76年目の夏


昨日は76回目の終戦記念日。

護国神社には多くの人々が参拝しています。

一昨日からの大雨も今朝(15日)には一応闇、式典の行われる頃には晴れ間も見られた。

今年は終戦 [第二次世界大戦終結] から 76年 にあたります。

8月15日の「玉音放送」は、76年0か月と-1日前、76年0か月と0日目です。

9月2日の「降伏文書調印」は、76年-1か月と12日前、76年-1か月と13日目です。

・第二次世界大戦終結・終戦は、昭和20年(1945年)です。

終戦の日(しゅうせんのひ)は、日本における第二次世界大戦の終結(終戦)の日の呼称。

日本では一般に終戦記念日は8月15日と認識されているが、アメリカ合衆国など多くの国々では第二次世界大戦は1945年9月に終結したと認識されている(国によって1945年9月2日とする国(アメリカ合衆国など)と9月3日とする国(中華人民共和国など)がある)。

日本において第二次世界大戦(太平洋戦争)が終結したとされる日については諸説あり、主なものは以下のとおりである。

1945年(昭和20年)8月15日:正午からラジオで放送された玉音放送により、前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日。

帝国政府が軍に武装放棄と連合軍への投降命令を発し、連合国もそれを受け戦闘を止めた。

1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。

1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれている。

連合国軍の占領下にあった1952年(昭和27年)4月27日までの新聞紙上[要追加記述]では、9月2日を降伏の日や降伏記念日や敗戦記念日と呼んでいた。

1963年5月14日の閣議決定(第2次池田第2次改造内閣)により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。

1982年4月13日、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された(鈴木善幸改造内閣)。

現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われており、お盆は月遅れのお盆と一致することから、「お盆=8月15日」となっている。

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和泉国一之宮 大鳥大社


「大鳥大明神」や「大鳥大神宮」などとも称された。

現在の正式な社名は「大鳥神社」であるが、一般には「大鳥大社」の社名の方が広く使用されている。

境内は1万5千坪あり鬱蒼とした森の中には、出雲大社の大社造の次に古いと言われる大鳥造の社殿があり、拝殿前には珍しい八角形の柱の鳥居があり、本殿東側には樹齢800年は超える根上がりの楠が構えています。

延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。
本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。

織田信長は天正3年(1575年)に所領1300石を安堵している。

中世の兵火により神鳳寺とともに焼失するが、片桐且元を奉行とした豊臣秀頼の一連の社寺造営で慶長7年(1602年)に再建される。
が、大坂の陣で十三重塔を残して再び灰燼に帰した。

その後、寛文2年(1662年)に幕命により堺町奉行石河利政が大鳥神社及び神鳳寺を再建した。

元禄14年(1701年)には幕命により柳沢保明が修営した。

延宝-元禄年間になると、快円恵空が神鳳寺に入って勢力を拡大し、柳沢氏の保護を受けたこともあって、神鳳寺は全盛期を迎える。

神鳳寺は「真言律宗南方一派」の本山となり、畿内を中心に76寺もの末寺を擁した。

神鳳寺の繁栄を影に大鳥神社は衰退していったが、幕末より国学の発展に連動して神社復権を求める声が高まった。

社家である大鳥氏は断絶し、その後は和泉総社の神職が祭祀を引き継いだ。

堺出身の与謝野晶子が詠んだ歌碑(田辺聖子氏筆)があります。

駿河屋と言う菓子屋に生まれた晶子は、本名を鳳(ほう)志ようと言い、生まれた町の神として大鳥大社をいつまでも崇敬していました。

和泉なる
わがうぶすなの
大鳥の
宮居のすぎの
青きひとむら

日本武尊を祭神とするため武家の崇敬厚く、平治元年(1159年)には熊野参詣に向かう途上の平清盛・平重盛らが立ち寄り、清盛は以下の句を詠んだ。

かひこぞよかへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神

大略:蚕がかえって蛾になって飛びたてるように、我々も今から京に戻り武功を立てるのでどうか平氏一族を見守り育ててください大鳥の神よ、明治初年当社の大宮司であった富岡鉄斎の筆になるものです。

