比叡山延暦寺の中興の祖である良源(元三大師、慈恵大師)により、天慶元年(938年)、平安京の北にある船岡山の南麓に與願金剛院が創建される。
一方で寛元3年(1245年)に法然に帰依した住心房覚瑜が出雲路に寺を建立、宋の廬山にならい廬山寺と号した。
源氏庭と称し、白砂と苔にキキョウを配する。
南北朝時代、この二か寺の住持を兼務していた明導照源によって応安元年(1368年)に與願金剛院によって廬山寺が吸収合併される。
しかし、新たな寺院名は廬山寺、正式名称廬山天台講寺となった。
これにより円(天台宗)・密(密教)・戒(律宗)・浄(浄土教)の四宗兼学道場となった。
元亀3年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちの際には正親町天皇の女房奉書により被害を免れたが、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間(1573年 – 1593年)に現在地に移った。
しかし宝永5年(1708年)、天明8年(1788年)と度々火事のため焼失してしまう。
現在の本堂は寛政6年(1794年)に仙洞御所の一部を移築して作られたものである。
明治維新までは宮中の仏事を司る御黒戸四箇院(廬山寺、二尊院、般舟院、遣迎院)の一つであった。
1872年(明治5年)9月に天台宗の寺院となるが、1948年(昭和23年)に四宗兼学の天台圓淨宗として独立する。
1965年(昭和40年)に考古・歴史学者角田文衞により紫式部邸(堤邸)跡とされた。
御黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡である。
閑院宮をはじめ皇族の陵墓が多くあり、宮内庁によって治定されている。
公家の墓も多い。また、豊臣秀吉の築いた史跡の御土居が境内東端に残る。
賀茂大橋より下流を望む、葦も茂り秋の気配を漂わせる。
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