の妃となった方子(まさこ)さんである。
戦後になって美智子皇后が皇太子妃殿下となられるにあたり反対で動いたのは、この松平信子、秩父宮妃殿下勢津子、梨本宮伊都子の三人であった。

いろいろ理由はあるだろうが、美智子皇后の母方の副島家は、佐賀藩家老で龍造寺一族である多久(たく)氏の家臣つまり陪臣だから、心穏やかでなかったのかもしれない。
ついでながら雅子さまの母方祖父である江頭(えがしら)豊はチッソ元社長だが、江頭家は佐賀藩の「手明鑓」(てあきやり)(土佐の郷士のようなもの)だったようだ。

また秋篠宮殿下紀子さまの父方祖母は、会津藩士で大阪市長だった池上四郎の娘であり、父方祖父の川嶋孝彦は紀州の人だが、父親の勤務の関係で佐賀中学(佐賀西高校)出身であった。
そして奇遇であるが、江頭豊の祖父である江頭嘉蔵は佐賀中学の用務員であった。
本当は謎がない「幕末維新史」 引用

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江戸城へのアクセス、行き方歩き方

住所:東京都千代田区千代田1-1
電話:03-3213-0095(皇居外苑管理事務所)

JR東京駅より徒歩10分
地下鉄千代田線「大手町駅」から徒歩5分

川越城と小江戸川越を散策

江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。
別名、初雁城、霧隠城。
関東七名城・日本100名城。

通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

昨日の泊りは水戸、早速、千波湖を早朝散策。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

途中、カルガモ親子に遭遇、近づいても逃げません。
かわいい!

三芳野神社は本丸御殿の東、天神曲輪に鎮座する。
童謡「とおりゃんせ」の発祥の神社と伝えられる。

三芳野神社に「初雁の杉」があった。
毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事により初雁城とも呼ばれる。

太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名した、という。
3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。

1624年(寛永1)、藩主酒井忠勝が川越城の守護社として造営した。
もとは城内にあり、庶民の参詣が許されたのは年一度の大祭の日だけ。城内警備の武士のあいだを、緊張しながら参詣する庶民の様子を童謡に歌ったものといわれる。

三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、時の城主酒井忠勝によって再建された。

この天神様は、わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地といわれています。
川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかなか難しく、その様子が歌われて
いると伝えられている。

川越城の七不思議
1.霧吹(きりぶき)の井戸
2.初雁(はつかり)の杉
3.片葉の葦(あし)
4.天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
5.人身御供(ひとみごくう)
6.遊女川(よながわ)の小石供養
7.城中蹄(ひずめ)の音

川越城は、長禄元年(1457)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれています。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていました。

現存する建物は嘉永元年(1848)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。

現在、城址の大部分は市街地となっており、往時の姿を想像するのは難しいが、本丸御殿の一部(大広間と玄関)が現存している事は特筆に値する。

本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで、貴重な遺構である。

本丸御殿玄関をあがった所、大広間など6室の周囲にめぐらされている板敷きの廊下。

庭の小石は家老詰所への廊下。

家老用部屋
光西寺に残されている絵図には「御老中」と書かれている。
10畳敷で、床の間と床脇を備えている。

川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。

床の間を背にした武士を中心として協議が進められている。

櫛形塀[くしがたべい]
御殿玄関の両脇に配された塀。
屋根は瓦葺、櫛形の窓には格子がはめ込まれている。

二の丸跡に建つ市立博物館、道路の反対側は本丸。
博物館敷地内には霧吹の井戸がある。

霧吹の井戸~昔、川越城の片隅に、霧吹の井戸と呼ばれる井戸があり、いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったという。

川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城」とも呼ばれた。<川越城の七不思議の一つ>

新河岸川の舟運は寛永15年(1638年)正月に川越大火で仙波東照宮が焼失、その再建のための資材を江戸から内川(新河岸川)を利用して運んだのが最初とされる。

川越五河岸は、新河岸川の上流に設置された扇・上新・牛子・下新・寺尾の5つの河岸場で、城下町・川越の外港として機能した。

城の北に赤間川(現新河岸川)が流れ、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たす。

城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、東方を睨んだ自然の要害に位置している比高5~6mの平山城である。

朝霧が立ち込める河岸、清々しい小江戸の風景。

奈良・平安時代は、入間川西岸地域は三芳野の里ともいわれ、「伊勢物語」では「みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる」と歌われています。

