暮れる街を駅へ急ぐ 湯浅


山田川の北橋の上から今帰ってきた西を眺める、左が大仙堀。

もう既に暮れかかっている。

北町通り、「北町茶屋 いっぷく」に転がり込む、歩き疲れてもう一歩も歩きたくない心境。

暖かいコーヒーをいただきしばしの休憩。

北町通を西へ歩いている、この先が角長。

この先を左に折れれば「陣風呂」

陣風呂の前を西へ。

「坂越まち並み館」のおばさんに教えてもらった路地の歩き方を参考にしながら歩く。

こういった路地から見た本通りがポイントと教わった。

だいぶ西へ来すぎたので東へ進まねば・・・・

太陽を背に進めばいい。

大通りが見えてきた。

左深専寺、ここまでくればもう駅も近い。

湯浅駅から伝統的建造物保存地区へは道路が舗装されていてわかりやすい。

田舎の夕暮れは早い、もうほとんどの家が店じまいをしている。

立石道標まで来た。
ここから駅はすぐそこだ。

一安心したらお腹がすいてきた、昼ご飯以来食べていないが、この辺りには食事できる場所はない、先を急ぐのみ。

ほんとによく歩いた、この日の歩数は24,000歩を越えている。

駅前複合施設「湯浅えき蔵」の完成を記念し、1997年に長野県の美ヶ原高原美術館に展示されていたブロンズ像「変容の刻」が寄贈されている。

美ヶ原と言えば野外彫刻の宝庫、以前の訪問を思い出した。
野外彫刻 – 美ヶ原高原美術館
美ヶ原高原美術館はその高原の東側、牛伏山の東側斜面に、およそ4万坪の広大な敷地に … 続きを読む →

しかし、これからがまだ大変なのだ何せ1時間に1本の列車を待たねばならない。
どうやら青春18切符も当初の思惑とはだいぶ趣を異にしている。

適当に途中下車して観光しながら旅を…というのは遥か昔の話で、うかつに途中下車しようものなら次の列車がないのだ。

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朝日・夕日100選 端崎


端崎、たたきざきと読む。

朝日・夕日100選、釣り場として有名、明恵上人が修業したという刈藻島がある。

3時過ぎでまだ日は高い、片道30分くらいの距離だが行ってみることにする。

湯浅の街からは対岸の道を西へ進む。

端崎と霧崎という二つの岬を擁する海岸は、県立自然公園になっている。

湯浅駅からそこへ行くには、市街地を抜け川を渡り栖原坂の峠を越えていく。

このルートをバスも一応通っているが、本数は少ない。
栖原には、ユースホステルがある。

御崎へ向かう道路はたまに釣り人とか工事関係の車両が通るだけで歩いている人なんか誰もいない。

明恵上人が修行をしたといわれる刈藻島が見えてきました。

釣り人が一人います、確かにここへ沈む夕日はきれいだろう。

しかし、夕日を待つわけにいかない、来た道をまた引き返す、物好きだねえ。

朝日・夕日100選の碑が建っているので迷うことはない。

明恵は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧。

法諱は高弁(こうべん)。
明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。

父は平重国。母は湯浅宗重の四女。
現在の和歌山県有田川町出身。
華厳宗中興の祖と称される。

萬福寺とお茶
萬福寺の総門は、1661年(寛文元年)の建立(重文)。 中央の屋根が高く、左右の … 続きを読む →

鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、京都西北部の栂尾・高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたといわれています。

紅葉の高山寺を訪れる
高雄・槇尾・栂尾は三尾といわれ、いずれも京都市北西部の紅葉の名所として知られてい … 続きを読む →

明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。
この時が現・高山寺の創立と見なされている。

帰り道、山の中腹に城が見える。

康治2年(1143年)に湯浅宗重によって在田郡の青木山に築城された山城である。

代々湯浅氏が居城した。
湯浅城は要害として知られ、文安4年(1447年)に畠山氏がこの城を三度攻めてようやく落としたとされる。

城跡には土塁、曲輪等が残る。
青木山の向かいには城を模した湯浅温泉・湯浅城があり、4階の資料館には湯浅氏に関するものが展示されている。

炎天下をとぼとぼ歩き疲れた、茶屋に転がり込み一服。
これから大阪まで帰る、夕日に照らされた路地を撮りながら駅まで約30分。
今回の青春18切符の旅はこれで終わり、暑くてしんどかったが面白かった。
次の旅は何処へ行こうかな。

