日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。
大鳥居
祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。
『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。
この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。
天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。
1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。
その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した。
村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。
1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。
戦後は神社本庁の別表神社に列している。
主祭神
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。
配祀神
左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)。
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇) – 末弟(第4子)。
『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。
『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。
『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。
その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。
竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(位置)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。
宮内庁上の形式は円墳。
高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。
上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。
『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。
寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。
明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。
関連記事