台風の後


台風が通り過ぎた後は、晴れることも多いが確実にそうなるとは限らない、今回はすこし雲が多めだ。

きのう(日)は、雨雲が東へ離れていき、広い範囲で青空が広がっています。

敬老の日のあす(月)も高気圧に覆われて晴れる所が多いでしょう。

ただ、火曜日になると次第に高気圧が東へ離れていくため、西日本や東日本を中心に湿った空気が流れ込みやすくなります。

きれいな日の出は見れなかったが、雲のおかげできれいなグラデーションの空模様、これはこれでまたいいものだ。

21日(火)は中秋の名月ですが、午後は太平洋側から雲が多くなって、雨雲のかかり始める所もありそうだ。

住吉大社では観月祭が行われるのだがさて・・・・・

古来、日本では「春は花、秋は月」を愛で、季節を楽しんできた。

月見は「中秋の名月」を鑑賞する伝統的な行事、澄み渡る秋の夜空に昇る月に、人々は収穫の感謝を込めて祈り、来年の豊作を願いました。

今年は、8年ぶりに名月が満月だそうだ、ぜひ、一年でいちばん美しいとされる月を楽しみたいですね。

観月祭とは中秋の名月の日に行われる住吉大社の特殊神事。

名月が上る中、反橋上では全国より募った献詠作品の中から入選歌を神職が伝統的な作法にのっとり披講(ひこう)します。

次に住吉踊・舞楽が反橋上で奉納されます。

心字池の畔には彼岸花が咲いてます。

傍らではコスモスが風に揺れている、もうすっかり秋だ。

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台風一過


本当に人騒がせな台風でした。

西の空は何事も無かったかの如くほんのりと夕焼けです。

台風14号(チャンスー)は予報士泣かせのコースでした。
1週間前にこのこのコースを予想した予報士、気象会社はゼロ。

気象庁によりますと、台風14号は17日夜、福岡県に上陸したあと、18日未明に愛媛県、18日朝早くには和歌山県に再上陸した。

台風はその後、太平洋へ抜けて東海の南の海上を東へ進み、午後3時に静岡県の沖合で温帯低気圧に変わった。

大阪通過は夜中から早朝にかけてで一般の人には大きな影響は無かったのではないかと思うが本当に人騒がせなた台風でした。 

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日の出


昨日の朝はきれいな朝日が見られた。

一瞬ではあったが東の空が真っ赤に焼けた。

昨日は白露、いよいよ秋の気配が迫り、大気が冷えてくる。

夜間に気温が下がり、大気中の水蒸気が草花に朝露となってつくようになる。

光によって白く見える露ができ始める頃という意味で「白露」とされる。

一つ後の節気は「秋分」(9月23日頃)。

色々とあった夏も終わり、いよいよ秋たけなわとなる。

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秋の気配 長居植物園


処暑が過ぎ、間もなく白露。

処暑を境に夏の暑さが次第に和らぎ間もなく白露、夜間気温が低下して大気中の水蒸気が露となって草葉につくようになる。

梅雨末期思わせる前線が停滞、長雨がおさまったかと思う間もなく秋雨前線が停滞。

サルスベリは、紫薇と呼ばれるが、比較的長い間紅色の花が咲いていることから、百日紅ともいう。

何となく秋を感じる季節になりました。

スイレンも今を盛りと咲き誇る。

ガガブタ、かわいらしい花です。

風にそよぐパンパスグラス、何となく秋の風情。

今年はヒガンバナが早く咲きました、8月中旬に戻り梅雨があり低温状態が長く続いたので秋の到来と判断したのでしょうか。


