圓徳院 ねね終焉の地

豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。

それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです。

これが今日の圓徳院の起こりです。
ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送り、ここは北政所の終焉の地となりました。

そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房です。
圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。
寛永9年、ねねの没後9年目のことです。

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「ねねの道」は98年4月に京都市や同門前会などの協力によって完成した高台寺西側の無電柱道路。
約460メートルにわたり、石畳の道と紫色の電灯が並べられ、夜にも散策が楽しめる道路へと生まれ変わった。

クモの巣の電柱・電線は見当たらない。
「ねねの道」の先は「二年坂」の方向、反対は「八坂神社」につながる。

左側は、豊臣秀吉とねねの寺「高台寺」方向。
圓徳院は右側にある。
電柱・電線を気にすることなく、好きなアングルで写真を撮ることができる。

ねねの道の石畳は、電線の地中化を実施した折に、京都市電の軌道に敷き詰められていた石畳み(2,500枚)をリサイクル活用したのだそうです。

寺号の圓徳院は利房の法号「圓徳院殿半湖休鴎大居士」からとられたものである。
なお、この寺に安置されている三面大黒天は秀吉の念持仏とされる。

北政所は最晩年の19年間を円徳院で過ごし、彼女を慕う大名、茶人、画家らが数多くここを訪れたとされる。

唐門
圓徳院は木下家初代以降の歴代藩主の墓があり、木下家の屋敷となっていたので正門は長屋門の形がとられ、その奥に唐門があります。

方丈には桐紋襖に長谷川等伯が一気に描き上げたと言われる障壁画があり、長谷川等伯の襖絵は重要文化財です。

秀吉公好みの手水鉢。
秀吉が西尾家に世話になったお礼にと贈ったもの。

西尾家は今川義元の親戚にあたる。
後に西尾家から圓徳院に寄贈。

南庭 – 方丈の南西に位置する。
森蘊(もり おさむ、1905- 1988)の指導による徳村宗悦の作庭。

北庭 – 北書院の東に位置する。賢庭が作庭した伏見城北政所化粧御殿の池泉回遊式庭園を移したものである。
それに際し、敷地面積にあわせて枯池泉座視式に改められた。
さらに小堀遠州により整えられた姿が現在に伝わっている。
国指定の名勝。

池泉にかかる数個の橋は見事な巨石をあてています。
その大きな石の形の見事さは見るものを魅了させます。
池の左奥には松の木のある鶴島。

その右隣の亀島との間には太い石橋が架かり、亀島と、その右隣の中島の間には石を橋脚にした合掌形の切石の橋が架かっている。
その橋の奥の斜面には三尊石。
木立、苔の中、石組が林立し、良いアクセント。

亀島に架かる分厚い橋はこの時代の特徴。
左は茶室。
ここで抹茶をいただくことができる。

宗旦狐は、昔、御所周辺に出没した古狐。
茶の湯の宗旦に化けて、茶会に出たり、僧侶に化けたりしたという。
相国寺(しょうこくじ)には宗旦狐にまつわる伝説が伝わっており、いまでも相国寺には宗旦稲荷があります。

・・・・かどうかわからないがキツネの間が。

檜垣の手水鉢
左奥には凹字形の手水鉢。
宝塔の笠の側面を穿ったものでねねが使用したものと伝えられます。

台所坂
ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、北政所は秀吉の菩提を弔うためにこの道を往き来したといわれる。

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圓徳院へのアクセス、行き方歩き方

圓徳院公式サイト

住所:〒605-0825 京都市東山区高台寺下河原町530
TEL :075-525-0101
FAX :075-561-2724

JR京都駅→市バス206系統で13分、バス停:東山安井下車、徒歩5分。
または京阪電気鉄道祇園四条駅→徒歩20分