ボタン寺 総持寺


総持寺は滋賀県一のボタン寺として名高く、境内一面に植えられた牡丹は約80種類1000株。

降りしきる雨の中の参拝です。

仁王門をくぐり、石畳を進むと広い境内の奥に本堂が見えます。

お堂の中には聖観音(重要文化財)をはじめ、たくさんの仏像がまつられています。

ご本尊は薬師如来様で、西国薬師霊場31番札所となっています。

このお寺は、すぐ近くで生まれた小堀遠州と縁が深く、県名勝指定の遠州流庭園(江戸初期、池泉回遊式庭園)があります。

また一段と雨が激しさを増してきました。

本堂前庭には、お大師様が梅干の種を口から吹き飛ばすと、この松ノ木の枝に落ちて それが育った「松梅の木」、語呂合わせで「商売の木」商売繁盛、良縁などのご利益があるそうです。

冬の積雪に耐えて鮮やかに咲く花は、例年4月下旬から5月上旬が見ごろです。

牡丹が終わるころには、芍薬が花を咲かせます。

しかし、見頃は過ぎておまけにこの雨、とどめを刺されたようです。

姉川の兵火に遭いましたが豊臣秀吉にて再建されたとの寺伝にあります。。

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鶏足寺の青もみじ


己高庵(ここうあん)で昼食。

鶏足寺に向かう、山藤がきれいです。

沼沢地をしり目に先を急ぐ。

亀山の茶畑

「こだかみ茶」が生まれたのは、今から1200年前。平安時代、僧最澄(伝教大師)が「薬の木の実」として遣唐使で中国へ渡たられ、唐から持ち帰った(805年)茶の実を、比叡山延暦寺で天台宗を開いた麓と、799年に当地己高山(海抜923m)を訪れ、山上にあった僧行基の東光山常楽寺跡を発見し、整備再興に尽くされ、帰国後、天台宗鶏足寺と改め、さらに麓の別院(法華寺・飯福寺・石道寺・高尾寺・安楽寺)の周辺にまかれたのがお茶のはじまりだと言い伝えられる。

鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。

いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したという。

文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。

山麓の古橋地区の与志漏神社(よしろじんじゃ)境内には薬師堂、大日堂のほか、己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)と称する2棟の収蔵庫が建ち、鶏足寺や関連寺院に伝わった仏像などはこれらの収蔵庫にて収蔵・公開されている(指定文化財の仏像の所有者名義は「鶏足寺」となっている)。

「紅葉の名所鶏足寺」として、毎年多くの方が紅葉散策に訪れることで知られています。
ゆるやかな参道の石段、苔むした石垣に二百本のもみじの古木が幽玄な情景を醸し出しています。

秋の紅葉めぐり 鶏足寺(旧飯福寺)
鶏足寺跡とされる寺院跡は己高山の山頂近くにある。 また、山麓の古橋地区から徒歩1 … 続きを読む →

この地古橋は、石田光成の母の出生地という。
関が原で敗れた光成が古橋に逃れてきたが、他の村から養子にきた男に密告され捕まってしまった。

古橋では、永い間よその村からの養子はとらなかったという。
石田三成が関ヶ原の戦いで敗れ落ち延びて隠れた岩窟がその近くにあります。

石道寺界隈
石道寺(しゃくどうじ)は、滋賀県長浜市にある真言宗豊山派の寺院。 山号は己高山。 … 続きを読む →

画像は石道寺。

古橋を「近江のまほろば」と称する由縁

「まほろば」の原語は「マホラ」で、すぐれたよい所」と解されている。

「マホラ」な所、即ちマホラ場であり、これが転化してまほろばと呼ばれるようになったもの。
 
ここ古橋は三方を山に囲まれ、何面に開けた中央部に位置し、古くから大陸文化が伝来し奈良時代には相次いで寺院が創建され、平安期には全盛を極めた己高山鶏足寺、飯福寺、法華寺等の湖北仏教文化圏の中心寺院を容した仏教聖地であり、今も随所にある遺跡で往時を偲ぶことができる。

一方、山野にみる四季の移り変わりの風景もまた素晴らしく、古くから奈良大和を国のまほろばと称しているのにちなんで古橋を「近江のまほろば」と称している。

眼の地蔵菩薩 木之本地蔵院
伝承によれば、天武天皇の時代(7世紀後半)、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩 … 続きを読む →


