河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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草津宿


草津駅(画像左)から旧草津川(今は天井川)を超え右端の立木神社までの草津宿をあるきます。

天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であった。

高札場。

追分道標、「右東海道いせみち 左中仙道美のぢ」と刻まれた道標が建つこの地は、東海道と中山道のまさに分岐・合流地点。

かつて草津宿の追分見付と呼ばれていたこの地に、街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯が今に残されています。

追分とは道の分かれるところを指す言葉。
草津宿にある東海道と中山道との分岐点を「追分」という。

草津川の渡し、旧草津川は全国的にも有名な天井川で、平生は水がなく砂川とも呼ばれ、大名行列などの大規模な通行以外、仮橋が架けられず、通常は「徒歩(かち)渡り」(川の中を歩いて渡ること)が一般的でした。

天井川となっているため側道を土手の上まで上がります。

天井川の河底、今は市民の憩いの場になっています。

東海道の江戸方からは、草津川を越えて、堤防沿いに進むと、東横町・西横町と続き、中山道との合流点に至る。

ここで左折し、一町目から六町目まで続き、宮川を渡って、最後が宮町である。

中山道からは、天井川である旧草津川をトンネルで抜けると追分に至るが、トンネルができたのは明治19年(1886年)のことである。

その様子が「木曽海道六拾九次之内 草津追分」(右)に描かれている。 

板橋を渡った旅人の向こうに、民家の屋根だけが僅かに見える。
 
この川は天井川であるが故に浸水被害を繰り返しており、ついに昭和46年(1971)、新草津川に付け替えが行われ、旧草津川は廃川。

像「野風童」

込田公園。

昔はここに黒門がったところ。

道灌蔵、江戸城築城の祖として、文武両道に優れた武将名高い太田道灌を祖先に持つ太田家は、東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、また水陸交通の要所でもあった草津において、海道の動静を見守る関守を務め草津行政の中心となっていました。

太田家が酒造りを始めたのは廃藩後のこと。当時所領としていた100余町歩の田畑から収められる良質の近江米を有効活用するため酒造りを始めたといわれています。

以後酒造りを生業として発展。
今日まで人々に愛される美酒を世の中に送り続けています。

この辺りに貫目改所があった。

草津宿には、正徳2年(1712年)に全国5か所に設けられた貫目改所があった。
貫目改所は当宿のほか、東海道の品川宿・府中宿、中山道の板橋宿・洗馬宿に置かれた。

楽器屋さん、店舗の出サインがユニークです。

質屋さんの側面、住所表示がひっくり返っています。

八百久店舗兼主屋は滋賀県草津市草津3丁目に屋敷を構えている古民家です。

八百久は寛保年間(1741~1743年)から日用品(鋤、鍬、天秤、火鉢など)を扱う商家だった家柄。

何か突き出ていますがさて・・・・・

立木神社前の小川、見ていると突然鯉が飛びあがりました。

立木神社境内にある道標(1680)、かなり古いものです。

立木神社、社伝によると称徳天皇の時代である神護景雲元年(767年)、武甕槌命が常陸国(現・茨城県)の鹿島神宮より白鹿に乗って大和国(現・奈良県)春日神社への勧請の旅の途中、当地に到着した。

武甕槌命は持っていた柿の鞭を地面に刺して「この木が生え付くならば吾永く大和国三笠の山(現・春日大社)に鎮まらん」と言うと、柿の木が生成した。

それを見た里人はこの木を崇めて社殿を建立し、武甕槌命を祀り、社名を立木神社と称したのが始まり。

春日大社とは兄弟の間柄となるが、春日大社の創建は神護慶雲2年(768年)となっており、当社が兄といえる)。

右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標の中では比較的古いものといえる。

田中九蔵本陣、2軒あった本陣のうちのひとつで、現存しない。

篤姫(天璋院)が、嘉永6年10月6日(1853年11月6日)に御泊している。

田中七左衛門本陣に残る大福帳の一節に、篤姫(天璋院)の記録が残る

家屋の前にはこのようなプレートが残るのみ。

草津は古くから東西移動の際の交通の要衝だった。

室町時代には伊勢参宮で京都と伊勢の中継地点として発展し、応永29年(1422年)には将軍足利義持が伊勢に向かう際に、草津に大規模な宿泊施設「草津御所」の築造を開始している。

永禄11年(1568年)頃には、織田信長が足利義昭に和泉堺、近江の大津・草津に代官を置くことを願い出ている。

渇ッ!!

家屋の前にはユニークな道標が残る。

草津宿本陣(田中七左衛門本陣)、国の史跡。
2軒あった本陣のうちのひとつで、現存する本陣としては最大級である。

弘化三(1846)年の旧姿に復原され、平成8年(1996年)から一般公開されている。

「大福帳」には、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三など歴史上重要な人物の名前も多く残る。

疾駆!!