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天保12年創業 角長


湯浅町は、諸説ある日本における醤油発祥地の一つで、その醸造文化が2017年度には文化庁から日本遺産に認定されている。

鎌倉時代、同じ紀伊国(和歌山県)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈国師)が、入宋時に学んだ径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとされている。

江戸時代、湯浅の醤油造りは紀州藩の庇護を受け発展し、92軒もの醤油屋があった。
しかし、第二次世界大戦後の混乱などにより、1949年には23軒にまで減少。

その後も大手との競争激化などによりさらに減ったが、今日でも角長や湯浅醤油など5軒が醤油造りを続けている。

日本が世界に誇る調味料(SOY SAUSE)のルーツは湯浅だった。

嘗味噌の中に、瓜・茄子などの野菜から塩の浸透圧によって水分が出てくる。

この水は当時の野菜の生産が6月~8月であったため、黴の発生や腐敗の元にもなり、捨てるだけであったのだが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しい。

そこで、初めからその汁を利用するつもりで造れば「新しい醤」つまり調味料が誕生すると考えたのが今様醤油の始まりだと言われている。

また、湯浅の水が醤油作りに適した水であった事も湯浅醤油発展の一因となっている。

紀勢本線 湯浅駅から北西に700m。山田川沿いの“北町通り”には昔ながらの醤油蔵が立ち並び、その中心部に老舗の醤油メーカー“角長”がある。

湯浅の地は熊野路の入口にあたり港も発達し、また良質の水にも恵まれたため、興国寺の醤油はこの地に定着し、自家用以外に商品として製造された。

16世紀中ごろには大坂などに出荷され、江戸時代には 紀州藩の特別な保護もあって、90軒を超える醸造家が現れ“湯浅醤油”の名声は不動のものとなった。

大仙掘に面する醸造場には「角長・醤油発祥地」の袖看板がでている。

また醸造場の南に並ぶ“角長醤油職人蔵”と“角長醤油資料館”には それぞれ「醤油の発祥」「湯浅醤油の起源」という説明板が掲示されている。

その後 醤油醸造の技術は、野田(千葉県)・銚子(千葉県)や小豆島(兵庫県)などに伝わり、やがて大手メーカーによる大量生産の技術が開発されると、伝統的な手作り醤油の湯浅醤油はシェアを大きく奪われて衰退し、現在は醸造家の数は非常に少なくなっている

。伝統的な製法で醸造しているのは “角長”一軒のみであるという。

上方しょうゆの発達

室町時代後期以降、近畿地方にしょうゆの産地が形成されます。

堺、湯浅、龍野などの産地は、江戸時代中期にしょうゆの量産化がすすみ、製法が進化して品質も向上します。

その後、江戸時代に上方で書かれたとされる『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』によると、しょうゆの原料に、炒って挽き割った小麦と、よく煮た大豆をかき混ぜ、「麹蓋」に入れて麹をつくると記されており、現在のしょうゆづくりとの共通点が見いだせます。

また、大坂を舞台にした世話浄瑠璃『曾根崎心中』の主人公徳兵衛は醤油屋の手代であったことからも、この頃の上方の町人にとって、しょうゆは身近な存在だったと想像されます。

江戸時代初期~しょうゆ、東へ

1603(慶長8)年、幕府が江戸に開かれると、経済、文化も江戸を中心に発展するようになります。

江戸初期には都市建設がすすむ中で、生活用品の多くは上方のものが使われていました。

しょうゆも例外ではなく、上方から大量のしょうゆが江戸に送られていた記録が残っています。
いわゆる「下り(くだり)醤油」です。

江戸時代中期~関東における生産の発展

江戸の町が整備されるとともに関東でさまざまな産業が興り、上方からの輸送に依存しないようになっていきます。

関東におけるしょうゆ生産の中心として発展したのが、下総国の野田と銚子でした。

しょうゆづくりに適した気候、江戸川・利根川を利用した水運、また周辺に原料となる大豆・小麦を産する平野がひらけていたことで、しょうゆの一大産地となっていきます。

いやぁ、角長の話から曽根崎心中が出てくるとは思いませんでした。

この世の名残夜も名残・・・ お初天神
「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏 … 続きを読む →

