河内小阪


栗林書房

昭和7年創業、初代社長は栗林秋治郎さん。
元は長瀬の古本屋から始まり、後に現在の小阪本店に移りました。
そして、本店だけでは手狭になってきたため、文庫の店とレッド小阪店を順に展開。

東大阪の著名人である司馬遼太郎さんもこのサービスを利用していました。

司馬さんのエッセイ本「以下、無用のことながら」では、栗林書房が「駅前の書店」という見出しで登場します。

そのためか、司馬遼太郎記念館に訪れた人が寄ることもあるのだとか。
「わざわざ鹿児島からやってくる方もいらっしゃいましたよ。

司馬遼太郎記念館へのルート、八戸ノ里駅からのルートもある。

ウラ小坂、何ともレトロな名前。

河内小阪駅から南のアーケードに入り、少し東に入ったあたり。
若干分かりづらい路地。

高田川部屋所属「須磨の海」が「おでんとホルモン煮 須磨」を開店したのもこの路地。

理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。

まもなく司馬遼太郎の命日「菜の花忌」がやってきます。
住民こぞって司馬さんの好きだった菜の花を植えて記念しています。

司馬遼太郎記念館 菜の花が満開です
司馬さんの菜の花忌は2月12日に終了しましたが、今年は例年になく菜の花の生育が悪 … 続きを読む →

また、今年で生誕100年に当たります。

念財団」は、ファンを対象に最も好きな司馬作品についてインターネットでアンケート調査を行い、1567人から回答がありました。

調査の結果、最も人気を集めた作品は、『坂の上の雲』でした。

近代国家として歩み始めた、明治維新から日露戦争までの日本を松山出身の秋山好古・真之の兄弟と正岡子規の3人を軸に描いています。

「まことに小さな国が開化期をむかえようとしている」という書き出しも有名で、中高年や男性を中心に、全体の20%余りの支持を集めました。

次いで人気だったのは、幕末の志士、坂本竜馬の短くも劇的な生涯を描いた『竜馬がゆく』で、およそ15%の支持を集め、男女を問わずすべての世代で幅広い人気でした。

3番目は同じく幕末を舞台にした『燃えよ剣』。
新選組副長として剣に生き、剣に死んだ土方歳三が主人公です

小坂神社は、東大阪市下小阪に鎮座されています。

御祭神は、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、受鬘神(うけのりのかみ)。

小坂神社略記によりますと、天正二十年(1592)、十八軒の家がこの原野開拓に当たり、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、小坂神社を奉祀したのが小坂神社の起こりとされています。

弥栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、やえいじんじゃ)

創建年代は不明で元は牛頭天王と呼ばれていた。
 
その名からもわかるように御祭神は、須佐之男命です。
 
石山合戦で焼失し、1600年に再建。
 
1872年、現社名となっております。

木村重成、大坂城炎上の無念

重成が決死の覚悟をした場所か!

大坂夏の陣で木村重成は、大坂城の救援に向かう途中、この地で城の炎上を見、馬の上に立って城に別れを告げ、戦地へ引き返し戦死したことから、この地が馬立と呼ばれるようになったという。

乱世を生きた戦国武将最後の地を巡る 若江の戦い
八尾・若江の戦いは、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大 … 続きを読む →


この辺りは大阪空港への着陸コースに当たっており東からの航空機はすべて通過する。

今日は午前中は風もなく陽が射して暖かい日でしたが夕方になるにつれ曇りがちとなり風も出て寒い夕暮れとなった。

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ミナミにあるパワースポット難波八阪神社


難波八阪神社の創建年月日についての詳細がわかる資料は、1945(昭和20)年に起きた大阪大空襲で被災し現存していないとのことですが、言い伝えによると、仁徳天皇(313~399年)の時代にまでさかのぼります。

