上杉家菩提寺 春日山林泉寺

上杉氏の本拠地があった春日山城(現在の新潟県上越市)の山麓に建立された林泉寺を元としている。

上杉氏の転封にともない謙信の遺骸、上杉氏関係の文書、重宝の大半が米沢に移された。林泉寺もこれに従って移転したとされる。
関連記事:上杉謙信の牙城 春日山城

林泉寺山門
現在の山門は、門東町にあった竹俣家(今の九里学園高等学校所住地)の門を明治35年に移転したものです。

家老竹俣当綱当時(1770年)、藩主上杉鷹山公がくぐられた門です。

関ヶ原の戦いの後に米沢に移った上杉景勝の実母(上杉謙信の姉、長尾政景の妻)仙洞院(仙桃院とも呼ばれる)が元和3年(1617年)に林泉寺14世・万安大悦を招聘して同号の寺を建立された。

米沢藩中興の祖と仰がれる十代鷹山公御手植えの桜といわれています。(樹令約200年)

林泉寺本堂の正面、堂内には 直江兼続公夫妻の位牌や謙信公直筆の書などが展示されています。
堂内は「撮影禁止」でしたので画像はありません。

本堂の前の池には水芭蕉が。

本堂裏手にある庭園は、禅寺らしい素朴さ、米沢三名園といわれている。

上杉家墓所へ向かう。

甘糟備後守景綱の墓 
上杉謙信・景勝に仕えた剛勇で名高き武将です。
上田長尾の家臣 登坂清高の嫡男ですが、謙信の命により甘糟を相続しています。

景勝の重臣として、越後の護摩堂城・五泉城・庄内酒田城の城主となり、慶長3年(1598年)には白石城(宮城県)の城主に任じられます。
慶長16年(1611年)62歳にて死去。

この穴だらけの塔は万年塔。
万年塔とは直江兼続が考案した、米沢藩独特の墓石です。

中がくりぬかれ、側面に穴があけられた長方形の石の上に、屋根をのせた形をしています。
これは有事の際には屋根を取り外してバリケードとし、また、洪水の際には土をつめて土嚢になるようにと考えられたものでした。

この万年塔は、現在も米沢のあちらこちらのお寺でみかけることができます。

ひときわ目立つ場所にあるのが直江兼続夫妻のお墓です。
夫婦の墓所としては珍しく、夫と妻が共に同じ大きさの墓となっています。

直江夫婦は仲睦まじかったと伝承にもあるように、長い時を経た現在も、二人は共に寄り添って眠っています。

この墓所は山形県指定史跡となっています。

仙洞院の墓
上杉謙信公の姉で、長尾政景に嫁して二代景勝(政景二男)を生みました。

慶長14年2月15日、米沢城二の丸において82才にて逝去しました。

越後、会津、米沢と激しい転封によって財政緊迫となっていましたが、米沢に林泉寺を建立することに尽力したことから、林泉寺中興開基と称しています。

お豊の方は30歳で10歳若い鷹山公の側室となり、養蚕の奨励をするなど江戸にいる正室に代わって鷹山公の藩政改革を支えた才気ある女性です。

領民に大変敬愛されていたそうです。
享年81歳・・仙洞院に負けず劣らずの大往生。

寺中の春日大明神は、上杉鷹山公(治憲)が御節倹の折、立志の誓詞を捧げられた由緒深いものです。

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春日山林泉寺へのアクセス、行き方歩き方

春日山林泉寺公式サイト

住所:山形県米沢市林泉寺1-2-3
電話:0238-23-0601

JR山形新幹線米沢駅から市民バス循環右回りで14分、山大前下車、徒歩10分

桜の名所 三春城跡

三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。
現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。

別名舞鶴城。

丘陵の中腹地(現在お城坂といわれる登り口付近)には重臣の屋敷が配置された。

お城坂の中ほどにある見事な枝垂桜。

伊達政宗の正室 誕生の地

三春城にまつわる幾多の歴史の中で、多くの人にロマンを感じさせているのが「東北の雄」伊達政宗に嫁いだ愛姫(めごひめ)。

政宗と愛姫が結婚した背景には、三春城下を治めた田村家と伊達家の深い関係がある。
愛姫は1568(永禄11)年、三春城主だった田村清顕(きよあき)の一人娘として生まれた。