この世の名残、夜も名残 北新地蜆川跡を辿れば
阪神・福島駅~梅田橋跡~浄祐寺~大阪堂島市役所跡~出入橋~桜橋跡碑~堂島薬師堂~ … 続きを読む →


この春、龍野を訪れました、ここも醤油の産地です、醤油のことに少し触れています。

童謡「赤とんぼ」のふるさと 龍野
『播磨国風土記』によれば、龍野の由来は「『野見宿禰がこの地で没し、出雲から多くの … 続きを読む →

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熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策


湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られています。

交通上重要な位置にあった湯浅は、近世に入り次第に商業都市として発展を遂げます。

その核をなしたのは、なんといっても醤油です。

鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれたのが、現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」と知られています。

白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく残す貴重なものと認められたのです。

熊野古道へ向かう分岐点「立石(たていし)の道標」

熊野街道の遺跡として、町民によって大切に守られてきた「立石の道標」。

建立は天保9年(1838年)で、「すぐ(まっすぐ)熊野道」「きみゐでら(紀三井寺)」「いせかうや右(伊勢・高野山は右へ)」の彫文字を確かめられます。

斜め向かいに江戸後期の町家を改修した休憩所「立石茶屋」があり、軽食や名産品を販売しています。

中世には天皇や貴族などの貴賓層が中心であった熊野詣は、時代が下り街道が整備されていくと、庶民にも広がり人々の往来は一層盛んになった。

蟻のように大勢の人々が詣でる様を例えて、「蟻の熊野詣」という言葉もみられるほどである。

さらに、熊野詣だけではなく那智山青岸渡寺から始まる西国三十三所巡礼にも、この辺りでは熊野古道が使われるようになり、多くの人々が行き交っていた。

『湯浅おもちゃ博物館』は文化庁の委託事業として発足。

古民家の良さをできるだけ残し、おもちゃの展示や手にとって遊べる空間をつくり、子供から年配者までが楽しめる地区全体の交流拠点を目指しています。

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、長期休館中です。

湯浅町は、紀伊半島西部にある広さ20平方キロメートルほどの町。

入江の奥に位置するこの町は、海路の便が良かったこともあり、古くから物流の中心地として栄えてきたほか、1800年代初頭にはなんと92軒もの醤油屋が営業していたという醤油醸造の町としても有名です。

ここには、平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたエリアがあり、いまでも江戸~明治時代の面影を残したままになっています。

近年では、醤油醸造の歴史に触れ、時代を感じられるその町並みが、観光スポットとしても注目されています。

Ⅰ.湯浅姓の由来

1: 湯浅姓は、地名から発祥したものと思われます。
この土地に、湯浅と名が付いたのは、中世の初め頃で、
今よりも海は、ずっと内陸まで入っていて、水がきれいで浅く、
入り江や中洲のある美しい所を意味します。
(他に法皇・上皇命名説など諸説あり)

2: 中世の平安時代末期に(西暦1140年頃)この地に湯浅宗重が湯浅党を旗揚げし、 それ以来300余年に渡りこの地は栄え、1450年頃、町は残りましたが、湯浅党は滅亡しました。 湯浅の主だった人々はその間に、あるいはその時に、全国にちって行ったのです。

3: 明治に近代国家が樹立され、住民の戸籍が整備された時、湯浅姓を名乗る人々が多く出ました。  現在全国に約12,000軒と推定されています。

民家の軒先の連子格子に蒸籠箱を利用した作品がディスプレイされた「せいろミュージアム」

辻行灯は、家屋や建具の古材を用いて津浦氏が自作しており、住民からの依頼にもとづいて設置している。

古い民家の残る通り。

湯浅の風情を短歌に詠んだ野口雨情。

ノスタルジーな路地。

路地から大通りを眺める。

崩れかけた白壁、とてもノスタルジックです。

津浦家(旧内伝麹店)

「内伝麹店」は、醤油や金山寺味噌の製造に欠かせない原料である麹の製造販売業を営んでいました。

主屋は近世後期の様式で、明治 11 年(1878)に建てられたことが判明しています。

岡正

鍛冶屋町通りと北町通りが接する角地に位置する。

建物はもと「京喜屋(きょうきや)」の屋号をもつ呉服店の一部であり、入居者が三代にわたり「岡正(おかしょう)」と称する酒店を営んでいた。

建築年代は江戸の終わりか明治前期頃で、主屋は北面し、切妻造平入(きりつまづくりひらいり)、本瓦葺とする。間口は六間あるが、西三間半と落棟(おちむね)の東二間半は構造的には分離している。