クスノキは一般に大きくなる木で相当の大きさでないと府県の天然記念物に指定されません。

しかし大鳥大社の御神木だけあって立派なものです。

樹勢もあり、支えなどもなく自立しています。

樹根が隆起していることから「根上がり」→「値があがる、価値が上がる、運気が上がる」とされ、古くより商売繁盛財運向上の大楠と伝えられ「根上がりさん」の呼称で親しまれています。

樹根部分の穴に「楠神霊」を祀ています。

日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。

遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。

これが大鳥神社の始まりだとされる。

神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。

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河内国一之宮 枚岡神社


枚岡神社の創始は皇紀前3年(紀元前657年)、つまり初代神武天皇が天皇に即位される3年前にできた神社。

国土統一を目指し九州日向国から東征してきた神武天皇は、ちょうど現在の枚岡神社の背後にある生駒山を越えて大和国に入ろうと試みた。

しかし長髄彦という豪族に阻まれ戦争が起きてしまう。

ナガスネヒコは、ニニギノミコトよりも早く天孫降臨したと伝わるニギハヤヒノミコトの親戚。

ニギハヤヒノミコトは枚岡神社のすぐ近くに鎮座する石切劔箭神社の御祭神だ。

社伝(『元要記』等)では、神武天皇即位前3年、神武東征に際して天種子命が勅命によって天児屋根命・比売神の2神を東方山上の神津嶽(かみつだけ)に奉斎したことに始まるとする。

その後、白雉元年(650年)に平岡連(平岡氏)らが神津嶽から現在地に奉遷したという。

上記伝承に見える天種子命は、『日本書紀』神武天皇即位前紀において筑紫の菟狭国造の祖の菟狭津媛と結婚したと見える人物で、神武天皇の侍臣であり中臣氏の遠祖とされる。

創建伝承の史実性は詳らかでないが、歴史考証上でも神津嶽における山岳信仰が創祀とされる。

そしてその祭祀には当地の古代氏族である平岡氏があたったが、平岡氏と中臣氏が同族関係を結んだことで、祭神が中臣氏祖の天児屋根命になったとする説がある。

なお、『和名抄』に見える地名のうちでは当地は河内国河内郡の豊浦郷に比定されるが、隣郡の河内国讃良郡には枚岡郷(異本は牧岡郷)があり、同地を枚岡神社の始源地とする説がある。

平安時代末期からは河内国の一宮として崇敬を受けたとされる。

ただし、一宮格を示す史料としては永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」に当社・恩智社・弓削社(弓削神社)を列記することが挙げられるが、一宮と明記する枚岡神社関係文書は中世期には無く、『大日本国一宮記』・『類聚既験抄』に記載が見えるのみになる。

天正7年(1579年)には織田信長の兵火で本殿や摂・末社17社を焼失[6][7]。

その後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建された。

明暦2年(1656年)の絵図には秀頼の再建当時という境内・堂塔の様子が描かれている。

それから下り、江戸時代の文政9年(1826年)に現本殿が造営されている。

また、神宮寺としては神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮庵・来迎寺・真堂寺の6寺があった。

神護寺と平岡寺は創建が中世まで遡るとされる。
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夜明けの街 住吉大社


社務所に夜明けの太陽が降り注ぐ。

神々しいばかりの陽が射しています。

ただ今5時半、開門は6時、まだ少し時間がある。

この時間帯の斜光は非常に強い。

前方は神館、この時間帯も熱心な信者さんの参拝が続く。

開門です、第二本宮の屋根越しに夜明けの陽が注ぐ。

梅雨の谷間の爽やかな夜明けです。

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ヤマトタケルの西征 建部大社


瀬田の唐橋の東約500m。

この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。

祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊が船団を従えて海路をたどったという故事に基づいて行われる建部大社の夏祭り「船幸祭」では、神輿を乗せた船団が瀬田川を行き交い、唐橋に近付くころになると夜空に花火が打ち上げられる。