シコノボタン、鮮やかな紫。

小池のあたり、何となく秋を感じる。


風に揺れるススキ。

婦負(めひ)の野の すすき押しなべ 降る雪(ゆき)に 宿(やど)借る今日(けふ)し 悲しく思ほゆ

万葉集 巻17-4016 高市連黒人

秋は9月から11月の3ヶ月間ととても短いものですが、この短期間に野山は、木の実・山野草の実・きのこなどのさまざまな食材に恵まれます。

まさに”実りの季節”・”食欲”の季節です。

ハナミズキも実を付けています。

小紫、紫式部を小さくしたものなのでこの名前になった。

小さいが、実のつきかたがいいので花屋さんでは紫式部より人気が高い。

カレンボクの実。

カラタチも実を付けています。

どんぐりの実。

ボケの実。

まだまだたくさんの草木が実を付けています。
まさに秋たけなわ。

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大阪のベタ踏み坂 なみはや大橋


住之江区の新木津川大橋をスタートしてこの橋が三番目、最後の橋です。

大正区の橋の多くは渡し船があるが、なみはや大橋は代替の交通手段が少ない、バスの本数も少なく渡ったら大阪港へ抜けるしかない。

ベタ踏み坂ふうに見えるのは大正区側の入口、この「なみはや大橋」の中央部の高さは水面から約45mで、勾配は約6.9%。

ダイハツ工業のテレビCMで話題になったベタ踏み坂(江島大橋)。

しかし、大阪のベタ踏み坂「なみはや大橋」の勾配は、本家の「江島大橋」(約6.1%)よりも勾配が急(約6.9%)!

なみはや大橋の構造は桁橋で、途中でS字カーブを描く複雑な構造です。
橋の中央支間は約250mで、桁橋としては日本最大級。

しばらく歩いてゆくと橋の勾配が急にきつくなって来ます。
まるで天に向かって上がってゆくような感じ。

橋の中央部の最高点は高さ約45mで、15階建てのビルの高さに相当します。

急勾配を繰り返し往復するランナーも、ラン仲間の間でも坂練の場所として有名なところ。

これは、なみはや大橋の架かる尻無川が水上交通の要衝であり大型船の通航が多く、水面からの高さを確保する必要があったからです。

尻無川水門の頭上に、まるで巨大なUFOのように大きく見えているのは、「京セラドーム大阪」。

先ほど渡った千歳橋、正面に見えているのが昭和山、その向こうに通天閣、橋とオーパラップしていて見にくいかな。

尻無川越しの風景。

飛行機を発見。

後を追っていくと伊丹空港に着陸しました。

なみはや大橋の西側の眺望としては、天保山の大観覧車と大阪港に架かる此花大橋、大阪市環境局の舞洲工場、ひときわ目立つのが天保山JCT。

赤色の塗装が鮮やかな全長982mの「港大橋」の威容が。

1974年(昭和49年)に完成したこの橋は、世界最大級のゲルバートラス橋で、橋下を大型コンテナ船が航行できるよう、海面から桁下高が51mとなっています。

上下2層のダブルデッキ構造になっていて上部を阪神高速16号大阪港線が、下部を阪神高速4号湾岸線が通っています。

橋の左手に見えているビルは、高さ256mの大阪府咲洲庁舎。

赤レンガ倉庫

築港が国際港として整備されると、大正12 年(1923)に住友倉庫によって物流拠点として竣工しました。

昭和3年(1928)には鉄道が開通し、貨物列車の発着駅となり、国内外の港を結ぶ貨客船の貨物積み降ろしが行われていました。

しかし戦後、昭和40年(1965)以降になると、貨物運搬はコンテナ(貨物を納めた移動式倉庫)が主流となり、赤レンガ倉庫は必要とされなくなり、平成11年(1999)に倉庫としての役割を終え、現在は大阪市が管理しています。

