伊吹山の花々


近年、鹿等の食害に加え、観光客の踏み荒らし、外来種の増加によるお花畑の花が減少してしまいました。

数年前から植生保護の強化を図り、少しずつ以前の姿を取り戻しつつあります。

画像をクリックして拡大して見れば、花が復活しつつある様子が見れます。

2013年の訪問記雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →


伊吹山は新幹線に乗って大阪方面へ向かうと、米原の手前で右手に見える山です。

山の西側が大きく削れています。

伊吹山で石灰岩を掘っていることを知っている人の中には、あんなに自然破壊をして・・・」と言う人もいます。

でも実は白く山肌が露出しているところは元々あった石灰岩の崩壊地で、掘っているところは上部です。

伊吹山は岐阜県春日村と滋賀県伊吹町の境にあって、豪雪地帯であることや、山頂付近の薬草で有名です。

また岐阜県春日村では石灰岩の崩れたものが、再度固結してできた “さざれ石”でも有名です。

滋賀県の北部に位置する伊吹山(標高1377m)は、日本海側と太平洋側の気候が入り交じる気候で、地質が石灰岩質ということもあり多くの動植物が生息しています。

そのような地理的、地質的、気候的な立地条件から北方系要素の植物、多雪型日本海要素の植物、好石灰岩系の植物が見られ、特殊な立地条件から伊吹(イブキ)の名前を冠した植物名が多いのも特色です。

そんな伊吹山でも近年の地球温暖化やニホンジカの食害、人の登山道以外での踏み荒らし等、複合的な要因で伊吹山独特の植生にも変化が起こっています。

外来種や平地植物が繁殖による在来種の減少や絶滅、交配種の増加などにより、お花畑は以前の面影を無くしつつあります。

地元では、地方自治体や民間のボランティアグループの方々が保全のために啓蒙活動や整備作業を続けられています。

以前に比べ花数や種類が減っているとはいえ、やはり近畿の他の山に比べれば圧倒的に多くの花が咲いています。

伊吹山自体、麓と山頂部では、概ね1200mの標高差があるため、麓から3合目、3合目から5合目、5合目から山頂周辺と咲く花も変化します。

イブキタンポポ

山地の日当たりの良い所に生える多年草。
葉は少なく長さ25~35cm内外、花茎は葉と同じかそれより少し長い。

伊吹山特産種のためイブキの名がついた。
本種は近畿地方から中部地方にかけて分布するセイタカタンポポとエゾタンポポの中間種である。

ボタンネコノメソウは岐阜県以西の本州、脊梁地帯から日本海側に分布する。
山間の渓流沿いや水の滴るような斜面などに生育する。

茎の先端には葉と同じ構造の苞があり、中心に向かって黄色になる。

中心部の花は暗い赤褐色で周辺の苞と強いコントラストを示している。
苞は光を反射する構造になっているのか、暗い渓谷の中でひときわ目立つ花である。

ブナ

日本海側ではしばしばブナが優先し純林を形成するが、太平洋側に降りると純林はあまり見られず、ミズナラなど他樹種との混交林を作る。

ショウジョウスゲ(猩猩菅)

低山から高山の草地に生える多年草。
ショウジョウスゲの名は雌小穂(果穂)が赤褐色をしていることからつけられた。

ショウジョウとは体毛が赤褐色をした類人猿のオランウータンを指す。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

