日の出


昨日の朝はきれいな朝日が見られた。

一瞬ではあったが東の空が真っ赤に焼けた。

昨日は白露、いよいよ秋の気配が迫り、大気が冷えてくる。

夜間に気温が下がり、大気中の水蒸気が草花に朝露となってつくようになる。

光によって白く見える露ができ始める頃という意味で「白露」とされる。

一つ後の節気は「秋分」(9月23日頃)。

色々とあった夏も終わり、いよいよ秋たけなわとなる。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

昭和レトロ


地下1階に広がるのは、昔懐かしいレトロな街並みを再現したレストラン街「滝見小路」。

梅田スカイビルのスタイリッシュさ・ダイナミックさからは想像つかない空間です。

ビクターのロゴマークになったニッパー君にも注目したいところ。

ニッパー君は1884年にイギリスで生まれたフォックス・テリア系の雑種。

やんちゃでよく人の足を噛もうとするのでニッパー(挟む)と言う名前がつけられました。

ダイハツ『ミゼットMP5型』も展示されています。

石畳の路地に暖簾や格子戸、お稲荷さんを眺めながら歩くと、当時にタイムスリップしたような感覚に浸れる。

大阪グルメを代表する串かつやお好み焼きに加え、洋食屋居酒屋など様々なお店が22件も軒を連ねる人気の飲食街。

法善寺に本店を構えるカツ丼専門店「喝鈍」。

超有名店の味を、昭和レトロな独特の街並みの情緒漂う空間の中で食すことができます。

瀧見小路で昭和レトロを満喫した後はそのまま外に出て「中自然の森」を散策。

人工ですが瀧もあり、逆流する様子を見ることができます。

都心とは思えないほど自然に囲まれており、リフレッシュにはもってこい!

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

76年目の夏


昨日は76回目の終戦記念日。

護国神社には多くの人々が参拝しています。

一昨日からの大雨も今朝(15日)には一応闇、式典の行われる頃には晴れ間も見られた。

今年は終戦 [第二次世界大戦終結] から 76年 にあたります。

8月15日の「玉音放送」は、76年0か月と-1日前、76年0か月と0日目です。

9月2日の「降伏文書調印」は、76年-1か月と12日前、76年-1か月と13日目です。

・第二次世界大戦終結・終戦は、昭和20年(1945年)です。

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日の呼称。

日本では一般に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)。

日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。

帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。

連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。

1963年5月14日の閣議決定(第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。

1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。

現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、「お盆=8月15日」となっている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

夜明け前 住吉川


この前から日の出前の写真が撮りたいと狙っていたのだが、天候が悪くなかなかチャンスに恵まれずにいた。

姫松橋の袂、5時5分、日の出が5時15分なので10分前だ。

朝の太陽が上がってくるときまずあたりが明るくなり始めてそのあと太陽が地平線から顔を出します。

この明るくなり始めるときが夜明け、太陽が地平線から顔を出すときが日の出です。

島崎藤村の小説「夜明け前」は真っ暗な時間ということになりますね。

日の出前においては黎明(れいめい)、払暁(ふつぎょう)、彼者誰(かわたれ)、明け(あけ)、夜明け(よあけ)、暁(あかつき)、東雲(しののめ)、曙(あけぼの)などの名がある。

一方、日の入り後については黄昏(たそがれ)、夕暮れ(ゆうぐれ)、日暮れ(ひぐれ)、薄暮(はくぼ)といった語がある。

日の出前の「彼者誰(かわたれ)」は「彼は誰」、日没後の「黄昏(たそがれ)」は「誰そ彼」が元々の意味であり、いずれも薄暗くて人の見分けがつきにくいことから、このように呼ばれる。