田村家は会津の葦名家をはじめ、二本松の畠山家、須賀川の二階堂家などに囲まれ、周辺の大名と対立することが多かったという。

このため清顕は、葦名家と対立関係にあり以前から縁戚でもあった伊達家に接近、愛姫を伊達家総領となる政宗に嫁がせ、両家の関係強化を図ったとされる。

2人が結婚したのは1579(天正7)年冬。
愛姫が数え年で11歳、政宗は12歳だった。

若者同士で当初の夫婦仲は良好でなかったものの、愛姫は政宗の正室となり、女児1人、男児3人に恵まれた。

86歳で死去したが、晩年は政宗と互いに愛情あふれる夫婦生活を送ったとされる。

二の門跡付近には『愛姫生誕の碑』があります。

急な登攀路を登る。

登城路の屈曲部分に設けられた揚土門跡。

続いて現れる三之門跡。
揚土門と同じように屈曲部分に設置された門で、往時の登城路がそのまま残っている。

最後の急登を喘ぎながら登る。

二の丸大手門である大門跡。
門の礎石が残っている。

この二の丸曲輪はかなり広い。この城の二の丸は、ここだけでなく、下の方にも段曲輪になって、 いくつもあるようであった。

後方の削平地が二の丸跡(江戸時代には本丸の一部となった)で、現在は東屋が建っている。

本丸大広間跡。
生憎桜が散ってしまった後だったが、満開時はなかなかの花見スポットであろう。

慶應四年(1868)七月二十六日、三春藩が突然、新政府軍に寝返った。
列藩同盟に参加したものの、三春藩上層部は最初から勤王寄りであった。

五月三十日には、京都に使者を送り、朝廷に救援を要請していた。
七月に河野広中が土佐藩の板垣退助に接触し、新政府軍を三春城内に迎え入れることに成功した。

その一方で近隣の二本松藩や福島藩には使者を派遣して同盟を装っていた。
これに気付いた二本松藩では使者を惨殺した。

三春城址には、この時殺害された四名を慰霊する明治戊辰役三春藩烈士碑が建立されている。

急な山肌に残る石垣。

本丸への道の脇に矢倉跡の標柱。

三春正道館は、明治初期の福島地方における唯一の政治教育の学塾でした。
創立は明治一四年6月頃とされ、場所は旧藩校明徳堂の跡地を利用したものです。

明治の頃の自由民権運動では、板垣退助を中心とする「西の高知」と対比され、後に衆議院議長になった河野広中が中心となり「東の三春」と称され東国自由民権運動発祥の地とされています。

三春町は、滝桜で有名な町で、町のあちこちで目にするシダレザクラが町の木になっています。

マンホールのデザインも、桜の中に「みはる」の「み」をデザインした町章が描かれています。

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三春城跡へのアクセス、行き方歩き方

住所 :田村郡三春町大町

JR磐越東線三春駅~バス/役場前

郡山 開成山公園 満開の桜に酔いしれて

昨日の泊りは郡山ワシントンホテル
朝食前のわずかな時間にタクシーで訪れた。

開成山公園は県内でも有数な桜の名所であり、郡山の安積開拓時に植樹した桜を含め、約1300本が咲き乱れる。
開花時期にはライトアップされ、多くの露店が並び、賑わう。

日の出に照らされる桜を撮りたいと5時にやって来た。

朝日に照らされピンクに染まった桜、タクシーを30分待たしたが園内はとても広く、すべては見れない。

園内には開成山総合運動場、隣接地には郡山総合体育館があるため、福島県内では福島市のあづま総合運動公園と並ぶスポーツの拠点でもある。
この向こうには大きな池が広がり、満開の桜が見事であった。

JR福島駅、新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが、新幹線ホームには同新幹線の列車のほか、福島駅から奥羽本線に直通するミニ新幹線である山形新幹線の列車も停車する。

『夢を開くこころの扉~扉の向こうには…笑顔~』と名付けられたモニュメント。

郡山市のマンホールは、郡山市の木・ヤマザクラと、市の花・ハナカツミ、市の鳥・カッコウのデザインです。

こちらは消火栓の蓋。

開成山公園へのアクセス、行き方歩き方
住所:郡山市開成1丁目5
電話 体育施設に関しては024-934-1500(総合体育館) 公園施設に関しては024-924-2361(公園緑地課)、024-934-8733(開成山公園管理事務所)

