紅葉の慈眼堂


慈眼堂(じげんどう)は、滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。
恵日院の境内にある。

慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所である。

江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、正保3年(1646年)に建立された。

正面三間、側面三間、一重、宝形造、桟瓦葺の建物である。
建物は国の重要文化財に指定されている。

堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)が祀られていた(現在は延暦寺国宝殿にある)。

堂建立と同時に整備された石燈籠16基(江戸時代初期)

あと慈眼堂の隣には天海僧正が後陽成上皇より京都にある法勝寺の建物を下賜されてこの地に移築建立した寺である滋賀院の門跡があります。

この地は比叡山延暦寺の麓の大津市坂本にありますが、天海僧正は織田信長に焼き尽くされた比叡山延暦寺の復興に尽力しています。

それら含めた生前の功績を評価され天海に対して朝廷より贈られた諡号が慈眼大師で、その天海僧正を祀る廟所だから慈眼堂なんですね。

非常に静かな場所ですが、厳かな雰囲気の場所でした。

慈眼堂の横には、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、清少納言、紫式部、和泉式部、新田義貞らの供養塔が並んでいる場所もありました。

あくまでも供養塔ですが不思議な組み合わせです。

境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、歴代天台座主の墓、桓武天皇の御骨塔などがある。

鵜川四十八体石仏群のうち13体 – 天文22年(1553年)に六角義賢が高島郡(現・高島市)鵜川に亡き母の菩提を弔うために建立した48体の阿弥陀如来坐像のうちの13体。

この13体は江戸時代初期に当地に移されたもの。

>白洲正子が何度も採り上げた鵜川四十八体石仏群
高島市高島の白髭神社付近に「いにしえの道西近江路」の道標があり、上り坂になってい … 続きを読む →

天海の廟所 慈眼堂
慈眼堂(じげんどう)は滋賀県大津市坂本にある天海(慈眼大師)の廟所。 慶長12年 … 続きを読む →

黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝ゆかりの 金地院
金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。 小堀遠州作 … 続きを読む →


暴れん坊将軍 II 「わらべ地蔵の子守唄」では、汐路章演じる地回りが立てこもる寺子屋。

このときはお堂自身も使われている。

同じく II の「疑惑を呼んだ小さな命!」では、「上様の子」を身籠った大奥の中﨟の恋人が隠れるお堂。「吉宗婚約、五郎左は家出!?」では、珍しく上様と相愛になる娘が、加納じいとともに監禁されてしまう飛鳥山の荒れ寺。

いずれも殺陣はお堂前で行われ、灯籠群の間を行き交っての立ち回りとなる。

闇の仕事師たちとお庭番が死闘を繰り広げたこともある。
ツナギのシーンなどには、灯籠の開口部が効果的に使用される。

第三シリーズの「危うし!妖刀に正義ありや」では、山田朝右衛門が刃引きの刀で灯籠を両断する場面もある。

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紅葉の滋賀院門跡


坂本比叡山口駅は京阪電車全駅の中で、一番北に位置しています。

1997(平成9)年の穴太駅~坂本駅間の複線化工事とともに現在の駅舎に生まれ変わりました。

2000(平成12)年に、京阪電車では宇治駅とともに、第1回近畿の駅百選に選ばれました。

坂本一帯は延暦寺や日吉大社の門前町で、中世には京都への中継地として栄えました。

いたるところで「穴太積み」と呼ばれる美しい石垣を見ることができます。

西に10分ほど歩くと、日本一長い坂本ケーブルのケーブル坂本駅があります。

2018年3月17日に「坂本」から現在の駅名になりました。

延暦寺の門前町・坂本には、穴太衆と呼ばれる石工集団がいました。

穴太衆による石垣は、「石の声を聞け」という口伝に象徴されるように、加工しない自然石を巧みに組み合わせる「穴太衆積み」という技法で作られ、戦国時代には城壁にも用いられました。

里坊の町には今も石垣が美しい町の景観を作り出しています。

滋賀院門跡、以前の訪問記。

延暦寺の里坊を代表する滋賀院門跡
坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも … 続きを読む →