奥行きはわずか二間で、側面から見ると蔵のような外観となる。

あちこちに自転車が・・・・・

屋号“まるしち”で親しまれている鮮魚店。

湯浅湾で水揚げされたばかりの地魚や干物が並んでいます。

「えりすぐった魚でないと、お客さんに出されへんからね」ときっぱり。

隣のカフェに持ち込める「焼さば」は売り切れ御免。
午前中が勝負です!

戸津井家(戸津井醤油醸造場)

「戸津井醤油醸造場」は江戸文化年間創業の醤油醸造家でした。

創業時には、「竹屋(たけや)」の屋号を称していましたが、明治元年(1868)からは「丸竹(まるたけ)」と屋号を改めています。

主屋は昭和 11 年(1936)の建立で、湯浅の戦前期の建築の特徴をよく伝えています

ノスタルジックな路地散策、今日は雲がとても印象的です。

湯浅駅から歩いて10分ほどのところにある古民家風カフェ「北町茶屋いっぷく」。

旅の疲れを癒してくれる趣ある空間です。

新鮮なお刺身やうどん、カレーといった食事メニューのほか、ケーキやぜんざいなどのスイーツも揃っています。

散策で疲れた時の休憩にぴったりのお店です。

千山庵

1棟まるごと貸し切りの宿。

宿泊棟は「きたまち」に8人用と6人用。
「かじやまち」に10人用。

北町通りに面した築150年を超える古民家を改装した1日1組限定の宿。

土間や吹き抜け、天窓、低い天井など、当時の造りが残されており、湯浅の歴史や文化を感じながら、ゆったりとした時間を過ごせるのが魅力。

みやげ処 ふみよ

ここにしかないローカルなお土産が欲しいなら…

おけきの焼きもちを食べ歩きながら進んでいくと、次のおすすめスポット「 庵茶屋の和(いおりちゃやのわ)」が見えてきました。

こちらは手仕事のカトラリーとアクセサリー、焼き物や手芸品を販売するお店で、カフェも併設しています。

店内には店主自ら製作している木製のカトラリーやアクセサリー、地元の手芸作家さんが手掛けた作品が並びます。

販売されている作品の数々はどれも個性豊かで自由な表現力が目を引きます。

太田家(太田久助吟製)

「太田久助吟製」は、金山寺味噌を製造販売。

江戸時代には醤油醸造を営んでいましたが、戦後に金山寺味噌に業種変更しました。

かつての醤油蔵で昔ながらの金山寺味噌が作られています。

「北町ふれあいギャラリー」も湯浅駅から歩いて10分ほどのところにあります。

古い建物を使用したギャラリーには、絵画や写真などを展示しています。

ひと昔前の日本にタイムスリップしたかのような空間に身を置くと、懐かしい気持ちとともに心が癒されていきます。


歴史を感じる自転車は、現役?
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銭湯跡歴史資料館 甚風呂


湯浅の街歩いていると面白いものが次々と現れる。

散策中に地元のカメラマン氏に遭遇、定例会のネタ探し最後はこの辺りが頼りなんだけど・・・とのこと。

江戸後期から昭和60年まで営業の公衆浴場。

湯浅の町並の特徴である小路の辻に立地し、個性的なデザインの塀を構えた浴場と経営者の住まいであった主屋で構成されています。

瓦葺の塀には、菱型の開口部が設けられています。

とても印象的な塀は大正時代のデザインです。

正式な名称は「戎湯(えびすゆ」でしたが経営者(須井甚蔵)の名前から「甚風呂(じんぶろ)」と呼ばれ、長年にわたり地域住民の憩いの場として親しまれてきました。

廃業から10年以上が過ぎ、主がいなくなった甚風呂は平成13年に町の財産となりその歴史が受け継がれました。

平成19年から2年かけた修理工事を経て平成21年から銭湯跡民俗資料館として公開しています。

一歩入れば、タイムスリップしたような、のんびりとした時代の面影が見え隠れする懐かしい空間です。

番台(ばんだい)