JR郡山駅から福島交通バス約15分「郡山市役所前」下車徒歩すぐ

日本三大桜「三春滝桜」は見事でした

樹齢推定1000年超のベニシダレザクラ(紅枝垂桜)の巨木。
国の天然記念物。三春の滝桜、また単に滝桜とも呼ばれる。

満開時の姿は壮麗。東北の一本桜として、毎年、30万人近くの花見客が訪れます。

毎年4月中・下旬に四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲き匂うことから、この名がある。

推定樹齢1000年超、樹高12m、根回り11m、幹周り9.5m、枝張り東西22m・南北18m。

震災に耐えた福島の銘木として全国で子孫樹・姉妹樹を植える動きがあることが先日の新聞報道であった。

天保の頃、加茂季鷹の詠歌によってその名を知られ、三春藩主の御用木として保護された。

日本三大桜とは三春滝桜(福島県三春町)、淡墨桜(岐阜県本巣市)、神代桜(山梨県北杜市)をいう。

残雪の安達太良山、吾妻連峰方面の遠望。

草野心平の歌碑。

マンホールの蓋、丸に農とあるので、市街地にはないんでしょうね。

三春滝桜へのアクセス、行き方歩き方

三春滝桜公式サイト

住所:福島県田村郡三春町大字滝字桜久保296番地

JR磐越東線・三春駅から約8km。花の盛りには三春駅発の有料シャトルバスが運行される

奥州三関 白河の関

白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。
江戸時代東北は二つの国しかなかった陸奥国と出羽国、通称として「みちのく」とも呼ばれる。

地租改正が行われた明治初期までは、他の地方に比べて貨幣経済の浸透が遅れており、国内市場としての重要度も低かった。

奥州三古関のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていたと考えられています。

松平定信による古関蹟
定信は古絵図や古歌、老農の話などから関跡を白河市旗宿のとある小丘にもとめ、「古関蹟」碑を建てた。

定信の推定が全く正しかったことは、昭和三十四年から始まった同地の発掘調査によって証明されたのである。

白河神社 参道入口

治承4年(1180年・平安時代)は、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝わり、祈願をした「矢立の松」が、小さな根元のみの姿となって残っています。

白河神社

古歌碑
 便りあらばいかで都へつけやらむ
   今日白河の関はこえぬと
  平兼盛

 都をば霞とともに立ちしかど
   秋風ぞ吹く白河の関
     能因

 秋風に草木の露をはらわせて
   君がこゆれば関守もなし  
梶原景季

カタクリの花の時期は4月の中旬で、開花は1週間ほどです。

1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。

ここはカタクリの群生地です。

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。
1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

曾良日記によれば、芭蕉は、芦野で遊行柳を見た後、寄居を経て境の明神まで行き、そこから右へ折れて旗宿に向かっている。

旗宿には古来より有名な白河の関があり、芭蕉はここを訪れたが、どの辺が古関の跡かは確認できなかったようである。

白河関の森公園に、平成元年、「おくのほそ道」紀行300年を記念してに建てられた芭蕉と曽良の像があり、台座に、須賀川で詠んだ芭蕉の句と曽良の上の句が刻まれている。

風流の初やおくの田植うた 芭蕉

卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良

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白河の関へのアクセス、行き方歩き方

住所:福島県白河市旗宿
電話:0248-22-1147白河観光物産協会

JR白河駅→福島交通バス白河の関行きで30分、バス停:白河の関下車、徒歩すぐ

南北朝以来の名城 白河小峰城

撮影時(2014.04.15)には福島地方は桜満開でした。
しかし、白河小峰城は2011年3月11日に発生した東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立入禁止となっている。

トイレ休憩で立ち寄った安達太良SAからは安達太良山がよく見えていました。
日本百名山およびうつくしま百名山に選定されている。

高村光太郎の智恵子抄で有名ですね。

SA内の桜も満開です。

白河小峰城は東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城とともに「東北三名城」のひとつにも数えられている。
クリックして拡大して見ていただくと崩壊した石垣が見えると思います。

崩落前の本丸石垣。

二の丸広場から眺める石垣と満開の桜。

白河小峰城は、南北朝時代の1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)に、結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。

1590年(天正18年) 城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。

1627年(寛永4年) 丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、寛永6年より城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632年(寛永9年)に完成した。

その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。

1868年(慶応4年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した。

城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料に基づいて復元された。

三重櫓(天守に相当)付近はクレー車が入り、工事が行われており立ち入り禁止です。
生活関連施設でないため復旧は後回しになりまだこれから2~3年かかるという。

このお城こそ、列藩同盟側の瓦解の前触れとなる戦いの舞台となったのである。そもそも列藩同盟構想の火付け役は会津藩であるが、会津藩が、他の東北諸藩に範を見せなければならぬところに、この白河城の落城という決定的な事件が起きたのである。

