どことなくモネの池 大原野神社


大原野神社の創建は平安京遷都以前、桓武天皇の長岡京遷都まで遡ります。

延暦3年(784年)に藤原氏の氏神である奈良春日大社の神々をこの地に分霊し勧請した事が始まりとされ、別名「京春日」とも呼ばれている古社です。

参道はまるで緑のトンネル~夏でもひんやり~

本殿と三の鳥居の目の覚めるようなあざやかな朱色と青もみじのコントラストの絶妙さは、秋の紅葉以上かもしれません。

大伴家持が「大原やせがいの水を手にむすび鳥は鳴くとも遊びてゆかん」と詠んだ大原野。

参道脇に清水が湧く。
長岡京遷都の際藤原氏が創建。

京都の「モネの睡蓮」とも呼ばれる鯉沢の池

この風景、どこかで見た覚えがありませんか?睡蓮に覆われた池に架けられた太鼓橋・・・。
そう、フランスの印象派を代表する画家、クロード・モネが描いた「睡蓮の池と日本の橋」に似ていませんか?

睡蓮の隠れスポットでゆっくりと散策ができますので、お車のある方は足を延ばしてみてください。

こちらの睡蓮は午後にはどんどん花が閉じてくるため、昼過ぎまでに訪れるのがおすすめです。

徒歩でのアクセスも楽しい

阪急桂駅西口より京都市バス臨西2系統(南春日町 洛西バスターミナル行)乗車、南春日町バス停下車徒歩約8分
JR向日町駅・阪急東向日駅より阪急バス(南春日町行)乗車、南春日町バス停下車徒歩約8分

おすすめなのが水面のリフレクション

場所を変えると色々な姿を見せてくれます。

「鯉沢の池」は、平安時代に文徳天皇が奈良の猿沢池を模して造営されたと伝えられる池泉回遊式庭園。

睡蓮、カキツバタ、花菖蒲の名所として知られています。

紅葉の名所として名高く、広大な境内に桜やモミジの赤が映える。

近辺には、大原野神社から歩いて行くことのできる勝持寺がある。

こちらも桜が有名だが、紅葉も負けず劣らず素晴らしく併せて訪れたい。

朱色の橋で渡れる中ノ島にあるちいさな社。

地主神と書いてありました。

地主社は神社や寺院が建立される際に、その土地の地主神を祀るために建立された神社のことです。

鯉沢の池の西側、参道を挟んだところにある瀬和井(せがい)。

「瀬和井」は、清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来から数々の和歌に詠まれた名高い清水である。

今では水は湧き出ることもなく、雨水などを溜めたままの姿で残されているが…

「瀬和井」の立て札には、「大原や小塩の山のほととぎす われに神代のことをかたらなん」(左大臣)、「大原やせがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも遊びてゆかん」(大伴家持)などの句が刻み込まれている。「瀬和井」の古き時代が脳裏に浮かんでくる。

森の中の小径を辿り花の寺(勝持寺)へそして正法寺へ。

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嵯峨野散策


桂川(大堰川)に架かる全長155mの橋。

9世紀前半にはすでに存在していたといわれている。

亀山上皇が橋の上を移動する月を眺め「くまなき月の渡るに似る」と述べたことから渡月橋と名付けられたという。

嵯峨野(さがの)は、京都市右京区の地名。
太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。

ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。
平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。

地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀辥山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説があります。

ここには去来の遺髪が埋葬されていて、実際の墓は左京区吉田山の真如堂にあります。

周囲には奉納されたたくさんの句碑が建っています。
ここを訪れた高浜虚子は「凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり」と詠みました。