京阪電鉄坂本駅の南西すぐの所にあります。
天台宗。

もともと京都の北白川にあった法勝寺(ほうしょうじ)を、江戸時代初期に現在地に移し、のち後水尾(ごみずのお)上皇から滋賀院の号を賜わりました。

江戸時代末まで天台座主(ざす)となった皇族代々の居所であったため高い格式を誇り、滋賀院門跡と呼ばれます。

坂本の町には、穴太(あのう)積みの石垣が見事な里坊が数多く残っていますが、中でも滋賀院門跡はひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれて、延暦寺の本坊らしい堂々とした外構えを見せています。

約2万平方メートルという広大な境内は、内仏殿・宸殿・書院・庫裏(くり)・土蔵などが立ち並ぶ。

書院には、江戸時代初めの狩野派の障壁画(しょうへきが)がたくさん見られ、豪華な雰囲気に溢れています。

また、名庭として知られる庭園は、宸殿の縁側から鑑賞することができます。

滋賀院御殿と呼ばれた長大な建物は1878年(明治11年)火災により焼失し、比叡山無動寺谷法曼院の建物3棟が移されて再建された。

築地塀脇に立つ根本伝教大師像

伝教大師はこの坂本の生まれです。
伝教大師御生誕地 生源寺
奈良時代後期、最澄(さいちょう・767-822)によって開山されたと伝えられる。 … 続きを読む →

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紅葉が見事な西教寺


日吉大社の前を北(右)に曲がりしばらく進むと西側に明智光秀が坂本城から移築したと伝わる西教寺の総門が建ち、総門から勅使門への直線の参道の両側に紅葉の並木が続きます、春には桜が咲き並んでいます。

見どころは総門より勅使門までの約150mの参道で、11月の色づきはじめから12月落葉まで、真っ赤に染まった「もみじ参道通り抜け」として圧巻だ。

比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。

西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。

西教寺は室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖とされる僧・真盛が入寺して以降、天台念仏と戒律の道場として栄えるようになったが、それ以前の歴史は必ずしも明らかでない。

草創については、『西教寺縁起』や近世の地誌類には推古天皇26年(618年)、聖徳太子が師である高麗の僧慧慈、慧聡のために建立したとする説もあるが、これは伝説の域を出ないものである。

真盛の弟子にあたる真生が明応4年(1495年)に著した『真盛上人往生伝記』によれば、西教寺は比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)が建てた草庵に始まり、その弟子で『往生要集』の著者として知られる源信(恵心僧都)が伽藍を整えたという。

良源と源信はいずれも平安時代中期、10世紀に活動した人物である。

西教寺と良源および源信との結び付きについても確証はなく、その後鎌倉時代末頃までの歴史も判然としないが、比叡山と関係の深い一寺院として平安時代中期頃に草創されたものと推定される。

信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。

また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。

勅使門横の門の内側はまた見事な紅葉。

そして念仏小僧と羅漢像がお出迎え。

羅漢とは、釈迦の弟子の中で最も位の高い弟子に与えられる称号のようなもの。

この称号を与えられるということはそれだけ名誉のあることなのです。

これ以上学ぶことがない人に与えられる称号とも言われており、「無学位」とも呼ばれることもあったくらい釈迦の弟子の中ではずば抜けた存在でした。

長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。 

当時は、混乱した世相を反映して宗教界全体が大きな転機を迎えていたので、真盛は戒律の厳守と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の励行を唱えました。

以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられています。

幽玄静寂(ゆうげんせいじゃく)な空気が漂う境内には、念仏と鉦(かね)の音が低く響き渡り、独特の雰囲気が漂います。

画像は宗祖真盛上人(1443~1495)御廟。

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穴太衆積み石垣の町並みから山の辺の道へ


左手は日吉東照宮、徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。

その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。

権現川、朝日を受けて流れがきれいです。

権現とは、仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)を救うために仮(かり)(権)の姿をとって現れること。

本来、仏教で用いられたことばであるが、平安時代になると、権現は、わが国の諸神と結び付き、日本の神々を仏・菩薩が衆生を済度(さいど)するために仮に現れた姿であると考えるようになり、諸神を権現号でよぶようになった。

春日(かすが)権現、山王(さんのう)権現、三島(みしま)権現、熊野(くまの)権現などの類であるが、このような権現号も1868年(慶応4)3月の神仏分離によって廃止された。

早尾地蔵尊(六角地蔵堂)は、変じて真盛上人(西教寺開山)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に復したと言われる。

