たま電車に乗って三社参り


和歌山駅に着いたら、駅の外には出ず、9番線ホームに向う、目印は、階段や通路に点在する猫の足跡だ。

和歌山市と野上町を結ぶべく計画されたが、同時期に計画された野上軽便鉄道の計画に敗れ認可が下りず、計画を変更。

沿線にある日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社などへの参詣(いわゆる三社参り)のための鉄道として、1916年(大正5年)2月15日 山東軽便鉄道により大橋駅 – 山東駅(現在の伊太祈曽駅)間が開業。

2009年3月22日にはいちご・おもちゃ両電車に続くリニューアル車第3弾「スーパー駅長たまちゃん電車」、略して「たま電車」がお披露目された。

この電車の車体には様々なポーズのたまのイラストが描かれるなどたまづくしの電車になっている。

2017年1月7日、三毛猫の「よんたま」がニタマの貴志駅駅長就任で空いていた伊太祈曽駅の「駅長見習い」に任命された。

よんたまは2015年4月20日、一週間前に飼い犬を亡くした和歌山市内の女性の家に、まだ目の見えない仔猫の状態で母猫に置いていかれた猫である。

困った女性が友人に相談したところ、その友人が仔猫の件を和歌山電鐵に繋いだことから、小嶋社長が仔猫を「面接」の上岡山に連れて帰り、岡山電気軌道内にある“訓練をしない猫駅長訓練所”で「人が好きなこと」「帽子をかぶるのを嫌がらないこと」「仕事を嫌がらないこと」という三要素の適正チェックを受け、駅長見習いに任命されることになった。

なお、駅長見習いの候補には岡山にいる「SUNたまたま」もいたが、親代わりの両備グループの広報担当者がSUNたまたまを可愛がって「この子は手放しません。

岡山に置きます」と手放さなかったために、よんたまが駅長見習いに就任することになった。

2018年1月5日、三毛猫の「よんたま」が伊太祈曽駅の「駅長」に昇格。

併せて、「たまⅡ世駅長」が駅長を務める貴志駅の「駅長代行」に就任。

2019年1月5日、「スーパー駅長」に昇進。

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三社参り 日前神宮・國懸神宮

入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

1つの境内に日前神宮・國懸神宮の2つの神社があり、総称して日前宮(にちぜんぐう)あるいは名草宮とも呼ばれる。

両社とも式内社(名神大)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。
現在は神社本庁に属さない単立神社。

神体の鏡について

神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。

八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。

日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。

また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

日前神宮

主祭神
日前大神 (ひのくまのおおかみ)
日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。

相殿神
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)

神階について

日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。

神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。

なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。

『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。

社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。

当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。

なお、伊太祁??曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁??曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。

また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。

國懸神宮

主祭神
國懸大神 (くにかかすのおおかみ)
日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。

相殿神
玉祖命(たまのやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)

天正13年(1585年)に豊臣秀吉に攻め込まれ、社領が没収された。

その際社殿が取り壊され境内が荒廃したが、江戸時代に紀州藩初代藩主徳川頼宣により社殿が再興された。

しかし現在は最盛期の5分の1の広さになっており、社殿や施設などは往時を忍ぶに及ばない。

さらに1919年(大正8年)には国費による改善工事によって境内の建物はすべて一新されており、旧観は大きく変化している。

1926年(大正15年)3月の工事完成をもって現在の左右対称の姿となった。

1871年(明治4年)、近代社格制度において両宮ともに官幣大社に列せられた。

現在は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっている。

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三社参り 竈山神社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじんじゃ)を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

大鳥居

祭神の彦五瀬命は神武天皇(初代)の長兄にあたる。

『古事記』『日本書紀』によれば、神武天皇の東征の際に行軍した彦五瀬命は、孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍との戦いで流矢にあたって負傷、その後雄水門(おのみなと、男之水門)で崩御、のち竈山に葬られたという。

この彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定されている。

天正の兵乱で文書が散逸したため竈山神社・墓の由緒は明らかでないが、『紀伊続風土記』では当地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。

1873年(明治6年)に近代社格制度において村社に列した。

その後、1885年(明治18年)4月22日に官幣中社、1915年(大正4年)11月10日に官幣大社に昇格した。

村社から官幣大社まで昇格したのは、竈山神社が唯一の例である。

1938年(昭和13年)頃、現在の規模の社殿が整えられた。
戦後は神社本庁の別表神社に列している。

主祭神
彦五瀬命(ひこいつせのみこと)
「五瀬命」とも。ウガヤフキアエズとタマヨリビメの間に生まれた長男(第1子)で、神武天皇の長兄。

配祀神
左脇殿:彦五瀬命の兄弟神
稲飯命(いないのみこと) – 『日本書紀』本文では第2子(一書で第3子)。
御毛入沼命(みけいりぬのみこと) – 『日本書紀』本文では第3子(一書で第2子)。
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇) – 末弟(第4子)。