嵯峨野の喧噪がうそのように人がいない。

明治41年(1908年)8月23日、高浜虚子は「去来の墓」に参拝している。

高浜虚子

百合生けて人ゆきゝせぬ虚室哉

与謝野晶子

皐月よし野山のわか葉光満ち

吉井勇

新緑のまつりの歌をよむことも

嵯峨風流のひとつなるべし

末も終りもなき世の如く

説明板によると、「風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。」とあります。

もともとこの像は四条河原町の高瀬川沿いの旧土佐藩邸役宅址にあったそうで、現地の再開発に伴って撤去され、行き場を失ってここに移されたそうです。

像は左から吉村寅太郎、武市瑞山(半平太)、坂本龍馬、中岡慎太郎の順に並ぶ。

元治元年(1864年)に坂本龍馬と中岡慎太郎が天龍寺の久坂玄瑞と来島又兵衛を訪れたことが、嵯峨野に同像が設置された縁になっているらしい。

すこしづつ観光客が戻っている感じ、人力車の往来も忙しそうであった。

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スイてます嵐山


コロナウイルスの蔓延であちこちの観光地ががらすきです。

こんな嵐山を見るのは何年ぶりだろう。

おかげで気持ちよく観光できます。

混雑する竹林から亀山公園に向かいます。

亀山公園の由来は小倉山から伸びる屋根で山の形が亀に似ていることから、この名前がつけられたといわれています。

山頂からの桂川(大堰川)の眺めもなかなかいいものです。

ミツバツツジがきれいでした。

嵯峨天皇火葬塚

桓武天皇の第2皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。
異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。

譲位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。

嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)大覚寺の近くにあり>


村岡局の像

彼女は元の名を津崎矩子といい、公卿の近衛忠煕に仕え、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗った。

黒船来航以降、近衛忠熈が尊王攘夷派の公卿として頭角を現すと、彼女は清水寺の僧・月照や水戸の鵜飼吉左衛門らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たります。

その月照を通して知り合った西郷隆盛の活動も手助けします。

幕末に近衛家の老女津崎村岡局が浄土宗の寺として再興したのが現在の直指庵である。
紅葉と竹 嵯峨野の直指庵
1646年(正保3)に隠元禅師の高弟独照性円禅師が草庵を結んだのが始まり。 直指 … 続きを読む →

近衛忠熙篆額による村岡の顕彰碑があります。
小雨の大覚寺
投稿日時: 2016年7月28日
弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には旧嵯峨御所大本山大覚寺と … 続きを読む →


角倉了以像

現在の像は2代目で、1代目の像は大正元年に建立され、戦時中の資材供出で撤去された。
現在の像は1988年に地元の有志が設置したもの。

三条京阪の高山彦九郎像、円山公園の坂本龍馬像と並んで「京都三大銅像」の一つとされている。

茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう:呉服商)、後藤庄三郎(後藤正三郎:金座の当主)と並び、京都の三長者と言われる。

保津川開削や高瀬川開削で力量を発揮して、安定した収入源を築き上げ、莫大な富を手にした。

角倉了以別邸跡 高瀬川源流庭苑
現在のみそそぎ川は京都府立医大病院の北側で鴨川から取水し、そのまま暗渠で荒神橋を … 続きを読む →

角倉了以の石碑があります。
桜咲く伏見を散策
この暖かさで桜も一気に開花する、ここ伏見では桜祭りが開催されていた。 弁天浜の1 … 続きを読む →


今、アセビが花盛りです。

保津川下りの船が下ってきました。

保津川という呼び方も亀岡流域の保津地区から保津峡の区間に限ってのことであり、嵐山に入ると渡月橋の下流までを大堰川と呼んでいます。

大堰川の名は秦氏が嵐山の下流に大きい堰を設け、農耕のために水利の便をはかったことからこのあたりを大堰川と呼ぶようになりました。

嵐山から下流は桂川と呼ばれる。

謡曲「小督」の旧跡

小督局は、桜町中納言藤原成範の女(むすめ)で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇(第80代、在位1168~80)の寵愛を一身に集めていた。

しかし、平清盛の女、徳子(建礼門院)が中宮であったため、平家の圧迫をおそれて、この地、嵯峨野に身を隠した。
その時の仮住居が、この「小督塚」辺りであったといわれている。

謡曲「小督」は、天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた弾正大弼源仲国が秋霧の間に微かに聴える琴の調べを便りに遂に局の居所を探し得たという物語である。

今でも、渡月橋の北詰にある石橋は、琴聴橋とも、駒留橋とも呼ばれ、仲国が想夫恋の曲を聴いたところと伝えられている。
                     京都謡曲史跡保存会