日の出時刻少し前の薄明の空に、きれいなグラデーションの朝焼けが現れました。

オレンジ色、金色、紫色、紺色など徐々に染まり方が変わり、太陽の光源もないことから、風景が最も美しく見える時間とも言われています。

焼け空は最も美しいのは夏から初秋にかけて。

7~9月頃はダイナミックな焼けが見られることが多い。

その理由は、積乱雲や羊雲など塊の雲ができやすいから。

完全に晴れると、沈みかけた太陽の光を受ける雲がないので、オレンジ色の焼け空になるだけでつらない。

天気予報を見て、日の出・日の入り時刻の直前が曇りのち晴れ、あるいは晴れ時々曇りといった予報だと、最高の空を見られる可能性があります。

また、台風の直前・直後は強風で雲が入り乱れて隙間ができやすいので、爆焼けが起こりやすいです。

雲の動きも速く、短時間でコロコロと変わる空の表情を楽しめます。

住之江公園に戻ってきました。

そのままいい天気になるのかと思いきや、曇り空になってしまいました。

日の出を撮影するとき、見落しがちな問題点があります。

それは建物や電柱などの障害物。

都会では障害物のない場所を探す方が至難の業です。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

昨日の夕日


朝は雨で涼しい思いをさせてもらったが、夕方散歩へ出かけようと外へ出ると空が見事な夕焼け。

思わず引き返してカメラを持ち出す。

朝と夕の2回演じられる空のショーに魅せられてしまっている。

夕方の場合は日没後にどれだけ焼け色が残るかが見どころだが今日は時間が無いのでお預け。

本当はどんなグラデーションを見せてくれるか興味があるのだが・・・・

逆に明け方は日の出前の空が見事だが、これがまた一瞬の出来事でカメラにおさめるのが難しい。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

大阪の豪商 鴻池善右衛門宗利によって開墾された 鴻池新田


鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。

江戸時代中期以来の古建築群と庭園、鴻池家から寄贈された民具類を現代に伝えています。

表長屋門

近代的な市街化が進んだ東大阪市周辺に残る数少ない歴史的建造物群のひとつです。

10,662m2の 会所敷地は国の史跡で、本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と江戸時代の本屋座敷の棟札、米蔵の御札は重要文化財です。

江戸時代中期に、大阪の豪商・鴻池家三代目、。

当初の入植者は8軒ほどで、二回目に10数軒が入植。2010年時点で13代目位の人々が住んでいる。

主な入植者居住場所は鴻池本町(会所の北東エリア)となっており、最も古い地域となる。

朝日社境内の絵馬堂には明治・大正時代の浄瑠璃番付や相撲番付が掲げられていて、いずれも村人が勧進元になって興行が行われていたようです。

鴻池家の先祖は山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿之助幸盛 ( 遠祖 ) であると言われています。

鹿之助の長男新六幸元 ( 始祖 ) は戦難を逃れるため、摂津国長尾村鴻池 ( 現伊丹市 )
で大叔父の山中喜六信直 ( 太祖 ) に育てられました。

のちに屋号となる「鴻池」はこの地に由来するものです。

新六はこの地で商才を発揮し、慶長年間 (1596 ~ 1615) には造酒屋で成功を収めています。

また、元和 5 年 (1619) には大阪内久宝寺町にも店を構えました。

さらに寛永 2 年 (1625) には海運業を始めて、江戸・大坂間の物資輸送をつとめたほか、大名蔵屋敷の蔵物 ( 年貢米 ) を担保に金を貸し付ける大名貸しも始めています。

また、宝永 2 年 (1705) からは鴻池新田での農業経営に参画し、のちに海運業・酒造業を廃止しました。

宗利は事業を安定させるために家訓や店則を定め、代々、両替商や大名貸しをはじめとする金融業と新田経営に専念させ、幕末ごろには、「日本の富の七分は大坂にあり、大坂の富の八分は今橋にあり」というように形容されるほど鴻池家は財をなしました。

旧鴻池新田会所 本屋

北面突出部 桁行3.0m、梁間11.8m、北面下屋附属、入… 河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。 周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。

本屋土間

河内平野を流れる大和川の付け替え後、町人請負として開発された鴻池新田の会所で、宝永年間に開設された。

周囲に堀を回した敷地の中央に本屋が建ち、その北に屋敷蔵、西方に文書蔵・米蔵・道具蔵が並ぶ。本屋は大規模で、土間には豪壮な梁組を見せるが、床上部は質素であり、また、屋根は破風を多用して城郭風の趣もみせるなど、会所の建築としての特色をよく示している。

四棟の蔵は屋敷構えの一環として重要であり、米蔵が特に大規模なのも特色の一つである。

本屋内部 勘定場と座敷

宝永元年(1704年)に大和川付け替え工事が行なわれ、旧河川・水位が減少した湖沼に広大な敷地が生じた。

そのうちの新開池という大きな池のあった辺り(現在の東大阪市北部の鴻池町周辺)二百町歩あまりの開発権利を、大和屋六兵衛・庄屋長兵衛 両名が落札した。

それを 鴻池善右衛門が譲り受け、新田開発をおこなった。

新田開墾のため伊勢や枚方などあちこちから農民を入植させた。

村高は「天保郷帳」・「旧高旧領」共に1706石余。

宝永2年(1705年)に工事が開始され、大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となった。

本屋の広壮な土間と高い梁、開放的で簡素な座敷、中庭に面して建ち並ぶ蔵、米つき場など、民家建築とは異なり、新田経営のなかで生み出された飾りの少ない大きな造作が特徴です。

