伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。
その後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。
これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
今日は雨中の散策となってしまった。
ボタンも雨に濡れてきれい。
金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。
室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみた。
本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼茶羅がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。
伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。
後村上天皇桧尾陵へと通じる、南朝の後村上天皇は後醍醐天皇の思いを受け継ぎ、足利尊氏を討ち果たして天下の覇権を握る野望に固執した生涯の果てに、住吉行宮でその野望と共に崩御する。
その南朝軍と足利軍との戦いの中でも最終局面において、後村上天皇はなぜ賀名生を出、天野山金剛寺・観心寺をも通過点にして住吉行宮を終焉の地としたのでしょうか?
南朝の里 賀名生梅林散策
奈良には「三大梅林」というのがある。 「賀名生(あのう)梅林(2万本)」「月ヶ瀬 … 続きを読む →
楠木正成首塚。
開山堂(本願堂)、本山の実質的開基で空海の弟子だった道興大師実恵(じちえ)が祀られている。
訶梨帝母天堂
鎮守社・鎮守堂とも呼ばれており、訶梨帝母天を鎮守としてまつっている。
訶梨帝母は、サンスクリット語のハーリティーを音写したもので、鬼子母神とも呼ばれて、次のような伝承があります。
訶梨帝母は他人の子どもをさらって食べてしまいます。
仏は一計を案じ、彼女の子どものひとりを隠しました。
子を失う親の苦しみを悟らせました。
それ以後、訶梨帝母は改心して、仏教を守護するようになったというものです。
楠木正成像。
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