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天王寺7坂めぐり ⑥源聖寺坂


天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、名称は坂下にある寺院名に由来する。

画像は銀山寺、銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」にでてくるお千代、半兵衛の比翼塚が建てられている。

「齢延寺」には、幕末に泊園書院を興して活躍した藤沢東畡、藤沢南岳父子の墓がある。

これは、司馬遼太郎「世に棲む日日」の1巻で吉田松陰が大阪に行ったときに、藤沢東畡を訪ねたというあの人物です。

松屋町筋に面する坂下の源聖寺と金台寺の間から東へ石畳を登り、上町台地の急崖に差し掛かると石段となり、少し東南東に向きを変える。

再び石畳を登り、坂上の齢延寺と銀山寺の間で水平となる。

道は坂上からも東へ伸び、中寺筋を横断して谷町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。

下寺町(25ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)を横断し、坂上から東は生玉中寺町(12ヶ寺)を横断するため、周辺には寺院が多い。

松屋町筋から東に10mほどの石畳は、昭和44年に廃止された大阪市電の敷石が転用されているということです。

上り始めは石畳の緩やかな坂道ですが、途中から急勾配で大きくカーブした石の階段になります。
「天王寺七坂」の中でも、一番複雑な構造の坂だと思います。

かつて石段を上りきった場所に昭和末期まで「源九郎稲荷」があった。

コンニャク好きの狸が祀られ、天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されている。

現在どこへ還座されたかは不明で、生國魂神社に還座されたと記した資料がある一方、同名の末社とは無関係との記述もある。

名前の由来となった源聖寺。

源聖寺坂の南2軒となりには新選組の大阪旅宿跡である萬福寺が。

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夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く

四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~千代女の句碑~初世中村鳫治郎生誕の地碑~大阪屋(新町演舞場)~砂場跡の碑(麺類店発祥の地碑)~長堀グリーンプラザの橋名板や記念碑群と夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩いた。

四ツ橋跡
かつて、この地を流れていた長堀長堀川と西横堀川がここで交差していた。
その交差する地点を4つの橋が「ロ」の字型に架けられた。
橋は、上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋である。

地元では、四ツ橋と呼ばれ、親しまれていた。

現在では、交差点に四ツ橋跡の碑が整備され、在りし日を偲ぶことができます。

「浪花百景」より「四ツ橋」。

四ツ橋跡の碑の反対側に上島鬼貫の「後の月 入て貌よし 星の空」の句碑があります。

小西来山の「涼しさに 四つ橋を四つ わたりけり」の句碑。

新町橋碑
瓢箪町の通りをまっすぐ東に進むと大きな四ツ橋筋に交わり、そこを渡ってさらに東に行くと阪神高速道路一号線の高架下に行き着く。そこに「新町橋碑」という石碑が建っている。

かつて新町遊廓があったころ、遊廓の東側の大門の先、西横堀川にかかっていた橋は新町橋と呼ばれていた。

寛文12年(1672) の建造という。
新町遊廓と船場の商人街、道頓堀の芝居小屋街とを結ぶ唯一の橋でもあった。

そのため橋は賑わい、橋の界隈には行き交う人の群れをあてこんで多数の夜店がならんでいた。
「一六の夜店」と呼ばれて、大坂名所のひとつであったという。

江戸時代の雰囲気をまだ残す明治初期の橋周辺の風情を、二代目長谷川貞信(1848-1941)が描いた絵が、石碑に貼り付けられている。

新町橋碑の向かって右側、つまり南側に隣接して「西六平和塔」という石碑が建っている。
さきの大戦、すなわち満州事変から太平洋戦争にいたる大戦への出征や空襲で亡くなったこの地区の人々を慰霊するために、昭和33年(1958) 地区連合会によって建てられた慰霊碑である。

とくに昭和20年(1945) 3月13日の大阪大空襲では、この地の大部分が焼き尽くされ、300人以上が死んだ。

新町の始まり
秀吉が天下を統一して大坂に城を築き、大坂のまちの建設をはじめたころ、戦いに疲れて大坂に集まった武士たちに大坂の色里を公認した。

これが遊郭の始まり。
その後、大坂の夏の陣で崩落した大坂城を二代徳川秀忠が再建した。
再建工事に集められた各藩の武士たちのために、風紀の乱れを案じた大坂城主松平忠明が散在する遊所を一か所に集めた。