入り口を入ってすぐにあるのが番台です。 

番台は入浴料を徴収するところですが、男湯と女湯の双方が監視できる場所に作ってあります。 

番台の前の脱衣所には、男湯と女湯の仕切りがありますので、双方からは見えません、甚風呂では仕切りは取り外しており、広い空間になっています。 

明日から後のひな祭り 湯浅
平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀 … 続きを読む →

雛の飾り付けがされています。

浴室(男湯)

男湯の壁面には、昭和30年代に放映された映画のポスターが掲示されています。 

湯浅町にはかつて、湯浅会館と旭座の2つの映画館があり、風呂場の脱衣場に映画のポスターが貼られていました。 

掲示されているポスターは甚風呂の改修工事の際、押入れの長持ちの中から見つかったものをクリーニングして掲示しております。

2本立て50円鑑賞料ですので、当時の物価が偲ばれます。

男湯です。
床は石造りで珍しい。

浴槽へは壁側からも入れるようになっていて親切設計。

とても重い洗面器。戎湯と彫られています。

女湯と男湯とつながっています。
別々で沸かさなくていいし便利ですね。
もぐって女湯に入ってくる強者とか居なかったんでしょうか。

昔は仕切りなど無く子供が行き来してたそうです。

「ゆ」と書かれた蛇口。

浴室(女湯)

浴室は左右対称に、男湯と女湯に分かれています、甚風呂の浴槽は特徴があり立ち湯(立ったまま入浴する方式)の構造になっています。 

奥に見えるのが子供用の浴槽で浅くなっています。 

浴槽は二つあります。浅い方は子供用?
深い方は立って入るそうです。

顕国神社秋祭りの展示室

毎年10月18日に、顕国神社の秋祭りが行われます。 

各町内から、神輿を繰出しお渡りが執り行なわれます。 

この神輿は、伝建地区の北中町のものです。 

壁面には昔の祭りの古写真が展示されています。 

湯浅の祭りの特徴は、馬宿を設け、祭りで馬の早駆けが行われ、町中を馬が疾走する豪快な祭りでした。 

特に明治の頃には、中町の通りが広かった為、賞金を掛けた競馬も行われていたそうです。 

昨今は、馬を飼う家もなくなり、祭りに馬使われなくなりましたが、北浜町が馬でのお渡りを復活させています。 

吹抜展示室・駕籠(かご)

江戸期の終わりから、明治にかけて使われたものですが、お医者さんの往診に使われていたようです。 

大名や武家が使ったものに比べて、質素な作りになっていますが、駕籠かきを雇うのにかなり経費が掛かったようです、昔もお医者さんはお金持ちだったようですね。



焚口

甚風呂では、最初のころは、薪やおが屑でお湯を沸かしていましたので焚口が残っていますが、後年重油ボイラーに切り替わったので、焚口が改造されています。 

燃料タンクと循環ろ過器が写っています。 

焚口の周囲は、防火のためレンガが使われています。

2階展示室・徳利(とっくり)

「とっくり」といえばお酒を連想される方も多いでしょうが、湯浅は醤油の醸造業者が多く、この写真に写っているのはすべて醤油徳利です。 

大きいのから小さいのまで、様々な醤油徳利が作られていたようです。


右の取っ手を廻すと「リ、リ、リン」と音が鳴る手回しの電話機。


蓄音機。現役で使えるそうです。

アクセ  JR湯浅駅下車徒歩約10分

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熊野詣の宿泊所でもあった深専寺


玉光山深専寺(じんせんじ)は湯浅にある西山浄土宗の仏教寺院。

開基(創立者)は明秀上人と伝える。

本堂大棟には1m80cmの鯱像がある。

大地震津波心得之記碑

嘉永七年六月十四日夜八ツ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより小地震日としてゆらざることなし

廿五日頃漸ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ツ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 

川口よた来たることおびたゞしかりとも其日もことなく暮て翌五日昼七ツ時きのふよりつよき地震にて未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家蔵船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし 

なんといはんかたなし 

これより先地震をのがれんため濱へ逃あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからず 

すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり行ものなれハこの碑を建置ものそかし 

又昔よりつたへいふ井戸の水のへり 

あるひハ津波有へき印なりといへれどこの折には井の水乃へりもにごりもせざりし 

さすれハ井水の増減によらず 

この後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし

恵空一菴書

奈良時代には行基の開祖による海雲院という寺院として創建されたとされる。

平安時代末期に盛んになった熊野三山への信仰により、熊野街道の通る湯浅が交通の要害として発展していた。

南北朝時代、1462年(寛正3年)または1431年(永享3年)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。

