「働く女性の守り本尊」 同聚院


1444年に文渓元作禅師(東福第160世)が、その師、琴江令薫禅師(東福第129世)を開山として創建した臨済宗大本山東福寺の塔頭寺院。

藤原忠平建立の天台宗法性寺の伽藍に藤原道長によって造営された、五大堂の丈六不動明王を本尊としている。

後に五大堂は兵火によって消失したが、唯一火災から逃れたを不動明王を安置するために1280年東福寺開山の聖一国師によって再建された。

同聚院はその五大堂を本堂とする形で建立されているため「五大堂同聚院」とも呼ばれる。

現在の五大堂は1714年(正徳4年)の再興を経たものである。
境内にはモルガンお雪の墓がある。

「働く女性の守り本尊」不動明王

かつてある女御が牛車で法性寺を訪れた際、特に大事な琴の爪を失くしたと言って道長公に所在を求めました。

不動明王の霊験を聞いていた道長公は潜心に黙祷して「もし見つけることが出来たならお堂を建立して報恩し奉ります。」

と請願したところ、三ノ橋(現在の同聚院北西あたり)付近にてこれを得て、大いに歓喜して献上したと伝わります。

そうして建立したのが同聚院の五大堂であり、不動明王は当時の女御・更衣などの身分の高い女官からも絶大な信仰を得たと言われ、特に芸事上達を祈願することも多かったと言われます。

近代においては、祇園の芸妓で胡弓の名手として知られた日本のシンデレラ・モルガンお雪さんの信仰を縁として、全国の女性から「働く女性の守り本尊」としてあつく信仰されています。

同聚院 HPより

日本のシンデレラ「モルガンお雪」

女性が国際社会に進出した明治期、世界に日本女性の存在を知らしめた一人に「モルガンお雪」(加藤ゆき:1881年8月7日~1963年5月18日、81歳没)がいました。

彼女は世界三大財閥であるモルガン一族に嫁ぎ、日本のシンデレラとして日本に限らず世界中の話題を集めた祇園の芸妓でした。

晩年、亡くなった夫を追ってカトリックに改宗しましたが、親族の希望で同聚院に分骨され現在も当山にて供養されています。

悲劇の幼帝安徳帝内裏跡伝説地
それは山陽電鉄のガードをくぐり歩きづらい急な坂道を登りきったところにある。 東西 … 続きを読む →

モルガン灯籠
この一対の灯籠は、モルガンユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚をした人)がこの辺りが異人山と呼ばれた頃この東に住んでいた。

近代においてはモルガン財閥に嫁いだ日本のシンデレラ、モルガンお雪がこの不動明王を信仰していたことから、現在では「働く女性の守本尊」として多くの女性から信仰されており、境内にはモルガンお雪の3回忌の際にフランスから贈られた新種の白バラ「ユキサン」が今もなお花を咲かせている。

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わらべ地蔵に癒される 霊源院


いまから約650年ほど遡る室町時代は観応年間(1350年頃)。
後醍醐天皇の皇子である龍泉和尚によって創建されたお寺です。

25もある東福寺塔頭寺院のひとつ。

応永年間(1400年頃)在先希護和尚により現代に続く寺名霊源院と改修され、現在にいたります。

外からも見えている6体のお地蔵さんの表情はにこやかですね。

この笑顔に思わずにっこり。

アングルを変えてもう一枚。

水子供養の寺として知られる。

地蔵菩薩は、手を合わせた者の身代わりとなって地獄の苦しみから救うだけでなく、死者が生まれ変わる六つの世界すべてを巡って救済を行うと考えられています。

壱岐の「はらほげ地蔵」は有名ですね。
満潮になると胸まで浸かるお地蔵さん はらほげ地蔵
六地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)において衆生の苦患を救うという六 … 続きを読む →


静かに微笑んでいたり、穏やかな表情に癒やされます。

三千院のわらべ地蔵は何度撮っても新鮮です。

童地蔵がかわいい三千院
三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788年)、比叡山延暦 … 続きを読む →


