天満宮には、なぜどこにでも「使いの牛」があるかご存じですか。
大宰府天満宮
大宰府天満宮の紋は梅紋。 現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ … 続きを読む →
右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々延喜3年(903年)に同地で薨去した。
薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。
その他菅原道真公の生年が承和12年(846年)6月25日で乙丑の年だからという説。
また薨去されたのも延喜3年(903年)2月25日の丑の日だからとの説があります。
この説から「使いの牛」は、ほとんど臥牛と呼ばれる座った姿勢をしています。
菅公をご祭神とする当天満宮には、ご神霊をお慰めするために、約1万坪の境内に紅白約80種800本の梅樹を植樹し、豊かな香りとともにまさに豪華絢爛、春の訪れを百花に先立って咲き匂います。
当梅園は「大阪みどりの百選」に選ばれています。
また、参拝者の方々に目の高さで梅を観賞していただくために、梅の剪定を何度か行なっています。
2月25日には道真公の御命日であることから、例祭(梅花祭)が行われます。
梅の花をお供えして御神霊をお慰めする行事で、道明寺天満宮の最も重要な祭典です。
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年(3年)に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。
そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。
仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。
伝承では推古天皇2年(594年)に聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して土師寺としたという。
この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏、秋篠氏が分流していく。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている。
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。
昌泰4年(901年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。
道真遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
うそかえ神事(1月25日)
菅原道真が左遷先の大宰府に到着した神事の際、襲来した無数の蜂を一群のうそ鳥が飛来して蜂を食い、人々を救ったという故事にちなみ、参拝者たちが授与された木彫りの「うそ鳥」の入った袋を「かえましょう、かえましょう」という掛け声とともに周囲の人と交換しあう行事である。
近年では、縁起として「一年の凶事をウソに替える」や「ウソを誠に替える」などの願いも込められている。
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