この「琴きき橋」には、とても美しくも切ない恋の物語があります。

そのお話のヒロインは小督局(こごうのつぼね)
藤原成範の娘。

時は平家全盛の平安時代最末期、時の帝、高倉天皇が琴の名手で京都一の美貌とまでいわれた小督を寵愛したところからはじまります。

しかし、高倉天皇の中宮(后)は平清盛の娘徳子であり、小督のことを知った清盛は大変怒り、平家からの小督に対する圧力は凄まじいものでした。

自分の身が危ういことより、自分を愛してくれる高倉天皇にわざわいがふりかかることを恐れた小督は、ひそかに宮中を去り嵯峨野に隠れてしまいます。

高倉天皇は、小督がいなくなったことを深く悲しみ、源仲国に小督を捜すように命じます。

仲国は8月10日(陰暦の十五夜)、名月の夜なら琴を弾いているにちがいないと思い、千代古道をたどり嵯峨野辺りを訪ね馬を走らせます。

二人はひっそりと逢瀬を重ね、中宮徳子よりも早く高倉天皇の子供を産みますが、しかし、またも清盛の知るところとなり、小督の髪を剃り出家さされ、二人は引き裂かれます。

哀れかな、高倉天皇は、若干21歳で崩御され、東山にある清閑寺に葬られます。

尼となった小督は、清閑寺近くにに住み、高倉天皇の菩提を弔いながら44歳まで生きたとされます。

小督局悲恋の地 清閑寺
歌の中山清閑寺、和歌や古典文学に名高い清閑寺は由緒ある寺で延暦21年(802)に … 続きを読む →


渡月橋を渡る人々の流れは緩やかです。

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後藤象二郎寓居跡


ホテルリソル京都 河原町三条の敷地内は土佐藩士であり、後に明治新政府でも活躍した後藤象二郎(1838~1897)が京都に滞在中、常宿とした醤油商「壷屋」があった場所。

この地は土佐藩出入りの醤油商で、今中弥兵衛を当主とする「壷屋」のあった場所。

土佐藩邸に近いこともあり、この「壷屋」に藩重役であった後藤象二郎が幕末の京都滞在の折に寄寓していました。

象二郎が当時、この「壷屋」に寄寓していたことは、伝承によるほか、いくつかの文献で確認できます。龍馬の寄寓していた材木商「酢屋」の当主であった中川喜兵衛や、書店「菊屋」の峯吉からの聞き取り調査では、当時の象二郎の居所は「河原町三条下ル東入醤油商壷屋」と記録されています。

ホテルの入り口は狭い路地となっており、まっすぐ進んだ突き当りには醤油の樽が積まれています。

ホテルリソル京都 河原町三条の「後藤象二郎寓居跡ギャラリー」、当時の周辺街並みの復元ジオラマ。

高瀬川を挟んでこちら側が坂本龍馬の常宿「酢屋」、向こう側が後藤象二郎の常宿「壷屋」、間に彦根藩邸がありました。

後藤象二郎寓居之跡の石碑がある河原町通には、坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡の石碑もあります。

また、河原町通の1本東の木屋町通には、土佐藩邸跡もあります。

酢屋は今も残る、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

慶応3年(1867年)、龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。

土佐藩の在京幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らの賛同を得て、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談し薩土盟約を締結した。

しかし、イカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を消耗したため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。

薩摩との提携解消後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。

10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。

これらの功により、後藤は中老格700石に加増され、役料800石を合わせて計1,500石に栄進する。

慶応4年(1868年)、天皇謁見に向かうパークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合い、そのうち一人の朱雀操を討ち取る。この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜の刀を贈られている。

象二郎が英国女王から贈られた宝剣の復元展示されている。

明治維新の功により賞典禄1,000石を賜る。

幕末の土佐藩士。明治維新後は政治家・実業家として活躍。
前藩主・山内容堂に登用され、若くして藩の重職に就く。

坂本龍馬が示唆したとされる大政奉還策を容堂に提言し、容堂に連署して「大政奉還建白書」を幕府に提出。徳川慶喜の大政奉還に大きな役割を果たした人物である。

維新後に懇意にしていた福沢諭吉は、時事新報に「後藤伯」と題する社説を掲載し、政府の現状を変え、諸悪をはらい清める「非常大胆の豪傑・満天下唯一の人物」は後藤伯だけであると、幕末から維新に至るまでの功績を絶賛した。

後藤象二郎は義叔父である吉田東洋(とうよう)の塾で学び、安政5年(1858)には東洋の推挙で幡多(はた)郡の奉行職に就いた。

文久2年(1862)東洋が暗殺され、武市(たけち)瑞山(ずいざん)(半平(はんぺい)太(た))らの土佐勤王党の力が大きくなると、政治の一線から身を引き、江戸で西洋の学問を始め航海術を学んでいる。