愛宕念仏寺にはユニークなお地蔵さんが揃っていますね。

愛宕念仏寺
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)は京都府京都市右京区の嵯峨野にある天台宗の仏教寺院 … 続きを読む →


ネコの置物が可愛い。

あまりにかわいいので思わず何枚も撮ってしまいました。
ありがとう。

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小町伝説の残る 退耕庵


退耕庵は、京都市東山区にある臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の塔頭。

本尊は千手観音。小野小町ゆかりの寺として知られる。

慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。

応仁の乱による戦火で荒廃したが、1599年(慶長4年)、安国寺恵瓊(第十一世)によって再興されている。

豊臣秀吉亡き後、客殿の茶室では、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが関ヶ原の戦いの謀議を行ったという。

関ヶ原の戦では西軍敗北に伴い六条河原で斬首になる。

地蔵堂に安置する高さ約2メートルの地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。

町堂の前には、小野小町百歳井戸という井戸もあります。

この井戸の水面に年老いた自分の顔を映したのでしょうか。

謎の女小町は各地にゆかりの地と称するものがある。

ライバルを救った小町の慈悲心「草子洗小町」
小町零落説の背景には、あまたの貴公子を虜にした小町に対しての男性諸氏のひがみ根性 … 続きを読む →

はねず踊り 小野小町ゆかりの 隨心院
ちょうどはねず(うすべに色)の梅が咲くころ、小野小町を偲ぶ土地の童唄と踊りが、隨 … 続きを読む →

美醜の魔界を詠んだ謎の女流歌人小野小町
隨心院が所在する小野は小野氏の一族が栄えたところである。 宮中で仁明天皇に仕え歌 … 続きを読む →

深草少将の百夜通いの話はあまりにも有名です。
関寺の牛塔
長安寺の前の名称は関寺。 関寺は、創建年代は不明であるが、逢坂の関の近くにあった … 続きを読む →

埋もれ百体地蔵の奥には、小野小町の供養塔がある。
謡曲の「関寺小町」が晩年の小野小町を歌っている縁で、置かれたのだろう。

小野神社 小野氏発祥の地
滋賀を訪れた折、全国の小野一族の祖を祀るといわれる小野神社を訪れた。 関連記事: … 続きを読む →

境内の一隅に康永4年(1345)の石像宝塔が建つ。
小野小町の供養塔と伝えられている。
小野小町は小野篁の孫にあたる。
六道珍皇寺 冥途通いの井戸
京都における平家の最初の拠点。 清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれ … 続きを読む →

篁と式部、この二人の墓所は堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所の傍らにあります。
京都の紫野(むらさきの)と呼ばれる場所です。

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京の町屋歩き


差し込む斜光が美しい。

彫刻「明澄」

この像は、昭和35年5月 七条警察署庁舎落成を記念し、明るい社会の建設を念願して建立されたもので、希望と平和を念願して、「明澄」と命名された。

従来は、左側には近鉄京都百貨店があったが、2007年2月に閉店になり、解体されました。

今はヨドバシカメラの中にある。

えらいところに大国さんが・・・・・

正式名称は真宗本廟。

東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)の東に位置することに由来している。
愛称は「お東」「お東さん」。

この辺りは仏具関係の店が多い。


渉成園(しょうせいえん)は、京都府京都市下京区にある真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)の飛地境内地。