また、ここには古橋製鉄遺跡が残る。

製鉄炉跡はかたい岩盤をくりぬいて炉の床面(縦50cm・横2m)として作られていたいわゆる箱型炉であった。

年代は、調査時に出土した須恵器片から7世紀前半に作られたと考えられている。

このような形式の製鉄炉は、県下でも数例しか確認されておらず、湖北地方における鉄生産の歴史を語る代表的な遺跡です。(木之本町教育委員)

産業用エンジンメーカー大手のヤンマー創業者山岡孫吉の出生地として知られる。

山岡孫吉は、1888年(明治21年)3月22日滋賀県伊香郡東阿閉村(後の南富永村、現滋賀県長浜市高月町)に生まれた。

尋常高等科卒業後1903年(明治36年)3円60銭を手に持ち奉公に出、1905年(明治38年)大阪瓦斯工事人夫として仕事をしていた時にガスエンジンに出会い、技術を学ぶ。

1906年(明治39年)独立し、1912年(明治45年)中古ガスエンジンブローカー業を開業し、1921年(大正10年)農業用小型石油エンジンメーカーとなり、ヤンマーを商標として用いた。

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賤ヶ岳 雨の登頂


昨日からの雨はいよいよ激しく、雨具を付けての登頂です。

リフトの真下に群生のシャガ(射干)の花は、4月末~5月初旬が見ごろです。

なお、賤ヶ岳の名前の由来についても諸説あるようですが、山中にある説明書きによれば、弘法大師がこの地に立ち寄ったとき地元の女性から「西の方に高い山には賎が住んでます」と言われたことから、この山を「賎ヶ嶽」と呼ぶようになった、とあります。

奥琵琶湖パークウェイ、つづら尾崎が見えています。

約18.8kmのドライブウェイに樹齢20年から25年の桜が約3,000本咲き乱れます。

隠れ里菅浦集落と奥琵琶湖桜並木
琵琶湖の北端は「奥琵琶湖」と呼ばれ、湖岸まで山がせり出しているその地形は、北欧の … 続きを読む →

海上から海津大崎の桜
菅浦の船溜まりから小型船で会場からの桜見物。 今日は折からの低気圧で湖上は時化て … 続きを読む →

海津大崎 琵琶湖随一の桜の名所を行く
桜の満開の時期に合わせ、JR湖西線マキノ駅から海津大崎を経て、JR永原駅までの約12kmの距離を徒歩で巡るという念願の散策を果たす。 … 続きを読む →


安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。

これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。
余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。

辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。

斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。

賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。

さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。

余呉湖への径。

余呉湖には湖の琴」という水上勉作の悲しい物語があります。

大正末期、若狭から賤ヶ岳の麓の西山の生糸製造農家へ奉公に来た「さく」と「宇吉」はお互いに惹かれるところがあり、助け合いながら暮らしている。

さくは京都の長唄の師匠「桐屋紋左エ門」に見初められ、京都へ移る。

やがて師匠の子を身ごもったさくは西山へ帰り、心優しい喜太夫夫婦に慰められ、宇吉と一緒にいることの幸せをかみかめる、自分の身体は穢れていると嘆き、お腹が大きくなって隠し切れずに自殺する。

宇吉はさくを余呉湖の深い淵へ沈めることを思いつき、その遺体を入れた箱に自分も入れて余呉湖に身を投げる。

雨脚が一段と激しくなり、つづら尾崎も霧に包まれます。

登ってきたリフトの駅からの径も霞みます。

賤ヶ岳の七本槍の話は譜代の有力な家臣を持たなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。

福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」(中傷の意図も否定できない)と語ったり、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌った(今日の研究では清正の立身は羽柴家の財務・民政における功績の部分が大きく、賤ヶ岳の戦功は異例に属していたとされる)などの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。

無名の戦士が霧の中に佇む。

無名の戦士像に後ろ髪惹かれながら下山した。
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遅かりし八重桜のトンネル 伊香具神社