元治(げんじ)元年(1864)以降,再び藩政に返り咲き、土佐勤王党の弾圧をはじめ、武市を切腹に追いやり、前藩主の山内容堂の信任を得るところとなる。

慶応(けいおう)2年(1866)には参政職に、翌3年には家老職に就き、土佐藩の若き重臣となる。

坂本龍馬の船中八(せんちゅうはっ)策(さく)の考えに強く感銘を受け、山内容堂を通じて将軍 徳川慶喜に大政奉還の必要性を説いた。

明治維新後、新政府では盟友である板垣退助らと共に自由民権運動にも力を注ぐ一方、逓信(ていしん)大臣(郵便や通信を管轄する)や農商務大臣など政府の重職にも就いている。 

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安藤忠雄の世界 TIME’S


建物は京阪・地下鉄三条駅より三条大橋を渡り、少し歩いた先にかかる三条小橋西詰に建っています.

昭和初期の三条小橋碑(三条通り角)

江戸時代より木屋町~河原町間の三条通は現在より道幅が狭く、現在の河原町以西の道幅と同じでした。

又、小橋右側(北側)の旅館『吉岡家』は、江戸時代から続く旅館です。

幕末に「新撰組」の基礎である「浪士組」を結成し、その後新撰組と袂を分け、江戸の警護をして有名な庄内藩士『清河八郎』が安政二年に書いた紀行文「西遊草」のなかで、三条河原かたわらの「吉岡や」に泊まったと記してあります。

また、左側の有名なアールデコ風の出窓がある旅館も江戸時代から続く「大津屋」(現在は、有名な建築家・安藤忠雄によるタイムズビル)で、池田屋騒動の「池田屋」は、まだ、この当時までは、建物は残っていました。

又、「京城勝覧」(儒学者・貝原益軒著1630~1714)のなかに「三条小橋高瀬側にわたせり。 此下より舟にのり伏見にゆく。 此邊(このへん)より大橋の際まで旅篭屋多し」。と当時の三条小橋周辺を紹介しています。
(案内板より)

中規模の商業建築の集中的に手掛けた80年代(1984年)の作品ですが、7年後に増築されており、作品集では「TIME’S I・II」と表記するものが多い。

フロア床を打ち放しの横帯で、それ以外を馬目地のコンクリートブロックで仕上げるやり方は「B-LOCK北山」でも見られましたが、時期としてはこちらが先です。

さてこちらは三条通と同じレベルとなる2階フロア、最初は開けた通路ですが途中から路地並みにグッと狭くなり、建物中央部には2階をガラス壁で囲まれた中庭が出現します。

京町屋の『オク』を連想させますが商業的にはマッチせず、周囲のテナントは全て空という寂しいものに。

設計当初は川を自邸の庭まで引いて再度流すという古い京都の邸宅から発想を得て、建物中央に高瀬川の水を引き込もうとしていたようですが、行政に猛反対されたそうな。





そして更に奥へと進むと、細い通路の向こうに出口を発見、こちらは坂本龍馬の隠れ家が通り沿いにあることから名付けられた『龍馬通』への出入口。

池田屋騒動でなじみの池田屋。

頃は幕末。材木商「酢屋」の6代目酢屋嘉兵衛は坂本龍馬の活動に理解を示し、幕府及び倒幕急進派の双方から命を狙われていた龍馬をかくまっていました。

店では龍馬は「才谷さん」と変名で呼ばれ、滞在していた2階の部屋の格子から向いの舟入に向けてピストルの試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。

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竜馬葬送の道


京都市東山区円山町、枝垂れ桜で有名な桜の名所。

龍馬・慎太郎像は公園の東側にある。
昭和9年に建立されたが、第二次大戦中供出させられ、昭和37年に再建された。

沢山の観光の方が歩くニ年坂から、左に曲がると急に人のいない坂道に入ります。

この坂道は、霊明神社・正法寺へ向かう坂道で龍馬坂と呼ばれています。

霊明神社、正法寺に至る急な坂は、いつしか「幕末志士葬送」の道と名付けられている。
 
もともと正法寺の参道であったが、文化六年(1809)、地下の村上都愷(くにやす)が正法寺の境内に霊明社を創建した。

徳川幕府の宗教政策により原則として全ての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式を始めた。

これにより、神葬祭を進める長州毛利家との縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地となった。
維新後、霊明社の土地は没収され、創建間もない東山招魂社に譲られた。
 