鴻池、三島、新庄あたりは米農家が多く台所が土間の家がいくつか平成近くまで現存していた。

村の人達は互いに 「鴻池の⚪︎⚪︎」「三島の⚪︎⚪︎」と村の名前をつけて呼び合い 互いに婚姻をするなど結びつきが強かった 鴻池本町はとくに水路が多く 各々の所有する舟が家の軒先につってあり、それで米を会所まで運んでいた。

その痕跡は重要文化財の会所の内側に船着場が残されており 残念ながら1970年代重要文化財に指定される改築時、無粋な壁を作られ外からは見えず半分埋れた形となっている。

昭和時代後期以降の宅地開発によって、耕作地は住宅地へと変貌していった。

鴻池新田会所庭園

鴻池新田の管理事務所として、宝永4年(1707年)に完成した。当時の建築物や濠がほぼそのまま現存しており、貴重な文化遺産であるため、敷地は1976年(昭和51年)に日本国の史跡に指定され、また本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵の5棟が1980年(昭和55年)に日本国の重要文化財に指定された。

現在は東大阪市が所有・管理している。

かつて東に遠望できた生駒山を借景とした庭園は、弁天池を設け、植木の種類や刈り方を変えたり、庭石や石燈籠を配して、庭を巡って変化を楽しむように造られています。

江戸時代末のいわゆる池泉鑑賞式の平庭です。

常緑樹が多く、カヤ、クスノキの巨樹がみられ、「大阪みどりの百選」のひとつです。

会所は、新田とともに竣工し、240年あまりにわたって使われました。

会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で、小作農民からの小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、老人への米の配給、幕府や鴻池家からの指示伝達、新田内での争いの裁定をおこないました。

新田では、小作農民がおもに米と綿を栽培しました。

江戸時代には、綿とその製品はこの地方の主要な産物でした。

生駒山を借景にした回遊式庭園や、本屋/米蔵(国の重要文化財)など当時の様子を思わせる家屋は、時代劇のロケに使われたこともあり、現在でもときおり特別展示や講演会などが催されている。

10,662m2の 会所敷地には、本屋、蔵のほか、長屋門、居宅、朝日社などの伝統的な建物群と庭園が残されています。

敷地は1976年に国の史跡に指定され、1980年には本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と本屋座敷の宝暦9年(1759)棟札、米蔵の享和2年(1802)御札が重要文化財になりました。

米蔵

関連記事 

260年むかしの豪商の暮らしがよみがえる 加賀屋新田会所跡
加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛は大阪淡路町の両替商であり、享保13年(1728 … 続きを読む →

新開池伝説の西堤から高井田村へ、古の長栄寺へ
長瀬川は旧大和川分流のなかでも本流となる大きな川。 流域の小高い土地に開けた高井 … 続きを読む →

高井田~鴻池新田 初夏を感じてぶらり
前回、高井田から長瀬川を南に歩いたので今回は北に歩きます。 新開池伝説の西堤から … 続きを読む →

司馬遼太郎の愛した街
売れ出すと東京へ移る作家が多い中、司馬遼太郎は河内に住み続けた。 彼が愛した、小 … 続きを読む →

310年程前の元禄の頃、下小坂を拓いた人たちが、当時、ムラの近くを流れていた旧大和川(現長瀬川)の水利と水難のため、大和国吉野の水分天神と袖振山の受神をまつり、子守勝手神杜といっていたが、明治5年に現在名に改称した。

中高野街道・瓜破台地
地下鉄喜連瓜破駅から中高野街道を下り、瓜破台地を散策する。 磯歯津路(しはつみち … 続きを読む →

宝永元年(1704)の大和川付け替え後、中高野街道は大和川によって分断され、瓜破渡しができました。

付け替え工事により村は南北に分断され、多くの田地を川の敷地に奪われるため、東瓜破・西瓜破両村は大和川 付け替えに反対しました。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

和泉国一之宮 大鳥大社


「大鳥大明神」や「大鳥大神宮」などとも称された。

現在の正式な社名は「大鳥神社」であるが、一般には「大鳥大社」の社名の方が広く使用されている。

境内は1万5千坪あり鬱蒼とした森の中には、出雲大社の大社造の次に古いと言われる大鳥造の社殿があり、拝殿前には珍しい八角形の柱の鳥居があり、本殿東側には樹齢800年は超える根上がりの楠が構えています。

延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。
本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。

織田信長は天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。

中世の兵火により神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建される。
が、大坂の陣で十三重塔を残して再び灰燼に帰した。

その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。

元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。

延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。

神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。

神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退していったが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。