伊香具神社(いかぐじんじゃ)は、滋賀県長浜市木之本町大音にある神社。
式内社(名神大社)で、旧社格は県社。

神紋は「上藤」。

湖北随一の名社と称される。

大鳥居

伊香具神社の八重桜に囲まれた参道。

八重桜は普通の桜(ソメイヨシノ)よりも少し開花が遅く、4月中旬~5月初旬頃が見頃だそうです。

今年は例年よりかなり早く咲きだし4月23日(金)がピーク、訪問時(4月29日)は1週間遅く、ほぼ散ってしまっている。

今日は朝から暴風の吹き荒れる荒天で桜に最後のとどめをさしたようだ

伊香式鳥居

正面に大きく羽を広げたような鳥居は三輪式鳥居と厳島式鳥居を組み合わせた当神社独特のもので、この神社の前が伊香の小江と呼ばれた入り江であったことを示すものです。

他の神社では見られないこの鳥居を伊香式鳥居と呼んでいます。

上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。

貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。

社伝によれば、寛平7年(895年)に菅原道真が法華経や金光明経を手写して納め、同時に「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜されたという。

その後足利尊氏が200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。

明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。

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吸湖山青岸寺


青岸寺は、滋賀県米原市の太尾山西麓にある曹洞宗の仏教寺院。

山号は吸湖山、近江湖北二十七名刹第27番札所、近江七福神(福禄寿)。

境内にある築山林泉式枯山水庭園「青岸寺庭園」で知られる。

創建は室町時代初期で、開基はバサラ大名で有名な佐々木道誉。

本尊は佐々木六角氏頼が造立した「お腹籠観音」の名で知られる聖観音立像を胎内仏とする秘仏聖観音坐像。

本堂裏の 築山林泉式枯山水庭園日本庭園は国の名勝に指定されている。

山門を入るとシダ植物の一つである“岩苔”とも呼ばれるイワヒバ(岩檜葉)が、苔状になって参道の左右に繁茂しています。

大きな枝振りの百日紅の後方にあるのが「青岸寺」の本堂です。

江戸時代前期の枯山水庭園。

三世住持の興欣により書かれた『築園記』によると、延宝6年(1678年)、興欣の依頼で、玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされる。

座視式を基本とする庭園であるが、面積2,717平方メートルと広大であるため回遊式も兼ねる。

平成30年(2018年)から庭園を眺められるカフェを住職自らが経営している。

通常、海を表現するのに白砂が使われるが、青岸寺では杉苔が用いられている。

庭園北西部には、桃山時代風の切石による反り橋が架けられている。

まるで渓谷のような景観を作り出し、杉苔と合わさって大変美しい。

画面上部には座敷がみえる。

大雨により苔庭が雨水で埋まり池泉庭園になるとのこと。
年に数回だけの奇跡の景観であるが、この目でみたいものだ。

庭園内にある織部灯篭(キリシタン灯篭)。

武将で茶人の古田織部正重然がキリシタン全盛時に信者や茶人の好みに合うように創案したと言われ、和洋折衷の寄せ灯篭です。

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近江孤篷庵


どの駅からも遠く公共交通機関では辿り着けないことが判明……

行きにくいとなると行きたい気持ちがつのり、探すうちツアーがあることを見つけた、残2席に滑り込みセーフ、ラッキーだった。

孤篷庵の参道は長い、途中の素盞烏命神社のイチョウがきれいでした。

小室(こむろ)城主で、千利休、古田織部とともに日本三大茶人としても名高い小堀遠州(こぼりえんしゅう)(1579-1647)の菩提を弔うために、2代目城主宗慶(そうけい)(正之)が、江戸時代前期、京都大徳寺(だいとくじ)から僧円恵(そうえんけい)を招いて開山した臨済宗大徳寺派の寺。。

遠州が京都大徳寺に建立した孤篷庵にちなんで、近江孤篷庵としました

小堀家の菩提寺でしたが、江戸時代後期、伏見奉行を勤めていた6代目藩主政方(まさみち)の時に、小堀家改易とともに衰え、明治維新後無住のままに荒廃していました。

やっと山門が見えてきました。

昭和40年(1965)小堀定泰(こぼりじょうたい)が再建し、「遠州好み」の庭も同時に補修整備されました。

庭園は、本堂南にある簡素な石組の枯山水と、東に面した池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園があり、県の名勝に指定されています。

近江孤篷庵は1700年代に一度移転しており、現在の庭園はその際に作られたと推定されているとのこと。

一面に苔の広がる枯山水庭園と、琵琶湖をイメージしたという池を中心とした池泉鑑賞式庭園。

自然の地形を活かした趣(おもむき)のある設計で、近江八景を模したといわれます。

池の後方の築山には、自然の土手をそのまま取り込んでいて、扇を広げたような逆二等辺三角形の壁になっていて、その要にある奥まったところに井戸があり、当時は山から集まってくるおいしい水を沸かして喫茶を楽しんでいたようです。