今日はもう1月8日だがご覧の通り長蛇のの列。
厄除け、疫病退散、縁結び、夫婦円満、安産の神様です。

厄除けはもちろんのこと、最近では新型コロナウイルスの疫病退散を願う人たちが訪れる神社でもあります。

「獅子殿(ししでん)」と呼ばれる大きな獅子がいるユニークな神社として有名で、全国各地からこの獅子殿を一目見ようと多くの方が集まります。

また、境内にある獅子殿(獅子舞台)がインスタ映えするということでSNSで大人気になっています。

「目はライト・鼻はスピーカー」

の役割を担っているという、実用性を兼ね備えた画期的な造り。

時は流れ、1945(昭和20)年の大阪大空襲で社殿が全て焼失し、現在の本殿は1974(昭和49)年に完成。

境内の西側に鎮座(ちんざ)する「獅子殿」と呼ばれる大きな獅子の頭をした舞台も、同年に建てられました。

獅子殿は、高さ12m、幅11m、奥行き10m。

この地域に疫病が流行りだし、これを治めるために※神仏習合の神である牛頭天王が現れたことをきっかけに、お祀りをしたのが始まりとされています。

総本山は京都の八坂神社になりますが、「坂」の漢字が違うのは、大阪の「阪」にちなんでつけられています。

難波八阪神社の手水舎では、獅子(?)の像がお出迎えしてくれます。

水が出てない…と思ったら、近づいて3秒待ったら水が出る、という自動式手水舎でした。

戦艦陸奥主砲抑気具(しゅほうよっきぐ)記念碑

戦艦陸奥は竣工当時「世界七大戦艦」とも呼ばれ、姉妹艦の長門とともに大日本帝国海軍の象徴として日本国民に長く親しまれていましたが、太平洋戦争の終戦直前に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没しました。

その戦艦と運命を共にした1121名の将兵の魂を慰霊し、永遠の平和を祈るものとして安置されています。

篠山神社

摂津、河内、播磨と呼ばれていた当時の大阪市エリアでは、野菜を売ることが公認されていませんでしたが、大坂代官篠山十兵衛景義(ささやまじゅうべえかげよし)が大阪市に住む百姓や人々のために公設市場が公認されるように尽くした結果、大阪市エリアでも野菜の販売が許可されました。

この善行から、篠山代官は多くの方から感謝され、生き神さま(生祀:せいし)として祀られました。

また、現在なんばエリアにある木津(きず)市場の発祥にも関わっており、地元の方から親しまれています。

アクセス

電車の場合
大阪メトロ 御堂筋線・四つ橋線 ナンバ駅より約6分
大阪メトロ 御堂筋線・四つ橋線 大国町駅より約7分
南海難波駅 より約6分

自動車の場合
国道26号線元町3丁目北 を西へすぐ

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超穴場!久安寺の紅葉


楼門

14世紀、室町時代の建立。

奈良時代の開基、優雅第一と賞される楼門は「軒反り」という稀有な技法により造られ国の重要文化財に指定されています。

楼門は車道に面しており表からの撮影は危険。

久安寺は、大阪府池田市伏尾町にある高野山真言宗の寺院。
山号は大澤山。
本尊は千手観音。

寺伝によれば、神亀2年(725年)に聖武天皇の勅願を受け行基が開創し、天長年間(824年 – 834年)の頃に空海(弘法大師)が真言密教の道場として中興した安養院が前身と伝わる。

保延6年(1140年)に安養院は焼失したが、薬師如来像、阿弥陀菩薩像は焼失を免れ、安元年(1145年)に近衛天皇の勅願により祈願所として中興され、賢実上人が境内の本堂などの伽藍を増築し、その頃から「久安寺」と称するようになった。

最盛期には四十九もの子院があったが、現在は本坊となっている小坂院だけが残っている。

安土桃山時代の頃、豊臣秀吉が参拝の際、月見茶会を開いたといわれ、江戸時代中期に歌人の平間長雅が移り住み、観音信仰の聖地として広く庶民に知れ渡った。

広い境内に参観者は10名くらいか、静かに撮影できる。

全山紅葉と言っても過言ではないくらい紅葉が美しい、手入れも良く行き届いている。

本堂の周囲は回廊になっており360度展望可能。

右手に少しだけ屋根が見えているのが三十三所堂、西国33カ所霊場の本尊のお姿33体を祀る。

前方に見えるのは御影堂、宗祖弘法大師空海を祀る。




【腰掛石】

大正年間まで「あ字山」山頂にあった石。

秀吉参拝し、三光神を勧請し、月見の茶会を催した時腰掛けたといわれる石。

開運の鐘。







虚空園

「虚空にバン字あり・・・」と本堂での修法瞑想。

本堂北に広がる「バン字(こころ)池」を中心に花咲く庭。参道である両果の道を はさんで、東にある小山を「ア字山」といい、庭園全域を虚空園と称す。


池を泳ぐ鯉と水面を漂うもみじの葉。

鯉の泳ぐ音が時々聞こえるほどの静寂に心が洗われます。





朱雀池の蓮




仏塔・舎利殿涅槃堂


見事な紅葉をゆっくりと鑑賞できました。
また、境内のベンチで弁当がいただけます。

殆どの寺院では境内での飲食は禁止されていますが、久安寺のホームページによると、お弁当などはベンチのあるところでお願いします。
庭園池周辺の飲食はご遠慮ください。
ごみはお持ち帰りください。