これが公認遊郭・新町の始まりである。
起源は京都嶋原、江戸吉原よりも古いといわれる。

江戸時代より各地の公認・非公認の遊所の比較が行われてきたが、新町は東の大
関(最高位)であるという記録もある。

このあたりは芦原の湿地帯で海へ水路が続いていた。
西鶴の浮世草子、近松の浄瑠璃などにたびたび描かれ、多くの文人が訪れている。

夕霧太夫
遊女には、太夫、天神、鹿子位、端女郎の位階があった。
扇屋の夕霧は歴史上もっとも有名な太夫として名を馳せている。

本名はお照。
京都の生まれで、京都嶋原の扇屋に抱えられていたが、扇屋が大坂新町に引越し
たときに夕霧もやってきた。
このとき19歳。

「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」(西鶴『好色一代男』)とされるほどの美形で「しとやかな格好で肉つきよく、地顔でも色白く、すがめでも情深く、酒も飽かず飲み、歌ふ声も好く、琴三味線に通じ、文句気高く、長文書き、物ねだりせず、人に惜しまず、手管に長けて、浮名が立つと止めさせ、のぼせあがると理をつめて遠ざかり、身を思ふ者には世間のことを意見し、女房のある者には合点させ、魚屋、八百屋までよろこばせた」(同)という。

こうして、夕霧は、吉原の高尾、嶋原の吉野と並んで三大名妓といわれるようになった。しかし、大坂へ来てわずか6年後、病に倒れて25歳の短い一生を終えた。
延宝6年(1678)の正月6日である。
墓は下寺町浄国寺。

鬼貫が「この塚は柳なくともあわれなり」という句をおくっている。

歌舞伎では坂田藤十郎が「夕霧名残の正月」を舞台にかけた。
33回忌には近松門左衛門が浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を書き、その名を不朽のものとした。

『浪花百景』「新町店つき」歌川国員 画。
「店つき」とは遊女屋の表に面した格子の部屋をさし、客は格子越しに好みの女性を品定めをした。

『廓文章』の舞台のひとつである揚屋(現在でいう、料理屋、料亭)の「吉田屋」は大阪大空襲による焼失まで嶋原の「角屋」と共に現存していた。

『浪花踊』が上演された新町演舞場は閉鎖されたが、建物は大阪屋本社ビルの一部として残っている。

新町北公園のすぐ南側に、かつての瓢箪町があるが、いまでは通常の大阪市内のビル街の景観となっていて、かつての花街を思わせる雰囲気は皆無である。

新町九軒桜堤跡

江戸時代大坂の代表的な遊郭であった新町の内、九軒(くけん町)は夜桜が特に有名で、これは文政2年(1819)3月新町振興策の一環として植えられたことに始まる。

以来、毎年太夫(たゆう)道中が行われ、桜で飾りつけた最上位の遊女が桜並木のもとを練り歩く姿を見ようと、多数の見物客が詰めかけた。

九軒町には近松門左衛門の『夕霧阿波鳴渡』にも登場する新町最大規模の揚屋・吉田屋があり、幕末には新選組の土方歳三や沖田総司なども訪れています。

フィクション作品の世界で沖田は、一般に純情な青年として描かれることが多かった。
町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。

ただ、井上松五郎の文久3年(1863年)4月22日付の日記によると、土方、松五郎、井上源三郎と共に沖田が新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買うという記述が見られるため、必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだが、自分が好意を持っている女性の話になるととても真面目だったという。
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新町北公園に建つ新町九軒桜堤跡碑。

元禄期の俳人・加賀千代女の句碑は、廓内の九軒町の西橋に建てられていたが、戦時中に所在不明となり、その後、碑の上部が破損した状態で発見された。
又、町の東端には芭蕉の句碑もあったが、所在不明である。

(だま)されて来て (誠)なりはつ桜   千代女
「だまされて」の句は、千代尼が誘われて新町を訪れ、うわさにたがわぬ桜の美しさを詠んだものともとれる。

春の夜は 桜にあけて しまいけり  芭蕉


新町北公園の真ん中付近に、大きな大理石の詩碑が建っている。この地が輩出した詩人、児童文学者、作詞家であった百田宗治の詩碑である。

百田宗治は、明治26年(1893) 1月、この地で生まれた。
青年時代から詩を書き始め、大正4年(1915) 詩集「一人と全体」を発表して詩人として活動を開始した。

人道主義的、民衆派的な詩を書き、また後には児童文学に関わるようになった。
童謡作品としては「どこかで春が」が「日本の歌百選」に選ばれている。

この石碑には、この詩人の代表作とされる「何もない庭」が刻まれている。

日がかげれば

何もない庭はさびしい

日さえ照っていれば

万朶(ばんだ)の花の咲きにほふ心地がする

新町北公園の南に初世中村鴈治郎生誕の地碑が建つ。
当地には置屋「扇屋」があり、幕末期(万延元年〔1860〕)に、この「扇屋」の一人娘の妙た えと、歌舞伎役者の三代目中村翫雀との間にできた子が、のちに上方歌舞伎界を支える初代中村鴈治郎です。