そのため、地蔵前に次の歌が書かれている。
  伝教の彫みおかれし石地蔵 姿を変えて出ずる真盛

伝教大師が、童子養育に心を注ぎながら地蔵を彫ったので、「子育て地蔵」とも呼ばれている。

聖徳太子が開山した西教寺ですが、この寺を15世紀後半に再興したのは、一日も絶えることなく念仏を唱える不断念仏で有名な真盛上人(しんせいしょうにん)です。

さらに西教寺を有名にしたのが、1493年の法難時に、手の白い猿が現れ、念仏の鉦(かね)を打ち続けたという言い伝え。

それ以降、身代わりの猿は、護猿(ござる=まもりざる)として縁起の良いものと考えられています。

右手は、日吉馬場からケーブル坂本駅へ、美しい石積みを眺めながら山の辺の道へ急ぐ。

石積みの美しさと、紅葉の美しさにいつも心洗われる。

大宮川、走井橋を渡り日吉大社への道。

ここも紅葉が大変美しい場所だが今日はパス。

東本宮のすぐ東側をほぼ北方向に向かう小径が山の辺の道です。

うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い道。

この道で、西教寺まで約900m、15分位を目標に西教寺を目指します。

スタート地点となる日吉大社東本宮の桜門下に「猿の霊石」(写真)があります。

山の辺の道へは東本宮桜門東側から入って行きます。

まるでしゃがんでいるような猿の霊石、日吉神社では、猿を神の使い、魔除けとして「神猿(まさる)」と呼んでいるのです。

「山の辺の道」というと、日本最古の道として知られる奈良の古道を思い浮かべる方も多いでしょう。

一方、坂本の「山の辺の道」は、日吉大社から900m程、約15分で天台真盛宗総本山・西教寺まで。素朴な千体仏地蔵や、西教寺からの琵琶湖一望の絶景も楽しめます。

なだらかに左右にカーブしながら多少の高低差がかえって興味をそそる道です。

山の辺の道に入るとすぐ左手に日吉古墳群の案内板と岩穴が現れます。

古代の歴史を感じることができます。

比叡山延暦寺への人々の憧れが今も色濃く残る古道。

右手が田んぼにかわると琵琶湖が全体に広がる光景。

大パノラマをゆっくり堪能して歩きます。

以前の散策記録、琵琶湖絶景!日吉大社から西教寺へ~山の辺の道を行く

昔、日吉大社の北側に八講堂と呼ばれる谷があり、寺屋敷が残っていたそうです。

比叡山は、行者の修行場の為、一般の人の参詣は不可。

比叡山へのあこがれから、遠く比叡山から聞こえてくる読経に合わせ山麓の人々が小さな地蔵尊を谷のあちこちに祀り成仏を祈ったといわれています。

こうした地蔵尊が少し掘り起こされたものがいつの間にかこの場所に集められ、「千体仏地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