滋賀県大津市神領にある神社。
式内社(名神大社)、近江国一宮。

旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「建部神社」。

2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。

社伝では、日本武尊の死後の景行天皇46年、日本武尊の妃・布多遅比売命が神勅によって、御子・建部稲依別命とともに住んでいた神崎郡建部郷千草嶽(現在の東近江市五個荘伊野部町付近の箕作山)の地に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが創建とされる。

建部郷の「建部」の名は日本武尊をしのんで名代として名付けられたことに因むといい、他にも各地に設けられている。

のち、天武天皇4年(675年)に近江の守護神として、現在地の栗太郡勢多へ遷座したという。

遷座後、元の千草嶽の麓には神護景雲2年(768年)に聖真大明神と建部大明神が設けられたとされ、現在は建部神社が建てられている。

源頼朝が平治の乱に敗れて伊豆国に流される道中、本社に立ち寄って源氏の再興を祈願、後に大願成就したことから、出世開運の神としても著名となった。

征西を命じる

天皇の命令で、皇子の小碓尊が熊襲征伐のため派遣されることになりました。

この時小碓尊(兄に代わり天皇の後継者となっていたので「尊」をつけています)はまだ16歳でした。

各地の敵を従えながらやがて相模国(現在の神奈川県)に辿り着いたときのことです。

この地の国造(くにのみやつこ:地方を治める官職の一種)は、言葉巧みにヤマトタケルノミコトを野に誘い出し、火を放ち殺そうと企みます。

騙されたことを知り、進退きわまったヤマトタケルノミコトは火打石を取り出します。

そして草薙剣を抜き辺り一帯の草を薙ぎ払い、火打石で向かい火を放ちます。

炎は逆方向に燃え広がり、ヤマトタケルノミコトは無事に生還。

国造らをすべて斬り滅ぼし、さらに火を放ちました。
この出来事が、草薙剣と言う名の由来になったと言われています。

オトタチバナヒメの入水

ヤマトタケルの一行は走水(はしりみず=現在の浦賀水道)に赴いたとき、海が荒れ、動くことができなくなった。

同行してきた后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを鎮めようと自ら入水。

これによりヤマトタケル一行は難を逃れたのだった。

ヤマトタケルと伊吹山の神

「日本武尊が東征から都(当時は大和の国)に帰る途中、伊吹山の魔物(豪族)を征伐するために伊吹山に来てみると、伊吹山を幾重にも大蛇が取り巻いていた。

そこで日本武尊は大蛇を跨いで通り抜けようとした時、毒気に当たって高熱を出して倒れてしまった」とあります。

毒気とは伊吹山に生息するトリカブトだと考えられています。

雲上の楽園「伊吹山」
滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山地主峰の標高1,377mの山。 滋賀県最高峰の山 … 続きを読む →

【伝説】日本武尊(やまとたける)が東の国征伐から帰る途中、伊吹山に荒神がいることを聞き・・・・・・

ヤマトタケルと白鳥伝説

大和朝廷全国統一のために命令を受け西方と東方に遠征、勝利を収めたが、帰途に伊勢の能褒野で没した。

ヤマトタケルは白鳥に姿を変え、大和に向かって飛び立った。

琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ったあと再び飛び立ち、河内の旧市邑(羽曳野市古市付近)に舞い降りた。

神門

明治2年(1869)膳所城城門の一つを移して神門とするが、昭和9年(1934)の台風で倒壊。
その後再建された。

拝殿


伊勢神宮遙拝所


近年人気なのは瀬田シジミ型の絵馬。

貝殻の内側に願いを書き、閉じて奉納するため願い事が他人に見られません。

絵馬を奉納する絵馬所は夜になると照明と相まって金色に輝きます。

なお、夜に参拝できるのは正月や船幸祭などの限られた日のみです。(通常17時閉門)