となっています、ありがたいことです。

アクセス
阪急池田駅から阪急バス(西のりば<4のりば>) 久安寺バス停下車すぐ

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秋の四天王寺


レタッチで赤外線を選ぶと、赤外線写真用の白黒ネガフィルムのようなトーンに仕上げることができます。

赤外線写真では、空や水面は黒く写ります。

通常、空が青く見えるのは、太陽光が大気で散乱を繰り返しそれがあらゆる方向から地上に届くためです。

赤外線写真では青い光が遮断されるために「黒く(暗く)」写ります。

水面が暗く写るのは、赤外線が水に吸収されるためです。

通常のモノクロ写真では植物の葉は黒く写りますが、赤外線写真では植物は白く写ります。

これを「スノー効果」と言います。

この現象は植物の葉が赤外線を強く反射するために起こります。

赤外線写真の一番の特徴と言えます。

四天王寺は、天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。

山号は荒陵山(あらはかさん)。
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。

聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。

当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。

また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。

四天王寺の草創については『日本書紀』に次のように記されている。

用明天皇2年(587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。

蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。

聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。

その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。

その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。

明治33年(1900年)に大阪・四天王寺にて創業した総本家釣鐘屋。

「世界一」とうたわれた四天王寺の大梵鐘をモチーフに生まれた釣鐘まんじゅうは、当店発祥の大阪名物。

創業時からの変わらぬ味を今に伝えています。
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秋真っ盛り 四天王寺本坊庭園


「釈迦の滝」

昨年は6月に訪問、今日はクラブの人を連れての訪問。

四天王寺の喧騒とは打って変わって静かな本坊庭園。

長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(2003年)8月より通年の公開が行われるようになった。

「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築「八角亭」は第五回内国勧業博覧会(明治36年・1903年開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたもの。

小奏楽堂というからには中で何かの演奏が行われたのでしょうか。
中には入ることができない。

大池には阿弥陀三尊石が組まれている。

阿弥陀如来を中尊とした三尊石は迫力あるものである。
江戸時代以降は丸みを帯びた石が使われることが多く、こちらの庭園が江戸初期に造園されたこととも一致する。

自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1万m2の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。

造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。


四天王寺 極楽浄土の庭の由来

四天王寺は日本書紀によれば、推古天皇(飛鳥時代)に創設。飛鳥寺(奈良県明日香村)と並び、本格的な仏教寺院としては日本最古である。

極楽浄土の庭は江戸初期とされ、現在の庭は明治初期に火災による焼失から復興されたものである。

極楽浄土の庭は、中国の説話「二河白道(にがびゃくどう)」に基づく。

二河白道とは浄土教における極楽往生を願う信心で、「二河」とは「火の河:怒り」と「水の河:欲の深さ」を表し、その間にある「白道」を進めば、極楽浄土に達し往生できるというもの。

紅葉がきれいです、超広角レンズでいたずらして見た。

ここで望遠ズームに取り換え、これが通常の画像です。

サキシマフヨウの実

和名は先島諸島に由来し、主に鹿児島県西部の島から琉球にかけて分布するとされてきた。
2014年の研究では台湾にも分布することが報告されている。

池に浮かぶ落ち葉

陽を透かしてハイキーで。

元和9(1623)年、徳川秀忠による再建

前には、補陀落の庭が広がる

方丈前庭にある「補陀落の庭(ふだらくのにわ)」。

三尊石の阿弥陀如来の左脇侍は観音菩薩であり、その観音菩薩が住む霊場の伝説上の山が「補陀落」である。

本坊、ガラスに移り込んだ庭園の紅葉がきれいです。






冠木門は通りれぬけできない。

その向こうには、先程とはちょうど反対側から見る唐門が見える。
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夕暮れ