会津藩は大勢の藩士を城に送り込んだ。
そして総督に、あの西郷頼母が起用されたことに、周囲の人々は首をかしげた。

頼母は、会津藩の京都進駐に大反対したことで容保の怒りにふれ、事実上引退の身、それ以前に実戦経験がない。

頼母の起用は、容保の配慮があったとも言われているが、そこがまた古めかしい考えだった。
案の定、白河城はたった一日で落城してしまう。

1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料に基づいて復元された。
崩落前の姿です。

工事用の塀越しに背伸びして撮った三重櫓と前御門。

おとめ桜の伝説
寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まった。

すると、最初に来たのは作事奉行の娘「おとめ」だった。
父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは人柱にされてしまった。

その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。

現在三重櫓のすぐ横に植えられているおとめ桜は二代目で、初代は戊辰戦争の時に焼失している。

「白河集古苑」は南東北の有力武家「白河結城家」に伝わる古文書を展示する「結城家古文書館」と、江戸時代末、最後の白河藩主「阿部家」に伝わる美術工芸品を展示する「阿部家名品館」からなる博物館です。

苑内には芭蕉の「むら尾花句碑」がある。
ほととぎすまねくか麦のむら尾花」は貞享4年(1687年)に詠まれた句で、「むら尾花句碑」は、安部家に代々伝えられている。

白河城(小峰城)大手門跡の礎石
大手門は、白河城の表玄関にあたる門で、平成5年に実施した白河駅前区画整理事業に伴う発掘調査により所在が確認されました。

絵図面との照合から、調査において発見されたのは、門の北側の部分であることも合わせて確認できました。
ここに展示している礎石は、発掘調査により発見されたものを、発見時の寸法のまま移設したものです。

礎石は、上面を平坦に加工し柱を据える中央部分には「ほぞ穴」が設けられ、周囲には柱材のヤニの痕跡が残されています。

このヤニの痕跡から柱の太さは門柱が62×46cm、控柱は33cm角であったことがわかりました。
=== 案内板より ===

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白河小峰城へのアクセス、行き方歩き方

住所:福島県白河市郭内
電話:0248-22-1111(白河市都市計画課)

JR東北本線 白河駅から徒歩約10分。

桜まとう天守閣 白石城は桜満開

今日から南東北の名城巡りです。
まず仙台藩伊達氏の支城として用いられ、片倉氏が代々居住した白石城からスタートです。

仙台行ANA733便に搭乗、今回は内陸よりの飛行コースをとったため富士を見ることができた。
機内からガラス過ごしの撮影のため鮮明でないのがたまにきず。

九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。
別名益岡城(枡岡とも)。

明治維新には戊辰戦争の際、薩長連合に対抗するための奧羽越列藩同盟(三十一藩)の盟約が白石城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。

その後、按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の転換期には一役を担う重要な城でした。

二ノ丸大手二ノ門跡
二ノ丸の東に位置し、白石城東側にある奥州街道沿いの大手口から二ノ丸へ通じる門であった。

天守の代用となっていた三階櫓は、支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけられたとされる。

戊辰戦争に敗北すると、明治6年の「廃城令」によって城のほとんどの建物は取り壊されることになります。

家屋敷を失った片倉家の家臣たちは、その後、当時北海道開拓の運搬船となっていた「咸臨丸(かんりんまる)」に乗船し、海を渡りました。

北海道移住の開拓費用に充てるため、白石城 の建物は各方面に払い下げられ、そのわずかな遺構が市内に保存されています。

情報不足の東北諸藩を道連れにしたのはあの容保の会津藩でした。

天守からは片倉小十郎も眺めたであろう雄大な蔵王連峰の姿を望むことができます。

片倉小十郎は政宗公より十歳年上で、政宗公が幼きころより守役を、そして長きにわたって伊達の軍師を務めた。

政宗公に剣術を指南したといわれるほどの剣術の腕前の上に智略に優れ、政宗公の命運を左右する合戦には必ず景綱の姿ありといわれた。

太閤豊臣秀吉公に直臣にと望まれたが、政宗公への忠義を貫き通した。
一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城の城主となり白石の地を治めた。

