夜明けの街 住吉大社


社務所に夜明けの太陽が降り注ぐ。

神々しいばかりの陽が射しています。

ただ今5時半、開門は6時、まだ少し時間がある。

この時間帯の斜光は非常に強い。

前方は神館、この時間帯も熱心な信者さんの参拝が続く。

開門です、第二本宮の屋根越しに夜明けの陽が注ぐ。

梅雨の谷間の爽やかな夜明けです。

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日の出 住吉大社


光が心地よい朝の住吉大社。

梅雨も一休み、青空が広がっています。

第三本宮と第四本宮の間にさす光が好きです。

今6時20分、空に気持ちよさそうな雲が浮かんでいます。

奥に進んでみます。

光が射し込み厳かな雰囲気が広がります。

御文庫(おぶんこ)施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだった。

奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

侍者社(おもとしゃ)

初代神主田裳見宿禰を顕彰して、住吉大神の最も御傍にて祀ることから、侍者(おもと)と称したのではないかとされています。

近年では「神と人」を結ぶ、仲執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されています。


楠君社に来ました、光が強烈です。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

五所御前、多くのインバウンドであふれていましたが今はひっそりとしています。

この『五所御前』は約1800年前に住吉大神鎮座の際、最初にお祀りされた場所と伝えられる神聖な場所です。

体力・智力・財力・福力・寿力が授かるといわれており、御守にして持つと心願成就という。

参拝者が水をジャバジャバかけていきました、水に濡れるといい感じです。


丹後局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました、後の島津氏初代・島津三郎忠久公である。

正面から見たところ、薩摩藩士の燈籠が並び島津家代々の信仰と藩士の忠義を遺す石燈籠です。

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消えた花街の記憶をたどって


細井川に架かる何の変哲もない橋だが・・・・

季刊誌「大阪春秋」平成23年春号 すみよし ~住吉大社1800年の「住吉大社に花を添えた住吉新地 消えた花街の記憶をたどって」という記事によるといわくがありそうだ。

江川橋

新町の粋人・江川兵次郎さんにに尋ねますと、「いやー、実はこの橋は私のおじいちゃんが架けた橋なんです。

新町で瓢箪家という雀鮓をやってたんですが、実は住吉新地にコレがおりまして・・・・」にこっと笑って、左の小指をつっと差し出して、「好きな芸妓にはよ会いたい云うて架けましたんや」。

聞けば、かみさんの目を盗んで店を抜けだし南海電車で住吉公園まで、細井川に橋が無く、公園を通って高燈籠のほうから国道16号線(現在の国道26号線)の大正橋を回って行くのが「もうたまらん!」と、自分で金を出して木橋をかけたのが「江川橋」。

言われて同じ道を歩いてみたのですが、たった3分の違い。

兵次郎さんによると、「たかが」と「されど」の違い、それは「粋」と「無粋」の分かれ目でした。

萬目地蔵さん

国道26号線、住吉公園を南に行くとすぐ陸橋があり、その東詰めに立派な石碑とまだ新しい祠があります。

「浜口萬目地蔵尊の碑」です。

「真志目(まじめ)なら願いも叶ふ 地蔵尊」と大書され、「大阪新町雀鮓本家 江川瓢雀」、その左に、「同加代」、と有ります。

もうお分かりのように、全てが「粋」で通されているのには訳があります。

そうこの碑も実は、粋人の祖父・江川兵蔵四が建てたもので、実は江川橋の袂に有ったものを移築、平成12年、地蔵盆供養としてお化粧直ししたものなんです。

その意味とは、

一 萬目地蔵とは、本来住吉浦の波間から出現したありがたい地蔵菩薩なんですが、真面目なら願いも叶うと小さな「志」の字を加えています。

二 瓢雀とは、瓢箪家の雀鮓の略で、兵蔵氏の号ですが、その左の加代とは? かみさんの名はツチのはずですが・・・・

半世紀にわたり、府内全域の歴史や文化、産業を特集してきた季刊誌「大阪春秋」が4月の182号をもって休刊するという。

貴重な雑誌でしたが残念。

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夕日の街


住吉大社は海に向かって開いている、大鳥居の向こうを南海電車が走っており、その向こうは海だ。。

振り返ると大社の門は閉じている。

朝晩が早いのだ、4~9月 6:00~17:00 10~3月 6:30~17:00 です。

参道を夕日が照らす。

夕日に染まった反橋。

もう少しバック、南海電車や阪堺電鉄の駅から住吉大社に向かうと、まず目に入るのが、大きな西大鳥居、これを一の鳥居といい、神域の入り口、向こうに反橋が見える。。

そしてここが汐掛道、住吉大社の旧表参道の汐掛道は、海岸に上陸した海神が通った道で、出見の浜〜住吉高灯籠〜住吉公園〜住友燈籠〜表参道鳥居〜反り橋〜住吉大社本宮と一直線に連なっています。