中央の老木常緑樹「バイタラヨウジュ」は、はがきの元木で、冬には赤い実を付けて庭を彩ります。

軒先に吊るされているのは鉄製の灯篭だろうか、涼やかな意匠が風流を誘う。

孤蓬とは遠州の号であり、遠州亡き後にその子である正之が遠州の菩提供養と小堀家家臣の修繕道場として建立した。



庭園の東側は直接外科医とつながったような形になっていたそうですが、今では木が茂る。

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紅葉の小谷城址


小谷城址は6年ぶりの訪問だ、画像は『江 姫たちの戦国』の放映を記念して建てられた記念碑。

中腹(番所跡)までの約4キロをシャトルバスで送迎してくれる。

紅葉真っ盛り。

前回の訪問時は小雨の中の登城だった。
小谷山上に築かれた近江の名城 小谷城
今回は小雨をついての登頂敢行だ。 右側の尾根筋を六防迄登り、清水谷を小谷城戦国歴 … 続きを読む →


当時より足の衰えを感じる。

天正元年(1572年)再び小谷城に侵攻した信長は虎御前山に築城し、小谷城が落城するまでの間、最前線の砦として利用された。

手前の北國脇往還は信長が、秀吉が長政が義景が駆け抜け、死闘を繰り返した道だ

御馬屋跡。

戦国大名浅井氏の居城であり、堅固な山城として知られたが、元亀・天正の騒乱の中で4年間織田信長に攻められ落城した。

その後、北近江の拠点は長浜城に移されたために廃城となった。

現在は土塁・曲輪などのほか、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っている。

国の史跡に指定されている。

首据石(くびすえいし)
馬洗池から少し登ったところにある。

天文2年(1533)初代亮政は六角氏との合戦の際家臣今井左衛門尉秀信が敵方に内通していたことを知り、見せしめのため秀信の首をここにさらしたことで有名な石。

黒鉄門跡。

桜の馬場跡の紅葉もきれいです。

桜の馬場跡。

大広間址

この城跡で最も大きい平地、家臣達を集めての会議などを行ったところ。

このすぐ後ろの一段高くなったところに城主がいた本丸址がある。

本丸跡、兵どもの戦いはどこへやら、美しい紅葉が・・・・・

織田、浅井の死闘

天下取りへの転換点 金ヶ崎城
南北朝、戦国期を通じ常に天下取りへの転換点となった金ヶ崎城址への訪問記。 金ヶ崎 … 続きを読む →

朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏裏切りの報が…。

朽木に信長遁走の跡を訪ねる
興聖寺はもともと現在の位置とは安曇川を挟んで反対側の上柏村指月谷にあったが、江戸 … 続きを読む →

興聖寺脇の渓流沿いの小径、朽木氏の闘争のための経路という。
信長もこの経路で脱出したようだ。

姉川の戦い
「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅 … 続きを読む →

午前6時頃に戦闘が始まる。
浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長公記)」という激戦になったが、織田・徳川側が1,100余りを討ち取って勝利した。

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長浜城


1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。

秀吉の天守台南側には新たに犬山城と丸岡城の天守をモデルとした三層の模擬天守が建てられ、中は資料館となっている。

雪に埋もれた長浜城
寒波襲来で長浜地域は大雪、長浜城も雪に埋もれており簡単には近づけない。 尚雪は降 … 続きを読む →


小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。

その後宝厳寺に対しては秀吉の遺命として大阪城の唐門などが移築されている。

天守よりの眺望、正面の小さな島が沖島、その左が安土。

右端の奥に小さく見えるのが竹生島。

以前の訪問竹生島
竹生島は葛籠尾崎(つづらおざき)の南約2kmに位置し、琵琶湖では沖島に次いで大き … 続きを読む →


城の一部が文政近江地震で水没琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)。

長浜城の井戸とされてる「太閤井」と呼ばれる井戸が湖岸にあり石碑が立てれているが、琵琶湖の水位が高いと湖面に石碑だけが顔をのぞかせている。

天正3・4年頃完成し入城。

湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。

城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。

そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。
秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

厳冬の琵琶湖岸
ラッセルをこなしやっと湖岸にたどり着く。 まだ降雪は続いている。 この時期湖岸を … 続きを読む →

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長浜鉄道スクエア


1882年(明治15年)に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅。
現存する駅舎としては日本最古のもので、第1回の鉄道記念物に指定されています。