本丸御殿跡は桜の園です。
かつてはここに御殿が建てられていた。

天守から見た大手一御門・大手二御門。
天守とともに復元され、桝形を構成し、一ノ門を抜けると、進行方向が鍵形に曲がっている。

本丸御殿跡から三階櫓をのぞむ。

本丸二ノ門
櫓門となっている。
これは本丸側から撮影したもの。

「本丸跡外郭東側の石垣は「野面(のづら)積み」という自然石を積み上げたもので、
大きな石の周りを小さい石で囲むように積み上げている。

時代としては安土桃山時代、蒲生郷成が白石城の城代だった頃に築いたとみられる。

市の花「ヤマブキ」がデザインされたマンホール。
真ん中の釣り鐘は市章で、白石城主片倉公の軍旗からきている。
釣り鐘の中に「白」の字がデフォルメされています。

白石城へのアクセス、行き方歩き方

住所:宮城県白石市益岡町1-16
電話:0224-24-3030

JR東北本線、白石駅下車、徒歩15分。

臨池伽藍跡と浄土庭園 毛越寺

毛越寺は中尊寺と並び平泉町を代表とする寺院で、国特別史跡と特別名勝に指定されている。
「吾妻鏡」によると慈覚大師円仁が開山し、主に藤原氏二代基衡、三代秀衡が再興し伽藍の造営にあたった。

寺名の詠み

毛越寺はモウツウジと詠みます。
通常、越という字をツウとは読みません。

越は慣用音でオツと詠みます。
従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したもの。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」 の英文の句碑。
新渡戸稲造が英訳したもの。

伽藍復元図     
中央の池左手前に南大門があり、橋を渡った向かいに金堂があった。

手前の門が南大門だと言う事なので、中島を渡って北方向にある金堂円隆寺(こんどうえんりゅうじ)にお参りするように造られていたらしい。
昭和29年から5年間かけて発掘調査された。

金堂跡を右手に見ながら池辺に沿って進み西岸にまわると、南大門の西寄りには池水面より約4メートルほどの高さの築山があります。

水際からその山頂近くまで、大小各種の石を立て、岩山の姿を造り出しており、深い淵に臨む断崖の景観を思わせます。

開山堂
毛越寺を開いたといわれる慈覚大師をまつる堂です。
両界大日如来像、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の画像を安置しています。

開山堂に祀られている慈覚大師。

嘉祥寺跡
金堂円隆寺の西に、杉並木に囲まれてほぼ円隆寺の大きさに近い土壇があります。

巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきました。
嘉祥寺は『吾妻鏡』にある嘉勝寺に相当します。

そしてその東側に嘉祥寺跡と同規模の金堂円隆寺跡があります。
これこそが毛越寺の中心伽藍で、本尊は運慶作の薬師如来だったそうだ。

地蔵菩薩
お地蔵様は餓鬼道の能化(のうけ、仏菩薩)である。
地蔵十益、地蔵二十八益という御利益がある仏様で、手に持つ宝珠は如意の玉ともいわれ、このお地蔵様を信仰すれば、願い事が意のままになるという意味である。

遣水(やりみず)
池の北側には、平安時代の遺構としては、日本唯一最大のものとされる遣水があります。

池に水を引くためと曲水の宴を開くために造られたものでありますが「作庭記」に記述されている四神相応・吉相の順流が゛“遣水”の現場所であり、曲がりくねる水路の流れに、水切り、水越し、水分けなどの石組がなされ、四季折々の景色とあいまって、素晴らしい景観をつくっています。

常行堂
もとは金堂(円隆寺)の東側に法華堂と並んで建てられていましたが、慶長2年(1597)4月、野火のために焼失した。

享保17年(1732)、仙台藩主伊達吉村公によって再建された現在の堂は、宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)がまつられています。

鐘楼
現在の鐘は昭和50年、人間国宝香取正彦氏の作で、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれています。

姿形は、平等院風を思わせ、美しい音色を響かせています。

常行堂跡
法華堂跡と伝えられる土壇の西方、40尺内外さきに、方五間茅葺方形造の常行堂が南に面してあります。
この建物は享保年間に建築されたものですが、おそらく創建以来、同じ位置にあるものと考えられてきました。

ところが発掘調査によって、常行堂跡が現行の常行堂の位置とは違うことが明らかになりました。
今、常行堂跡と呼ばれる遺跡は、法華堂跡土壇の南方約30尺にある土壇です。
発掘調査時には大変に保存状態が悪く、残存している礎石もありません。

洲浜
池の東南隅に築山と対照的に造られた洲浜は、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表しています。