冷たい雨が止んだら季節が一気に2か月も進むという。

紅葉には待ってましたとなるだろう。

冬の夕方、西日の角度が変わり、影も長く尾を引くようになった。

西日に照らされた落ち葉がきれいです。

ここ暫くモニターの調子が悪く、というか、ソフトのグレードアップの案内があり、グレードアップしたところ調子が悪くなってしまった。

10月20日から延々と得体のしれないものと付き合ってきた。

振り回されて月食も撮れなかった・・・・

キャリブレーション後の有効性の確認で不合格になってしまうのです。

アメリカ製のモニターなのでメーカーとのやり取りも大変です。

何をやっても合格にならないのです。

ここ数年のバージョンアップの情報を送ってくるがそんな膨大な作業はとんでもない。

しまいにはモニターを点検すると言い出しました、27インチもあるバカでかいものを送ったり大変でした。

点検の結果モニターの不具合はないということになり、また大変な確認作業が始まりそうだ。

頭を抱えていても仕方がないが、ついにギブアップしてふて寝です。

八方塞がりになった時は寝るに限る、朝起きた時にふと気が付いたのです。

バージョンアップしてから調子が悪くなったわけだからその直前のバージョンアップの記録を探せばいいわけだ。

必死で探し出して再インストール、キャリブレーションをやってみると予想通り合格だ。

なんでこんな簡単なことに早く気が付かなかったのか、というよりバージョンによりこんなに状況が変わるなんて思ってもみなかったのだ。

と、言うことで今はめでたしめでたしといったところ。

この作業は大変でした、期間中部屋が一つつぶれてしまった状態でした。

その様子を画像にとって奮戦記でも書いたらどうだと思ったが冗談じゃない。

気が向いたらキャリブレーションのことなども書こうかとも思っているが・・・

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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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ハイアット リージェンシー 大阪(エタニティ・凛-rin-)


生きた建築ミュージアム最後の訪問はハイアット リージェンシー 大阪の結婚式場エタニティ・と凛-rin-。

建築家・青木淳氏が手がけた「エタニティ」、デザイナー ・野井成正 氏が手がけた「凛-rin-」デザイナー チャペルツアー。

ホテル自慢の2つのチャペルをツアー形式で訪問します。

今回唯一抽選で当たった施設、参加者は15名、最後に手土産付きだった。

一つ手前の駅から歩く。

国際展示場の開場に併せて、当時はまだ珍しかった国際ブランドのホテルが上陸。

2006年に新設されたチャペルは建築家・青木淳氏の設計で、リングを立体的に組んだ構造体が、幻想的な内部空間をつくり出している。

1994年6月24日、大阪南港の再開発事業「テクノポート大阪」の中心である咲洲コスモスクエア地区に28階建ての高層ホテル「ハイアット リージェンシー オーサカ」として開業、2009年に名称を「ハイアット リージェンシー 大阪」に変更した。

施設は大林組が建設・所有し子会社「エイチ・アール・オーサカ」が運営していたが、2014年3月に香港の不動産・ホテル運営企業ガウ・キャピタル・パートナーズ子会社のGCP Hospitality Japanへホテル事業を譲渡。

ホテル物件は2016年11月に星野リゾート・リート投資法人が取得し、ホテル運営企業のGCP Hospitality Japanも星野リゾートの傘下に入り社名を「HRO」に改めた。



広々とした、居心地のよいロビーラウンジからは屋外庭園とウォーターガーデンの素晴らしい景観が。






白い教会は、「ハイアット・リージェンシー・大阪」の結婚式場として建設された80人収容の小さなチャペルである。

直径60cm、部材の太さが25mm角の鋼材リングが、立体的に組み合わさった構造を持つ。

リングの立体配置は、任意の立体を充填する切頂性四面体を仮想の1単位とし、その4つの正六角形に内接する円の配置に相当する。

鋼材リングは、互いに溶接により結合され、全体として、大部分を空隙が占める泡状の立体格子を形成している。

立体格子は、屋根を支えるだけでなく、外装のガラスを支持するMPG構法としても利用されている。

立体格子の内側には、二重に織りこまれた白いオーガンジーのスクリーンが吊るされている。


番傘にインスパイアされた芸術的なチャペル 凛-rin-

シンプルな外観からは想像できない、木組みの天井が美しいチャペル。

バージンロードを照らす天窓からの光が、ゲストとふたりの新たな歩の道標に。

グランドピアノ、コントラバス、チェロに加え、ヴォーカルの生歌が響きわたり、天窓からの光がバージンロードを美しく照らす、おふたりのためだけに用意されたステージ。

アクセス

大阪メトロ
中央線コスモスクエア駅経由、ニュートラム南港ポートタウン線 中ふ頭駅下車、徒歩約3分。

お車で
阪神高速湾岸線、南港北出口(南行き)から約5分・南港南出口(北行き)から約10分。
大阪港咲洲トンネル道路ご利用で、大阪港の築港交差点よりホテルまで約4km。
※330台収容の駐車場完備。