いずれも30cmから大きなものでも70、80cmほどで丸みを帯びた仏様です。

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紅葉の旧竹林院


比叡山のふもとにある大津市坂本は、門前町として古来からおおいに栄えてきました。

一帯は国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定されています。

なかでも里坊は、歴史の街・坂本ならではの町並みをつくっています。

里坊は延暦寺の僧侶の隠居所で、今も数多く残されています。

旧竹林院は、こうした里坊のひとつで邸内には主屋の南西に約3,300㎡の庭園が広がり、2棟の茶室と四阿(あずまや)があります。

八王子山を借景にした庭園は、地形をたくみに利用しながら滝組と築山を配し、四季折々の風情をかもし出しています。

平成30年9月より物置にしまってあった座卓を活用したリフレクション撮影ができるようになり、話題を集めている。


2階からの庭園の眺めも見事。

2階にもリフレクション撮影用のテーブルが設置されている。

江戸時代初期に築造された里坊の書院前庭園であるが、明治時代初頭の廃仏毀釈の影響で竹林院は衰退して土地は個人の手に渡った。

現在の庭園はこの時代に改修されたものであり、近代庭園として国の名勝に指定されている。

里坊のひとつで、延暦寺の中でも格式の高い寺院であった。

庭園は国指定の名勝で、大宮川の清流を取り入れた曲水を主体にし、八王子山を借景としている。


紅葉の美しさと庭園の見事さを満喫。

天正年間に建てられた2棟の茶室と四阿(あずまや)は大津市の指定文化財。

庭園内には2棟の茶室と四阿があり、大津市の指定文化財になっています。

この茶室は「天の川席」と呼ばれる、二つの出入り口を持つとても珍しい構造になっている。

この様式は全国でも武者小路千家東京道場(旧久米邸)以外に例がありません。

かつては、各流の家元や茶匠も来遊し、茶事を催しました。

築山も起伏に富み、五重の石塔、井筒などの石造物も多く残る。

大宮川を引き込んで曲水とした構造も見事。

サイド光と苔と岩が織りなす景色を眺めているとついシャッターを切ってしまう。



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関ケ原古戦場記念館


関ケ原町に町内では一番高くそびえたつ5階建ての施設「岐阜関ケ原古戦場記念館」が2020年10月開館。

石田三成と徳川家康の家紋の陣幕で迎えてくれ、その光景は圧巻。

風、振動、光、音を、体で感じて自分も参戦!?

一番の目玉のシアターは、縦4.5メートル、横13メートルのワイドな曲面スクリーンで迫力満点な映像が楽しめます。
風や振動、光、音などの演出により関ケ原の戦いを臨場感たっぷりに再現し、あたかも自分も参戦しているかのような体験ができます。

再現度が高くて、本当にスクリーンから飛び出してくるのでは?と思うほどのすごさがあります!

お見せできないのが残念。

記念館のオープンにあわせて、カフェやお土産を扱うショップが入った商業施設がオープン。

記念館の最上階は360度ガラスに覆われており、関ケ原が一望できるパノラマビューは絶景。

石田三成が陣を置いた笹尾山や、徳川家康が陣を置いた桃配山を実際に見ることで、各武将が布陣した距離感を知ることができ、合戦当日の様子がイメージできます。

中央下方が石田三成陣跡、その右下が決戦地。

中央が小早川秀秋が布陣した松尾山。

岡山(丸山)烽火場、黒田長政、竹中重門陣跡。

戦国時代に浸りきった一日でした。

これから長浜まで帰り解散です。

長浜城が夕日に浮かび上がってきれいです。

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三成の「十三ヶ条掟書」が残る 成菩提院


現在は、静かな佇まいの中にあって、長い歴史と豊かな文化財を今に伝える名刹である。

最澄が東北に向かうときに小さなお堂を建てたのがはじまりで、天台宗の古刹である。
天台宗の談義所として寺観を整える。

嘉暦元年(1326)平泉寺の衆徒が乱入して堂宇を焼かれるが、応永2年(1395)貞舜が足利義満の心願をうけて寺坊を再興。

柏原が交通の要地であったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、また関が原の合戦前に小早川秀秋も宿泊したとされる。

左手には鐘楼 室町時代に建立。

佐和山城主、三成がどのように民政を進めていこうとしたのかをよく伝えるのが、所領である犬上・坂田・浅井・伊香四郡に出した「十三ヶ条掟書」「九ヶ条掟書」で、「治部少枡」と呼ばれた三成が提供した枡を使用すべきことなどが記されている。