名称は、中国六朝時代の詩人陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなむ。

また、周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。

「源氏物語ゆかりの地・枳殻邸(渉成園)」
渉成園は東本願寺の飛地境内地(別邸)です。 1602(慶長7)年教如上人が徳川家 … 続きを読む →


高瀬川は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河。

開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。

名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる。

薫風に吹かれ木屋町を高瀬川に沿って歩く
木屋町は京都の歴史や風情を感じる街た。 多くの歴史遺産を残しながら現代が息づくそ … 続きを読む →


源融 河原院跡

源融は、塩焼きが好きだったようで、陸奥の塩竃の風景を模した池を邸宅内に造り、毎月、難波の海から海水を運ばせて塩焼きを楽しんだと言われています。

河原町の由来は、源融の河原院からと伝えられています。

幽霊屋敷 河原院跡
源氏物語「夕顔の巻」は圧巻である。 源氏は五条辺りに住む夕顔と恋におち、「某の院 … 続きを読む →


大田垣蓮月の歌碑

風化が激しく読み取れない部分は想像で・・・・

あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花

京都生まれの江戸時代後期の女流歌人です。

夫と子供の死をきっかけに、出家しました。
そして、「蓮月」と名乗ります。

悲運の歌人 屋越の蓮月こと 大田垣蓮月
時代祭の江戸女人行列で有名な大田垣蓮月だが、その悲劇的な人生は意外と知られていな … 続きを読む →


遠くの山には雪が残る。

みなとや幽霊子育飴本舗

女の幽霊が飴を買いに来たという伝説が残されている。

みなとや幽霊子育飴本舗、西福寺の逸話が紹介されている。
六道珍皇寺 冥途通いの井戸
京都における平家の最初の拠点。 清盛の祖父が寺領を借り受け、邸宅を建てたといわれ … 続きを読む →


鳥辺野の入り口、六堂の辻に建つ西福寺。

嵯峨天皇の皇后がしばしばご参詣され、皇子の正良親王病気の際、この地蔵尊に祈願したところ、無事平癒し、後に仁明天皇(在位833-850)として即位された。

以来、地蔵尊は「子育て地蔵」と呼ばれ、世の多くの人々に信仰されるようになった。

六波羅蜜寺

創建年は定かではないが、平安時代の歴史書である『扶桑略記』によれば、踊り念仏で知られる市聖(いちのひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した[1]という。

十一面観音立像

当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。

本像はわらじ履きで歩く空也の姿を表している。

疫病が蔓延していた京の街中を、空也が鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也は首から鉦を下げ、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)、左手には鹿の角のついた杖をもっている。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

宮川筋二丁目から六丁目までが花街。

出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。

その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。

明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。

京都で「ろーじ」と呼ばれる「路地」は、行き止まりの細い道のこと。

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東福寺 方丈庭園 八相の庭


方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。

当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称でしたが、2014年に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園(方丈)」となりました。

南庭

方丈の南側であるが、ここでは日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。

蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現している。

西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。

この西庭の意匠は、北庭と同様に、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。

北庭

勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用してできあがったのが北庭の小市松模様の庭園である。

まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法である。

東庭の表しているものは星座の「北斗七星」である。

それを円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。

北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。

東福寺本坊庭園(方丈)は、明治十四年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失しましたが、明治二三年(1890年)に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮しています。

内部は、三室二列の六室とし、南面に広縁を設けています。

中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸としています。

広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称しておりました。

禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきましたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園(方丈)のみです。

作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和十四年(1939年)に完成されたもので、当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として、広く世界各国に紹介されています。


三ノ橋川の上流に架かる木造橋廊。

1603年の建築で、単層切妻造の屋根は桟瓦葺き。通天・臥雲橋とともに東福寺三名橋と呼ばれている。

臥雲橋から通天橋を見る。


途中でかわいい6体の地蔵を見つけました、これから京都駅へ向かいます。

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雪の東福寺通天橋


鳥羽街道から東福寺へ向かう。

平安京造営にあたり、平安京の玄関口である羅城門(羅生門)から真っ直ぐ南下していた計画道路である鳥羽作り道(とばつくりみち)に端を発する。

なお、この鳥羽作り道の久我森ノ宮から山崎へ南西方向に直線的に進んでいた道が久我畷(こがなわて)である。

鳥羽作り道は桂川河畔の草津湊を経て、巨椋池岸の納所(のうそ)へとつながっており、水上交通との接点となっていた。ここが納所と呼ばれるのは、平安京へ運ぶ物資の倉庫であったことに由来すると言われる。