夏も近づく6月 伊吹山へ


古くから神が宿る山として信仰の対象であった。

室町時代後期には織田信長により、山上に野草園が造られたとされている。

岐阜県関ケ原町から東尾根を登って9合目まで至る有料道路で、9合目には500台以上を収容できる駐車場のほか、展望設備や飲食店、売店を営業している。

添乗員付きツアーならしっかりサポート!フリープランは自由気ままに!
定番ツアー、おすすめツアー、人気の…クラブツーリズム


明治以降に近代登山の対象となった。

大正には中山再次郎により、関西におけるスキーの山として注目されるようになった。

1964年(昭和39年)に深田久弥により日本百名山に選定されると、百名山ブームもあり全国的に登山対象の山として知名度も高まった。

1965年(昭和40年)に伊吹山ドライブウェイが開通すると、9合目まで容易に上がれるようになり山頂部は観光地化した。

伊吹山の神は「伊吹大明神」とも呼ばれ、『古事記』では「牛のような大きな白猪」、『日本書紀』では「大蛇」とされていた。

『古事記』にはヤマトタケルがこの伊吹大明神と戦って敗れる物語がある。

伊吹山の神に苦しめられて敗れたヤマトタケルは病に冒されて山を下り、居醒の泉(米原市醒井の平成の名水百選の1つに選定されている「居醒の清水」)で少し回復したものの、のちに悪化して亡くなったとする伝説が伝えられている。

梅雨期の醒ヶ井宿
醒井宿は、近江国坂田郡にあった中山道(中山道六十九次)61番目の宿場であり、現在 … 続きを読む →

『古事記』『日本書紀』に、ヤマトタケルノミコトが東国征伐の帰りに、伊吹山の神が白い猪の姿であらわれた。

その猪が氷雨(雹)を吐くと、ヤマトタケルは前後不覚におちいった。

やっとの思いで山をおり、「玉倉部(たまくらべ)の清水」に到って休憩すると、気分が回復してきた。

山頂部にはその日本武尊の石像と、伊吹山の神の白猪の像が設置されている。

登山しやすい山と言われていますが、登山道では、大きい岩が露出していたり、石がゴロゴロしていて歩きづらい箇所もありますので登山に適した靴や服装に心がけてください。

表登山道の三合目西側の「高屋」と呼ばれる場所はヤマトタケルが山の神に出会った場所とされていて、大正時代に石の祠が建立されその中に木造の日本武尊が祀られた。

画像 雪渓が見られます、さすが伊吹。

山頂周辺には高山植物を含む野草群落が花畑として保護されており、夏季には色とりどりのお花畑となる。

しかし、近年、鹿の食害により草花が激減、往時の姿はない。
2013年の訪問記雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

伊吹山ドライブウェイ終点の駐車場からは遊歩道が整備されている。

遊歩道は3本が整備されていて、20分ないし40分程度で山頂に到達できる。

伊吹山山頂より南西を望む。

山頂の伊吹山寺山頂本堂、その左に伊吹山之神「白猪」の像。

山頂には5軒の売店が営業していて、季節によっては一部の店が日中の売店営業だけでなく夜間登山の仮眠所(収容人数350人)として開いている。

山頂部にはその日本武尊の石像が。

伊吹山の西側では滋賀鉱産(株)伊吹鉱山によって石灰岩の採掘が行われています。

2003年3月までは住友大阪セメント(株)伊吹鉱山として、セメント向けを中心に採掘が行われていましたが、現在は骨材、路盤材向けに採掘が行われています。

この石灰岩鉱山の部分は,この付近の地層ができあがって以降の断層運動による破砕が認められ,古くからの崩壊地となっています。

鉱山の初期は崩壊地の下でこの崩壊物だけを採っていました。

現在はこの崩壊地の上部を採掘しており、最終的には急傾斜の破砕を受けた石灰岩や石灰岩の崩壊物を採掘して安定した山腹になる計画です。

緑化も採掘地だけでなく、崩壊地に対しても行われています。

下山は中央登山道を通れば20分ほどで9合目まで。

中央登山道はほとんどが木の階段で歩きやすい。

イヌワシハンター達は、カードレールの外側に入り断崖絶壁の足場の悪いところスレスレに三脚を立てて切り立っている崖の下を飛ぶイヌワシを上から撮るという理想的な撮影が出来るが、足が竦んでしまい尻込みを感じ崖の下が見えるところまではなかなか行けない

(崖から1m位離れる)が、崖スレスレに飛ぶことがあるそうで飛んでも何も見えないことがあると地元の人達が教えてくれた。

湖北野鳥センター
湖北野鳥センターには、「冬の三大スター」のオオワシ、オオヒシクイ(いずれも国の天 … 続きを読む →


伊吹山 バイクツーリング登山。

恋慕観音像様に「恋愛成就のお祈り」。

お花畑をめぐる西遊歩道からの山頂部。

観音様の足元のチェーンには伊吹山ハートロックキーがズラリ!