『心中天の網島』の治兵衛を演じて「頬かむりの中に日本一の顔」とまでいわれた名優で、その三男が二代目鴈治郎、その長男が現在の四代目坂田藤十郎(人間国宝)です。

角藤定憲は壮士芝居をおこした俳優。
岡山県生れ。
《東雲(しののめ)新聞》の記者時代,中江兆民のすすめで〈大日本壮士改良演劇会〉を組織し,1888年12月大阪の新町座で自作の小説を脚色した《耐忍之書生貞操佳人(こらえのしよせいていそうのかじん)》ほかを上演,新演劇(新派)の先駆者となった。

94年には一座をひきいて上京,その後も〈壮士演劇の元祖〉を名のって各地を巡業したが,演技が粗雑であったうえに経営の才がなく,晩年は不遇だった。

旗揚げの『新町座』の跡地に近い大阪市西区新町二丁目の新町南公園には、1953年(昭和28年)建立の、『角藤定憲改良演劇創始之地』の碑がある。

揮毫を頼まれた喜多村緑郎は、第一案の『新派演劇発祥地』は嫌ったという。
劇団新派のホームページは角藤を新派の祖としているが、壮士芝居と新派とは別の系譜、とする論も行われる。

新町二丁目の「新町南公園」に江戸三大そば「砂場」の発祥地を発見!

砂場(すなば)は、大坂(大阪)を起源とする蕎麦屋老舗のひとつ。
蕎麦屋の老舗としては、更科・藪とあわせて3系列が並べられることが多い。

名称の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされる。
砂場(大坂)の正確な創立年代はわかっておらず諸説ある。

最も古い説では大坂城築城開始の翌年の1584年に「津国屋」が創業としているが、この説については食文化史から疑問が提示されている。

1757年に出版された『大坂新町細見之図澪標』の記載で、この中に「津国屋」、「和泉屋」の2軒の麺店みられる。
和泉屋については、1730年に出版された別文献にも、店頭風景が掲載されており、遅くともこの年までに成立している。

この2軒について、場所名で呼ぶことが定着し、「す奈バ」(砂場)の屋号が生まれたものと考えられている。

1799年の『摂津名所図会』の大坂部四下の巻新町傾城郭の項には「砂場いづみや」の図があり、そば切りとうどんの両方を提供しているように見える。

これらの店は現在存在しないが、大阪市西区新町二丁目の「新町南公園」に砂場発祥の石碑が建てられている。

江戸への進出

江戸への進出時期についても明確な記録はないが、1751年に出版された『蕎麦全書』に「薬研堀大和屋大坂砂場そば」の名称が、1781年-1789年に出版された『江戸見物道知辺』に「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名称が、それぞれ見られる。

ただし大坂の砂場との関係は明らかではない。

江戸末期の1848年に出版された『江戸名物酒飯手引草』には、6軒の「砂場」が紹介されている。

蕎麦屋の定番商品となっている「天ざる」は、1955年に室町砂場で開発されたものとされるが定かではない。

砂場蕎麦の歴史

江戸蕎麦の御三家「藪」「砂場」「更科」の中でも、砂場は最も歴史のある屋号です。
その歴史は江戸時代よりもさらに前、大阪城の築城にまで遡るほど。

しかし一方で砂場の名前と特徴は、他の薮や更科に比べるとあまり知られていないようです。
一体砂場では、どんなお蕎麦を頂くことができるんでしょうか。
砂場の正確な成り立ちはわかっていませんが、今も営業を続けている砂場のお蕎麦屋さんによると、その誕生は大阪城の築城に関係しているといわれます。

大阪城が築城された年の翌年、1584年、和泉屋という菓子屋が蕎麦屋を始めました。
その場所が築城に使う砂を置いていた場所だったため、いつしか「砂場」という愛称がつき、屋号として定着したそうです。

その後砂場は、徳川家康が江戸に居城を定めるのに併せて一緒に移転。
江戸の糀町に店を構えました。
これを糀町七丁目砂場藤吉と呼んでいます。

糀町七丁目砂場藤吉は後に荒川区の南千住に移動し(南千住砂場)、今でも営業されています。
また糀町七丁目砂場藤吉からは、幕末には室町砂場が、明治初期には虎ノ門砂場が暖簾分けをして独立しています。

こちらも今も営業中です。また江戸時代から続く砂場として、久保町すなばが移転した巴町砂場があり、やはり現在も営業中です。

間長涯天文観測(はざまちょうがいてんもんかんそく)の地

西区新町二丁目 自転車駐車場連絡口すぐ
地下鉄長堀鶴見緑地線「西大橋」下車 西約400m

長涯(1756~1816)は質商を営む町人天文暦学者である。
当時の暦は実際の太陽の運行との間に差異が大きく、幕府も改暦に着手、長涯もこれに参画し、寛政9年(1797)みごとに完成した。