また、鴨川と桂川に隣接している。

これらの河道が大きく変化したことによって、最初は直線であった道も時代が経つにつれて次第に蛇行するようになった。

南大門(京都府指定有形文化財)

三門(国宝) – 応永32年(1425年)に足利義持が再建し、現存する禅寺の三門としては日本最古のものである。

上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する折衷様の五間三戸二重門である。

三門は、空門、無想門、無作門(むさもん)の三解脱門の略で、涅槃に達するために通らなければならない門とされています。

大屋根の4隅には角柱がありますが、これは天正13年(1585年)に豊臣秀吉が三門の傷みを大修理した際に補足した柱で、通称「太閤柱」と呼ばれています。

三門の南側には、思遠池(しおんち)という池があり、夏になるとハスがたくさんの花を咲かせます。

昨夜来のうす雪が積もりまたとない景観を醸している。

東司(とうす、重要文化財) – 室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司(便所)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから百雪隠(ひゃくせっちん)とも呼ばれる。

内部は中央通路をはさんで左右両側に円筒の壺を埋める。

禅堂(重要文化財) – 貞和3年(1347年)再建。

豪壮な姿に往時の隆盛がしのばれる単層・裳階(もこし)付切妻造の建物で、中世期より現存する最大最古の禅堂。

経蔵 – 寛政6年(1794年)再建。

通天橋 – 仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。

1959年(昭和34年)台風で崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。

一面の紅葉も見事だろうが、雪景色もなかなかのもの、枯山水を見ているようだ。 

前方に見えるのは臥雲橋、橋脚から屋根まで木造りの臥雲橋は生活道路でもあるが、この橋から通天橋を眺める景色はCMなどでもお馴染み。

東福寺の通天橋は、東山から流れ出る三ノ橋川に架かる橋。

普段はちょろちょろしか水は流れていませんが、通天橋や臥雲橋から下をのぞき込むとわかる通り、川が流れています。

この三ノ橋川は、伏見稲荷大社のある稲荷山(233m)の北麓に源を発し、東福寺境内を横断し、琵琶湖疏水(鴨川運河)の下をくぐり抜けて鴨川へと流れ込んでいます。

小さな川ながら、東福寺境内では高低差10mほどの深い渓谷を刻みながら西へと流れています。

青空と木々の緑の中で愛らしくも感じる朱色の杮葺き八角円堂「愛染堂」が佇んでいる。

愛染明王を祭る愛染堂は縁結びにも御利益があるといわれている。

大きな門までたどり着くと、上部に楼閣が張り出しているのが特徴的な開山堂(別名 常楽庵)が正面に見える。

聖一国師が祀られるのが、通天橋の先にある「常楽庵(じょうらくあん)」。

門を入ると、眼前に開山堂があり、その左右には、「枯山水」と池を配した「鑑賞式」、二つの庭が広がります。

角度によって別の顔がのぞめる、不思議なお庭です。

右は、普門院 – 文政9年(1826年)再建。
現在工事中。

客殿(重要文化財)と庫裏(重要文化財)からなる。

かつて京都十刹の一つに数えられていた名刹普門寺の名残を残している。

青空に月が覗き、屋根の雪とともに見事。

墓地への小径、一部壁が崩落して風格を見せる。

三ノ橋川には、上流から「東福寺三名橋」ともいわれる偃月橋(えんげつきょう)、通天橋、臥雲橋の3つの橋がかかっており、通天橋は真ん中の橋。

1380年(天授6年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは:普明国師)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。