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

湖北野鳥センター


湖北野鳥センターには、「冬の三大スター」のオオワシ、オオヒシクイ(いずれも国の天然記念物)、冬の使者コハクチョウを見ようと野鳥ファンが大勢訪れている。…

センター周辺の琵琶湖湖岸は、遠浅の湖岸が続き、ヨシなどの水生植物をはじめ、魚や鳥達の絶好の生活場所になっています。

四季を通してたくさんの野鳥が飛来し、観察できます。

今まで確認された野鳥は53科250種に及び、滋賀県全体で確認された種の約70%以上を見ることができます。

今日は強い北風が吹く一日でした。

センター前で何度もオオワシの狩りが見られた他、オオタカがオオバンを捕まえて食べる姿も見られています。
今日の確認種数は44種類でした。

湖北野鳥センターには、「山本山のおばあちゃん」にピントを合わせてくれたフィールドスコープが5台ほどあるので手ぶらでふらっと立ち寄ってもオオワシを見ることができます。

驚いたのが1998年から23年連続での飛来が確認されていて、年齢は人間でいえば既に80歳以上!!!

だから愛称が「山本山のおばあちゃん」

国の天然記念物のオオワシは北海道東部で集団が越冬することで知られるが、山本山にはほぼこの1羽だけがやってくる。

好んで食べるのはブラックバスやニゴイなど琵琶湖にすむ魚。
好物が豊富にねぐらの近くにあることも引きつける要因とみられる。

2月下旬には再びロシアへ向けて羽ばたいていく。
名残を惜しむわけもなく、孤高のオオワシは悠々と北を目指す。

森の必殺仕事人

タカの仲間は、鋭い爪とくちばしで獲物をダイナミックに捕まえるイメージがありますが、実際の狩りはとても静かなものです。

獲物となる鳥も黙って食べられるわけにはいかず、少しでもタカの姿が見えると一目散に安全な場所に逃げてしまいます。

そのためオオタカなどのタカの仲間は、なるべく目立たないように木の茂みに隠れ、獲物が油断したところを一瞬で仕留めます。

しかし、狩りをした後に油断すると、カラスやトビなどに見つかって、逆に獲物を奪われてしまうこともあります。
(センターの説明文より)

ホンドギツネ(本土狐、Vulpes vulpes japonica)は、北半球に広く生息するアカギツネの日本に分布する亜種。

頭胴長52-76 cm、尾長26-42 cm、体重4-7 kg。

体色は赤みがかった黄色でいわゆる「きつね色」。
腹部、頬、尾の先は白い。

尾は他の動物に比べて毛がふさふさとしているので太く見え、長い。

湖北の伝説のツキノワグマ

このツキノワグマは2010年長浜市合併の際に当時の西浅井町役場からやってきたものです。

オスの成獣で体長は160センチを超えており県内でも最大級の個体です。

胸にはライフル銃で撃たれた大きな跡が残っています。

四足歩行のクマの前胸部に銃弾を浴びせるのは通常ではほぼ不可能で、猟師がいかに死線をかいくぐってこの大熊を倒したのかが伺えます。

至近距離で攻撃に転じたクマを撃ったのではないかと考えられています。
(センターの説明文より)