汐掛道 | きままな旅人
付近一帯は住吉公園、元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。

公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。

付近一帯は住吉公園、住吉公園は、現在は市民公園で、花壇や池、遊戯施設、コートなどが並ぶ。

住吉公園 気ままな旅人

国道26号に面した所に立つ高灯篭は、住吉大社の灯篭で、鎌倉時代創建の日本最古の灯台とされる。現在の高灯篭は1974年に場所を移して復元されたものであり、元は200メートルほど西方にあった。2005年(平成17年)に内部を改装し、史料館となっている。一般開放は毎月第1・第3日曜の10時~16時。

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。

この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

汐掛道顕彰碑、夕日に染まります。

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朝の街 住吉大社界隈


高燈篭より二百メートルほど西の民家前(住之江区浜口西1)に「住吉高灯籠跡」の碑が立っています。

早朝 住吉大社
夜明けの住吉公園。 この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当 … 続きを読む →

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ・・・・

剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。

宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。

住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。

船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたという。

大阪最古の公園である住吉公園に昭和8年ラジオ塔が建設されました。

エンタツ・アチャコの漫才や甲子園の中学対抗野球等が流されて、市民の憩いの場になっていたようです。 

しかし60年の風雪に耐えたラジオ塔も損傷激しく、住吉公園開設120年を記念して、平成5年10月24日ラジオ塔を新しく建て替えました。

今は一般の放送は流れていませんが、多くの人が早朝からラジオ体操に参加され愛用されています。

古来住吉は松で有名です。

住吉公園に多くの松がありますがかなりの老木も目立ちます。

阪堺電車住吉鳥居前無停留所、この先前方左へ大きくカーブします。

井原西鶴句碑

貞享元(1684)年6月には、和歌の神様が祀られている住吉神社の境内で、一昼夜ぶっとおしで2万3500句もの俳句を詠み散らかしたという記録を打ち立てています。

西鶴は死に様も元禄六(1693)年8月10日に、大坂・鑓屋町(やりやちょう)の自宅で病のためになくなったということしかわからない。

死因は結核だったと伝えられます。
享年52歳でした。

彼の最後の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」は、「人生は50年といわれているのに、2年も多く生きることが出来た。その二年ぶん、浮世の空にうかぶ月を眺められた幸せよ」とでも訳しておきましょうかね。

井原西鶴といえば江戸の文豪、今風にいえば小説家の走りのような人のイメージがあります。

しかし、彼と文学の出会いは俳句でした。
ただ、井原西鶴の俳句は数が勝負の一発芸。

松尾芭蕉のように一句、一句の言葉を磨き抜いて表現するのではなく、パフォーマンスでした。

天王寺7坂めぐり ⑦真言坂
生國神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が、明治の廃仏廃仏毀釈まで神 … 続きを読む →

生玉神社といえば井原西鶴。

浮世草紙(小説、好色一代男とか)を書く前は俳諧師(俳句読み)だったらしく・・・・

住吉大社文華館

住吉大社には、国宝建造物である住吉四本殿や重要な文化財建造物の他にも重要文化財指定の住吉大社神代記、舞楽面、太刀を始め、古文書類、舞楽装束等の貴重な宝物類が点在して格納され、保存施設設備も十分ではありませんでした。

これら貴重な文化財を火災、破損、散逸等から守るため、一堂に収納保管し、また一般にも公開する等我々祖先が残した大切な遺産を永く後世に継承するため昭和52年5月住吉大社境内地に住吉文華館を建設しました。

御文庫(おぶんこ)は境内後方の神苑隅に南面して建っています。

書物を収めるために創建されたもので、施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだったとか。
奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