菊花石(きっかせき)は、菊の模様が浮き出た不思議な石です。

本殿の裏にあり、自然に菊の模様が浮き出たという珍しい石です。

特別天然記念物に指定されていて、病気平癒や長寿のご利益をいただけるそうです。

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穴場!あじさいの隠れ名所 楊谷寺


参道を奥に進むと石段があり、これを上ると『立願山』の額のかかった「山門」が建っている。

長岡京駅では一番のシャトルバスに乗ったのですが既に50~60人の行列ができている。

今日はアジサイウィークと縁日が重なりご覧のような状況。

山門前の阿形の雷神像。

阪急電鉄京都本線西山天王山駅からタクシーで10分。

阪急電鉄京都本線長岡天神駅からタクシーで15分、又はバスで奥海印寺下車後徒歩40分。

西日本旅客鉄道東海道本線(JR京都線)長岡京駅西口からタクシーで15分またはバスで奥海印寺下車後徒歩40分。

というのが本来の姿。

毎月17日の縁日のみ楊谷寺門前まで送迎シャトルバスの便あり。

西山天王山駅東口およびJR長岡京駅西口の2カ所から発着している。

今日は上書院寺宝特別公開がある。
本堂からずっと通しで見られる。

柳谷観音(楊谷寺)は、西山浄土宗総本山光明寺の末寺で、清水寺を開けた延鎮僧都を開祖とします。
伽藍は山の斜面に造られており、奥ノ院と本堂は美しい庭園のある長い回廊で結ばれて います。

しかし、アジサイウィークの志納料と合わせると1500円はちと高いかな。

随所に花手水が用意してある。

楊谷寺、善峯寺、光明寺の3つの寺院は「西山三山」と呼ばれる。

本堂と書院は渡り廊下でつながっており、目の前には江戸時代に作庭された名勝庭園(浄土苑)が広がる。

あじさいの名所としても知られる当山では、毎年6月初旬~7月上旬にかけて、境内に京都最大規模の約5,000株のあじさいが咲き誇ります。

天皇家公家や特別なお客様のみをお通ししてきた上書院からは、戦前に古都百庭として選ばれた名勝庭園(浄土苑)が眺められ、その素晴らしい眺めは多くのVIPに愛されてきました。


【あじさい回廊】

建物内にあり、書院から奥之院まで続く回廊。

名勝庭園やあじさいに彩られた回廊を楽しめる。

愛染堂の前には石版を背負わされている天邪鬼がいて、「あいりきさん」と呼ばれている。

東大寺の香炉を支えている鬼は「邪鬼」と呼ばれている。

寺で見かける邪鬼は、四天王から懲らしめられている小悪魔たちのように見えるが、本当は四天王たちの部下であり、お釈迦様の説法や仏法を邪魔するためにやってくる悪魔たちを追い払うために四天王から「やっつけてこい」と指示を待つ夜叉神(善神)であり、つまり護法神ということになる。

遠景に比叡山も望める。





【あじさいのみち】

本堂から奥の院へと続く参道では、多種多様なあじさいを愛でながら境内を散策できる。

京都にはあじさいの名所とされる寺院はいくつかありますが、その中でもこの「柳谷観音・楊谷寺」は交通の便がよくありません。

京都縦貫自動車道の全線開通により車でのアクセスが向上したものの、一部山道の狭路を走る必要があります。

そのため、大型バスがツアーで大挙押し寄せるようなお寺ではないのでじっくりとあじさい見物を楽しむことができます。

愛らしい仕掛けもあります。




淀殿弁天堂。

美顔美人と芸技達者にご利益がある。

お堂の傍には、淀城に住んでいた淀殿が、毎日顔を洗っていた伝聞が残る湧き水が今も残っている。

淀殿が、当山の観音を信仰し寄進した事を知った信者が、故事に因み寄進した「淀殿人形」が、お前立として置かれている。

この人形は、有職御人形師十二世伊東久重氏によるもの。


境内では弘法大師(空海)が眼病に効く御霊水とした独鈷水(おこうずい)を いただくことができ、毎月17日のご縁日には各地からの参拝者で賑わいます。

独鈷水は、江戸時代に眼の悪かった霊元天皇がそれで眼病を治癒したのをきっかけとして、以後歴代の天皇へ献上されるようになり、明治時代となって皇居が東京に移るまで献上は続けられた。