天海僧正坐像
川越城近くには天海僧正ゆかりの喜多院がある。

幕府の庇護が篤く1638年(寛永15年)の川越大火で焼失すると3代将軍徳川家光の命で江戸城の建物が移築された。

客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。

川越城中ノ門堀跡
江戸時代、川越城は、江戸の北の守りとして重要視され、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は、城の大改修を行いました。

この際に、中ノ門堀が造られたと考えられています。
堀は、現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり、堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していました。

堀跡は、発掘調査に基づき、構築当初の勾配を復元しています。

蔵造りの町並み
明治26年3月、川越は大火に見まわれ1,033戸が焼失し、数軒の蔵が焼け残りました。
この事から蔵は火事に強いと言う事になり、以降次々に蔵が建ち始めました。

そして、最盛期には100軒もの蔵が建ち並んでいたそうで、現在でも30軒程の蔵が残っています。

この、蔵造りの町並みには電柱、電線が1本もありません。
文化遺産が立ち並ぶ街の景観を損なわない様に、平成に入ってから全て地下ケーブルにしたという。

建ち並ぶ蔵の中の1軒には、蔵造り資料館があります。
明治時代の煙草卸商の店舗だった蔵を保存し、一般に公開しています。

蔵造り資料館の近く、メインストリートから右へ折れて路地に入ると、川越のシンボルとも言うべき時の鐘が見えてきます。

江戸時代の初め頃に、川越藩主が建造させたのが最初で、当時の庶民の時計代わりでした。
現在の物は川越の大火後に作られた物を電動式にして、6時、12時、15時、18時にそれぞれ時を告げています。

小江戸横丁では紫芋ソフトを食べている人が多くいました。

菓子屋横丁は、明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気どらない駄菓子を製造したのが始まりといわれ、江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところです。

黒い蔵造り風の建物は一見すると何かのお店のようだが、前に黒い大きなポストがある。川越元町郵便局です。

川越城大手門跡は現在、川越市役所庁舎前となっており、川越城を築いたとされる太田道灌の像が建っている。

小江戸の粋を感じる消化栓の蓋

カラーマンホールは川越名物、『蔵造りの街並』と『時の鐘』がデザインされています。

独り言

川越駅で入手できる無料の観光マップの片隅に「交通安全も江戸しぐさで!」の囲み記事があり、道ですれ違う時、左肩を路肩に寄せてぶつからぬように歩く「七三の道」とか、道ですれ 違う時の気配りする「肩引き」、雨の日お互いが濡れぬ配慮の「傘かしげ」の江戸しぐさが紹介されている。

小江戸川越の蔵造りの町並みは、昔のままの大変狭い幅員ですが、現在、主要道路として交通量も大変多い道路となっています。
観光客の皆様には大変ご不便をおかけしますが、道路を渡る際は横断歩道をご利用いただくなど、交通ルールを守って、楽しく安全な観光をされますよう、ご協力をお願いします。
とあった。

現代では忘れられてしまった江戸しぐさ、もう一度思い出してみたいものだ。

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川越城へのアクセス、行き方歩き方

東武東上線・JR川越線「川越駅東口」および西武新宿線「本川越駅」から東武バス「上尾駅西口行き」、「埼玉医大行き」又は「川越運動公園行き」で約10分「市役所前」下車、徒歩約5分

常陸国一之宮 鹿島神宮

全国に約600社ある鹿島神社の総本社。
神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社。

宮中の四方拝で遥拝される一社。
初詣には全国から60万人以上が参拝し、参拝者数では茨城県2位。

国宝の直刀を所蔵するほか、境内は国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など7棟が国の重要文化財に指定されている。

楼門は日本三大楼門の1つにも数えられる。
そのほか、鹿を神の使いとすることでも知られる。

2011年東北地方太平洋沖地震により、大鳥居(二の鳥居)・御手洗池鳥居が完全に崩落し、多くの灯篭が倒れた。
他にも池の水が少なくなったりしたが、国宝や重要文化財に損傷はなかった。

2012年1月、境内の杉材を用いて大鳥居を再建することが発表された。2014年完成予定。

表参道・楼門
朱塗りの楼門(ろうもん) 寛永11年(1634年)に水戸初代藩主 の徳川頼房公(よりふさ)が奉納(ほうのう)された。
頼房公は水戸黄門光圀公(みとこうもんみつくに)の父親です。