南宋径山(きんざん)の橋を模したもので「通天」と名付けられた。

現在の通天橋は、1959年(昭和34年)に台風で倒壊した後、1961年(昭和36年)に再建されたもの。

黄金色に染まる三ツ葉楓は開山の聖一国師が宋から伝えた唐楓といわれている。

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嵐山花灯路は今年で終わりというが・・・


浄住寺から嵐山へ帰ってきましたが、打って変わってこちらはモノクロの世界。

この画像を撮ったのは12月14日、花灯路が19日で終わりますが、人出はほとんどありません。


完全にモノクロの世界なので、当然と言えば当然ですが・・・・


法輪寺境内には当然と言えば当然ですが誰もいません。

渡月橋を見渡していますがモノクロの世界が広がるのみ。

花灯路も今年で終わりだという、京都市の財政難や新型コロナウイルス禍による企業協賛金の減少のため、17回目の今季での終了を決めた。

要するに人出はあるが、行事としては黒字にならないということだろう。

最終日に行こうかどうか迷ったが結局行かず。

人気の行事だったが事業として成り立たなければ仕方がない。

何度か出かけたが・・・

嵐山花灯路2016
「長神の杜」として、憩いの公園になっている。 「長神」(ちょうじん)は、このあた … 続きを読む →

来年度以降、嵐矢がどう盛り返すか楽しみにしたい。

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紅葉の穴場 浄住寺


近年まで完全非公開だったが、2015年4月25日、精浄文化研究部主催の企画以来、公開される機会が増加した。

~洛西の黄檗建築と紅葉の参道~

苔寺や鈴虫寺、地蔵院「竹の寺」に程近く、参道石段の紅葉が美しい葉室山浄住寺は、弘仁元年(810)、嵯峨天皇の勅願寺として開創され、公家の葉室家の菩提寺として栄えた古刹。

近年は秋の紅葉シーズン(11月~12月)の一部期間を有料の特別拝観期間とされており、本堂や方丈の内部が解放されます。

上記以外の期間は、山門が開いていれば境内を無料で自由に拝観できます。

長い参道を落ち葉を踏みしめながら進みます、前方にわずかに見えているのが本堂です。

流石に見頃は過ぎていますが参道の散りモミジはきれいです。

このように日光が遮られている分、紅葉は遅れます。

それでもあちこちまだまだ紅葉が見れます。

四方竹は中国が原産とされる竹の一種で、茎の断面が丸みを帯びた四角になる事からその名が付けられたと思われます。

このたけのこは秋から冬にかけて生えてくる季節外れのタケノコで、冬の間は葉を広げず春になって気温が上がると枝を伸ばし葉を茂らせます。

紅い紅葉が目立っています。

地べたに座り込んで作業されています、手元を見ると非常に細かな作業をされていました、思わず大変な作業ですねと声をかけてしまいました。

後ろを振り返ると歩んできた参道、まだ観光客の姿は見えません。

きれいな散りモミジに視線が向いてしまいます。

寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願寺として創建されたといい、円仁(慈覚大師)を開山とする。

当時は常住寺と号した。

1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し、浄住寺と改められた。

中興開山は奈良西大寺の叡尊。葉室家の菩提寺として栄えた。

1333年(正慶2年)4月の六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍の戦乱により全焼した。

1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)の応仁の乱の兵火で荒廃し、1567年(永禄10年)にも全焼した。

1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院となった。

1689年(元禄2年)葉室孝重による再興という説もある。

1697年(元禄10年)に現在の本堂や寿塔が再建された。

方丈は伊達綱村による寄進で、幼少時の遺館。 明治時代には一時無住となり衰微したが復興された。

2006年(平成18年)に1333年(正慶2年)2月作成の浄住寺境内絵図が、 2007年(平成19年)には1591年(天正19年)8月2日付豊臣秀吉寺領安堵状ほか4点の中世文書が発見された。

2010年(平成22年)開山鉄牛道機遺掲の石碑が境内に建立された。

中世、栂尾等に並び、葉室の茶は評価が高かった。

[2]宇治橋修繕と十三重石塔建立に伴う、宇治茶の振興をすすめた叡尊の影響による。

境内には今でも数多くの茶ノ木が生育している。浄住寺の檀那である葉室家主導のもと、寺院関係者による茶摘みが毎年5月上旬に行われ、瑞芳菴流煎茶道関係者によって度々振る舞われている。