伝承によれば、弘仁2年(811年)、楊谷寺を参詣した空海は、堂の傍らの湧き水で、眼のつぶれた小猿を抱いてその眼を懸命に洗っている親猿を見かけると、小猿のために17日間の祈祷を行った。

すると満願の日に小猿の眼が見事に開いた。
それ以来、空海はその湧き水を眼病に効く独鈷水として広めたという。

また 毎月17日のみ、御本尊の十一面千手眼観音を拝観することができます。




ハート形のアジサイもありました。

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日の出 住吉大社


光が心地よい朝の住吉大社。

梅雨も一休み、青空が広がっています。

第三本宮と第四本宮の間にさす光が好きです。

今6時20分、空に気持ちよさそうな雲が浮かんでいます。

奥に進んでみます。

光が射し込み厳かな雰囲気が広がります。

御文庫(おぶんこ)施主は大坂を中心にして、京や江戸の書籍商たちだった。

奉納された書物は膨大な数に上ると言われています。

侍者社(おもとしゃ)

初代神主田裳見宿禰を顕彰して、住吉大神の最も御傍にて祀ることから、侍者(おもと)と称したのではないかとされています。

近年では「神と人」を結ぶ、仲執り持ちの役目を担ったことから、縁結びの神として篤く信仰されています。


楠君社に来ました、光が強烈です。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

五所御前、多くのインバウンドであふれていましたが今はひっそりとしています。

この『五所御前』は約1800年前に住吉大神鎮座の際、最初にお祀りされた場所と伝えられる神聖な場所です。

体力・智力・財力・福力・寿力が授かるといわれており、御守にして持つと心願成就という。

参拝者が水をジャバジャバかけていきました、水に濡れるといい感じです。


丹後局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました、後の島津氏初代・島津三郎忠久公である。

正面から見たところ、薩摩藩士の燈籠が並び島津家代々の信仰と藩士の忠義を遺す石燈籠です。

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朝の街 住吉大社


朝の清々しい光の中、若い神職が拭き掃除をしている。

この時間帯人のまばらな境内は静寂が支配している。

五所御前は、住吉大神が降臨した聖地。

神功皇后は、この地の杉の木に白サギが3羽とまるのを見て、住吉大神を祀ることにしたのだという。
 
5月初卯の日には、卯之葉神事が執り行われる。

玉垣内の敷かれた砂利の中から「五」・「大」・「力」と書かれた石を見つけてお守りにすると心願成就の御利益が得られるという。 

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →



住吉大社の一寸法師伝説 | きままな旅人

一寸法師の話は室町時代に作られた「御伽草子(おとぎそうし)」の中にあるが、二人が願をかけた神社が大阪の住吉大社なのです。 話の最後は「住吉大社に誓いをたてれば、将来、必ず栄える」という内容の言葉で結ばれている。 住吉大社の …

現在、大海神社は住吉大社の「摂社」とされているが、もともとは「大海神社」の方が先に鎮座していたという。

というのも、住吉大社の祭主「津守氏」の氏神だからである。

『玉葉』承安4年(1174)12月6日条によれば、大海神社神殿は天仁・長承・仁平・承安とおよそ20年ごとに改築が行われたことが記されています。

本殿の神額、住吉鳥居の向こうに扉絵、扉絵は金箔張りで松と住之江を千石船が走る様子が描かれています。

海幸山幸の神話は、誰もが一度は聞いたことのある物語です。

「兄の海幸彦は海で漁をし、弟の山幸彦は山で狩猟をして暮らしていました。

ある日、兄弟は釣り針と弓矢を交換して海幸は山へ、山幸は海へ出かけましたが、弟は魚に釣り針をとられてしまい、代わりのものを作って返しましたが、兄は許してくれません。