扁額は東郷平八郎の書。
日本三大楼門の1つ。
国の重要文化財。

拝殿
本殿同様、徳川秀忠による造営。
本殿とは対照的に白木作りの簡素な意匠。
国の重要文化財。

東西に伸びる参道に対して本殿は北面しているという関係上、参道の右横に拝殿があるという構造になっている。

仮殿
本殿修理の際などに一時的に祭神を遷座する社殿。
本殿同様、徳川秀忠による造営。国の重要文化財。

石灯籠
搭高256cm、宝珠、竿は円形で、笠・火袋・中台・基台は各々6角形をなしている。

宝珠の下部には請花を彫り、笠には蕨手が巻き上がっている。
火袋は上下に格狭間を配している。

中台は格狭間の下に請花を彫り、竿は上下に2本、中部に3本の横線を刻む。
基台は反花が深く彫られている。

竿の部分に「奉寄進 藤原朝臣安藤対馬守重信 鹿島大明神御宝前 元和五巳未六月大吉祥日」と銘文があり、制作年代は1619年。

長く伸びる参道を「要石」へ向かう。

要石への途中にある「大鯰の碑」
剣をもち大鯰を抑える武甕槌神

奥宮 祭神:武甕槌大神荒魂

社殿は、慶長10年(1605年)徳川家康による関ヶ原の戦い戦勝時の御礼としての奉納。
当初は本殿として使われたが、元和5年(1619年)の造替により奥宮として使用。
総白木作りの簡素な意匠。
国の重要文化財。

要石の廻りを取り囲む参拝者。

要石は地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。
あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。

そのためこれらの地域には大地震がないという。
ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。

鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているという。
あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。

万葉集には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている。
江戸時代には、この歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられると言われた。

1255年(建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。

古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。
そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。

1855年10月の安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。

地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れた。

芭蕉句碑
枯枝に鴉(からす)のとまりけり穐(あき)の暮』(穐は秋の古語)

小林一茶(こばやしいっさ)が文化十四年(1817)に鹿島神宮に参拝したようだ。
そのときに詠んだ句「 大地震(おおなえ)にびくともせぬや 松の花 」

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鹿島神宮へのアクセス、行き方歩き方

鹿島神宮公式サイト

茨城県鹿嶋市宮中2306-1

JR東日本鹿島線 鹿島神宮駅 (徒歩10分) – 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線も乗り入れ

土井利勝が築いた名城 佐倉城

1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。

江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった堀田正信(後に改易されている)の弟・堀田正俊の孫・堀田正亮が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。

この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。
春先には近在のひき蛙がえるが数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙かえる合戦を行なっていたと、「古今佐倉真佐子ここんさくらまさご」(江戸時代中頃の書物)に記されています。

後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をおおもりしていた姥うばがあやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。
姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。

空堀。

佐倉城は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていた。

三の門跡。

戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、千葉邦胤の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。

二の門にいたる付近に、タウンゼント・ハリス像と堀田正睦公像があります。
ハリスといえば、安政5年(1858)の日米修好通商条約締結時のアメリカ総領事として日本史に登場します。

このハリスの像がなぜにこの佐倉城にあるのかというと、それはハリスと外交交渉をしたのが当時の佐倉城主、堀田正睦だったからだということです。

攘夷が叫ばれる中、欧米列強に対抗するには、開国し、貿易によって国を富ますことが肝要という考え方をもっていたそうです。

堀田正睦像
幕末の老中として活躍した佐倉藩第5代藩主。
蘭学を好み、藩内の人材育成に努めます。

また、日米修好通商条約締結に向けて、孝明天皇の勅許を得るべく奮闘しますが失敗し辞職。
また、将軍継嗣問題では徳川(一橋)慶喜を支持しますが、井伊直弼の前に敗北し隠居しました。

二の門跡。

正岡子規が佐倉城に訪れたときに詠んだ詩「常磐木や 冬されなさる 城の跡」を刻んだ石碑

一の門跡。

土塁。

明治維新後に廃城令により建物を撤去。
その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となったため、更に佐倉城の名残は消し去られてしまった。

1962年(昭和37年)3月28日市の史跡に指定され、現在は跡地に佐倉城址公園が建てられており、その一区画に国立歴史民俗博物館が建っている。

木造、銅瓦葺、六間四方、二階造り。
この銅櫓(どうやぐら)は、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したものでもとは三層であって、太田道灌が造ったものといわれている。