建物は寄棟造り本瓦葺きで、正面に扉がありその上部に唐破風の向拝を付け、2階両側面と1階片面に八角窓を開けています。

地域の文化活動を支えた同社の歴史を証する建物として国の登録有形文化財に指定された、土蔵造り2階建て。

種貸社(たねかししゃ)

元種を授ける神、初辰まいり1番参りで、「願いの種」を授かります。

ご祈祷した「お種銭(おたねせん)」を授かり、これを商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。

また、子宝祈願の崇敬も厚く、殿内にはお子様を授かった方が奉納した「種貸人形(たねかしにんぎょう)」が喜びの数だけございます。

ご利益:資金調達・子宝・知恵
祭神:倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

朝の神々しいばかりの光が降り注ぐ。

早朝は降り注ぐ光の中を歩きます。


反橋に降り注ぐ光。

神々しいばかりの光をあひて参拝。

参拝者もまばらでひっそりとしています。

花ザクロはザクロ科ザクロ属の落葉小高木。

実ザクロの園芸品種でふつう結実せず、八重ザクロの別名の通り花を楽しむために作られたものです。

いろいろな花芸があり、枝先に紅や白の覆輪や八重咲きなどがあります。

古い風情のある屋敷、気になる存在ですが扉は閉ざされたまま。

気になりながら通り過ぎるだけ。
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朝の街 住吉大社


朝の清々しい光の中、若い神職が拭き掃除をしている。

この時間帯人のまばらな境内は静寂が支配している。

五所御前は、住吉大神が降臨した聖地。

神功皇后は、この地の杉の木に白サギが3羽とまるのを見て、住吉大神を祀ることにしたのだという。
 
5月初卯の日には、卯之葉神事が執り行われる。

玉垣内の敷かれた砂利の中から「五」・「大」・「力」と書かれた石を見つけてお守りにすると心願成就の御利益が得られるという。 

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →



住吉大社の一寸法師伝説 | きままな旅人

一寸法師の話は室町時代に作られた「御伽草子(おとぎそうし)」の中にあるが、二人が願をかけた神社が大阪の住吉大社なのです。 話の最後は「住吉大社に誓いをたてれば、将来、必ず栄える」という内容の言葉で結ばれている。 住吉大社の …

現在、大海神社は住吉大社の「摂社」とされているが、もともとは「大海神社」の方が先に鎮座していたという。

というのも、住吉大社の祭主「津守氏」の氏神だからである。

『玉葉』承安4年(1174)12月6日条によれば、大海神社神殿は天仁・長承・仁平・承安とおよそ20年ごとに改築が行われたことが記されています。

本殿の神額、住吉鳥居の向こうに扉絵、扉絵は金箔張りで松と住之江を千石船が走る様子が描かれています。

海幸山幸の神話は、誰もが一度は聞いたことのある物語です。

「兄の海幸彦は海で漁をし、弟の山幸彦は山で狩猟をして暮らしていました。

ある日、兄弟は釣り針と弓矢を交換して海幸は山へ、山幸は海へ出かけましたが、弟は魚に釣り針をとられてしまい、代わりのものを作って返しましたが、兄は許してくれません。

途方にくれ山幸が海辺にたたずんでいると塩椎(しおつち)神が現れ、山幸を小船に乗せ海神(わたつみのかみ)の宮殿に行かせました。

そこで海神の娘豊玉毘売と出会い結ばれました。

幸せな3年間の生活が過ぎたころ、山幸彦はふと釣り針のことを思い出し、海神の助けを得て鯛の喉から釣り針を見つけ出し、ワニの背に乗って地上に帰りました。

そして海神に授けられた潮を操る霊力を持つ塩満(しおみつ)珠と塩乾(しおふる)珠の呪力によって兄を屈服させました。

異界に出かけてその世界の神の娘を妻とし、異界の呪物を手に入れて地上に戻り、兄を服属させるという展開は、九州南部に勢力を張り長く王権に従わなかった隼人(はやと)を海幸彦とし、それをヤマト朝廷側の山幸彦(=ホホデミノミコト)が屈服させる。