石碑の背後は神葬墓地となっている。
ここはもと土佐高知藩神霊社があり、東側の現在マンションのある場所には、吉村寅太郎ら天誅組志士の墓があった。

のち霊山護国神社内に移されている。

高低差は32m。斜度10度の坂道、坂の上から見下ろす。

この坂道は慶応3年(1867年)11月18日、海援隊士や陸援隊士らによる坂本龍馬と中岡慎太郎の葬列が通った「幕末志士葬送の道」。

坂本龍馬と中岡慎太郎が、近江屋事件で亡くなったのは1867年の11月。

坂本龍馬31歳。
中岡慎太郎29歳。

志士達が夢見た、明治維新はその翌年の1868年10月でした。

慶応3年(1867年)11月15日 自身33歳の誕生日に京都河原町蛸薬師近江屋新助宅にて狂刃に倒れた。

一週間前に福井から帰った龍馬は風邪気味で近江屋に用意されていた隠れ家の蔵では、寒さがこたえると母屋二階で火鉢を抱え中岡慎太郎と語り合っていた。

腹がへったなぁ、好物の軍鶏鍋でも食うかと使い走りの峰吉に四条小橋の「鳥新」まで軍鶏を買いにやらせた。
そのわずかなスキに賊は押し入り下僕の藤吉も犠牲になった。

入り口からさらに階段を上がっていくと、そこには坂本龍馬と中岡慎太郎並び、そこの横に申し訳なさそうにそして藤吉のお墓が並んでいる。

墓地からは京都市街が一望、八坂の塔も見える。

現在は墓地へ入るのは京都霊山護国神社から。

京都霊山護国神社は明治元年に初の官祭招魂社として創建され、その当時は霊山官祭招魂社といいましたが昭和14年に現在の名に改称。

幕末の長州、土佐、筑前、肥後といった各藩の殉難者ら549柱を祀ります。
その中には著名な方々の名前も数多くあげる事が出来ます。
坂本竜馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝充)と幾松夫妻・吉田稔麿らの池田屋事件殉難烈士、久坂玄瑞らの禁門の変殉難の長州藩の面々・・・。

幕末ミュージアム「霊山歴史館」

館内には幕末の志士ゆかりの品々がたくさん展示されています。
わかりやすい幕末年表もあるので、初心者でも大丈夫!

あの松下幸之助さんが、「明治維新の時代に生きた人々は、日本の近代化の基礎を築いた人々である。

そんな人々の墓が荒れていることは嘆かわしい」と創設したことでも有名です。

こちらは司馬遼太郎の「竜馬が行く」にも度々登場する現在の明保野亭。
坂本龍馬の定宿の一つだったところです。

当時はもう少し北東にあったらしいのですが、石碑とともに産寧坂の近くで今も営業しています。

明保野亭といえば、坂本龍馬好きの方や、司馬遼太郎先生の竜馬がゆくにも登場する、幕末には、坂本龍馬が常宿し、倒幕の密議を志士たちと談合していた場所でもあり、小説上では、土佐藩家老息女のお田鶴様と、坂本龍馬が密会していた場所として登場する料亭です。

現在でこそ明保野亭は、様々な店舗が軒を連ね、あまり目立ちませんが、当時は京都でも選りすぐりの高い建物だったので、坂本龍馬も2階の窓からよく京都を一望していたそうで、新選組をはじめとする、幕吏からの追跡を警戒するのに、最適の場所であったのでしょう。

店の前には龍馬の写真も飾られている。

月真院は高台寺の塔頭の1つで、臨済禅宗建仁寺派に属します。
本尊は千体地蔵菩薩。

でも、それだけじゃないんです!
この月真院は、慶応3(1867)年6月に新撰組から分離した、伊東甲子太郎ら15名が公明天皇陵を守る御陵衛士として屯所を構えた地。

だから、御陵衛士のことを、別名高台寺党とも呼ぶ。
衛士が寝泊まりしたとされる部屋も残っている上、方丈からは八坂の塔、秋には美しい紅葉が見られるそうですが、内部非公開なのが惜しい………