その不明門(あかずのもん)跡。
その名のとおり、普段は締切ってあったのでしょう。


佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年です。
佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷しました。
昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残っています。
江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

国立歴史民俗博物館
ここまで東京からでも行きにくいのが難点ですが、収蔵展示物は第一級のものばかり。
一度は見ておきたい歴史博物館です。

「歴博」の建つ場所が椎木曲輪。
三ノ丸の外郭に相当し、かつては侍屋敷や寺などがあったという。

復元された椎木門馬出し
ある意味で最大の見所、椎木門の大きな角馬出し。

周囲の堀は遺構保存のためかつてより浅くしてあります。
ちょっと綺麗過ぎる気がしないでもないですが。

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佐倉城へのアクセス、行き方歩き方

千葉県佐倉市城内町官有無番地

JR総武本線佐倉駅北口より徒歩約25分(駅からバス有り)
京成電鉄京成本線京成佐倉駅南口より徒歩約20分(駅からバス有り)

水戸城 埋もれた古城

江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城であった。
茨城県指定史跡。
三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。

水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。
北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。

本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。
また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。

徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったようである。

昔の大手橋と弘道館。

現在はコンクリですがかつては木橋でした。
幕末にはこの橋を挟んで激戦があったんだとか。
この下は堀切ですが、今では道路になっています。

現在、震災の影響により建物内(正庁、至善堂等)には入れません。

弘道館の被災の様子を伝えるパネル。

第15代の将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。
慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。
1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が起こった。

この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。
この際に城内の多くの建物が焼失した。

弘道館は水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭公により天保12年(1841年)8月に創設されました。
藩士に文武両道の修練をつませようと武芸一般はもとより、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、いわば総合大学というべきものでありました。

安政4年(1857年)には鹿島神社と孔子廟(こうしびょう)を祀って弘道館の本開館式を行いました。
当時の藩校としては国内最大規模のものでした。

この弘道館を創立した徳川斉昭の夫人である文明夫人の歌碑。

徳川頼房公は、徳川幕府創始者である家康公の11男として慶長8年(1603)京都の伏見城で生まれた。
7歳の時に、徳川御三家の一つである水戸藩初代藩主となった。

その後、頼房公の治世は53年に及び、水戸城の大修築、下町の造成、城下町の拡張や全領検地をはじめ、水利事業や藩職制の整備など、水戸藩の基礎を確立し、現在の水戸市の街づくりに生かされている。

寛文元年(1661)水戸城中で59歳の生涯を閉じた。
諡は威公と称されている。

昭和天皇御製。

水戸市立第二中学校門脇に建つ彰考館(しょうこうかん)跡の碑。

彰考館(しょうこうかん)は、江戸時代に常陸国にある水戸藩が『大日本史』を編纂するために置いた修史局(史局)。

水戸市立第二中学校門脇に建つ「大日本史編纂之地碑」

安積澹泊は、2代藩主徳川光圀のもとで「大日本史」編纂の中心的役割を果たした学者。

水戸市立第二中学校の校庭に残る、樹齢400年以上の「水戸城跡の大シイ。

江戸時代の櫓は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。

三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。
本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。
天守は建造されず、3重5階建ての御三階櫓があった。

現在の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。
三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしている。

一般公開状況
旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。

旧本丸 – 茨城県立水戸第一高等学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
旧二の丸 – 道路以外の学校敷地内には常時の立ち入りができない。

旧三の丸 – 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。

水戸第一高校の敷地内に移築現存する城内薬医門。
本丸橋詰門であったと言われています。
戦国末期のものらしい。

農人形
万民の暮らしの礎となる農業を常に尊び奨励していた斉昭は、農民の辛苦を思いやり、その営みに感謝するために、お膳にのる農民の人形を作りご飯を一箸供えてから食事をとった。

その人形が農人形で、子女にもそれに習わせ、さらに後には水戸の伝統工芸品として製造され、一般の家庭にも置かれるようになったという。

大鳥居へと登る石段の脇に、この巨大な農人形は座している。

常磐神社
光圀、斉昭の遺徳を偲び両公を御祭神として、明治6年(1873)年に創建された神社。

境内にある博物館「義烈館」には、光圀が編纂を始めその後250年ほどにも及び歴代藩主に受け継がれて完成した『大日本史』の草稿や、天保年間に攘夷のために幕府に献上した斉昭自身の設計による大砲『太極』をはじめ、両公ゆかりの品々や水戸の歴史と水戸学と称された水戸で研鑽された学問の史料が多数展示される。