再興年代については諸説あり、紀伊名所図会や紀伊続風土記には宝徳年間(1449年 ~ 1451年)とされている。

承応年間(1652年 ~ 1654年)の「湯浅の大火」によって深専寺は全焼し、寛文3年(1663年)より浄財公募による再建の際、紀州藩徳川頼宣より財政支援を受けた。

平成10年(1998年)、本堂が和歌山県指定有形文化財に指定された。

山門を入ると、右手に芭蕉の句碑があった。

春の夜はさくらに明けてしまひけり

出典は『翁草』(里圃編)。

何時どこで詠まれた句か、不明。

『蕉翁句集』(土芳編)は「元禄四未とし」とする。

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一攫千金ミカン船~紀伊国屋文左衛門


青春18切符第4弾、これから湯浅まで行きます。

近いと思って侮ってはいけません、JRもしっかりしています。
和歌山までは快速がバンバン走っています。

しかし、和歌山以南は特急がメインで、普通列車は1時間に1本。

和歌山で1時間待ちです。
接続をちゃんと確認すること。

やっとのことで湯浅到着、なんとここは無人駅。
JRも人員削減には色々と知恵を絞っていますね、車内検札なんか見たこともないでしょう。

ところがあるんです、何かあったんだろうと思うけど、先日の尾道からの帰り、いきなり車内検札が始まりました、学生数名が慌てていたようですが、金をとられてました。
見るところはちゃんと見ているんだね。

湯浅駅前に”文平の像”というのがあります、若き日の紀伊国屋文左衛門の姿です。

江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は、寛文9(1669)年の頃、湯浅町別所で生まれたと推定されており、幼名を文平と呼ばれました。

紀州で商人として修行を積み、江戸に出ると独創的な商才を発揮、紀州みかんの輸送や木材商として巨万の材を築きました。

その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り悠々自適の生活を送りました。

この像は荒海にみかん船をこぎ出そうとする文平の勇姿を表現しています。

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀の国 みかん船

(説明石碑より)

早咲き桜の名所は春爛漫 紀三井寺
金剛宝寺護国院(紀三井寺)は名草山の中腹、和歌の浦の絶景を望む景勝地に建っており … 続きを読む →


楼門からの231段の急な石段は結縁坂と呼ばれています。

豪商紀ノ国屋文左衛門は若いころ貧しいが孝心篤い青年でした。
ある日母を背負って紀三井寺の表坂を上り観音様にお参りしましたが草履の鼻緒が切れてしまいました。

困っていた文左衛門の鼻緒をすげ替えてくれたのは和歌浦湾にある玉津神社の宮司の娘おかよさんでした。

これがきっかけで二人に恋が芽生え結ばれました。
その後文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立てミカンと材木を江戸へ送って大儲けしたのです。

紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂はそれ以来結縁坂と呼ばれるようになったそうです。

一攫千金ミカン船という話はどうも偽臭いという説があります。
紀伊国屋文左衛門の実像
幕末に為永春水が紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃』は12年間にわたり28編も続き、非常に多くの人に読まれました。
その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。
明治18年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。

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後のひな祭り 湯浅


平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀伊国(和歌山県)全体に渡って活躍した。

また、湯浅は古来より熊野街道の宿駅として栄えており、紀州藩の有田代官所や明治・大正期の有田郡役所が置かれてからは有田地方の中心地のひとつとしても賑わいを見せるようになった。

青春18切符第4弾は湯浅醤油の地湯浅。

古い町並みも残っており楽しみな散策になりそうです。

翌日から「後のひな祭りで」行く先々で飾りつけに追われる姿が見られた。

「重陽(ちょうよう)の節句」にともなう「後の雛(のちのひな)」という風習をご存知ですか?