アンデルセンのマーメイド像

中央突堤には回航された「ぱしふぃっく びいなす」が停泊しています。

巨大なループが特徴的なジャンクション、りんくう方面へ向かう阪神高速4号湾岸線と神戸へ向かう5号湾岸線の出入口が複雑に絡み合って見事な景観を見せる。

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ブルーが美しい千歳橋


次のターゲットは千歳橋、大運橋通りまで歩き鶴町4丁目行のバスに乗ります。

東洋のマンチェスター 船町工場群
明治16年(1883)、三軒家に大阪紡績会社(現・東洋紡績)が設立されると、大正 … 続きを読む →


中山製鋼所を横目に見ながら木津川運河を越すと大運橋。

恩加島の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。

「北・南恩加島」については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。

「千島」および「小林」は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。

先ほど渡ってきた新木津川大橋が見えています。

千歳橋は、大正区鶴町~同 北恩加島間への架橋により、市内中心部への交通を遠回りせざるを得なかった鶴町地区の交通の便を改善するとともに、大正通の交通混雑を緩和する目的で設置された。

大浪通を延長する形で架橋され、大正通の終端に接続している。

主橋梁部はアーチ橋とトラス橋が融合した2径間連続非対称ブレースドリブアーチ橋であり、鮮やかな青色に塗られている。

2003年に完成した千歳橋は2代目、大正時代から昭和時代にかけて、初代の千歳橋が架けられていた。

初代千歳橋は1922年に架けられ、鶴町と対岸の新千歳町を結んでいた。

しかし大正内港の建設工事のため、初代千歳橋は1957年に撤去された。

なお、当時対岸だった新千歳町は、町の大半が内港の中に沈んでいる。

初代千歳橋撤去の代替として千歳渡船場が開設され、歩行者や自転車の移動に供されている。

2003年に開通した千歳橋は海面からの高さが28メートルあり、歩行者や自転車の利用には不便なことから、渡船は橋開通後も存続されている。

大正内港

1940年代前半まで、大正区の土地の大半は海抜0メートル以下にあったため、1934年(昭和9年)9月21日には室戸台風が襲来し、大正区のほとんどの土地が冠水。

当区は死者119人(行方不明者を含む)、被災者123,000人、建物の浸水等被害22,535戸にも及ぶ甚大な被害を受けた。

また当時は付近に貯木場が集中していたので、貯木場から流された丸太によって道路が塞がれ、建物が壊されるなど、多くの被害を受けた。

その後も1945年(昭和20年)の大阪大空襲により区の大半を焼失し、1950年(昭和25年)のジェーン台風による被害(大正区の83%が約1.9メートルの高さまで浸水、被災者は区民の96%に当たる57,000人で、行方不明者を含めて死者は13人、建物被害は10,654戸)など、大正区民はたびたび起こる高潮や戦災に悩まされていた。

そのため、大阪港復興計画の一部として、大阪港に注ぐ河川の拡幅や大正内港化が1947年(昭和22年)に決定された。

掘り起こした土砂で区内を全面的に盛り土する区画整理工事も同年に開始され、1975年(昭和50年)には完了した。

大正運河に連絡していた貯木場や材木市場はこの工事の際に閉鎖され、住之江区平林に移された。同時期に港区では弁天埠頭が完成した。

千歳の渡しで大正内港へ
2003年に完成した千歳橋は2代目である。 大正時代から昭和時代にかけて、初代の … 続きを読む →


次のターゲットなみはや大橋が見える、その後ろに港大橋。

天保山の大観覧車と阪神高速の斜張橋も見えている。

観光船サンタマリアが停泊中。

千歳橋は、2003年(平成15年)4月開通し、土木学会田中賞を受賞した。

ちなみに、千歳というめでたいの名前は、江戸時代後期の弘化2年(1845年)から開発された千歳新田に由来。

ここからは渡船に乗り換え鶴町4丁目へ帰る。

鶴町の町名は万葉集の歌(巻6-1064)からとられたもの。

潮干れば葦辺に騒く白鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに 田辺福麻呂

鮮やかなブルーを基調とした千歳橋は近隣の赤の港大橋、ライトブルーのなみはや大橋と並んで景観にも配慮したシンボル性の高いもので、大正区の新しいランドマークとなっている。