すなわちヤマト朝廷が隼人族を支配することの起源神話となっています。

『古事記』の神話はここで終わり、ホホデミノミコト(山幸彦)の孫、初代天皇の神武天皇が即位し、物語は神々の時代から人の時代へと移り、天皇家の歴史物語が始まります。

生根神社、祭神について『摂津名所図会』や『住吉名勝図会』では少彦名命とする一方、『神名帳考証』では活津彦根命とする説を挙げる。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国住吉郡に「生根神社大月次新嘗」として、式内大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。

文明14年(1482年)には境内に天満宮が祀られ、この天満宮が信仰を集めたため生根神社自体も「奥の天神」と通称されるようになっていた(「奥」は、住吉大社から見て大海神社のさらに奥に鎮座したことによる)。

慶長年間(1596年-1615年)頃には、現在の本殿が造営された。

江戸時代は住吉大社の摂社として推移しており、『住吉松葉大記』には摂末部に「奥天神社」として、住吉神宮寺の社僧が奉仕する旨とともに記されている。

明治維新後、明治5年(1872年)に住吉大社から分離独立のうえ、近代社格制度において郷社に列した。

また明治40-44年(1907-1911年)には近隣の塞神社2社(いずれも旧無格社)・竜王神社(旧無格社)・種貸神社(旧村社)が境内に移されている。

大阪市西成区に同名の生根神社がある。

創建時期は不詳であるが、一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。

また、それ以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。

当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、当地の名産であった小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念した塚。

江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名ななにわ野菜であった。

勝間商人によって、勝間街道を使って大坂まで行商された。中風除け、風邪除けとして冬至にはよく食べられたという。

当神社でも冬至に「こつまなんきん祭」として、蒸しかぼちゃを参拝者に振舞う「こつま南瓜蒸し」神事が行われる。

蒸しかぼちゃを食べ、中風除け・ボケ払い・無病息災を祈願する。
当日はなにわの伝統野菜から作った飴や、こつま南瓜が原料の焼酎も販売される。

石大鳥居再建の記 

石碑、元は慶応年間に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立した東大鳥居であったが、解体撤去され現在の地に住吉名所保存会によって再建された。

住吉大社の東の慈恩寺に、見事な桜の大樹が十数本ありました。

後醍醐天皇が住吉大社に行幸の折、慈恩寺の桜があまりにも見事であったので車を引き返らせたことから、慈恩寺の桜を『後醍醐天皇車返しの桜』と呼ぶようになりました。

この桜の花を偲んで、大阪市の『未来樹』に指定して戴き、住吉武道館前に植樹した。

浅澤社(初辰まいり巡拝社)

美容・芸能の神様

住吉の弁天さまともいわれ、芸能・美容の守護神として崇敬をあつめています。

特に女性の方からの信仰が篤く、住吉参詣の時にはここを訪れる慣わしがあります。

鎮座地は、古来「浅澤沼」があり、カキツバタの名所として万葉集にも詠まれています。

祭神
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)

浅沢神社の案内板によると、昔、ここらに清水が湧き、浅沢の池があり、そこに咲くカキツバタが有名になり、歌に詠まれていた。

昭和になり、池が涸れ、カキツバタに代えて花菖蒲が移植されたとのこと。

平成になり、近くの細江川の改修工事に合わせ、水脈を確保し、新たにカキツバタを植えたとのこと(財団法人住吉名勝保存会)。

大歳社(初辰まいり巡拝社)

収穫・集金の神様 大歳社

初辰まいりにて最後にお参りする神社で収穫の神様をお祀りする大変歴史のある古社です。

祭神
大歳神 (おおとしのかみ)

もとは五穀収穫の神として信仰されてきましたが、いつの頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として広く信仰されるようになりました。

また、大歳社境内に鎮座する、おいとしぼし社の「おもかる石」は願いを占う石として知られ、行列ができるほどの賑わいを見せています。

御田植神事は、神功皇后が211年住吉大社の鎮座に際して御供田に田植えをさせられたのに始まる歴史あるもので、明治維新の際に御田が民間に払い下げられ、御田植神事も廃絶しそうになったそうです。

その際に、大阪新町廓が御田を買い上げ住吉大社に寄進、それを機に新町廓の芸妓が、田植えを行う植女を奉仕するようになったそうです。
夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く
四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~ … 続きを読む →