後の雛は江戸時代に親しまれた風習ですが、今また “大人の雛祭り”と称され、注目されています。

もっと素敵に秋を彩るために、重陽の節句・後の雛を活かしてみては。

重陽の節句とは、9月9日に行われていた年中行事。

菊を用いて不老長寿を願うことから別名「菊の節句」といいます。

五節句のひとつで、昔は五節句の中で最も盛んに行われていたといわれています。

重陽の節句は時代とともに衰退してしまいましたが、ここ数年、町ぐるみで行事をしたり、メディアなどでとり上げられるようになってきため、名前ぐらいは聞いたことがある方も多いと思います。

今、重陽の節句が復活の兆しをみせているのは、行事の心や風情に魅力があるためでしょう。

重陽の節句とともに注目されているのが「後の雛(のちのひな)」という風習です。

後の雛とは、桃の節句(雛祭り)で飾った雛人形を、半年後の重陽の節句で虫干しを兼ねて再び飾り、健康、長寿、厄除けなどを願う風習で、江戸時代に庶民の間に広がったといわれています。

後の雛は、重陽の日付(最大の陽数9が重なる日)を尊重して9月9日、昔の季節感を活かして旧暦の9月9日(新暦では10月の中ごろにあたります)、月遅れの10月9日などに楽しむことができます。

過去のひな祭りの記事は春のものがほとんどです。

高取土佐町並み「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で11回目。 町あげてのイベン … 続きを読む →

富田林 じないまち 雛めぐり
富田林市には江戸時代のお寺と商家の町並みが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定 … 続きを読む →


琵琶湖の自然の美しさを表現する創作ひな人形「清湖雛(せいこびな)」を五個荘近江商 … 続きを読む →

淡嶋神社
淡嶋神社は、人形供養で有名な神社。 全国に1000社もある「淡嶋系統」の総本社と … 続きを読む →

上賀茂神社で桃花祭・雛流し
時折り時雨が混じる中、上賀茂神社で桃の節句・雛祭りのこの日、上賀茂神社で桃花祭・ … 続きを読む →

今回も失敗と新しい発見と盛りだくさんの内容でした。
歩行数も24000歩、最後はカフェに転がり込んでしばらく動けませんでした。

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白洲正子に「できることならここに隠居したい」と言わせた「天野の里」を散策


かつらぎ町南部、標高約450mの高野山麓に位置する天野の里。

四季折々の田園風景が広がる高原の盆地は、「にほんの里100選」にも選ばれています。

笠田と書いてと書いて「かせだ」と読む。

ここからコミュニティバスで天野の里へ向かう。

まず山裾にひっそりと佇む貧女の一燈お照の墓を目指す。

高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく、光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。

その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
 
お照は、槇尾山(まきおさん)のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。

16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。

後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。

お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。

この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています。

この辺りはまるで山菜の宝庫だ。

春になると桜はもちろん花桃などで天野はピンク色に染まります。

西行が出家し、高野山に暮らして後、康治元年(1142年)、その妻も尼僧となり、この天野の里に庵を建てて移り住んでいます。

西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)が残されています。

現存する西行堂は昭和61年の再建です。

解説板より
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。

向かって右より二基は、応安5年(1372)建立され、左二基は文安6年(1449)に建立されました。

後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。

二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。

史跡の多い天野の里で時間を多く割くことになる。

コースを外れ、周遊してみるのも良いと思います。

天野は紀ノ川流域から一山隔てた高度450mの高所にありますので、平地より涼しく感じられます。

文学の里歌碑園。

白洲正子は「あんなに美しい田園風景を見たことがない」とか「天の一廓に開けた夢の園」とか「天野に隠居したい」とかそれはもうベタぼめです。

彼女が初めて天野に来たのは昭和40年前後かと思いますが、風景はその当時と大きく変わってはいないかも。
『かくれ里』白洲正子 新潮社

高野山ゆかりの伝説と史跡が残り、古の文化が薫る歴史の里。

随筆家の白洲正子は、著書『かくれ里』の中でこの里についてこう綴っています。

「こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原(たかまがはら)も、こういう地形のところをいったのかも知れない」。

また、「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない」「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」とも。1971年の上梓からは時代が進みましたが、彼女が見て歩いて感じた里は変わりなく残っています。

ゆっくりと彼女の足跡をたどれば、きっと同じ思いを感じるでしょう。

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紀伊国一宮 丹生都比売神社


式内社(名神大社)、紀伊国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。
全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である。

「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。

外鳥居

両部鳥居の様式。

両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで神仏習合が盛んだった神社によく見られ、高野山と縁の深い丹生都比売神社の鳥居にもみられます。