その功により直参にとり立ての話がでたが、それを断わり代わりに英国製の観測器具を借り受けることにした。

それを用い自宅南側に架かる富田屋(とんだや)橋の上で、天文観測に従事した。
そのときは周囲を通行止めにするほど権威があったという。

大阪木材市売市場発祥の地
元和末年(1622)の頃土佐藩の申請によって材木市が立売堀川で始まりやがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町にかまえると西長堀川でも材木市が許可される事になった。

土佐ばかりでなく、日向, 紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まりしだいに川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、西長堀橋南詰から富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は江戸時代から昭和にいたるまで年中材木市が開かれてた。

戦後、長堀川は水質の汚染が進み舟運の利用も減少したため昭和36年から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が埋め立てられ、また昭和四十二年から同四十六年にかけて四ツ橋から 木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には材木商の看板があちこちに残っている。

夕霧の名を冠したソバ屋を発見

大阪は北の梅田新道、お初天神東横に瓢亭は位置します。
名物は夕霧そば。

柚子の表皮を細かくおろし、ま白いそば粉に混ぜて特別入念に打った変わりそばです。
そばの淡白な味と柚子の持つ優雅な香気が良くマッチし、色も香りもあるこのそばを、近松門左衛門作「廓文章」の夕霧太夫にちなみ、夕霧そばと命名した。
ぐるなび 夕霧そば 瓢亭

ついでに大阪で今庄ソバがいただける店を紹介しておく。
ぐるなび 今庄そば 大阪高島屋店 、 ぐるなび 今庄そば 淀屋橋店

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沖田総司の恋人の墓? 光縁寺 新選組隊士の墓

紋所が引き合わせた縁と沖田総司の女性関係が取りざたされる興味尽きない寺です。

門前には新選組の墓と書かれている。
墓への参拝は、左手のくぐり戸から入りそっとお参りする。

光縁寺は、1613年(慶長18年)頃に創建された浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたります。

光縁寺は京福電鉄四条大宮駅に近い浄土宗のお寺で、知恩院の末寺にあたります。
新撰組ゆかりの壬生寺や前川邸・八木邸からも近く、また新撰組の馬小屋も近かったため、幕末当時は門前を新撰組隊士が毎日のように往来していたそうです。

新選組副隊長であった山南敬助は、寺の瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」が山南家と同じ家紋であったことから当時の住職である良誉上人と親交が生まれ、屯所で切腹した隊士などが埋葬されることになったという。

また、山南自身も新選組を脱走して、旧前川邸に戻されて切腹。
介錯は山南の希望で沖田総司が行なった。
そして、光縁寺に埋葬された。

隊士の墓は本堂の右手を裏に回り込んだところ、一番奥にあります。

光縁寺墓地に現存する墓。

写真左:合同墓で、正面に松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知、右側面に田中寅三、加藤羆、左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎の名が刻まれています。

写真中央:大石造酒蔵(一橋家附臣、新選組観察大石鍬次郎の弟)の墓。
新選組隊士の今井裕次郎に斬られたとも、病死だったとも言われています。

写真右:山南敬助の墓。
右側面に河合耆三郎、柴田彦三郎、左側面 に施山多喜人、石川三郎の名が刻まれています。

そして問題はこの墓。

正面に真明院照誉貞相大姉、側面に沖田氏縁者と刻まれています。

この墓は、昭和51年に当時の住職によって建てられたもので、沖田氏縁者は過去帳に記載はあるものの墓は存在せず、寺に対する問い合わせが数多く寄せられたため、参拝者に明示するための措置だったそうです。

総司の女性関係
壬生光縁寺には、過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。

一説には、この女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人おり、沖田はこの女性との間に1女をもうけキョウという名を付けたという話もあるが、定かではない。
なお、新選組にはもう1人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。

さらに、試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も残っている(その女性は断られたショックでか自殺未遂を起こし、その後近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。

この女性は近藤周平の許婚であったと言われる岩田コウという説もある。
また、油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。

諸説がありますが、どれが正しいかは決め手がないようです。

光縁寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町37
電話番号:075-811-0883
拝観時間:9:00~17:00

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日本式で築かれた最後の近世城郭 松前城

松前城は、外国船の出没に備えて江戸幕府が嘉永三年(1850)に松前藩に命じて築城させた。
軍学に基づいた最後の日本式城郭である。

7基の砲台と25門の大砲を備えていたが、海への防備に主体を置いたため背後は手薄になっていた。
そのため戊辰戦争で、土方歳三らの旧幕府軍に背後から攻められて落城した。