そんな新町廓も現在はなくなり、今は財団法人上方文化芸能協会が引き継いでいるそうです。

住吉大社お田植え神事2013
社伝によれば、千七百六十余年の昔、神功皇后が大社を御鎮祭の後、長門国から植女を召 … 続きを読む →

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早朝 住吉大社


夜明けの住吉公園。
この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当時のまま残されている石橋。
心字池の景観上重要な石橋。

住の江は摂津の国の歌枕で今の大阪府の住吉大社の付近の海の入り江であった 住吉の津などとも呼ばれた

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ   
古今和歌集 藤原敏行

我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ              
古今和歌集 詠み人知れず

住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て           
藤原定家

まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱             
藤原定家

松と海岸が広がる美しい景色のことを「住吉模様」と呼びます。
実は住吉公園のあたりはかつて海岸線があり、松が植わった風光明媚な土地だったのです

住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期に枯れ始めたことを惜しんだ俳人たちが「松苗勧進」を行って献木を斡旋し、併せて俳句の献詠を募り「松苗集」として住吉御文庫に奉納した、ことに因むそうです。

この神事は緑化運動の先駆けともされています。

松苗神事は境内に松の苗を植樹し、献詠俳句の秀作を披露する神事です。

平安時代から伝承される、白拍子舞と熊野舞が奉納されます。

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →


住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る「潮掛け道」は大社の表参道でした。

汐掛道の記

ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。

松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。 古くから白砂青松の歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 

財団法人 住吉名勝保存会

霰松原
古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるよう … 続きを読む →

古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるように風が吹いていたので「霰松原」と呼ばれていた。

松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。

日本庭園部分です。
公園の中の源流部分。石材が豊富に使われています。

源氏物語の碑

真住吉(ますみよ)し 住吉の国」は 万葉の昔から数多くの和歌や文学作品にその名をとどめている

源氏物語 澪標(みおつくし)に描かれた 明石上(あかしのうえ)の悲しい恋もこの地が舞台である。 
船で訪れた明石上はなつかしい 光(ひかる)源氏の華やかな住吉詣に出合ったが 再会することなくそのまま帰る。

中世の住吉は王朝貴族の住吉詣が多く平安のみやびにつつまれていたこの碑はかかる王朝をしのび 歴史を振り返り 郷土を愛するためのよすがである。

昭和五十七年四月吉日
財団法人住吉名勝保存会 建之

住吉公園駅は大正2年に開業。

南海電鉄の住吉大社駅に隣接している。
阪堺電軌によると、最盛期の昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

1日に約200本の電車が運行されていたが、利用客が年々減少していた。

↑2016年1月に廃駅となった住吉公園駅。
駅表示が戦前のままというレトロな駅だった。

前の灯篭は住吉灯篭

住友灯籠とは住吉大社の参道にある石灯籠の事です。

江戸時代から明治の初めにかけて、この地域は、四国の別子銅山から海路運ばれてきた、銅の精錬所があり、銅貿易の中心地でした、その中核が住友家でした、住友家が海路の安全と、家業の繁栄を願い、住吉大社の参道に石灯籠を寄進したのが住友灯籠です。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている。

また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。

また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

一の鳥居と反橋

正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。

長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。

この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。

現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。

橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。

その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年におこなわれた。

島津忠久には以下のような誕生伝説が伝えられている。

丹後局が頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子供を身ごもるも、これを知った頼朝の正室北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れた。

摂津国(現、大阪府)住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を産んだ。

現在、住吉大社の境内には忠久誕生石が存在し、島津家における稲荷信仰や雨を瑞兆とする慣わしはこの故事に由来するものである。

その後、元旦参拝のため住吉大社を訪れた摂政(せっしょう)近衛基通(このえもとみち)に救われ、丹後局はその家来の惟宗広言(ひろこと)のもとに嫁ぐことになった。

このため忠久も惟宗を名乗ることになった。

頼朝は誕生の知らせを受け「三郎」の名を与える。

元暦2(1185)年に頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣畠山重忠(しげただ)の一字を得て「忠久」と名乗る事になったという。
 