以前の龍馬葬送の道の記事、今回加筆、改訂した。

坂本龍馬 葬送の道を訪ねる
本日の目的は竜馬葬送の道を訪ねることにある。 現在では高山寺参道脇の道を上がり、 … 続きを読む →

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龍馬の育ったまちを訪ねる


龍馬の生まれたまち記念館が路面電車 上町一丁目下車(はりまや橋乗り換え)すぐのところにある。

坂本龍馬が生まれた高知市上町にある記念館では、昔の上町の町並みを半立体模型で再現し、龍馬の精神的なバックボーンを育てた上町という町を紹介しています。

入り口で龍馬像がお出迎え、おなじみの懐手のポーズ。

龍馬を中心に乙女、近藤長次郎の像。

乙女は、天保3(1832)年1月1日、父・八平と母・幸の間に生まれた。
本名は「留(とめ)」であり、「おとめ(乙女)」は当て字である。

きょうだいは兄・権平と長姉・千鶴、次姉の栄であり、龍馬はその3年後となる天保6(1835)年11月15日に生まれている。

母・幸が弘化3(1846)年に死去した後、龍馬の母代わりとなって教育したと言われる。(実際は、龍馬の少年時代に与えた影響力は、継母の伊与のほうが大きいのではないかと思われる)

人物は、「男勝りの豪快な女」のイメージがあるが、三味線、一絃琴、謡曲、浄瑠璃、琵琶、舞踊などの芸術的な技能も多彩であった。

また、剣術や長刀(薙刀)、馬術、水泳などにも通じており、文武において高い能力を持っていたらしい。

身長は5尺8寸(約176cm)、体重は30貫(約112kg)もあったそうで、成人男子の平均身長が155cmほどであった当時の人々には、途方もない大きさに感じられたことだろう。

近藤長次郎

坂本龍馬と仲が良く、龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立した人物。

龍馬の命令で長州藩に赴き、小銃を売り渡したのも近藤。

ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金をイギリス商人に渡した上、イギリス船に乗り込みイギリスに留学しようとした事と、密かに亀山社中の資金を横流ししていた罪により、社中の隊士たちより切腹を言い渡される。享年29歳。

龍馬が土佐藩を脱藩するまでの少年,青年時代のエピソードを映像や音声で紹介しています。

龍馬が育った上町の様子。

龍馬が育った上町の様子。

坂本家の離れをイメージした空間。
龍馬へ宛てたメッセージノートなど、思いを馳せながらゆっくりくつろぐことができます。

また龍馬・乙女姉さんとの写真撮影も楽しめます。

龍馬の育った才谷屋この先にある。

高知駅前にーぶんした「龍馬伝」幕末志士社中、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で使われた龍馬の生家セット。

「龍馬伝」で使われた龍馬の部屋。

しかし、龍馬が偉大な人物だったことは認めるが、高知って龍馬しかいないの?
展示内容が少し薄っぺらすぎませんかねえ、物足りなさを感じる。

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高知で日の出を撮る

旅に出たら必ずご当地の日の出日の入りを撮ることにしているが、今回は3度もチャンスがありながら酒につられて一度だけの撮影になってしまった。

慣れない土地だけに火が昇るベストスポットの特定にはいつも苦労する。
少し方角が違うようだ。

駅前に移動、ピッタシ!!

坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の諸君が揃って日本の日の出を見つめる。。

高知駅の上にも照り返しの赤い雲。

最初のスポットへ再度移動、ビルが邪魔になり完全には捉えきれない。

ホテルの窓から東の空を、今日もいい天気だ。

以前訪れた高知城、山内神社の側を流れる鏡川、夕闇が迫っている。
南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 山の南を流れる鏡 … 続きを読む →

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夕闇迫る高知城

早めに夕食を終え夕闇迫る高知城に向かう。

やはり、高知城探訪の入口は、城の正門である追手門からであろう。

この門は、慶長年間に創建され、1663年(寛文3)に崩壊したのを翌年に再建したものとのこと。

高知城では珍しいのだが、切石を積んだ石垣の桝形上に、南面して建てられた両脇戸付櫓門で、屋根は入母屋造の本瓦葺となっている。

天守閣と大手門(追手門)がそろって現存している城は珍しく、この城と弘前城、丸亀城の3城しかないが、追手門前から天守閣を望めるのはここしかなく、有名な撮影スポットにもなっている。

