友達の農場を訪ねる

京都府


久しぶりに会った旧友、まずは腹ごしらえ。
友達おすすめの店で舌鼓。
おいしいものいただきました。

昼ランチ 四季の三段重 2000円(税込2160円)

農場は恭仁京跡にありました

素晴らしい農場に案内していただきました。

子供のころ過ごした田舎を思い出しました。

柿もたわわに実っていいね!

そして周りは過疎で廃屋がゴロゴロ。

常日頃、写真仲間と撮り歩いている風景です。

作品作りの撮影がしたくなります。

近くに恭仁京跡があり非常にいいところです。


恭仁京へ・・・
コスモスが咲き乱れ素晴らしい景色が開けます。

幻の都・恭仁京


奈良の平城京に都があった天平12年(740)10月、聖武天皇は伊賀や伊勢、美濃、近江などへ行幸し、同年の12月に木津川岸辺の瓶原(みかのはら)の恭仁宮で遷都を宣言し、恭仁京が誕生しました。

山城国分寺の礎石が点在。
礎石の大きさから、建物がいかに大きなものであったかが推察される。

礎石が折からの雨に濡れてきれいです。

平城京から大極殿や朝堂院を移築し、都が整備されましたが、天平16年には難波宮(なにわのみや)へ遷都。
さらに翌年には平城京へ都が戻されました。都であったのは足かけ5年ほど、いまだに謎の多い恭仁京は、幻の都と呼ばれています。

「橘諸兄公旧趾」


橘諸兄は現在の綴喜郡井手町井手を本拠地として、別業(別荘)を持ち「井手左大臣」とも称される。
のどかな農道の脇に現れる「橘諸兄公旧趾」の目印。

先へ進むのが不安になるような細い道です。

供養塔です。
正面には「為井出左大臣 正一位朝臣 橘諸兄公供養塔」、側面には「天平勝宝九年正月六日薨去 七十四歳」とありました。

宴席での対人詠の短歌が8首載せられている。
万葉集の編纂についても携わったともいわれている。

「降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」(橘諸兄)

奈良時代の左大臣「橘諸兄(たちばなのもろえ)」が眠る、京都府綴喜郡井手町の『橘諸兄公墓』。

684年に生まれ、740年に45代聖武天皇を井手の玉井頓官にまねき、749年には正一位左大臣になったと伝えられています。
また、「万葉集」の撰者としても知られた文人で、父美努王とともに井手の地を愛し、玉川岸にヤマブキを植えたといわれています。

小野小町塚


小野小町塚(おののこまちづか)は、京都府綴喜郡井手町にある塚。
六歌仙及び三十六歌仙の一人小野小町の墓とされる。

概要
井手町に伝わる伝承では、小野小町は、晩年を井提寺(円提寺)に住み、玉川堤を散策したと伝えられる。
小町の墓と伝えられる塚は、玉津岡神社参道の右脇にあり、周囲を石垣で囲った土壇上の礎石の上に、ほぼ立方体をした自然石を四個積み重ねている。
この塚石は、井提寺(円提寺)の礎石とも伝えられる。

1143年(康治2年)「山城国井堤郷旧地全図」(模写1326年、1803年)で、現在の場所に建立されているのが描かれている。
ただし、この模写は「椿井文書」ではないかと指摘されており、定かではない。

背面に「清林」と刻まれており、建碑者の法名と考えられる。

小野小町が晩年を井手町で過ごしたとされる伝承の根拠としては、9世紀後半に成立したとされる小野小町の家集『小町集』や『新後拾遺和歌集』に「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井出のわたりの山吹の花」と詠まれていることから、井手町に小野小町が実際に訪れていたことがうかがえる。

また、鎌倉時代に成立したとされる『冷泉家流伊勢物語抄』やその記述に由来する近世の『山城名勝志』『和漢三才図絵』等によると、小野小町は、晩年、井提寺(円提寺)の別当の妻になり、69歳で井提寺にて没したとされる。

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以前の訪問記

小野小町塚を登ったところに地蔵禅院があり、ご本尊の地蔵菩薩は橘諸兄公の持仏。
玉川堤は桜の名所。
玉川堤の桜 | きままな旅人

地蔵禅院の桜

聖武天皇謎の彷徨 恭仁京を訪ねる | きままな旅人
聖武天皇勅願 海住山寺 | きままな旅人
蟹満寺 | きままな旅人

アクセス
公共交通:JR加茂駅西口→奈良交通バス和束町小杉行きで4分、バス停:岡崎下車、徒歩10分。
またはコミュニティバス(定員9名)奥畑行き・銭司行き・西行きで7分、バス停:恭仁宮跡下車すぐ(平日のみ。銭司行き・西行きは要予約)
車:京奈和道山田川ICから国道163号経由9km15分