この伝説を背景として、八景釜や血吸が島津家に代々伝えられてきた。
また、十字紋も頼朝から授かったものという説もある。


住吉大社角鳥居

本宮域の幸寿門前に立つ。
石造で、柱に大面取の角柱を用いるが、貫を通し、反りのある島木・笠木を重ねるなど明神鳥居の形式とする。

重心の低いどっしりとした造形で境内の他の鳥居と一線を画する。
同社を代表する鳥居として古くから参拝者に親しまれている。

昭和天皇御製。

いくさのあといたましかりし町々を
わが訪ふたびに立ちなほりゆく

台座には「在位六十年記念奉祀記念」と彫られています。


「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。

13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。

折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。

その翌日の句席で「升買て……」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。

すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。

その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。

この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ、日本最古の灯台といわれています。

江戸時代の浮世絵にも描かれている高灯篭は、鎌倉時代の創建で現在見られるのは復元されたもの。 夜は灯台として、昼は展望台として使われたそうです。

高燈籠復元の記

昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた。

寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時◆中略◆この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 往時の面影が偲ばれる。

旧高燈篭はここより二百メートル西にあって明治の末年迄度々大修理が行われた戦後台風のため木造の上部は解体され更に昭和四十七年道路拡張のため基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた。

この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成しその復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 その他地元会社有志の寄附を仰ぎ大阪府市の援助を得てこのゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである。

昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会

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早朝散策 住吉大社


光が清々しい朝の光線です。

この時間帯乗客もまばら。

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。

例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。

本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。

ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。

元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文[原 1]では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。

一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。

実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。

朝の強い光に美しく浮かび上がる門。

屋根は檜皮葺 (ひわだぶき) でできており、直線的な屋根で切妻造りです。

第三本宮と第四本宮の間を進む、霧がかかり、空も魅力的だ。

第一本宮の南側には五所御前(ごしょごぜん)という玉垣の区画があり、内側には杉の木が生育する。

社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に3羽の鷺が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという。

元々は祭神来臨の神事を行うミアレ所(御阿礼所/御生所)であったとする説もある。

現在は「高天原」とも称され、毎年5月初卯日(住吉大社創建伝承日)の卯之葉神事ではこの五所御前に卯の葉の玉串が捧げられる。

『五』『大』『力』と書かれた石を拾い御守にすると願い事が叶うという信仰があります。

右は若宮八幡宮 祭神:応神天皇、武内宿禰
本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する。
祭神の応神天皇は神功皇后の子。
1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される。

住吉大社 若宮八幡宮例祭 湯立神事
1月12日、住吉大社で若宮八幡宮例祭 湯立神事が行われた。 穀物の豊穣を祈るため … 続きを読む →


第一本宮の南側には石舞台がある。

南門・東西楽所と同様に慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。

池に架けられた石造桁橋(幅約11メートル×長さ約12メートル)の上に、一辺約6メートル、高さ約0.5メートルの規模で築かれている。

前面に階段を付し、舞楽を演じる際には上面に木製の高欄が取り付けられる。
「日本三舞台」の1つに数えられるとともに、国の重要文化財に指定されている。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →

5月の青葉に彩られた神池にかかる石舞台で天王寺楽所 雅亮会により舞楽が行われる。

池の水が抜かれている、初めて見た。

静かな場所で小鳥たちの大切な場所のようだ。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

ここには樹齢千年を超える楠(くすのき)があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。

その後、根元に設けられた祠に神様をお祀りするようになったといわれています。

参拝の際、招福猫を受けて祈願し、これを48ヶ月間(4年間)続けると「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の福が授かるとして日本全国より崇敬を集めています。

招き猫は、左手は人招き、右手は金招きといわれ、奇数月は左手、偶数月は右手を求める慣習があります。

種貸社、楠珺社、浅澤社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。



住吉大社境内では、かつて神宮寺が営まれていた。

『古今著聞集』では本地仏の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年(758年)の創建とし、新羅渡来の薬師如来を本尊としたため「新羅寺」とも称されたとする。

津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。

明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。

なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

住吉大社には、国宝建造物である住吉四本殿や重要な文化財建造物の他にも重要文化財指定の住吉大社神代記、舞楽面、太刀を始め、古文書類、舞楽装束等の貴重な宝物類が点在して格納され、保存施設設備も十分ではありませんでした。

これら貴重な文化財を火災、破損、散逸等から守るため、一堂に収納保管し、また一般にも公開する等我々祖先が残した大切な遺産を永く後世に継承するため昭和52年5月住吉大社境内地に住吉文華館を建設した。