芝前門
好文亭から梅園~芝生広場への門
偕楽園東門からは、梅園を経て好文亭への入口

好文亭 中の門
好文亭への入口

好文亭(こうぶんてい)は徳川斉昭の造営した偕楽園内に建つ別荘。
そこは己ひとりの楽しむところではなく、衆と偕(とも)に楽しむところであった。

昭和33年(1958年)に復元された。
好文亭の名は、梅の異名である好文木(こうぶんぼく)に由来する。

仙奕台(せんえきだい)
見晴らしが最も良い場所。この辺りは風致地区に指定されており、電信柱がなく見晴らしが良い。

偕楽園の総面積は129,531m2だが、周囲3km余りの千波湖を含むこの一帯約300ヘクタールを偕楽園公園とし、規模としては日本一となる。

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水戸城へのアクセス、行き方歩き方

茨城県水戸市三の丸
JR常磐線「水戸」駅から徒歩約8分

北条五代の栄華を秘める 小田原城

名城の名をほしいままにしていた小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく落城、100年に亘る北条五代の関東支配は終焉を迎えた。

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治5年に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。

往時は、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御屋形や本丸、天守閣へと進むようになっていました。

二の丸側から撮影。
現在の銅門は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されている。

銅門は江戸時代の工法や技術を採用しているので、木材や白壁の材料となっている土の収縮具合などを確認するため、模型を事前に作成した。

現代の技術しか知らない人たちには大変な作業だったと思いますが、江戸時代からこれだけ立派な門が作らてていたというのも当時の技術も大したものだ。

石段を登り、常盤木門を目指す。

明応四年(1495)北条早雲(伊勢新九郎長氏)が大森藤頼への謀略で奪取したといわれている。
以後、氏綱、氏康、氏政の四代に亘り後北条氏の本拠となる。
町屋を城内に取り込み、天下無双の堅城と評された。

北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。

八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。
ともかく、名城の名をほしいままにしていた小田原城も天正十八年(1590)には天下統一を目前にした豊臣秀吉21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく落城、100年に亘る北条五代の関東支配は終焉を迎えた。

梅が咲き始め、松、白壁と映える。
思わず足を止め見入る人々。

常盤木門は本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。

元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。

常盤木とは常緑樹の意味で、門の横にあった松の木が常に緑色をたたえ何十年も生長することより、小田原城の永遠の繁栄を願って命名されたものだとか。
珍しい門の名前だ。

天守へ登る石段、桜が咲けばいい撮影ポイントになるだろう。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。

一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。
小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
真鶴御崎方面の眺め。

曽我の里を望む。

こちらは丹沢方面。

小田原城八幡山古墳を望む。
現在の小田原城天守閣から線路を越えたすぐ向いの「八幡山」一帯が後北条氏時代の城郭主要部で、中世の遺構が複数確認できる。

遠景は先ほどまで観光していた箱根。

石垣山一夜城を望む。

本丸広場からの天守。
午前中が順光で綺麗に撮れる。
元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。

古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。

江戸時代の遺構とされてきた小田原城址(じょうし)公園(同市城内)の「御用米曲輪(ごようまいくるわ)」跡から、戦国・北条時代の庭園遺構が見つかった。
同曲輪跡では昨夏、同時代の主殿級建物跡の一部が出土している。

一連の発見で「市内でも先例のない近世、中世の複合遺跡」(市文化財課)に格上げされ、市は整備計画を大幅に見直すことになりそうだ。

馬出門は、二の丸正面に位置する重要な門で、江戸時代の初期からこの場所に存在し、寛文12年(1672)に桝形形式の門に改修され、江戸時代の終わりまで存続した。

門の構造は、馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ桝形形式。
なお、この復元によって馬出門、銅門、常盤木門、天守閣へと続く往時のルートが再現された。