社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社の神職が祭祀を引き継いだ。

堺出身の与謝野晶子が詠んだ歌碑(田辺聖子氏筆)があります。

駿河屋と言う菓子屋に生まれた晶子は、本名を鳳(ほう)志ようと言い、生まれた町の神として大鳥大社をいつまでも崇敬していました。

和泉なる
わがうぶすなの
大鳥の
宮居のすぎの
青きひとむら

日本武尊を祭神とするため武家の崇敬厚く、平治元年(1159年)には熊野参詣に向かう途上の平清盛・平重盛らが立ち寄り、清盛は以下の句を詠んだ。

かひこぞよかへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神

大略:蚕がかえって蛾になって飛びたてるように、我々も今から京に戻り武功を立てるのでどうか平氏一族を見守り育ててください大鳥の神よ、明治初年当社の大宮司であった富岡鉄斎の筆になるものです。

クスノキは一般に大きくなる木で相当の大きさでないと府県の天然記念物に指定されません。

しかし大鳥大社の御神木だけあって立派なものです。

樹勢もあり、支えなどもなく自立しています。

樹根が隆起していることから「根上がり」→「値があがる、価値が上がる、運気が上がる」とされ、古くより商売繁盛財運向上の大楠と伝えられ「根上がりさん」の呼称で親しまれています。

樹根部分の穴に「楠神霊」を祀ています。

日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。

遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。

これが大鳥神社の始まりだとされる。

神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

河内国一之宮 枚岡神社


枚岡神社の創始は皇紀前3年(紀元前657年)、つまり初代神武天皇が天皇に即位される3年前にできた神社。

国土統一を目指し九州日向国から東征してきた神武天皇は、ちょうど現在の枚岡神社の背後にある生駒山を越えて大和国に入ろうと試みた。

しかし長髄彦という豪族に阻まれ戦争が起きてしまう。

ナガスネヒコは、ニニギノミコトよりも早く天孫降臨したと伝わるニギハヤヒノミコトの親戚。

ニギハヤヒノミコトは枚岡神社のすぐ近くに鎮座する石切劔箭神社の御祭神だ。

社伝(『元要記』等)では、神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命が勅命によって天児屋根命・比売神の2神を東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎したことに始まるとする。

その後、白雉元年(650年)に平岡連(平岡氏)らが神津嶽から現在地に奉遷したという。

上記伝承に見える天種子命は、『日本書紀』神武天皇即位前紀において筑紫の菟狭国造の祖の菟狭津媛と結婚したと見える人物で、神武天皇の侍臣であり中臣氏の遠祖とされる。

創建伝承の史実性は詳らかでないが、歴史考証上でも神津嶽における山岳信仰が創祀とされる。

そしてその祭祀には当地の古代氏族である平岡氏があたったが、平岡氏と中臣氏が同族関係を結んだことで、祭神が中臣氏祖の天児屋根命になったとする説がある。

なお、『和名抄』に見える地名のうちでは当地は河内国河内郡の豊浦郷に比定されるが、隣郡の河内国讃良郡には枚岡郷(異本は牧岡郷)があり、同地を枚岡神社の始源地とする説がある。

平安時代末期からは河内国の一宮として崇敬を受けたとされる。

ただし、一宮格を示す史料としては永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に当社・恩智社・弓削社(弓削神社)を列記することが挙げられるが、一宮と明記する枚岡神社関係文書は中世期には無く、『大日本国一宮記』・『類聚既験抄』に記載が見えるのみになる。

天正7年(1579年)には織田信長の兵火で本殿や摂・末社17社を焼失[6][7]。

その後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建された。

明暦2年(1656年)の絵図には秀頼の再建当時という境内・堂塔の様子が描かれている。

それから下り、江戸時代の文政9年(1826年)に現本殿が造営されている。

また、神宮寺としては神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮庵・来迎寺・真堂寺の6寺があった。

神護寺と平岡寺は創建が中世まで遡るとされる。
関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

夜明けの街 住吉大社


社務所に夜明けの太陽が降り注ぐ。

神々しいばかりの陽が射しています。

ただ今5時半、開門は6時、まだ少し時間がある。

この時間帯の斜光は非常に強い。

前方は神館、この時間帯も熱心な信者さんの参拝が続く。

開門です、第二本宮の屋根越しに夜明けの陽が注ぐ。

梅雨の谷間の爽やかな夜明けです。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡


滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。

少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。

国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。

頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。

かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。

現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。

鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。

昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。

近年は散策ツアーが行われる。

閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。

往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。

朽ちた人工物の隙間から木々が生える。

その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。

土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。

だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。

これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。

1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。

採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。

浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。

現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。

集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。

「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。

「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。

選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。

付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。

麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。

なお、奥へと歩を進める。

伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。

現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。

かつてトロッコが走ったレールが見える。

坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。

中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。

かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。

東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン
愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!