他に比べて池底を特に浅くし、広々と玉石を敷きつめているので、水位の昇降に応じて現れるゆったりした姿を眺めることができます。

出島と立石
約3000坪の広さを持つ大泉が池は水際に海岸の風景を、また随所に山水の景観をうつして絶景です。

なかでも池の東南岸にある荒磯(ありそ)風の出島は、庭園中最も美しい景観の一つです。
池辺から水中へと玉石を敷きつめ、石組が突き出し、水中には岸から約11メートルの飛島に高さ約2メートルの立石がそそり立っています。

池全体の調和をひきしめて、見る者の心をとらえて離しません。

芭蕉句碑
文治5年(1189)、泰衡に急襲された義経は、妻子とともに自害しました。
元禄2年(1689)旧5月、この地を訪れた芭蕉は、悲運の義経主従をしのび、次の句をよんでいます。
 「夏草や 兵どもが 夢の跡

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毛越寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒029-4102 岩手県平泉町字大沢58 
TEL:0191-46-2331

JR東北本線平泉駅徒歩約12分

藤原三代栄華の跡 中尊寺

中尊寺は天台宗の東北大本山。
創建は嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁によって開山されたとされる。

その後奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)。

岩手山SAに石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

市立函館図書館啄木文庫所蔵「歌稿ノート」より

石川啄木が深い悲しみを抱いて北海道へ移住したのは明治40年5月4日のことである。
以後27歳で客死するまで二度と故郷に帰ることはなかった。
しかし東京時代の啄木は岩手の山河を思い浮べ尽せぬ望郷の念を短歌に託し歌集『一握の砂』を編んだ。
これが無二のものとして現代人の心を打つのである。

昭和から平成への改元にあたって日本道路公団は啄木と故郷のえにしを記念し、歌碑を建立して天才のおもかげを永く世に伝える。
歌碑の歌は明治43年8月28日東京本郷弓町時代の作歌で、啄木自筆の原稿ノートより採録した。

平成元年4月20日

日本大学教授文学博士 岩城之徳

国道4号線を挟んだ平泉文化史館前と駐車場には、武蔵坊弁慶立ち往生(矢を受け立ちながら絶命)の旧石碑や多数の案内板、碑が点在しています。

弁慶立ち往生旧跡傍の弁慶力石。

中尊寺入口の『武蔵坊弁慶の墓』。

陸羽街道 (国道4号) から月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に諸堂が点在する。
山内には中尊寺本坊のほか、17か院の子院がある (大徳院、地蔵院、瑠璃光院、願成就院、金剛院、積善院、薬樹王院、真珠院、法泉院、大長寿院、金色院、釈尊院、観音院、常住院、利生院、円教院、円乗院)。

道の両側には、江戸時代に平泉を治めていた伊達藩によって植樹された樹齢30~400年ほどの杉の並木が続き、歴史の長さを物語ってくれます。

八幡堂の創建は天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚の長である安倍氏を討つ(前九年合戦)為、この地(中尊寺境内月見坂)で戦勝祈願した事が始まりとされます。

弁慶堂は中尊寺の参道沿いにある建物で、入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されています。

案内板によると「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。
藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。

弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」とあります。

中尊寺の表参道を本堂に向かう途中、見晴らしの良い物見台があります。
ここに二度平泉を訪れて歌を詠んだ西行法師の歌碑があります。

「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」

清衡の願文(がんもん)の意の大文字   梧逸

中尊寺の向いの、束稲山(たばしね山)の大文字焼は、初代清衡の平和への願いなのだ・・・という句。

この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。
その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。

観音堂は、観世音信仰の広がりから全国各地に建立されている。
観世音の住むところは、南海補陀洛山(ふだらくせん)とのことから、多くは山の中腹や断崖の上、海岸の岬等に建立されているようだ。

参道である月見坂を登った右手の中尊寺本坊内にある、中尊寺の本堂である。
1909年 (明治42年) の建築。

2013年3月24日、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われた。

願成就院宝塔(重文)。

本堂から金色堂に向かう途中にある不動堂は、中尊寺の祈祷道場です。
ご本尊の不動明王は、右手に宝剣(剣)を持ち、どんな邪悪をも切って破る。

しかし、左手の羂索(ロープ)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示しています。

この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体です。

鐘楼は案内板によると「当初は2階造りの鐘楼であったが、建武4年(1339)の火災で焼失。
梵鐘は康永2年(1343)の鋳造。

銘に中尊寺の創建や建武の火災のことなどを伝え貴重である。撞座の摩耗はなはだしく、今ではこの鐘を撞くことはほとんどない。
鐘身高さ113.2cm口径86cm・・・(後略)」とあります。