この時天守は破壊されなかったが、昭和24年(1949)に火事で焼失した。

福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。

福山街道を松前を目指します。
車窓からは津軽海峡の美しい海岸線が続きます。

この辺りは知内町、北島三郎さんの出身地です。

青函トンネル北海道出口のある福島町の辺りです。
当地出身の横綱(千代の山、千代の富士)が2人誕生した出身地は、全国どこを探しても福島町だけです。

松前城三の丸広場。

「松前藩屋敷」 江戸時代の松前の城下町を再現したテーマパークです。
中には14棟の建物があります。
時代劇のセットみたいな感じです。

入ってすぐ左手に「松前藩沖の口奉行所」があります。
蝦夷地へ入る人、船、荷物を改め、徴税を課すところです。

蝦夷地へわたろうとする人には取り調べが厳しかったそうです。
かの吉田松陰が蝦夷地渡航を考えながらも断念し、津軽まで来て引き返したのもこれ故。

商家。
松前の城下には近江商人や北陸出身の商人等、他所から来た商人が多かった。

八幡商人
現在の近江八幡市を中心とした地域から生まれ、江戸初期から活躍した商人です。
松前藩領で活躍したグループと、江戸で活躍したグループとに分かれる。

近江商人達は、松前藩と手を組んで、蝦夷交易を担い、大変な勢力を誇りました。
国の重要文化財「旧中村家住宅」は、近江商人の大橋宇兵衛が江戸時代の終わり頃に建てたもので、道指定文化財の山車「松寶丸」を作った近江屋利兵衛という人も近江商人だったといいます。

林の中を松前藩主墓所を目指す。

松前藩主墓所
松前藩の始祖・武田信広から19代にわたる歴代藩主、その室や子などが眠る墓所で、イチョウやオンコの古木にかこまれて55基の墓碑が静かに並んでいる。

墓碑は五輪塔形式で、石造りの屋形風覆屋(やかたふうおおいや)に収められているものが多く、なかにはキリシタン信仰と関係があるとされる織部(おりべ)灯籠や十字型H字が刻まれた墓も見られる。
国指定史跡になっている。

法幢寺(ほうどうじ、曹洞宗)
松前家の菩提寺で、裏手には松前藩主松前家墓所があります。

本堂左手の御霊屋みたまやは、1834(天保5)年に再建され、歴代藩主の位牌が安置されています。
かつて藩主を諌いさめたために流刑となり首をはねられた門昌庵事件の柏巌和尚はこの寺の住職でした。

松前城資料館の入口にあった家紋。

「四つ割菱」、別名「武田菱」。

松前城は1、600年、松前氏の家祖・武田信広の五世武田慶広が徳川幕藩体制の一員となった時、姓を松前と改めて現在の松前城の前身である福山城を築城しました。

本丸御門と天守。
本丸御門は築城当時からの遺構のひとつで、国の重要文化財に指定されている。

天守は昭和24年に焼失したが、昭和35年に鉄筋コンクリート造りで再建された。

搦手二ノ門は、東側から城内へ通じるルート(搦め手)にあった門の一つで、搦手門を守る重要な役割をもっていました。
記録によれば、間口は2間二尺(4.24m)で瓦葺きだったことが分かっていました。

三本松越しに望む天守。

城の前面は津軽海峡です、遠く霞むのは竜飛岬。

幕末の築城にも関わらず、松前城は激しい攻防戦を体験している。
1868年(明治元年)秋、蝦夷が島に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧し、11月5日にはもと新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。

松前藩の軍は防戦に努めたものの、わずか数時間で落城した。

これは、函館湾からの旧幕府軍軍艦の艦砲射撃もさることながら、城の構えがあまりに脆いものであったためである。
長沼流の軍学者であった市川は、大手門からの通路は曲がりくねって鉄砲の的になりやすい効果的な構えとしたが、搦手方は敵は攻めてこないものとして、直線に通路が続き鉄砲狭間も少ない防御力の低い配備としていたのである。

これを土方に衝かれた形となってしまった。
現在も石垣にこのときの弾痕がいくつも残っている。

かつて城内へ通じる坂は馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口、新坂の5ヶ所だったが、そのうちの一つ。
細いく風情ある石段が続き、三の丸跡への入口に天神坂門が建つ。

三の丸には七ヶ所の砲座が設けられていたが、現在は最も東側にあった七番台場のみが復元整備されている。

独り言
とかく松前藩は評判がよろしくない。

松前藩の非道、藩主の無責任

この松前城攻防を含め徳川遺臣軍と戦った松前兵は、必ず敗走の際に民家や村に火を放って逃げたので、後世の批判を受けている。

榎本の学んだ国際法知識を適用した徳川遺臣軍は、戦争に直接関係しない市民を巻き添えにしないよう配慮し、俘虜として監禁した松前兵にも津軽行きの便宜を図ったり、町民・農民として生きる選択肢を与えるなど、それまでの封建日本にない新しい考えを示した。