山内一豊像

この銅像は桂浜にある坂本龍馬の銅像などを手がけた銅像作家、本山白雲の手によるもので、一豊の祥月命日(しょうつきめいにち)にあたる1996年(平成8年)9月20日に再建除幕された。

銅像の本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32m、重さ3.6トン、台座5.08m、総高9.4mで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成像を上回る、国内最大クラスです。

追手門から登城するための階段は、登りにくい。わざとそういう足幅に作られ、攻めるにのぼりにくく、上方から下りるには都合の良い足幅になっているとか。

少し酒の入った体にはこの登りはきつい。

1881年(明治14)自由党総裁となり、全国的に活動し、憲法発布、国会開設へと向かわせたことは有名。

1882年(明治15)4月6日、岐阜での遊説途上、刺客に襲われ、「板垣死すとも自由は死せじ」の名言を残した。

それを書いた石碑も銅像の右後方に立っている。

この銅像は、桂浜の坂本龍馬の銅像製作者と同じ本山白雲で、1924年(大正13)に建立されたのだが、戦時中に供出され、戦後、再建されたものとのこと。

像の題字は、再建当時の内閣総理大臣吉田茂の揮毫だ。
自由民権運動の発祥の地と言われる高知県を象徴している銅像だ。

杉の段から見た天守閣東面。

杉の段にある山内一豊の妻像。

二の丸手前の階段付近から見た天守閣北面。

道路には高知城をあしらったプレートが見られる。

マンホールのふたは、市章に「S(Sewerage下水道の意味)」の入ったマークの周りに県の鳥ヤイロチョウ、県の花ヤマモモ、「高知城」のデザインに「T-14」「合流」の文字。

翌朝、ホテルの部屋から天守を望む。

以前訪れた高知城の記事。
南海の名城、高知城

高知城は大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 山の南を流れる鏡 … 続きを読む →

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青春18切符旅行記 モネの庭

高知のモネの庭に行くにあたって青春18切符を使うこととした。

コスト比較、通常の交通費、約26000円、ツアー 45000円。
青春18切符2370円x2 4740円。時間はたっぷりある。

瀬戸大橋を渡るマリンライナーは特急ではないので指定席以外は自由。

確かに時間はかかる。
まず高知まで、往路は9時間58分、復路 8時間29分。
違いは列車待ちの時間。
琴平での待ち時間、45分、これは待ち時間といってもその間電車がないのだ。

45分待って阿波池田行に乗り込む。
阿波池田で待ち時間61分、次の列車がないためだ。

土讃線に入ってからが面白い。
乗った電車は画像の上方から引っ込み戦のようなところへ入って止まる。

もちろん前方は行き止まり。

待つことしばし、特急南風が通り抜けていく。
土讃線は狭い山中を走る、行内に複数の線路のある駅はそう沢山ないのだ、したがってスイッチバックのような時間待ちをすることになる。

こんなに待ち時間があるんなら、大歩危、小歩危の観光に充てたいところだが、時刻表とにらめっこしてもうまく大歩危、小歩危で観光できる時間がひねり出せない。

これは気が付かない落とし穴だ。
大都市圏の快速や新快速はたしかに速く、18切符を利用する旅行者には大変便利です。

しかし、それ以外の地域では、ほとんどが普通列車のみです。

しかもこんなローカル線になると昼間の列車本数は極めて少ない、うかつに途中下車しようものなら、当日のうちに目的地に着かない。

仕方がないので車窓から撮影としよう。
だが、ここでも思わぬ落とし穴、狭い山間を走る土讃線、林や藪の連続で、きれいな渓谷が時折チラッ、チラッと見えるのみ。

シャッターのタイミングなどとても取れない、精神衛生上よろしくない時間を過ごすことになる。
こうなったら考えを変えるよりない。

又もやスイッチバックの列車待ち。

と、いうわけで9時間58分かけてようやく高知へたどり着く。
高知では坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の諸君が出迎えてくれる。

高知で一夜あかし、翌朝、いよいよ北川村のモネの池に向かう。
ここでまたトラブル!?