『古事記』『日本書紀』では、彦五瀬命は「紀国之竈山」または「紀伊国竈山」に葬られたと記載されている。

『延喜式』諸陵寮では「竈山墓」と記載され、紀伊国名草郡にあり、兆域(墓域)は東西1町・南北2町で守戸3烟を付して遠墓としている。

『延喜式』において紀伊国唯一の陵墓である。

その後康和2年(1100年)の解状では、紀伊国等の陵墓は格式に規定されているにも関わらず、国司によって兆域侵犯や陵戸収公が行われていると記している。

竈山墓(かまやまのはか)は、竈山神社の本殿後背にある古墳(位置)。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により彦五瀬命の墓に治定されている。

宮内庁上の形式は円墳。

高さ約9メートルの独立丘上に位置し、墳丘は直径約6メートル、高さ約1メートルで、裾に護石を配する。

上記の記録があるものの、その後竈山墓の所在地は不明となった。

『紀伊続風土記』では寛文9年(1669年)に区域を定めて殺生を禁じたというが、これは神社の区域を定めたものであり、竈山墓の所在自体はなお不明であった。

寛政6年(1794年)に本居宣長とともに竈山神社を参拝した本居大平は、所在不明の旨を「なぐさの浜づと」に記している。

明治9年(1876年)に現在の古墳が「竈山墓」に治定され、明治14年(1881年)に修営された。

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三社参り 伊太祁曽神社


旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。

祭神

主祭神 – 五十猛命 (いたけるのみこと)、別名:大屋毘古神。

左脇殿 – 大屋都比賣命 (おおやつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

右脇殿 – 都麻津比賣命 (つまつひめのみこと。五十猛命の妹神)。

上の3柱はいずれもスサノオの子であり、木の神として信仰される神である。

二の鳥居もがっしりとした木造り。

日本書紀によると、高天原を追われた素戔嗚尊とその子五十猛神は、共に新羅に降り立つがその地を気に入ることはなく、船で出雲国に移動した。

そして素戔嗚尊は高天原から持ってきていた木の種を五十猛神に渡して日本中にその種を蒔くように命じた。

五十猛神は妹である大屋津姫命・都麻津姫命と共に九州から順番に日本中に種を蒔き始めて国中を青山にし、最後に木の国(紀伊国)に降り立った。

このことから五十猛神は有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)とも呼ばれ、紀伊国に祀られることとなった。

伊太祁曽神社の拝殿は、割拝殿となっています。

割拝殿とは、建物の中央に土間があり、通り抜け可能な拝殿のことです。

威風堂々としたとても立派な割拝殿です。

御神木

昭和37年の落雷で燃え、枯れてしまいましたが、現在も3mほどの高さが残っています。

その後、古幹は割拝殿に保存され、大国主命(おおくにぬしのみこと)を助けた神話にちなみ、「木の俣くぐり」となっています

石垣には地元産の緑泥片岩(りょくでいへんがん:通称・青石)が使われています。

御鎮座の時期については明らかでないが、『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)の記事が初見になる。

古くは現在の日前宮(日前神宮・國懸神宮)の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝える。

その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、和銅6年(713年)に現在地に遷座したと伝えられる。

本居宣長の歌碑。

氣生社

日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と当神社を詣でることを「三社参り」と言い、貴志川線はこの三社の参拝者を運ぶことが目的の一つであった。

貴志川線の開業当初の終点は伊太祁曽駅(当時は山東駅)であった。

御井社には水の神様、彌都波能売神(みずはのめのかみ)・御井神(みいのかみ)をお祀りしています。

ご神水をいただける井戸があり、病気の人には元気を取り戻す霊力があると伝えられています。

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春爛漫 粉河寺の桜


粉河寺参道左手にある「大神社の大クス」、環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/11. 42m、樹高/20m。
和歌山県下で第三位の大木。

大門から南に約1キロメートル続くJR粉河駅前通は門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。

大門(仁王門、重要文化財) – 宝永4年(1707年)建立。
入母屋造、本瓦葺きの楼門。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。

天台宗系の粉河観音宗総本山。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

西国三十三所第3番札所。本尊は千手千眼観世音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。

平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
「風猛山」の扁額は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。

鎌倉時代には550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

戦国時代の天正元年(1573年)には境内南側の猿岡山(現・秋葉山)に猿岡山城を築き、寺の防衛を図ったが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐にあい、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失し、猿岡山城も陥落した。

この時、粉河寺縁起絵巻も焼損している。江戸時代の正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の再建である。

粉河寺庭園

国の名勝。
中門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至る、その両翼に土留め石垣を兼ねた石組の庭である。

緑泥片岩を主とし、琴浦(ことうら)の紫石、龍門石(りゅうもんいし)などの紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどの植栽が組み合わされている。