落城後の松前藩主松前徳広の行く末は悲惨であった。
土方軍が松前城に迫る前にひそかに城を脱し、家族と共に館の新城に移る予定であったが、別働隊が五稜郭から館城に向かっているとの報を聞き、江差北方の熊石に逃げた。

そこから津軽藩をたよって渡船したが、あいにくの荒天で姫を失い、津軽に渡った後には持病の労咳が悪化したため、わずか25才の若さで死亡している。

高田屋没落に松前藩暗躍

高田屋は嘉兵衛の死後、幕府から1833年(天保4年)、家屋、財産とも没収されます。
容疑とされた密輸の事実はなかったものの、航海中に高田屋の商号を染めた旗を掲げれば、ロシア船はいかなる危害も加えないとの約束があり、それを咎められました。

ロシア側にすれば、ゴローニン釈放に尽力した嘉兵衛への感謝の証しでした。

幕府が重罰に処した裏には、松前藩の暗躍があったそう(松前藩は1821年、転封された陸奥梁川=現在の福島県伊達市=から松前に復帰しています)。

函館市史によると、事件以前に松前藩は2年続けて1万両(天保2年時の換算で3億7千万円)の御用金(実態は藩の借金)を高田屋に命じました。
2年目はさすがに全額用意できず、江戸などの問屋から5千両を借りて工面しました。

ところが、高田屋が幕府の取調べを受けると「高田屋が問屋から運上金を取り立てている」と幕府に告発したのです。
後の幕府の調べで松前藩がでたらめを申し立てていたことが判明します。

「松前藩は有力商人からしばしば御用金を借上げた。
そして借財がかさむと、僅かな過失を理由として取り潰してしまうというやり方は、寛政2年(1790年)の飛騨屋久兵衛を始めとし、同8年の村山伝兵衛、そして高田屋金兵衛に至る常套手段であった」(函館市史)。

松前藩は為政者というよりは、ごろつきの集団としか思えません。
高田屋没落後、松前商人が商権をにぎり、嘉兵衛が築いた商業都市・箱館は1854年のペリー箱館来航まで停滞の時代を送ります。

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松前城へのアクセス、行き方歩き方

住所:北海道松前郡松前町松城144
電話:0139-42-2216

JR江差線木古内駅から函館バス松前行きで1時間29分、松城下車、徒歩10分

土方歳三最期の地 函館の街を彷徨う

古来、この地はウスケシ(宇須岸)と呼ばれていた。
1454年(享徳3年)、南部氏との戦いに破れた津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)に築いた館(「宇須岸館」とも「河野館」とも呼ばれる)が箱に似ていたため箱館と呼ばれるようになり、明治時代になって函館と改められたとされるが、諸説ある。

函館港の朝ぼらけ、摩周丸の船体がシルエットで浮かぶ。

摩周丸とイカのモニュメント
青函連絡船記念館「摩周丸」の近くに「ふれあいイカ広場」があります。

平成6年(1994年)2月に3パイのイカが群れ合う姿を表したモニュメントが設置され開設されました。

夜にはライトアップされ観光スポットの1つとなっています。

ともえ大橋から見た日の出の瞬間。

昨夜登った函館山の展望ホールが朝日に輝いています。

函館の港ならではの繊細な女性は、天使のようだ。
海の女神像

大雪丸大錨

津軽丸大錨とD51主動輪

函館朝市
戦後間もない1945年に函館駅前で農家が野菜の立ち売りをしたのが始まり。
その後、3度移転し現在の場所となった。

新撰組土方歳三の最期の地は、諸説いろいろありますが、有力なのが一本木関門のあった若松町とされています。

一本木関門は、当時の函館市街の端にあたり、旧幕府軍が通行税をとるために設けた関門でした。

復元された一本木関門が隣に立つ土方ファンの聖地。
弔い人と献花が絶えない最期の地だ。

1869年5月11日、土方が銃弾に倒れた一本木関門近くに立つ碑には、凛々しい姿の写真が添えられている。
毎年5月には慰霊祭が行われる。

京都では「鬼の副長」として新撰組隊士を厳しく統率し恐れられた土方だが、箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退したという。