方丈襖絵には八田虎州筆『琴棋書画図』が飾られているが、その中には煎茶を喫する様子も描かれている。

また、方丈を寄進した仙台藩主伊達綱村は、交友関係から煎茶を嗜んでいた[5]。

そもそも、日本に煎茶の文化を持ち込んだのは黄檗禅であり、浄住寺と茶は深い関係にある。

瑞芳菴流煎茶道の第三世・大田和博仙家元は、この浄住寺で修行していたこともあり、そのため毎月瑞芳菴流煎茶道の教室が開かれたり、呈茶を担ったりしている。

参道の脇道には、亀甲竹(きっこうちく)と呼ばれる竹が自生していました。

その名の通り節の模様が亀の甲羅のような形をしている面白い竹で、日本で良く見られる孟宗竹(もうそうちく)の突然変異種なんだそうです。

京都では京銘竹(きょうめいちく)と言う伝統工芸品があり、この亀甲竹を火であぶって磨いたものは特に高級な竹材として珍重されているんだとか。

浄住寺のある洛西は竹の産地です。

時代劇水戸黄門の杖にも使われた亀甲竹、四角い形の四方竹が見られます。

どこか人の顔に似てませんか。

参道の突き当りにある建物が、本堂(ほんどう)です。

江戸時代の1697年の再建で、京都市指定・登録文化財です。

本堂の扁額には大きな「祝國」の文字が見て取れました。

このお寺の黄檗宗としての中興の祖である鉄牛道機(てつぎゅうどうき)の筆なんだとか。

中国ゆかりの禅の教えである黄檗宗らしく、本堂の外観はどことなく中国風の雰囲気を醸し出していました。

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知る人ぞ知る紅葉の穴場 竹の寺 地蔵院


松尾寺から歩いたが西芳寺川を渡るあたりの紅葉はきれいだ、(今回は時期を逸したが)、松尾寺から約17分、松尾山に沿って歩けばいい。

途中で会った猫、メンチ切っているように見えるが。

現地到着と同時にサルの大群の出迎えを受ける。

見上げると沢山のサル、うるさいくらい飛び回っている。

バス停横の日の射す坂道を上がって、しばらくで地蔵院着。

地蔵院は、臨済宗系の単立寺院。

山号は衣笠(藤原)家良に由来する衣笠山。

本尊は地蔵菩薩。周囲を竹林で囲まれていることから竹の寺の通称で知られる。

境内に踏み込むと竹林のきれいさに驚く。

嵐山の竹林とはまた一味違う美しさ。

ちなみにモミジが赤く色づくためには、日の光が不可欠なのですが、こちらのお寺は、あまりの木々の多さにモミジにあまり日光が当たらず、紅葉の時期が遅いだけでなく、濃いオレンジ色のまま散る葉が多いのも特徴。黄色いモミジも乙なものです。

この場所は、もともと衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良が山荘を営んでいたところで、寺は1368年(応安元年)、室町幕府管領を務めた武将の細川頼之が尼僧妙性から土地を買取り、寄進したことにによって創建された。

細川頼之は碧潭周皎(へきたんしゅうこう、宗鏡禅師)に帰依して出家した。

当寺の実質的な開山は碧潭周皎であるが、碧潭は法兄である夢窓疎石を勧請開山としている。

南北朝時代には勅願寺となって寺運も興隆したが、応仁の乱の兵火により伽藍を焼失し寺運も衰えた。

江戸時代までは境内にわずか2つの末寺が残っているだけだったが、1686年(貞享3年)方丈が復興し、寺観が整備された。
江戸期には天龍寺に属した。

もとは臨済宗に属していたが、1968年(昭和43年)に独立して単立寺院となっている。

地蔵堂(本堂)内には、伝教大師の作と言われる本尊・延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像が安置されています。