川鵜でしょうか群がっている。

画面右切れてしまってるが昭和山は、大阪市大正区千島二丁目にある人工の山。

標高33メートル。山の周囲は千島公園として整備されている。

山のある大正区千島の一帯には大正時代に貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成していた。

しかし地盤沈下の影響で貯木場の機能が低下したこともあり、貯木場や製材工場は1960年代に住吉区(現・住之江区)平林に移転した。

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海面から50m、新木津川大橋を歩く


今日はこれから水面から高所にある新木津川多橋、千歳橋、なみはや大橋の3橋をウォーキングしようと考えています。

地下鉄住之江公園駅から南港6丁目行バスで柴谷二丁目で下車、ウォーキング開始です。

始発のバスに乗ったのですが陽はすでに中空、少し曇りがちで気持ちの良い気候です。

下を流れるのが木津川、昔、織田信長と毛利水軍の合戦があった木津川口の戦い、第一次木津川口の戦いでは大敗するものの、鉄を貼った鉄甲船を造り第二次木津川口の戦いで織田軍は見事に毛利水軍を撃破したそうです。

この勝利により石山本願寺は孤立織田軍の優位が決定、石山合戦は終結に向かったそうな。

中央部の橋長は495m、中央部のスパンは305m、総延長は2.4km、幅員は11.25m。

アーチ橋としては完成当時日本最長で、また世界でも14位の規模を誇った。

大阪市南西部に環状道路網を形成し、流通をスムーズにする目的で架設された。
1994年に完成。

前方に千本松大橋が見えています、画面にはないが少し右に通天閣も見える。

千本松 徒歩と渡しで空中散策
大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設された。 両端部の2階式螺旋状坂路 … 続きを読む →

アベノハルカスも見えています。

木津川の両岸には工業地帯が広がり、大型船が往来する関係で、橋の高さは最高地点で水面上50mの高さになっている。

その関係で、取り付け道路部分が通常の橋と比較して長くなり、北側(大正区側)では3重のループになっている。

この高さでは歩行者・自転車の利用が困難であるため、橋に沿って木津川渡という渡し船が運行されている。

平成6年の土木学会田中賞を受賞。
大正区の都市景観資源にも認定されています。

北を眺めると京セラドームが見えます、その右後方に梅田スカイビルも見えます。

前方左にこの後ウォークする予定の千歳橋が見えます、その右は弁天町の高層マンション。

橋の最高地点からの眺めは、まさに絶景の一言。

左手には“大阪のベタ踏み坂”こと「なみはや大橋」が。

さらにその向こうには「港大橋」「天保山大橋」と、これでもかというくらい長大橋のオンパレードが続きます。

「ベタ踏み坂」とは、ダイハツ工業が、もっと軽自動車にできることを考えた結果、新型のカスタムに勾配が急な坂を走らせ、軽自動車の性能進化を証明するために使った坂道のこと。

ループ部分にかかっています、地上と橋上の道路部分が50m近くの高度さがあるため(桁下46m)、アプローチが不足する北側(大正区側)では3重のループで高度さを克服しています。

ループ部分だけで452.4mもあるため、橋の総延長は1228.3mにもなっています。

遥か彼方に二上山狩りぞまれる。

神武、または神武に例えられる勢力は、盆地内の標高55m地帯に進撃することができなかった。 

そもそも二上山を越えなかった神武軍は、生駒山から熊野へと迂回して、標高65mの橿原に着いた。

また、山頂には大津の皇子の墓がある。

後方を振り返る。
高さ50メートルの最高点です。

木津川河口の水域では1923年(大正12年)ごろから水上機の離着水が行われており、徳島、高松、松山、別府便などが運航されていた。

このため、木津川飛行場にも水上機用の設備があった。

木津川飛行場は逓信省航空局が開設した最初の飛行場で、続いて東京(羽田飛行場)と福岡(雁ノ巣飛行場)にも建設された。

【木津川(きづがわ)飛行場記念碑】

碑には下記の通りの記述があります。

『わが国の近代航空技術は大正7年(1918年)頃から急速に開発が進み、あわせて飛行場も必要になってきました。

大正11年(1922年)からは空の定期貨物輸送も始まり、大阪から東京、徳島、高松、別府などへの路線が次々と開設されましたが、当時はまだ木津川河口や堺の水上飛行場を利用していました。

