万葉歌人・山部赤人の眠る赤人寺(しゃくにんじ)

歴史を訪ねる旅
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万葉歌人・山部赤人が生涯を閉じた地と言われ、山部神社と赤人寺が隣接して建っています。

山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 – 天平8年(736年)?)は、奈良時代の歌人。
三十六歌仙の一人。

姓は宿禰。大山上・山部足島の子とし、子に磐麻呂がいたとする系図がある。
官位は外従六位下・上総少目[2]。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある

その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。

神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。

作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。

同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。

『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している。

自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。

1424: 春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける

1425: あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも

1426: 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば

1427: 明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ

1431: 百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも

1471: 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり

山部赤人歌碑

昭和42年建立とのことだが、随分古びた様にて、文字の判読も容易ではないが、境内の説明板では歌碑の歌は万葉集のそれとあり、境内に備置されたリーフレットでは新古今集、百人一首のそれとある。

どちらなのか、碑の写真を見てもよくはわからない。

田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
                            (山部赤人 万葉集巻3-318)

田児の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
                     (山辺赤人 新古今集675 小倉百人一首4)

18世紀以降、地誌類などで当社と山部赤人との関係が取りざたされ、慶応元年(1865)桂園派の歌人渡忠秋の勧めで領主であった旗本関盛章の撰により赤人廟碑の碑文が刻まれ、明治元年その碑が境内に建立された。

碑文には赤人寺は山部赤人の創建で「小松社は」は赤人の廟にあたり、近くには赤人の墓や赤人桜とよぶ桜木があったと記す。

廟碑建立に奔走した忠秋は高島郡南船木村(現安曇川町)の出身で、近世後期の国学隆盛といった社会状況が背景にあった。

廟碑建立を契機に赤人の山部神社が定着して行った。

当社に隣接して養老山赤人寺(しゃくにんじ)がある。
境内の略縁起には以下の事が記載されている。

赤人公は若い頃、「汝は我が生まれ変わり」との夢のお告げにより、田子の浦から一寸八分の如意輪観音を念持仏として迎え、歌道に霊験を得た。壮年におよんで蒲生野へ遊歴、木に掛けた冠がはずれなくなって一夜を過ごしたところ、再び「この地こそ仏法興隆の勝地なり。この地に安置すべし。」との夢のお告げを受け、当寺が創建された。

元正天皇より「養老山」の勅額を賜り、「赤人寺」と名づけられ、赤人公は観世音を護持してこの地で生涯を閉じたと伝えられている

赤人供養塔とされる国指定重要文化財の鎌倉時代に建てられた七重石塔が残されている。

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赤人寺へのアクセス、行き方歩き方

東近江市下麻生町

JR琵琶湖線 「近江八幡駅」 下車 バス 20分 日野行き麻生口下車、徒歩10分