クリックして拡大して見てください、胸にはライフル銃で撃たれた大きな跡が残っています。

センターの人がバスを先導して、コハクチョウがいるタンボへ案内してくれました。

外は吹雪でバスから降りてみることはできませんでしたが車内からの観察です。

この向こうには300羽以上いるのたが、残念ながらバスは入れません。

センターでは毎日、コハクチョウがどこにいるか把握しているのでセンターに来られた時はきいてくださいということでした。

画像は「早崎内湖ビオトープ」の水鳥たち。

「早崎内湖ビオトープ」は、干拓田の4分の1を灌水し調査を行っている、日本最大のビオトープ実験地。

長浜市早崎町の干拓田は、昭和39年、食糧増産のため、内湖を埋め立てて作られた水田です。

しかし、現在では豊かな自然を取り戻すため、干拓田を元の内湖に戻そうとする動きが進んでいます。

ビオトープ実験調査がはじまってから、コハクチョウが年々増え現在では滋賀県で有数の飛来地となっています。

※ビオトープ(biotope)は、ドイツ語で「地域の野生生物の生息空間」という意味。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

北國街道木之本宿散策


北国街道と北国脇往還の分岐点があり、古くから交通の要衝・宿場町として栄えた伊香郡の中心地であった。

駅の中には、黒田家発祥の地・木之本と官兵衛ゆかりの地の案内があります。

本尊は地蔵菩薩(秘仏)。
境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされている。
眼の地蔵菩薩として信仰を集めている。

本堂
地蔵堂とも呼ばれる。

本尊である地蔵菩薩立像の両脇に閻魔王立像と倶生神立像が祀られている。
地蔵菩薩立像及び両脇侍は秘仏である。

地蔵大銅像

日本一の大きさという地蔵菩薩の銅像。
本尊の写しとして約3倍の大きさに造られたもので、明治27年(1894年)に建立された。

建立の際、県内はもとより愛知や岐阜や福井からも銅鏡を集め、それらを溶かして作られた。
第二次世界大戦中、当時の住職や東條英機の妻である東条勝子などの援助により、供出命令を免れた。

平成18年(2006年)に「御戒壇巡り」が開かれた。
これは参拝者が厨子の下を巡るもので、31間(56.7メートル)の漆黒の闇を歩き、錠前に触れることができる。

この錠前は地蔵菩薩の手と五色の紐で結ばれている。

床板は相当古いもののようで貫禄がある。

木之本宿の本陣だった「竹内五左衛門家」には、江戸時代、大名などが宿泊した宿札や記録が残されています。
その後、22代目の竹内五左衛門氏が本陣薬局を開業しました。

なお、竹内五左衛門氏は、1893年(明治26年)、栄えある「日本薬剤師第一号」の免状を取得された方でもあります。

馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。

木之本のかつてのメインストリートである「北国街道」は、昭和の初め頃までは、道の中央に小川が流れ、馬や牛をつなぐ街道並木がありました。

現在は、小川は埋め立てられ、街道並木は舗装道路になっていますが、街道沿いにはうだつのある古い町家が連なり、宿場の面影を色濃く残しています。

作家・司馬遼太郎氏の歴史小説『功名が辻』の主人公の山内一豊が名馬を購入した馬宿平四郎邸もある。

足を延ばして「鶏足寺」で“紅葉”の鑑賞もおすすめ
秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

余呉湖のワカサギ釣り


釣ったワカサギを天ぷらで食す!冬の長浜満喫ツアー

タイトルは勇ましい、当方釣りをする気はなく雪景色の余呉湖が撮りたくて参加。

余呉湖は周囲6・4キロ、面積1・97平方キロの自然湖。

最大水深13メートル。
天女羽衣伝説が伝わり、戦国時代には織田信長の後継を争って羽柴秀吉と柴田勝家が激戦を繰り広げた賤ケ岳合戦の舞台となった地が広がる。

長浜を出発する時点では晴れていたが湖北に近づくにしたたがって雪か激しくなってくる。

湿った雪が容赦なくカメラに降りかかる。

視界も悪く吹き付ける雪に目をあいていられない。

遠くはかすんでしまって撮影どころではない。

1時間に1本の列車が走り去る。

羽衣の像を撮影しようと思っても雪が深く近づけない。

早々に切り上げ食事予定の食堂『舟戸』へ。

1月10日に2520匹の最高記録更新した名人が来ていた。

誰かが聞いた、「今日は釣れますか」「釣れないね・・・・・」

結果、全参加者で釣果「ゼロ」、ずぶ濡れで帰ってきました。

賤ヶ岳 雨の登頂
昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。 リフトの真下に群生のシャ … 続きを読む →