木津川河口に陸上飛行場が構想されたのは大正12年(1923年)頃からです。

昭和2年(1927年)に着工し、昭和4年(1929年)には未完成のまま、東京・大阪・福岡間に1日1往復の定期旅客便が就航しました。

しかし、市街地からの交通の便が悪く、地盤不良で雨天時の離着陸も困難であった為、昭和9年(1934年)の八尾空港、昭和14年(1939年)の伊丹空港完成により、その役割を終え、昭和14年(1939年)には閉鎖されました。』

大阪市大正区船町の中山製鋼所第四工場一帯が木津川飛行場の跡地で、中山製鋼所構内に飛行機格納庫が残されています。

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異例の大雨


前線は15日にいったん太平洋側に南下し、雨は小康状態になる地域もあるが、いまだ停滞。

この大雨ですっかり日常のペースが乱されてしまい、これから立て直しにかかるのだが、後に控えているは厳しい残暑。

今日は24節季の処暑、暦の上では秋だ、鈴虫がリーンリーンと爽やかに鳴いている。

8月の雨量 すでに統計開始以来1位 過去およそ130年の間で異例の大雨になっています。

統計開始の1879年以来1位、福岡市777.5ミリで統計開始の1890年以来2位など、8月として、過去およそ130年の間でみても、異例の大雨になっています。

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昭和レトロ


地下1階に広がるのは、昔懐かしいレトロな街並みを再現したレストラン街「滝見小路」。

梅田スカイビルのスタイリッシュさ・ダイナミックさからは想像つかない空間です。

ビクターのロゴマークになったニッパー君にも注目したいところ。

ニッパー君は1884年にイギリスで生まれたフォックス・テリア系の雑種。

やんちゃでよく人の足を噛もうとするのでニッパー(挟む)と言う名前がつけられました。

ダイハツ『ミゼットMP5型』も展示されています。

石畳の路地に暖簾や格子戸、お稲荷さんを眺めながら歩くと、当時にタイムスリップしたような感覚に浸れる。

大阪グルメを代表する串かつやお好み焼きに加え、洋食屋居酒屋など様々なお店が22件も軒を連ねる人気の飲食街。

法善寺に本店を構えるカツ丼専門店「喝鈍」。

超有名店の味を、昭和レトロな独特の街並みの情緒漂う空間の中で食すことができます。

瀧見小路で昭和レトロを満喫した後はそのまま外に出て「中自然の森」を散策。

人工ですが瀧もあり、逆流する様子を見ることができます。

都心とは思えないほど自然に囲まれており、リフレッシュにはもってこい!

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76年目の夏


昨日は76回目の終戦記念日。

護国神社には多くの人々が参拝しています。

一昨日からの大雨も今朝(15日)には一応闇、式典の行われる頃には晴れ間も見られた。

今年は終戦 [第二次世界大戦終結] から 76年 にあたります。

8月15日の「玉音放送」は、76年0か月と-1日前、76年0か月と0日目です。

9月2日の「降伏文書調印」は、76年-1か月と12日前、76年-1か月と13日目です。

・第二次世界大戦終結・終戦は、昭和20年(1945年)です。

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日の呼称。

日本では一般に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)。

日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。

帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。

連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。

1963年5月14日の閣議決定(第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。

1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。

現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、「お盆=8月15日」となっている。

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