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住ノ江の桜


住吉川の桜並木、今年もきれいに咲きました。

昔は住吉大社の前が汀線で、細井川も入り江だった。

「細江川」の異称を持つ。

十三間堀川と通じ水運に用いられ、上住吉の浅沢神社前には船着場があったという。

また、住吉大社の南の細井川に今も架かる「御祓橋」には「小町茶屋」があったと伝わり、画も残っている。

このあたりには熊野街道が通じていた。

住吉川を進むと真ま住すみ橋が架かり、市立真住中学校があります。

211年神功皇后が住吉大社建立の際、当地を「真に住み吉」と言った故事から付きました。

姫松橋

我見ても ひさしく成りぬ 住の江の
  岸の姫松 いくよへむらむ
  (古今集九O五番 よみ人しらず)

この歌にあるように、かつてこの付近は美しい松原の続く海岸で、住吉浦とよばれていた。

毎年春には、潮干狩りで大いに賑わったといわれる。

江戸時代の中頃には新田を開発するため、両岸の入り江が埋め立てられ川として残されたものが現在の住吉川である。
 
姫松は、住吉大社社頭にある松の美称として知られ、当地の地名にも残っており橋名もこれにちなむものである。

シロバナマンサクを見つけた、珍しい花です。

住吉団地

住吉高灯籠

わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。

もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。

当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。

住吉公園

元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。

公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。

鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。

大伴氏や物部氏が本拠を置いた場所であり、古代から港湾都市であり国内流通の中心であった。

瀬戸内海を経る航路の終着点として住吉大社(大阪市住吉区)近くの住吉津や難波津が機能していた。

住吉津はヤマト王権と深い繋がりがあり、住吉津を管理していた住吉大社はヤマト王権直属の神社だった。

伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだという。

そして、丹後局は摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →

川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。

私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。

文末にあらすじを掲載しておきます。

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。

この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

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踏歌神事 住吉大社


やっと巣ごもりからの脱出です。

例年は三が日に200万人以上が訪れる大阪市住吉区の住吉大社、今年は1日の参拝客数は約33万人で、約150万人だった前年の2割程度だったという。

例年12月31日~1月5日に200店以上が並ぶ露店を全て取りやめ、立春前の2月2日までの分散参拝を呼びかけている。

例年、太鼓橋は入場制限をするほどの込み具合だか、ことしは楽々参拝。

皆さんも規則正しく左側通行。


天気も穏やかな晴れです。

例年人の波の第一本宮も楽々参拝。

踏歌神事とは古くは朝廷で行なわれていた新年の行事で、住吉大社に伝わる特殊神事の一つ。

土地の精霊を鎮め、厄を祓うために春の初めに大地を踏み、福を招く神に祈る行事です。

昔はアラレバシリと呼ばれていました。

言吹(ごんすい)と袋持(ふくろもち)が声を掛け合い歩み寄り、神前に福の餅を捧げます。

その後、神楽女による白拍子舞(しらびょうしまい)と熊野舞(くまのまい)が奉納されます。最後に福の餅撒きが行われ、福の餅を授かると幸運が得られるといわれています。

平安時代、宮中で行われていた踏歌節会の男踏歌が、今日でも住吉大社、熱田神宮で継承されています。

踏歌は、萬歳や漫才の起源です。

大阪の話芸「しゃべくり漫才」を始めたエンタツ・アチャコの横山エンタツは住吉大社の近所に住んでいました。

梅の若枝を持った蛭子(ひるこ)さんが「ふくろもち」と呼びかけ、小餅を袋に入れた大黒さんが「おおともよ」と応え、互いに歩み寄ります。

その後大黒さんは神前にて「ひ、ふ、み、よごと」と小餅を献じ、最後に「万歳楽」を三声することで納められます。

次いで神楽女によって白拍子・熊野舞が舞われ、神事後には餅撒き行事が行われますが今年は餅撒き行事はなしとのこと。

白拍子は神楽舞の1つであり、風雅な手振りをよく伝える貴重な舞。

元来の白拍子とは、平安後期から鎌倉期に流行した「今様」といわれる歌舞、あるいはそれを舞う女性のことを言いました。

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

「熊野舞」は、四人舞の形態をとります。

こちらに以前収録した動画「住吉大社踏歌神事熊野舞」があります。

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