無料シャトルバス
JR大阪駅とホテルを結ぶ無料シャトルバス(所要時間約25分)をご用意。

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ミズノ大阪本社


生きた建築ミュージアム訪問6社目はミズノ大阪本社。

1906年に大阪で創業した世界的な総合スポーツ用品メーカー。

特に野球が国民スポーツになるのに果たした役割は絶大だ。

1992年竣工の大阪本社は南港エリア最初の超高層ビル。
隣に新研究開発拠点も完成した。

ミズノ大阪本社は、2022年4月に30周年を迎えました。

現在の場所に移るまでは、大阪は千里・淀屋橋・鷺洲に事業所がありましたが、それらを統合すべく現在の住之江区に建設されました。

当時はまだ現在の最寄り駅であるコスモスクエア駅は存在せず、5km以上離れた弁天町駅からチャーターバスで通勤していた。

朝の時間は特に混むので、出勤時間を9時、9時半、10時の3段階に分けて調整していました。

ミズノスポートロジーギャラリー

大阪南港、ミズノ本社ビルの1・3階に設置された、スポーツ商品を展示するギャラリー。

明治時代から現在までのオリンピックの公式ポスターや、過去100年間のミズノの歩みやスポーツ・オリンピックの歴史、大正後期の野球選手のユニフォームや昭和初期の牛革グラブなど、明治39年(1906)の創業以来、日本のスポーツ界を支えてきたトップメーカーのスポーツ用品がズラリと並ぶ。

また、2012年にリニューアルオープンし、プロ野球コーナーやアスリーツ・ロードコーナーを設置。

展示だけでなく、実際にミズノ契約選手が使用している用具に触れることができる。

その他、用具やウエアに秘められたミズノの最新技術を伝えるコーナーでは最新機能がわかりやすく体感できるキットも用意している。
入場は無料。

クリスタルオブジェ「炎」

ところで、ミズノ社員は大阪本社のことを「MC」と呼びます。
何の略でしょうか?
ミズノコーポレーション(Mizuno Corporation)?ミズノカンパニー(Mizuno Company)?いいえ、答えは「ミズノクリスタ」です。

実は、ミズノ大阪本社は「ミズノクリスタ」という名前がつけられているのです。

外観がクリスタルであり、規則正しい原子配列を持つ結晶のような構造のビルであることから、クリスタルとミズノを結び付けて命名されたそうです。

本社1階には、スポーツ文化新世紀への熱い心を込めて制作されたクリスタルオブジェ「炎」が展示されています。

アクセス
南港ポートタウン線「中ふ頭駅」より徒歩5分
営業時間10:00~18:00

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ブリーゼブリーゼ


サンケイビルの跡地に建つ超高層ビルは、国際コンペの名だたる建築家の中から、若手ドイツ人建築家がデザインアーキテクトに選ばれ話題に。

東京五輪のロゴをデザインした野老朝雄氏が関わるなど見どころも多い。
イケフェス大阪の評。

2008年(平成20年)10月3日にグランドオープンした地下1階から地上6階および33階の計8フロアから構成される商業施設。
総店舗面積は約10,000m2。

ブリーゼブリーゼのシンボルマークは、BREEZÉの「B」をモチーフに「風のなかで軽やかに踊る人」を表現している。

デザインは、「自分らしく生きる女性」のイメージとエンターテインメントを象徴している。

又1階の吹き抜け部分には施設のコンセプト「『驚き』こそ最高のおもてなし」を体現し、コンピューター制御で手を上げるなどの動作ができるキャラクター「ブリCH」(全長12メートル)が設置されている。

由来

建物名称「BREEZÉ」は、ダブルスキンファサードを採用し、外部の風速に影響されず室内に流れ込む風量を一定に制御する風量調節弁と各階の空調機と連動する換気扉によって、「そよ風=breeze」を感じる自然換気が行われることに由来する。

6階の壁画アートは、作家自身が大阪の街を歩き、道行く人に聞いて感じた「大阪の今」と「それを取り巻く世界」をドローイングしたもの。

ダイナミックかつ綿密な、まさに圧巻のアートワークです。

1~6階を貫く開放感溢れる吹き抜けには、光と色彩のアートが壁一面に施されています。

色とりどりの葉がそよぎ、舞を躍っているかのような、広大に広がる色鮮やかな森の空間のイメージです。

アクセス

西梅田駅から徒歩3分(180m)
北新地駅から徒歩3分(230m)
大阪梅田(阪神)駅から徒歩6分(400m)
バス停

ハービス大阪バス停から徒歩2分(140m)

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