輪橋 – 太鼓橋。

鏡池に掛かっている。慶長年間(1596年 – 1615年)に淀殿の寄進で建立。
いろいろな種類の桜が植わっているため、一斉には咲き揃いません。

楼門前の桜が見頃となっており、順次満開を迎えます。

鏡池

水面に輪橋の姿を映す美しい池です。

鏡池には、「不老不死になった八百比丘尼と言う尼僧が池にその姿を映し、年老わない自分を嘆き鏡を投げ入れたと伝わる」と案内板にはあります。

鏡池の〝放生の鯉〟が、訪れる参拝者の心を和ませている。

鏡池は同神社の前にあり、楼門や本殿に向う朱塗りの太鼓橋が架かかっている。

池には赤い鯉、白い鯉、赤と黒、赤と白の斑(まだら)の鯉が放生されている。

鯉の群れは、四季を通して、鏡池を回遊。

年の瀬には、薄氷や雪の下で生息しているが、参拝者が堤に立つと、鯉は頭で薄氷を割り、雪をかき分けて、目鼻口を水面に出す。


禊橋・中鳥居

手前が禊橋で、その奥に中鳥居があります。
外鳥居と同様に両部鳥居になっています。


明日は花盛祭、春の大祭で、ご祭神に花を供え春の訪れを寿ぐ祭りで、当日は季節の花を竹筒に入れ参道に飾ります。

午前の祭典では、本殿の御扉を開け、祝詞を奏上し、子供たちが神前神楽「浦安の舞」を舞います。

午後には、「渡御の儀」を行います。

この「渡御の儀」は、古く鎌倉・室町時代に行われ、神輿行列が和歌山市内の和歌浦にある玉津島神社までご巡幸した「浜降り神事」が起源となっています。

本殿 4棟 – 本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。

楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。

これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。

通常だと極彩色の本殿が拝観できるのだが、明日の花盛祭のためにテントが張られており拝観できず。

空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。

神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。

神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。

また境内は国の史跡に指定されている。

これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

創建の年代は不詳。

『播磨国風土記』逸文には「爾保都比売命(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される。

同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。

その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(位置)に比定され、丹生川の水源地にあたる。

また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく、高野山への土地譲りに際して遷ったとする説がある。

丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる。

高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある。

これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。

元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた。

この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている。

紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した。

なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。

三社参り 日前神宮・國懸神宮
入口から向かって左に日前神宮、右に國懸神宮がある。和歌山市内にある当社と竈山神社 … 続きを読む →

三社参り 竈山神社
日前宮(にちぜんぐう)と竈山神社(かまやまじんじゃ)と伊太祁曽神社(いだきそじん … 続きを読む →

三社参り 伊太祁曽神社
旧称は山東宮。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。 祭神 主祭神 – 五 … 続きを読む →

中世には多くの社領寄進を受けていたが、それらは天正検地において没収された。
近世になり、高野山学侶領から202石余が分与された。

明治維新後、1873年(明治6年)に近代社格制度において県社に列し、1924年(大正13年)に官幣大社に昇格した。

また、明治の神仏分離に伴い高野山から独立したが、今日に至るまで多くの僧侶が丹生都比売神社に参拝しており、神前での読経も行われている。

佐波神社(さわじんじゃ) – 明治時代に上天野地区の諸社を合祀したもの。

卒塔婆群(和歌山県指定文化財)

大峯修験者の碑

連なる石塔が大峯修験者の碑、梵字を刻んだ碑は光明真言板碑です。
山岳信仰と神仏習合時代の様子が垣間見える石碑群です

山の信仰を感じさせる中丿沢神社。
はるか昔にタイムスリップしたような気がしました。

畑の作業道から雑草がおおいかかる小道をかき分けるように5分ほど歩くと、杉木立のなかに小さな祠をみつけました。

祠自体はそれほど古くはないのかもしれませんが、苔むした石積みの基壇が歴史の厚みを感じさせてくれます。

周囲には誰もいなくて、なんだか中世の世界に迷い込んでしまったような、不思議な空気感のある場所でした。

案内板によると、祠の主は丹生明神と狩場明神です。

この二柱の明神さまは、丹生都比売と高野明神と同じで、天野には沢に沿ってこうした祠が3つ伝わっています。

こうした沢筋には鎌倉時代から郷供僧や宮仕と呼ばれる人たちが住み、こうした人たちによって丹生都比売神社が維持されていたとのことです。

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