年貢高の決定に関する細かい規定がされているのが特徴だ。

三成への直訴を許すという内容もある。

年貢という税金システムの確立や、年貢を差し出す者の権利の保護をめざそうとしていることがわかる。

しかし三成が佐和山城主であった期間は10年に満たなかった。

この「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」の2種の掟書は現在も各地域に残っているそうだ。

旧山東町柏原にある天台宗の古刹、成菩提院(じょうぼだいいん)には「十三ヶ条掟書」が保管されている。

ご住職の山口智順さんによると、このあたりは当時成菩提院村と呼ばれ、寺の領地であったことからここに掟書が残っているのだという。

ご住職が興味深いエピソードを教えてくださった。

関ヶ原の合戦で三成率いる西軍から家康側の東軍に寝返った小早川秀秋が、合戦直前に成菩提院に滞在していたというのだ。

これは禁制札と呼ばれる、武将が部下に出す滞在時の約束事を記した木札の日付からわかるそうだ。

このときの住職、祐円は徳川家康のブレーンといわれた天海の兄弟子であった。

「天海から祐円に、そして祐円が秀秋に…という形で秀秋の寝返りの決断を固める何かがあったとも考えられるわけです」とご住職は推測される。

それを裏付けるかのように、合戦後祐円は家康に戦勝祝いとして牡丹餅を献上し、家康から合戦時の櫓に使った木材などをもらい受けたという。

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ローザンベリー多和田


NZの国旗が飾られた建物は「NZワインショップ」だそうで・・・

今日は長浜観光協会主催のツアーに参加、お昼をローザンベリー多和田でいただくことになった。

1万3000㎡の広々としたガーデンをはじめ、カフェやレストラン、BBQ施設ほか、手作りジャムなど素敵なギフトが買えるショップ、ピザ作りやクラフト体験ができる工房も。

滋賀県米原市にある「ローザンベリー多和田」は、バラが咲き誇るイングリッシュガーデンに羊の牧場、そして森の中のカフェと、魅力いっぱいの自然を生かした体験型ガーデンです。

冬は園内を花畑に見立てたイルミネーションも・・・・

アニーの部屋というのはどうもショップのことらしい。

いろいろなものが売られている・・・

かわいい猫ちゃんや

わんこも

「ローザンベリー多和田」は約17年前、代表の大澤恵理子さんの思いがきっかけに。

子育ても一段落した47歳の時、好きなガーデニングをやろうと思った大澤さんは、地元にセメント会社による採石が終わり、荒れ地になったこの土地を見つけました。

これを見て「故郷を美しくしたい」と一念発起。

建設業を営む夫の支援も得ながら、大規模な“理想の庭づくり”を始めました。

硬い岩盤だったので、ブルドーザーを使ったり、大型重機で土木工事をしたり、庭づくりというより“開拓”からのスタートだったんです」と、オーナーの大澤惠理子さんは当時を振り返ります。

「昔から子育てが一段落したら何かしたいと考えていました。

家族に相談したら『今まで家のことをしてきてくれたから、これからは好きなことをしたらいいよ』と言ってくれました。

何をしようと考えたときに、子どものころから父親の庭を手伝い、自然に囲まれた環境にいたので、土や花と触れ合いたいと思ったんです。

そして、専業主婦だった大澤さんが挑んだのは、東京ドーム2.5個分の荒れ果てた採石場跡を開発し、観光庭園を建設するという、もはや「子育て後の余暇」をはるかに超えた大プロジェクトでした。

この大事業を成し遂げるまでに、どれほど起伏にみちたストーリーが展開されたかは想像に難くありません。

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日本最古 伝教大師坐像を祀る「観音寺」


山号は伊富貴山。
本尊は十一面千手観音。
通称:大原観音寺。

仁寿年間(851年 – 854年)、三修によって創建された。

もとは伊吹山四大護国寺として法相宗に属していたが、弘和(永徳)3年(1383年)に天台宗に改めた。

長浜城主の羽柴秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したことで有名。

お寺の正式な名称が『伊冨貴山大原観音護国寺』。

『伊冨貴山』という山号は、関ケ原との境にあります伊吹山から頂戴しておりまして、元々このお寺は伊吹山の方にあり、『伊吹山四大寺』の一角を占めておりました。

弥高寺・太平寺・長尾寺の三ヶ寺と、それとこの観音寺の4つで四大寺を形成していて、現在は天台宗の末寺となっていますが、かつては山岳信仰の拠点だったとされています。

鎌倉時代にこの地に移ってきて、それから800年ほど、こちらでお世話になっているということです。

『大原』というのは、鎌倉時代にこの辺を佐々木大原氏という方が治めておられたことから、この地が『大原荘』と呼ばれていることに由来します。

しばらく佐々木氏の庇護を受けてまいりましたが、戦国時代には、浅井氏・羽柴氏から寺領を安堵され、その後、江戸時代には、彦根藩の井伊家へと変遷しながら庇護を受けてきた歴史がありました。

そうしたご縁もあって、本堂には豊国大明神と東照大神宮を並べてお祀りしています。

豊臣秀吉公と徳川家康公をお祀りしつつ、南北朝の北朝である光厳天皇も南朝の後醍醐天皇の両方を奉賛しているのも、先人の知恵で栄枯盛衰の激しい時代を生き抜いてきた当院の歴史を物語っているのではないでしょうか。