写真右は「旧長浜駅29号分岐ポイント」、1882年(明治15年)の長浜駅開業から約80年間使われた、現存する日本最古のポイントです。

旧北陸本線の柳ケ瀬トンネル東口(滋賀県長浜市余呉町)にあった、初代内閣総理大臣・伊藤博文による『萬世永頼(ばんせいえいらい)』と書かれた石額。

この鉄道が世のために働いてくれることをいつまでも長く頼りにするという意味で、明治の有名人たちの鉄道にかける期待と情熱が伝わってくる思いがする。

日本初の鉄道開通は、よく知られているように東京(新橋)―横浜間で、それからわずか10年後の1882年(明治15年)に、長浜―敦賀間が開業します。

長浜―敦賀間と大津―京都間に鉄道が開通すると、その間を結ぶ鉄道が敷設されるまで、長浜―大津間を船で結ぶ湖上交通「鉄道連絡船」が就航しました。

1989年(明治22年)に長浜―大津間が鉄道で結ばれるまで、わずか7年あまりの活躍でしたが、雄大な琵琶湖の景色を楽しむことのできる船旅でした。

写真は、当時の一等二等待合室の様子。

英国人技師が設計した洋風2階建ての、文明開化を象徴する近代遺産で、施設内は駅長室や待合室など当時の面影をそのまま残しています。

長浜鉄道スクエアの「北陸線電化記念館」には、ED70形交流電気機関車とD51形蒸気機関車の2台が並んで展示されています。

このうちED70形交流電気機関車は、日本で最初の営業用60ヘルツの交流電気機関車で、交流の電気機関車であることを表す赤色に塗られ、合計で19両製造されました。

ED70形交流電気機関車の隣に展示されているD51形蒸気機関車は“デゴイチ”の愛称で親しまれ、同形式の機関車では日本最多の1115両も製造されました。

このD51形蒸気機関車 793号機は1942年(昭和17年)に製造され、東北・東海道・中央・北陸の各線で27年あまり活躍したのち、1970年(昭和45年)に引退しました。

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初秋の北國街道長浜宿


琵琶湖の北東岸を北上し、余呉湖の北の柳ヶ瀬、県境の栃ノ木峠をへて北ノ圧に通じる北国街道は、かつて北陸と京阪神を結ぶ重要な街道でした。

多くの商人、旅人、武将らが頻繁に利用、長浜はその宿駅として、また湖上交通の要として栄えた町です。

北国街道を北へ進みます。

日本庭園の古翆園や北大路魯山人が手がけた小蘭亭がある北国街道安藤家(左)前。

安藤家は、室町時代からこの長浜に移り住んだ旧家で、賤ヶ岳合戦(1583年)では秀吉に協力した。

秀吉は町衆の中から長浜の自治を委ねる「十人衆」を選び、安藤家はそ の十人衆として町衆文化の一翼を担い、江戸期には十人衆の中から選ばれる三年寄の一家として、長浜町の発展に力を尽くし活躍しました。

北前船のカワモト(右)。
30まである黒壁○號館以外も歴史的な町並みに景観整備されているようです。

西側のアーケード入口には長浜曳山祭りの歌舞伎連獅子をテーマにした華麗な彫刻があります。

右は黒壁スクエアの中心的存在・黒壁ガラス館(黒壁1號館)。

黒壁ガラス館では世界のガラス作品約3万点を展示販売。

明治33年建築の国立第百三十銀行長浜支店だった建物で壁が黒く、当時の愛称は黒壁銀行。

付近一帯は黒壁スクエアという名称で近年観光地化され、町おこしの成功例といわれます。

1階ステンドガラス館・2階太閤ひょうたん(黒壁11・12號館)。

長浜旧開知学校

駅前通り沿いに建つ木造3階建、八角塔屋付の擬洋風建築。

外装モルタル塗、腰石積、隅石付。

正面入口とその上部に列柱式開口部を構え、壁面に上げ下げ窓と花形レリーフを均等に配す。

学校施設として利用された後、近年改修され,現在展示・会議室として活用。

街道沿いには今も、港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。

廃業となってまちづくり役場として再利用されている土田金物店。

ホームセンターが多いからか、最近はこういう金物店もあまり見なくなりました。

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