平櫓は1934(昭和9)年復興。
二の丸南東角にある櫓で、関東大震災で倒壊するまで小田原城で唯一、残存していた櫓。
桜のシーズンには非常に美しい姿を見せる。

小峰橋【御茶壺橋】
江戸時代、宇治から将軍家に献上する際に幕府は御茶壺道中と呼び行列を仕立てて運搬、小田原城内には御茶壺を保管する為の御茶壺蔵が設置されていた。

お堀のほとりに植えられた藤は、もともと小田原城藩主の大久保氏が所有していた鉢植えだったもの。
大正天皇が皇太子時代に「見事な花」と感嘆したことから「御感の藤」と呼ばれるようになった。
その後、2株加えて計3株が現在の場所に移植されたという。
樹齢は一番古いもので推定200年と言われ、「かながわの名木100選」にも選ばれている。

「ういろう」はもとは薬の名前だったそうだ。
外郎さんの先祖はもともとは中国からの帰化人。
中国で千年つづいた名家で、1368年に元が滅んだ時に日本に亡命してきたそうだ。

京都に来て、先祖伝来の霊薬が珍重されて朝廷の典医になられる。
霊薬には「透頂香(とうちんこう)」という正式名がつけられたが外郎さんちの製薬だからこの薬のことを「ういろう」と呼ぶように。

海外のお客様が朝廷に来た時は接待担当も引き受け、外郎家ホームメイドのお菓子を提供していました。
それが米粉、餅粉、黒砂糖(orあめ、みつ。当時は白砂糖がないから)で作ったお菓子だった。

小田原城のお堀に沿って小田原市立三の丸小学校がある。
小田原城の雰囲気に合わせ、校舎が白壁と瓦屋根で造られていて、とても公立の小学校とは思えない素晴らしいな外観。
都市景観大賞を受賞。

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小田原城へのアクセス、行き方歩き方

〒250-0014
神奈川県小田原市城内6-1
TEL:0465-23-1373 (観光課 城址公園係)
JR東海道線・東海道新幹線・小田急小田原線「小田原駅」より徒歩約10分

「出女」を取り締まった箱根関所

通行時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて夜間通行は原則禁止された。
これにより、「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。

後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった

江戸口御門
京口御門の対面側にあります。
高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。
屋根や外観は「栩葺」、「渋墨塗り」です。

江戸方面から来た場合には、この門から中が箱根関所の構内で、西へ向う旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。

館内には当時の関所での取り調べの様子を再現した人形や、関所手形をはじめとする約1000点の資料が展示されています。

関所の管理は小田原藩が行い、番頭1人、横目付1人、月交代の定番5人、兵5人、足軽25人が配属されていました。
ちなみに、午前6時から午後6時までが門が開いている時間です。

箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。

京口御門
江戸口御門の対面側にあります。
高麗門という形式の門で、その高さは6.1mで、大番所・上番休息所をしのいでいます。
屋根は外観は「栩葺(とちぶき)」「渋墨塗り(しぶすみぬり)」です。

京都方面から来た旅人は、この門から中が箱根関所の構内で、旅人はこの門の前で身支度を整え、関所の中へと入りました。

厩には5頭の馬がつなげますが、実際には2頭しかいなかったようです。

「出女」の衣服を改めているところ。
ちなみに、「入り鉄砲に出女」という言い方をしますが、ここ箱根の関所では「出女」の調べが重点的に行われたそうです。

遠見番所
足軽番所の裏手の丘に設置されたもので、船の通行が禁止されていた芦ノ湖や、東海道を監視していました。

遠見番所より箱根関所と芦ノ湖が一望できます。
建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。

また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。

矢場は箱根関所の杉並木側のすぐ隣、現在のお茶屋さんの広場のところにありました。
一部を発掘調査したところ、旧東海道から矢場へと降りる石段などが発見されました。

また、矢場は箱根関所の役人が弓や鉄砲の練習を行ったところで、箱根関所の一部とも言えるものです。

芦ノ湖、奥に富士山も見えるのですが・・・今日はガスが懸かっています。

箱根関所と恩賜公園との間に杉並木があり、また、恩賜公園の先にも杉並木があります

恩賜箱根公園駐車場、片隅に雪が残っています。

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箱根関所へのアクセス、行き方歩き方

箱根関所公式サイト

〒250-0521 神奈川県足柄下郡箱根町箱根1番地
TEL. 0460(83)6635  FAX. 0460(83)6383
小田原駅より箱根町行バス55分、箱根関所跡下車2分
箱根湯本駅より箱根町行バス40分、箱根関所跡下車2分