石田三成公の「三献茶」の逸話の水を汲んだといわれる井戸。

この「三献茶」のエピソードが出ているのは、三成死去から100年以上後に成立(1716年)した「武将感状記」からであり、創作の可能性が高いのではないかといわれています。

この秀吉と三成が出合った寺の名称も不明であり、召し抱えられた時期も不明ですが、天正2年(1574)頃で14歳の時ではないかとされています。

但し、18歳の時に姫路で召し抱えられたという史料もあります。

江戸時代に最盛期を迎えたと言われる観音寺は、参道の両脇に23ものお寺がズラリと並んでいたとか。

おそらく、当時の参拝者にとってはかなり壮観な光景だったのではないでしょうか。

現在は、石垣や盛り土の段差から、往時の様子をしのぶしかありませんが、本堂に隣接する薬師堂は、天保の時代にこの地に建てられたといいます。

近年、注目されているのは、坐像としては日本最古のものとされる伝教大師像。

高さは65㎝の一木造りで、国の重要文化財にも指定されています。
銘によれば、彫られたのは、1224年で、社会科の教科書でもたびたび掲載されるなど、広く伝教大師のイメージを伝える歴史遺産として、今も大事に保存されています。

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湖底に沈んだ古代の港町 – 阿曽津千軒


琵琶湖湖底遺跡は、滋賀県の琵琶湖に100以上確認されている集落などの湖底遺跡の総称。

縄文時代から江戸時代まで様々な要因で水没し、水中にあるため解明が進んでいない。

これから片道約40分の山越の径、湖底に沈んだという阿曾津千軒跡を訪れる。

津波の発生時期は992(正歴3)年又は1185(文治元)年とも云われているがはっきりしない。
いずれにしても1000年近く前のことである。

阿曾津の港は海津、塩津と並んで栄えた港町であったが、地震で全村が琵琶湖に沈んだ。

古墳らしき場所を見ながらひたすら下っていくと、「海老越し」とよばれる尾根越えの道に差し掛かりました。

阿曾津千軒跡周辺 琵琶湖に向かって傾斜のある平地が広がっている。

全域に小石が散乱している。

奥山の地蔵尊。

やがて湖岸に出た。

これから片道約10分の有漏神社往復する。

前方に見える山道を登る。

山道を登ると木之本町山梨子の「有漏神社」がある。

阿曾津は全滅する前から堅田漁師とつながりがあったようだ。

有漏神社が航行の安全祈願などに御利益が有るということで、遠く大津湊の崇敬を集めていた。

半島と半島の中間に見えるのが竹生島。

昔むかし琵琶湖のほとりには、たいへん栄えた阿曽津村という大きな集落がありました。

そこには大金持ちの老婆が住んでおり、お金を村人たちに貸し付けていたそうです。

たまたま居合わせた堅田の漁師に助けられますが、介抱も虚しく老婆は息絶えてしまいます。

老婆の祟りなのか、間もなく阿曽津村は大津波に襲われてしまいました。

海岸で小鹿のものと思われる頭蓋骨を発見。

台風で倒された木の根。

対岸は時の流れが止まったかのような知る人ぞ知る「月出」と言う集落です。

国道303号線から奥琵琶湖パークウェイに入り、すぐ左の細い道を湖岸沿いに2キロほど行ったところに、ひっそりと小さな漁港と集落があります。

葛籠尾崎湖底遺の土器は一般の遺跡とは異なり、湖底の土中に埋没せず露出しています。

このような遺跡は他に例がなくその成因は謎に包まれています。

葛籠尾崎湖底遺跡資料館

琵琶湖の水深10~70mの湖底から発見された縄文・弥生時代の土器を展示しています。

数千年、数百年の時を経て現代に伝わる古代ロマンを感じることができます。

大正13年(1924)末、湖水を挟んで葛籠尾崎の東方に位置する尾上(おのえ:現長浜市湖北町)の老漁師喜助が?(イサザ)漁をしていたところ、底引き網に数個の土器が引っ掛かりました。

その後も、縄文土器や弥生土器・土師器・須恵器などの土器や石器などの遺物が次々と引き揚げられ、湖底遺跡の存在が明らかになりました。

これらの遺物を収蔵・展示しているのが、尾上公民館内にある葛籠尾崎湖底遺跡資料館です。

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