後免までがJR、そこから先が土佐くろしお鉄道。
とりあえず後免まで行こうと改札へ、なんとIC切符をタッチするところがない、駅員に尋ねるとまだIC化されてないとのこと。

仕方なく券売機で切符を購入、目的地の奈半利までの切符も変えるのだが、とりあえず後免までの切符を購入。

待つことしばし、折り返し奈半利行となる列車が到着、早速乗り込むと、これは回送電車だという。
JRの電車が切り離されると、おやっ、土佐くろしお鉄道の電車が現れる。

どうやら朝の通勤通学時間帯、後免~高知間、土佐くろしお鉄道の電車にJRの電車を増結しているようだ。

やっと電車に乗り込む、後免駅まではJRの運転手、後免駅で土佐くろしお鉄道の運転手に交代。

そのまま走り出す、すると切符はどうなるのだ、途中で回ってきた車掌に尋ねる、往復するなら1日乗り放題切符が有利だという、確かに往復2140円のところ1640円とかなり割引になる。

と、いうことは高知駅の券売機で奈半利までの切符を買っていたら損するところだった。

阿佐線(あさせん)は、高知県南国市の後免駅から同県安芸郡奈半利町の奈半利駅に至る土佐くろしお鉄道の鉄道路線。

現地での案内や時刻表での表記などでは、すべて愛称の「ごめん・なはり線」が使用されている。

正式な起点は後免駅で、本来、後免駅から奈半利駅へ向かう列車が下りだが、JR土讃線と合わせるために列車番号は、奈半利駅から後免駅へ向かう列車が下りに付ける奇数、逆方向が上りに付ける偶数となっている。

また、誤乗防止のため「上り」「下り」の呼称は用いていない。

1時間あたり1 – 2本程度運行されている。

各駅停車のほか、快速列車が運転されている。
朝ラッシュ時の一部を除いて、1両編成の気動車がワンマン運転される。

運転パターンは後免駅 – 奈半利駅間運転の列車のほか、途中駅の安芸駅発着の区間列車が多数設定されている。

また、夕方には後免駅 – あかおか駅間の区間列車が1往復設定されている。
また、全ての快速列車と各駅停車の一部は、JR土讃線に乗り入れ、高知駅まで相互直通運転を実施している。

夜須駅~西分駅では雄大な太平洋が見られる。

各駅には、高知県出身の漫画家やなせたかしのデザインによるイメージキャラクターが設定されている。

このキャラクターは各駅に設置されたオブジェ・車両のマーキング・キャラクターグッズなどの形で本路線のイメージアップに貢献しているほか、2004年には沿線の市民グループの手で各キャラクターの着ぐるみが製作され、「ゴトゴト着ぐるみ隊」の名称で各種のイベントに出演するなどの活動を行っている。

ちなみにここ、下山駅のキャラクター名は「しもやま ちどりちゃん」 ご覧のようなイメージキャラクターが設定されている。

各駅のキャラクター名は下記の通り。

駅名    キャラクター名

後免駅   ごめん えきお君
後免町駅  ごめん まちこさん
立田駅   たてだ そらこちゃん
のいち駅  のいちんどんまん
よしかわ駅 よしかわ うなお君
あかおか駅 あかおか えきんさん
香我美駅  かがみ みかんちゃん
夜須駅   やす にんぎょちゃん
西分駅   にしぶん つきこちゃん
和食駅   わじき カッパ君
赤野駅   あかの カモメちゃん
穴内駅   あなない ナスビさん
球場前駅  球場 ボール君
安芸駅   あき うたこちゃん
伊尾木駅  いおき トラオ君
下山駅   しもやま ちどりちゃん
唐浜駅   とうのはま へんろ君
安田駅   やすだ アユ君
田野駅   田野 いしん君
奈半利駅  なは りこちゃん

目的を果たし、いよいよ帰ります。

高知から琴平まで126.6㎞を217分かけて走る。

土佐山田駅から山中に、途中人家もなく次の駅まで長い。

新改駅ではスイッチバックでアンパンマン列車待ち。

大歩危では8分停車。

8分という中途半端な停車時間では観光はできない、さりとて次の列車を待つ余裕もない。
次回のため何か解決策を見つけよう。

阿波池田では21分停車、結局、列車待ちの停車時間が高知から琴平までの所要時間、217分の30㌫以上が列車待ちの停車時間だ。

こと、ローカル線では気に入った駅で途中下車しながら旅を楽しむという青春18切符のうたい文句は嘘だ。

もちろん、その日のうちにたどり着く駅を決めずに旅すれば別だが・・・・・

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