現在の本堂(地蔵堂)は昭和10年(1935年)の再建です。

なお、一休宗純は6歳で出家するまで母と共にこの寺で過ごしたと伝えられており、2017年には「一休禅師母子像」が境内に建立されている。

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一休さん誕生秘話

南朝と北朝に分かれていた朝廷が、地蔵院開基でもある細川頼之の尽力で、ようやく北朝に統一されて間もない頃。

一休の母は、北朝 後小松天皇の寵愛をうけ身籠りますが、南朝の高官の血筋だったため、帝のお命を狙っていると讒言され御所を去ります。

そして細川頼之の奥方の御縁を頼り、地蔵院に隠れ、明徳5年(1394年)寺領地内の民家でひっそりと御子を出産し育てました。

千菊丸と名付けられた御子は6歳で安国寺に入門。

千菊丸の命を守るためには俗世から離れた僧侶が一番と考えられたのでしょう。

千菊丸が後の一休宗純禅師です。

本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。

地蔵堂のあたりが最もきれいです。

この時期にこの色づき、さすが穴場。

右が地蔵堂。

この辺りの苔と散りモミジがとてもきれいです。

これから方丈へ行きますが道の両側は苔と散りモミジ・・・

地蔵堂から方丈へ続く道、両側の苔がとてもきれいです。

屋根の上の散りモミジ朝日を受けて真っ赤です。



五葉の松が美しい。

今時間は10時、この時間でまだほとんど陽が届いてない状態、これが紅葉を遅らせている最大の理由。

ちなみに帰りに嵐山に寄ったのですが紅葉は終わり、もう冬景色です。

観光客もまばらでした。

十六羅漢の庭

方丈前に「一六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園があります。作庭は地蔵院第二世住職 宗鏡禅師で、開基 細川頼之のお気に入りだったと伝わります。

平庭式とは築山などの起伏のない平らな庭のことで、枯山水は石や砂を用いて水を表現する形式です。

地蔵院の庭は木々が多く、砂ではなく苔で覆われています。

そして、点在する自然石で表現されているのは羅漢さんです。

地蔵院の羅漢様方は修行中で、悟りを開くまであと一息「どうぞ仏になれますように」と石清水八幡宮に願をかけておられる姿だと伝えられています。

そのため、八幡宮の方角(地蔵院から見ると南東)に少しずつお身体を向けていらっしゃるそうです。

薄暗い庭園に紅一点。

苔の上の散りモミジに木の実が混じる。

わずかに届く斜光に輝く苔と散りモミジ。


紅葉を十分堪能し、出口に向かう、観光客がちらほら見えています。

ただ今10時30分、これから浄住寺へ向かいます。

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月読神社


月読神社(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、式内社(名神大社)で、現在は松尾大社摂社。

「松尾七社」の一社。松尾大社の南400メートルの地に鎮座する。

一般にツクヨミ(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の兄弟神として知られるが、月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている。

『日本書紀』顕宗天皇3年2月条における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある。

また『先代旧事本紀』では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える。

これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される。

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また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある[3]。

月読神社には、世俗の垢を落とすという「解穢の水」と呼ばれる名水がある。

穢(わいは、穢れ(けがれ))を意味するものであり、解穢とは、穢れを解かすということから、この水は世俗の垢を流し、自己の内にある穢れを除いてくれるのだと云う。

松尾の山からここまで流れきて、その昔はこの水も飲めたようであるが、今は飲用には適さないとある。

「願掛け陰陽石」は、左右の2つの石を撫でて願い事をすると願い事が叶うといわれています。

聖徳太子社 – 祭神:聖徳太子。

月読尊を崇敬した太子の霊を祀ったものという。

この月読神社に関わる人物として神功皇后がいる。

身重だった神功皇后は月神の託宣を受けて、神石をもって腹を撫で、 無事に男児(後の応神天皇)をお産みになったという。

その石がこの月読神社にある。
その名も月延石。

神功皇后の伝説と、“月のもの”が延びるという名前から、安産のご利益があるとされている。

昭和の頃の写真を見ると月延石は3つあったのだが、現在はいつの間にか1つだけになってしまっている。

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