弁財天堂は金色堂の丁度向い側にあたり、茅葺の寄棟造りの屋根で間口3間の建物です。
弁財天を祀っている場所にふさわしく廻りを池で囲まれた小島の上に建立され、基礎束が高くなり湿気から護ると同時に印象深い容姿になっています。

野外能楽殿入り口。

野外能楽殿に向かう途中に木の根道の美しい参道がありました。

白山神社能舞台 (重文)
境内北方に位置する、中尊寺の鎮守・白山神社内に建つ。
嘉永6年 (1853年) に仙台藩によって再建されたもの。

近世の能舞台遺構としては東日本唯一のものとされ、日本の芸能史上貴重な遺構として、2003年に重要文化財に指定されている。

明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられた場所。

境内末社は、それぞれの干支にちなんだ宮が12社あります。

山口青邨句碑

人も旅人われも旅人春惜しむ

郷里に叔母の病気を見舞った帰途平泉に下車、中尊寺を訪ねた。
山桜が散る金色堂のほとりに立って瞑想。
ここには西行も来た、芭蕉も来た。

とあります。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年 (1124年) と判明する。
この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体 (ミイラ) が安置されている。

経蔵 (重文)
金色堂の近くにある。国宝の一切経を納めていた建物で、一部平安時代の古材が使用されているが、建築年代は鎌倉末期と推定されている。

内部には国宝の螺鈿八角須弥壇 (実物は讃衡蔵へ移動) が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像 (重文) を安置していた。

金色堂の脇に建つ芭蕉の「五月雨の降のこしてや光堂(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。

まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。

中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座している天満宮。

源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。

芭蕉46才、曽良41才の春です。
江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。

丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。
そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。

金色堂旧覆堂 (重文)
1962年、金色堂の解体修理工事が始まるまでの約500年間、金色堂を風雨から守ってきた堂で、1964年に100メートルほど北西の現在地に移築された。
建築年代は室町時代中頃と推定される。

旧覆堂を出たところからの大長寿院山門は美しい。

旧覆堂を出て坂道を少し下ると、左に山門があって奥に、中尊寺の中でも、最初院と呼ばれる多宝塔の次に古い大長寿院の本堂が見える。

大長寿院は、庭が美しい。
苔むした庭に、春に芽吹いたカエデが、秋には真っ赤になってこの庭を染める。

釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」。

藤原清衡と中尊寺

奥州藤原氏の初代、藤原清衡は前九年の役のさなかの天喜4年 (1056年) に生まれた。
清衡の家系は藤原秀郷の流れを汲むという。

清衡が7歳の時、彼の父藤原経清は、安倍氏に味方したかどで斬殺された。
清衡の母は安倍氏の出であったが、夫経清が殺害された後、安倍氏とは敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚。

清衡は清原武貞の養子として「清原清衡」を名乗ることになる。
つまり、清衡は前九年の役で滅亡した安倍氏の血を引くとともに、後三年の役で滅びた清原家の養子でもあった。

清衡の兄弟には兄・真衡 (清原武貞と先妻の子) と、弟・家衡 (清衡の母と清原武貞の間に生まれた子) がいた。

真衡は弟の清衡・家衡とは対立していた。
真衡の死後、彼が支配していた奥州の奥六郡は、清衡と異父弟・家衡に3郡ずつ与えられたが、これが元となって今度は清衡と家衡の間に争いが生じた。

清衡は源義家の助力を得て戦いに勝利し、清原氏は滅亡した。
この一連の内紛を「後三年の役」と称する。

この合戦のさなか、清衡は館に火を放たれ、妻と子を失っている。

その後、清衡は現在の岩手県にほぼ相当する奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である「藤原」を名乗って「藤原清衡」と称するようになる。

清衡は寛治3年 (1089年) には陸奥押領使に任命され、嘉保4年 (1094年) 頃には居館を江刺郡豊田館 (とよたのたち、奥州市) から、中尊寺のある平泉に移している。

このように、藤原清衡の前半生は兄弟・親族が相争うもので、多くの近親者の死を目の当たりにしてきた。

壮年以降の清衡が平泉の地に、都の大寺院にも劣らぬ仏堂を造立したのは、その莫大な経済力の背景があったこととともに、戦いに明け暮れた前半生を省み、戦没者の追善とともに、造寺造仏、写経の功徳により、自己の極楽往生を願ってのことであったと推測されている。