用いられている紀州石は、雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)と多岐にわたっています。

和歌山県の紀の川市にある粉河寺の本堂の脇に植えられている桜の木。
湯浅の元祖である湯浅宗重の父、藤原宗永が植えたと伝えられています。

すでにかなり世代が代わっているようですが、湯浅のスタートとなる桜です。

本堂(重要文化財)

西国三十三所の寺院の中で最大級の堂

中門の先、一段高くなった敷地に建つ。
享保5年(1720年)建立。

本尊千手観音(秘仏)を安置する二重屋根の正堂(しょうどう)と、礼拝のための一重屋根の礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として多数の参詣者を収容する必要から礼堂部分を広く取っている。

粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。

このため西国三十三所の札所などで見かける粉河寺の本尊の模造像や絵については、それが本物と相違しているか証明できる者はいないとされている。

日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。

本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。

「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。

なお、内陣背面(後戸)に安置された「裏観音」と称する千手観音立像は拝観可能である。

環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/7. 70m、樹高/20m。粉河寺本堂の東側にあります。

傍らに「踞木地」の石碑が立っています。

粉河寺の開祖・大伴孔子古が踞(うずくま)り下を通る鹿を狙った故事によります。

十禅律院 – 元は塔頭の十禅院。

寛政12年(1800年)に独立して天台宗安楽律院派の寺院となっている。

正暦元年(990年)に塔頭として創建された十禅院が、寛政12年(1800年)に紀州藩第10代藩主徳川治宝により 天台宗の寺院に改められて十禅律院として独立した。

粉河寺にある丈六堂に安置されている阿弥陀如来像 。

釈尊は一丈六尺あったっとされておりこの大きさに作られた仏像を丈六という。

「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。

1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。

紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。

これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。

童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。

孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は千手観音の霊験説話である。

河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。

そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。

喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。

長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。

長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。

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修景古墳 紀伊風土記の丘


総面積は65ヘクタール。

その広大な敷地全体が博物館施設となっている。

国の特別史跡に指定されている約400基の古墳群、復元した竪穴式住居、移築した江戸時代の古民家集落(重要文化財2件を含む)、資料館および万葉植物園などで構成される。

紀伊風土記の丘資料館から南西に花木園が位置する、途中に万葉植物園がある。

勢能山に 黄葉常敷く 神岡の 山の黄葉は 今日か散るらむ (巻9-1676)

花木園は、生活環境保全林として整備されたもので、その中央部あたり、墳丘に芝を張った4基の古墳がある。

古墳は、標高30mから37mに位置し、それぞれが古墳時代後期に造られた円墳である。

斜面上方から順に前山B花木園地区1・2・4・3号墳と呼び、昭和50年(1975)度に発掘調査が実施された。

現在は、調査成果をもとに復元修復されたものである。

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復元竪穴住居 紀伊風土記の丘


復元した古墳時代の竪穴住居。

和歌山市音浦遺跡で発掘調査された古墳時代の竪穴住居をモデルにして平成8年度に復元したもの。

内部の床面積は正面4.5m、奥行き5.2m で、23.4 ㎡ の広さがあり、畳に換算すると 14 畳ほどの広さとなります。

この時代の竪穴住居には床、窓、天井などがなく、すべてこのひと部屋で住んでいました。

こも編み機

原理は、木でできたおもり(「つちのこ」呼ぶ)で固定しながら編んでいきます。

弥生時代の前期には鋤や鍬も刃先まで木製であったが、中期以降、先端に鉄の刃先を装着するものが出現。

収穫具も中期後半から後期になると石包丁など穂先を摘み取って収穫するものから、根元を刈る鎌に変化していった。

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旧谷村家住宅 紀伊風土記の丘


旧谷村家住宅は、和歌山県の中部、有田川町粟生(あお)にあった茅葺きの農家住宅。

粟生地区は有田川の中流域にあり、林業のほか古くはシュロやハゼの生産などを行っていた地域です。

玄関を入ると、奥まで仕切りのない広い土間となっており、手前には地下にイモアナがあり、唐臼が据えられ、奥に三連のカマドが設けられています。

主屋の建立年代は不明ですが、言い伝えや建築手法から18世紀後期と推定されます。


苗籠

籠目編みで円形に浅く編まれ、針金で縁を留めている箇所もある。

苗籠とは苗代から代掻きの済んだ田へ苗を運搬する用具で、本来は2個1組として担棒で前後に担ぐもの。

「イモ穴」

「食事に必要な分を取り出したり、種芋として使ったりして先祖代々使い続けている。
冬場の生活に欠かせない」

山間部でよく利用されていたが、生活習慣の変化で次第に姿を消した。

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旧小早川家住宅 紀伊風土記の丘


旧小早川家住宅は、和歌山県中部の日高川町(旧中津村)三佐にあった伝統的な茅葺き民家で、建築に二間取りという古い形式を残している貴重な住宅です。

移築復元された主屋は、その形式から今から250年程前の18世紀後半に建てられたと考えられます。

桁行三間半、梁間三間強の小規模な建物で、入口を入ると土間(ニワ)が広がります。

左側には、板の間のオモテやナンドと呼ばれる部屋が並び土間側は建具が無く開放的になっています。

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紀伊風土記の丘資料館


和歌山県立紀伊風土記の丘は、国の特別史跡「岩橋(いわせ)千塚古墳群」の保全と公開を目的として1971年8月に開館した、考古資料・民俗資料を中心とした県立の博物館施設(登録博物館)です。