去年の5月に賤ヶ岳に登頂した時もずいぶんの降りでボトボトになった記憶がある。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

紅葉の慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は、滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にある。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所である。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。

正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されている。

堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。

堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期)

あと慈眼堂の隣には天海僧正が後陽成上皇より京都にある法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築建立した寺である滋賀院の門跡があります。

この地は比叡山延暦寺の麓の大津市坂本にありますが、天海僧正は織田信長に焼き尽くされた比叡山延暦寺の復興に尽力しています。

それら含めた生前の功績を評価され天海に対して朝廷より贈られた諡号が慈眼大師で、その天海僧正を祀る廟所だから慈眼堂なんですね。

非常に静かな場所ですが、厳かな雰囲気の場所でした。

慈眼堂の横には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、清少納言、紫式部、和泉式部、新田義貞らの供養塔が並んでいる場所もありました。

あくまでも供養塔ですが不思議な組み合わせです。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

鵜川四十八体石仏群のうち13体 – 天文22年(1553年)に六角義賢が高島郡(現・高島市)鵜川に亡き母の菩提を弔うために建立した48体の阿弥陀如来坐像のうちの13体。

この13体は江戸時代初期に当地に移されたもの。

>白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

天海の廟所 慈眼堂
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。 慶長12年 … 続きを読む →

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →


暴れん坊将軍 II 「わらべ地蔵の子守唄」では、汐路章演じる地回りが立てこもる寺子屋。

このときはお堂自身も使われている。

同じく II の「疑惑を呼んだ小さな命!」では、「上様の子」を身籠った大奥の中﨟の恋人が隠れるお堂。「吉宗婚約、五郎左は家出!?」では、珍しく上様と相愛になる娘が、加納じいとともに監禁されてしまう飛鳥山の荒れ寺。

いずれも殺陣はお堂前で行われ、灯籠群の間を行き交っての立ち回りとなる。

闇の仕事師たちとお庭番が死闘を繰り広げたこともある。
ツナギのシーンなどには、灯籠の開口部が効果的に使用される。

第三シリーズの「危うし!妖刀に正義ありや」では、山田朝右衛門が刃引きの刀で灯籠を両断する場面もある。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

紅葉の滋賀院門跡


坂本比叡山口駅は京阪電車全駅の中で、一番北に位置しています。

1997(平成9)年の穴太駅~坂本駅間の複線化工事とともに現在の駅舎に生まれ変わりました。

2000(平成12)年に、京阪電車では宇治駅とともに、第1回近畿の駅百選に選ばれました。

坂本一帯は延暦寺や日吉大社の門前町で、中世には京都への中継地として栄えました。

いたるところで「穴太積み」と呼ばれる美しい石垣を見ることができます。

西に10分ほど歩くと、日本一長い坂本ケーブルのケーブル坂本駅があります。

2018年3月17日に「坂本」から現在の駅名になりました。

延暦寺の門前町・坂本には、穴太衆と呼ばれる石工集団がいました。

穴太衆による石垣は、「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」という技法で作られ、戦国時代には城壁にも用いられました。

里坊の町には今も石垣が美しい町の景観を作り出しています。

滋賀院門跡、以前の訪問記。

延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡
坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも … 続きを読む →

京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。
天台宗。

もともと京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。

江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれます。

坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

約2万平方メートルという広大な境内は、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並ぶ。

書院には、江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)がたくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れています。