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中尊寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202 
電話:0191-46-2211

JR平泉駅から中尊寺月見坂入口までは約1.6km。
徒歩で約25分程度。

青森港に夕日朝日を追いかけて

陸奥湾の最奥部に位置する、波浪の少ない天然の良港。
江戸時代初期に弘前藩により港が開かれ、その後江戸時代を通じて藩の商港として栄えた。

明治後期以降は1908年(明治41年)の青函連絡船の就航により本州と北海道を結ぶ港として位置付けられ、1988年(昭和63年)の青函連絡船運航終了まで鉄道輸送と船舶輸送の結節点として位置し続けた。

しかし、国鉄による青函連絡船が運航終了した今日もなお、北海道と本州を結ぶフェリーの発着地としての重要性は衰えておらず、青森港の取扱量の大部分をフェリーによる車両の移出入が占める。

また、その他の貨物では主に石油製品・LPGが扱われ、主に石油製品やLPGを輸入あるいは移入、LPGを主に移出している。

現在はクルーズ客船の寄港が多く、2011年(平成23年)は年間10回(6隻)が寄港している。

ホテルにチェックイン後あたふたと撮影に出かけた。
柳橋通りをベイブリッジの交差点にたどり着いた所で日の入りを迎えた。

右に見えるのは観光物産館「アスパム」

少し進むと対岸に青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸が見えてくる。

青森ベイブリッジ
橋長は1219mあり青森市最長の橋。
青森県では八戸大橋 (1323.7m) に次いで2番目。

橋脚やケーブルなどいたる箇所に青森の頭文字である「A」の形がかたどられている。

青森っベイブリッジの下にあり、青森港にかかる歩道橋・青森ラブリッジ。
青森ラブリッジという名称は、海を見つめながら愛を語るところからこの名前がつけられたとの説もある!?

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
1964年から1988年まで、日本国有鉄道及び北海道旅客鉄道の青函航路に就役していた八甲田丸の船体をほぼ往時のまま利用して展示したもの(博物館船)。

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸は、1988年に廃止された青函連絡船の岸壁に繋留されており、往時の外観をほぼ残している。
また、駅構内から連絡船につづく車両搬入口・引込線も残されている。

青森県観光物産館アスパム
「青森」の頭文字である「A」をかたどった三角形の外観が特徴。
展望室やレストラン、多目的室を併設する他、津軽三味線の演奏などさまざまなイベントが開催される。

青森ベイブリッジとともに、青森市のランドマークとなっている。

また、電波塔や橋を除いて青森県で最も高い建物である。このため、市内郊外からも見ることができる。

さて、一夜明けて早朝日の出を見たいと青森港の岸壁まで来てみたが、あいにくの曇り空で日の出は見えず。

右側の三角形の建物は展望台。

この突堤の向こうが北海道。

アスパム、展望台、八甲田丸。

青い海公園野外ステージ

青森港に隣接しアスパムを間近に眺める公園が、青い海公園。
青い海公園の夜は、ライトアップされた青森ベイブリッジなどを眺めることができ、ナイトスポットの名所としても知られている。

JR奥羽本線・青森駅から東に1km。
青森駅の東側に青森港に面して“青い海公園”が広がる。

海に長くつきだしている新中央埠頭の根元(青い海公園の東端)に「明治天皇御渡海記念碑」と書かれた,青銅の獅子頭が飾られたやや古風な印象の ずんぐりと大きな石塔があり,その近くに「海の記念日発祥の地」という石碑が建っている。

1876(明治9)年,明治天皇は1ヶ月半にわたる東北・北海道巡幸に出た。随行者は岩倉具視・大久保利通・大隈重信・木戸孝允などそうそうたる顔ぶれで,総人数200名超という大イベントだった。

東京を出発して北関東と東北各県を回り,青森港から灯台巡視船「明治丸」に乗船し,函館を視察した後 7月20日に横浜港に戻った。

このことを記念して 1930(昭和5)年に「明治天皇御巡幸及御渡海記念碑」が青森港に建立され,,その周辺は公園となり“聖徳公園”と呼ばれた。

さらに1941(昭和16)年になると,天皇が横浜に帰着した7月20日が「海の記念日」に制定された。

1990(平成2)年,「御渡海記念碑」の近くに「海の記念日発祥の地」の石碑が建てられ,明治丸の碇のレプリカが飾られた。

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