郷土出身の実業家松下幸之助の寄付により建てられた。

和歌山市郊外の丘陵地(標高150m)にあり、総面積は65ヘクタール。
その広大な敷地全体が博物館施設となっている。

国の特別史跡に指定されている約400基の古墳群、復元した竪穴式住居、移築した江戸時代の古民家集落(重要文化財2件を含む)、資料館および万葉植物園などで構成される。

古墳時代のクスノキの巨木

平成23年9月の台風12号にともなう豪雨によって、紀ノ川の川底に沈んでいたとみられる木の枝が川面に姿を現しました。
 
クレーンによって引き上げられたその木の正体は高さ約7m、直径約4m、重さ推定40tの巨大なクスノキでした。
 
「放射性炭素14年代測定法」という自然科学的な年代決定法によると、この巨木が西暦700年ごろに生命活動を終えたことが判明しました。その年輪からは樹齢がおよそ350年と推定されましたが、どのような経緯でこの大木が川底に沈んだのかは分かりません。

クスノキの巨木の枝の部分。

特別史跡岩橋千塚古墳群の大日山35号墳で頭部の両側に顔がある埴輪が出土しました。

顔がふたつある理由は評価が難しく、現段階では謎の埴輪としかいえません。

この古墳では、翼を広げた鳥形埴輪やころく形埴輪など全国で初めての埴輪が見つかっています。

古墳時代の鳥形埴輪は数多くみつかっていますが、このように翼を広げてた鳥形埴輪は、全国的にみても珍しいものです。

頭とくちばしの形状から、この鳥をタカとする見方があります。

阪和自動車道和歌山インターチェンジ(IC)に近い、国特別史跡・岩橋(いわせ)千塚古墳群内の大日山35号墳(6世紀前半)から出土。

ころく(胡+たけかんむりに録)とは、馬に乗って矢を射るときに腰のあたりにさげていた「矢入れ具」で、矢羽根を上に向けて入れる特徴があります。

この埴輪は、逆台形をしたころく形の部分に円筒形の基部を取り付けた形状をしており、復元高約96cm(残存90.0cm)、復元横幅約39cm(残存37.8cm)の大きさがあります。

ころく形埴輪の発見は、古墳時代の武具の研究や朝鮮半島との交流、紀伊の地域性などを考える上で、非常に貴重な研究資料といえます。

大日山35号墳のほか、和歌山県北部を中心に分布している全国的にはめずらしい埴輪です。

大日山35号墳は6世紀前半の和歌山県で最大の古墳(墳長約86m、基壇を含めた総長約105m)であり、古代豪族「紀氏」の首長墓と考えられている前方後円墳です。

馬型埴輪

大日山35号墳(和歌山市)
古墳時代後期 6世紀

埋蔵人骨

鳴神貝塚(和歌山市) 縄文時代

韓式系土器

鳴神地区遺跡群(和歌山市)

古墳時代中期 5世紀

備前焼 大甕

根来寺遺跡(岩出市) 中世

石敷き製塩炉

和歌山市の西庄遺跡から発見された、古墳時代の製塩炉を移築したもの。

1.8mX2.3mの範囲に、砂岩系の川原石を規則的に敷いて作られたもので(石敷き製塩炉)、製塩時に熱を受けたために石の表面が赤く変色したものがあります。

製塩土器は、粘土の紐を手のひらで巻き上げ、貝殻などで形を整えたて作られたうすでの土器で西庄遺跡からは非常に多くの製塩土器が出土しています。

和歌山県には、100遺跡以上の製塩と漁撈をなりわいとした集落が存在する。

農業を中心に生活する人々とは異なる文化を持ち、製塩のための土器や鹿角で作った釣り針などが出土する。

代表的な遺跡として、西庄遺跡(和歌山市)・磯間岩陰遺跡(田辺市)がある。

紀伊風土記の丘には市民の皆さんの作品が沢山展示されている。

これは女性の埴輪で非常にユニークなものです。

これは何でしょう、狐のように見えますが、少し恐ろしい感じがします。

資料館の入り口近くに置いてあったものですが、客を迎えているかのような形をしています。

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