また、名庭として知られる庭園は、宸殿の縁側から鑑賞することができます。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

築地塀脇に立つ根本伝教大師像

伝教大師はこの坂本の生まれです。
伝教大師御生誕地 生源寺
奈良時代後期、最澄(さいちょう・767-822)によって開山されたと伝えられる。 … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

紅葉が見事な西教寺


日吉大社の前を北(右)に曲がりしばらく進むと西側に明智光秀が坂本城から移築したと伝わる西教寺の総門が建ち、総門から勅使門への直線の参道の両側に紅葉の並木が続きます、春には桜が咲き並んでいます。

見どころは総門より勅使門までの約150mの参道で、11月の色づきはじめから12月落葉まで、真っ赤に染まった「もみじ参道通り抜け」として圧巻だ。

比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。

西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。

西教寺は室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えるようになったが、それ以前の歴史は必ずしも明らかでない。

草創については、『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇26年(618年)、聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、慧聡のために建立したとする説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。

真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した『真盛上人往生伝記』によれば、西教寺は比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、その弟子で『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)が伽藍を整えたという。

良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物である。

西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、その後鎌倉時代末頃までの歴史も判然としないが、比叡山と関係の深い一寺院として平安時代中期頃に草創されたものと推定される。

信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。

また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。

勅使門横の門の内側はまた見事な紅葉。

そして念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

羅漢とは、釈迦の弟子の中で最も位の高い弟子に与えられる称号のようなもの。

この称号を与えられるということはそれだけ名誉のあることなのです。

これ以上学ぶことがない人に与えられる称号とも言われており、「無学位」とも呼ばれることもあったくらい釈迦の弟子の中ではずば抜けた存在でした。

長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。 

当時は、混乱した世相を反映して宗教界全体が大きな転機を迎えていたので、真盛は戒律の厳守と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の励行を唱えました。

以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられています。

幽玄静寂(ゆうげんせいじゃく)な空気が漂う境内には、念仏と鉦(かね)の音が低く響き渡り、独特の雰囲気が漂います。

画像は宗祖真盛上人(1443~1495)御廟。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

穴太衆積み石垣の町並みから山の辺の道へ


左手は日吉東照宮、徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。

その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。

権現川、朝日を受けて流れがきれいです。

権現とは、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)を救うために仮(かり)(権)の姿をとって現れること。

本来、仏教で用いられたことばであるが、平安時代になると、権現は、わが国の諸神と結び付き、日本の神々を仏・菩薩が衆生を済度(さいど)するために仮に現れた姿であると考えるようになり、諸神を権現号でよぶようになった。

春日(かすが)権現、山王(さんのう)権現、三島(みしま)権現、熊野(くまの)権現などの類であるが、このような権現号も1868年(慶応4)3月の神仏分離によって廃止された。