土方歳三最期の地への交通

JR函館駅より徒歩10分。
市電湯の川線 新川町駅より徒歩12分。

函館市総合福祉センター敷地内。

北海道函館市若松町33-6

北島三郎の歌で一躍有名になった松風町だが、実際には寂れている。

♪灯りさざめく 松風町(まつかぜちょう)は

君の噂も きえはてて

沖の潮風 こころにしみる・・・・♪

昭和が誇るスーパーヒーロー「月光仮面」。

その像が、函館市内(松風町の「さかえ通り」のグリーンベルト)にあります。

月光仮面の作者である川内康範さんが、函館のご出身であることが縁で、月光仮面(アニメ版)の像を函館市に寄贈(1974年)されました。

台座には

憎むな
殺すな
赦しましょう

という文字がある。
これは「月光仮面」のキャッチフレーズだったとのこと。

川内康範は筋は必ず通す、金は貸しても借りないことなどを信条としており、「喧嘩康範」の異名を取るほど妥協しない性格で知られる。

青江三奈の芸能界の育て親であり、名付け親でもある(青江は自身の小説のヒロインの名である)。

2000年代あたりからは、年齢及び体力的な問題もあり公の場への登場は控えていたが、2007年(平成19年)2月、歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、いわゆる「おふくろさん騒動」が勃発。
数十年ぶりに時の人となった。
この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。

マンホール図柄はカモメと函館ハリストス正教会です。

マンホール図柄は、五稜郭の中に旧函館区公会堂が描かれています。

後ろ姿の高田屋嘉兵衛像

バスの車中からの写真につき後ろ姿でゴメン。

幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。
また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。

近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。
択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。

嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。

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ルイ14世式の要塞 五稜郭

建造中の名称は亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)、完成後の名称は箱館御役所(はこだておんやくしょ)。

柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる。
国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。

今回は北海道の100名城巡りの五日間のツアーです。
関空からのフライトです。

函館へ向かう途中の有珠山SAでトイレ休憩。
左が有珠山、右が昭和新山です。

有珠山は20世紀の100年間だけで実に4度もの噴火活動が観測された、世界的に見ても活発な活火山です。
2007年、昭和新山とともに日本の地質百選に選定されました。

昭和新山は明治新山等と同じく有珠山の側火山であり、デイサイト質の粘性の高い溶岩により溶岩円頂丘が形成されている。
現在も噴気活動が見られる。

バスの車窓からの駒ヶ岳。
駒ヶ岳は山頂部には直径約2 kmの火口原があり、西の剣ヶ峯、北の砂原岳、南の馬の背・隅田盛で囲まれるほか、山腹は、火山噴出物で覆われる地形輪廻の原地形(初期段階)を見せる。

半月堡開口部と二の橋
二の橋を渡ったところが表門です。

五稜郭の大きさは, 堀の内側は約125,500㎡と, 東京ドームの約3倍の広さがあります。
また,水堀は約56,400㎡,さらに堀の外側で史跡指定の所は約69,000㎡の広さがあります。
水堀の幅は最大約30m ,深さは4~5mで,この堀の外周りは約1.8㎞ の長さとなっています。

石垣の中で,正面側の石垣の一番上には,石が一列飛び出しているところがあります。
これは「はね出し」や「武者返(むしゃがえ)し」または「しのび返し」と呼ばれるもので,五稜郭の石垣の大きな特徴の一つです。

本塁石垣の構造(現地説明板より転載)
五稜郭の土塁は、堀割からの揚げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築(はんちく)という工法で造られている。

土塁の上から堀を見る。

土蔵(兵糧庫ひょうろうこ)
五稜郭築造時の建物で、唯一現存する建物。

箱館戦争の記憶から、いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようである。
大正時代には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されていた。

文献資料や発掘調査成果から庇屋(ひさしや)があったことが確認されたことから、平成13・14年度の修理工事の際に、現在の姿に復元した。

1854(安政元)年の日米和親条約締結に伴う開港がきっかけで、蝦夷地の開拓や外交などを担うために設けられた箱館奉行所。

当初は函館山山麓(現在の元町公園付近)にありましたが、防衛上の理由で、ヨーロッパの城塞都市を手本に蘭学者・武田斐三郎が設計した、星形の五稜郭へと移転します。

実際、箱館戦争の際、箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の標的となった。

それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾、最早この時点で要塞としての機能は麻痺していた。

五稜郭タワー展望台からの眺望~五稜形をした五稜郭跡

西洋式土塁の特徴である稜堡(城本体からの突出部)とよばれる突角は、左右対称の星形五角形に配置されている。稜堡は土塁で築かれ、一部に石垣が積まれている。

本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式であれば、半月堡は二重、三重に築かれて縦深防御を構成したが、たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。

一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。

展望台から函館湾を望む。
左手前方に函館山が見える。

函館市街を背にした土方歳三。

京都では「鬼の副長」として新撰組隊士を厳しく統率し恐れられた土方だが、箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。

しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。

展示されている開陽の模型。

10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。
10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。
旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。
その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。
11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵はすでに撤退していた。

榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。

ところが翌15日夜、天候が急変する。
開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。
江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。

回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。
留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。

数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。

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五稜郭へのアクセス、行き方歩き方

北海道函館市五稜郭町・本通1
函館市電2系統・5系統五稜郭公園前駅 – 徒歩15分