早尾地蔵尊(六角地蔵堂)は、変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復したと言われる。

そのため、地蔵前に次の歌が書かれている。
  伝教の彫みおかれし石地蔵 姿を変えて出ずる真盛

伝教大師が、童子養育に心を注ぎながら地蔵を彫ったので、「子育て地蔵」とも呼ばれている。

聖徳太子が開山した西教寺ですが、この寺を15世紀後半に再興したのは、一日も絶えることなく念仏を唱える不断念仏で有名な真盛上人(しんせいしょうにん)です。

さらに西教寺を有名にしたのが、1493年の法難時に、手の白い猿が現れ、念仏の鉦(かね)を打ち続けたという言い伝え。

それ以降、身代わりの猿は、護猿(ござる=まもりざる)として縁起の良いものと考えられています。

右手は、日吉馬場からケーブル坂本駅へ、美しい石積みを眺めながら山の辺の道へ急ぐ。

石積みの美しさと、紅葉の美しさにいつも心洗われる。

大宮川、走井橋を渡り日吉大社への道。

ここも紅葉が大変美しい場所だが今日はパス。

東本宮のすぐ東側をほぼ北方向に向かう小径が山の辺の道です。

うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い道。

この道で、西教寺まで約900m、15分位を目標に西教寺を目指します。

スタート地点となる日吉大社東本宮の桜門下に「猿の霊石」(写真)があります。

山の辺の道へは東本宮桜門東側から入って行きます。

まるでしゃがんでいるような猿の霊石、日吉神社では、猿を神の使い、魔除けとして「神猿(まさる)」と呼んでいるのです。

「山の辺の道」というと、日本最古の道として知られる奈良の古道を思い浮かべる方も多いでしょう。

一方、坂本の「山の辺の道」は、日吉大社から900m程、約15分で天台真盛宗総本山・西教寺まで。素朴な千体仏地蔵や、西教寺からの琵琶湖一望の絶景も楽しめます。

なだらかに左右にカーブしながら多少の高低差がかえって興味をそそる道です。

山の辺の道に入るとすぐ左手に日吉古墳群の案内板と岩穴が現れます。

古代の歴史を感じることができます。

比叡山延暦寺への人々の憧れが今も色濃く残る古道。

右手が田んぼにかわると琵琶湖が全体に広がる光景。

大パノラマをゆっくり堪能して歩きます。

以前の散策記録、琵琶湖絶景!日吉大社から西教寺へ~山の辺の道を行く

昔、日吉大社の北側に八講堂と呼ばれる谷があり、寺屋敷が残っていたそうです。

比叡山は、行者の修行場の為、一般の人の参詣は不可。

比叡山へのあこがれから、遠く比叡山から聞こえてくる読経に合わせ山麓の人々が小さな地蔵尊を谷のあちこちに祀り成仏を祈ったといわれています。

こうした地蔵尊が少し掘り起こされたものがいつの間にかこの場所に集められ、「千体仏地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

いずれも30cmから大きなものでも70、80cmほどで丸みを帯びた仏様です。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

紅葉の旧竹林院


比叡山のふもとにある大津市坂本は、門前町として古来からおおいに栄えてきました。

一帯は国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定されています。

なかでも里坊は、歴史の街・坂本ならではの町並みをつくっています。

里坊は延暦寺の僧侶の隠居所で、今も数多く残されています。

旧竹林院は、こうした里坊のひとつで邸内には主屋の南西に約3,300㎡の庭園が広がり、2棟の茶室と四阿(あずまや)があります。

八王子山を借景にした庭園は、地形をたくみに利用しながら滝組と築山を配し、四季折々の風情をかもし出しています。

平成30年9月より物置にしまってあった座卓を活用したリフレクション撮影ができるようになり、話題を集めている。


2階からの庭園の眺めも見事。

2階にもリフレクション撮影用のテーブルが設置されている。

江戸時代初期に築造された里坊の書院前庭園であるが、明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で竹林院は衰退して土地は個人の手に渡った。

現在の庭園はこの時代に改修されたものであり、近代庭園として国の名勝に指定されている。

里坊のひとつで、延暦寺の中でも格式の高い寺院であった。

庭園は国指定の名勝で、大宮川の清流を取り入れた曲水を主体にし、八王子山を借景としている。


紅葉の美しさと庭園の見事さを満喫。

天正年間に建てられた2棟の茶室と四阿(あずまや)は大津市の指定文化財。

庭園内には2棟の茶室と四阿があり、大津市の指定文化財になっています。

この茶室は「天の川席」と呼ばれる、二つの出入り口を持つとても珍しい構造になっている。

この様式は全国でも武者小路千家東京道場(旧久米邸)以外に例がありません。

かつては、各流の家元や茶匠も来遊し、茶事を催しました。

築山も起伏に富み、五重の石塔、井筒などの石造物も多く残る。

大宮川を引き込んで曲水とした構造も見事。

サイド光と苔と岩が織りなす景色を眺めているとついシャッターを切ってしまう。



関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!