途方にくれ山幸が海辺にたたずんでいると塩椎(しおつち)神が現れ、山幸を小船に乗せ海神(わたつみのかみ)の宮殿に行かせました。

そこで海神の娘豊玉毘売と出会い結ばれました。

幸せな3年間の生活が過ぎたころ、山幸彦はふと釣り針のことを思い出し、海神の助けを得て鯛の喉から釣り針を見つけ出し、ワニの背に乗って地上に帰りました。

そして海神に授けられた潮を操る霊力を持つ塩満(しおみつ)珠と塩乾(しおふる)珠の呪力によって兄を屈服させました。

異界に出かけてその世界の神の娘を妻とし、異界の呪物を手に入れて地上に戻り、兄を服属させるという展開は、九州南部に勢力を張り長く王権に従わなかった隼人(はやと)を海幸彦とし、それをヤマト朝廷側の山幸彦(=ホホデミノミコト)が屈服させる。

すなわちヤマト朝廷が隼人族を支配することの起源神話となっています。

『古事記』の神話はここで終わり、ホホデミノミコト(山幸彦)の孫、初代天皇の神武天皇が即位し、物語は神々の時代から人の時代へと移り、天皇家の歴史物語が始まります。

生根神社、祭神について『摂津名所図会』や『住吉名勝図会』では少彦名命とする一方、『神名帳考証』では活津彦根命とする説を挙げる。

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では摂津国住吉郡に「生根神社大月次新嘗」として、式内大社に列するとともに、朝廷の月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている。

文明14年(1482年)には境内に天満宮が祀られ、この天満宮が信仰を集めたため生根神社自体も「奥の天神」と通称されるようになっていた(「奥」は、住吉大社から見て大海神社のさらに奥に鎮座したことによる)。

慶長年間(1596年-1615年)頃には、現在の本殿が造営された。

江戸時代は住吉大社の摂社として推移しており、『住吉松葉大記』には摂末部に「奥天神社」として、住吉神宮寺の社僧が奉仕する旨とともに記されている。

明治維新後、明治5年(1872年)に住吉大社から分離独立のうえ、近代社格制度において郷社に列した。

また明治40-44年(1907-1911年)には近隣の塞神社2社(いずれも旧無格社)・竜王神社(旧無格社)・種貸神社(旧村社)が境内に移されている。

大阪市西成区に同名の生根神社がある。

創建時期は不詳であるが、一帯は住吉大社の神領であったことから、住吉大社摂社であった生根神社(奥の天神。現在は住吉大社から独立)から、少彦名神の分霊を勧請して玉出の産土神としたのに始まると伝えられている。

また、それ以前から蛭児命を祀っていたとの伝承もある。

当神社のある玉出の古名を勝間(こつま)村と言い、当地の名産であった小ぶりで、色の濃い、味わい深いかぼちゃを記念した塚。

江戸時代の大坂では天王寺蕪と並んで有名ななにわ野菜であった。

勝間商人によって、勝間街道を使って大坂まで行商された。中風除け、風邪除けとして冬至にはよく食べられたという。

当神社でも冬至に「こつまなんきん祭」として、蒸しかぼちゃを参拝者に振舞う「こつま南瓜蒸し」神事が行われる。

蒸しかぼちゃを食べ、中風除け・ボケ払い・無病息災を祈願する。
当日はなにわの伝統野菜から作った飴や、こつま南瓜が原料の焼酎も販売される。

石大鳥居再建の記 

石碑、元は慶応年間に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として建立した東大鳥居であったが、解体撤去され現在の地に住吉名所保存会によって再建された。

住吉大社の東の慈恩寺に、見事な桜の大樹が十数本ありました。

後醍醐天皇が住吉大社に行幸の折、慈恩寺の桜があまりにも見事であったので車を引き返らせたことから、慈恩寺の桜を『後醍醐天皇車返しの桜』と呼ぶようになりました。

この桜の花を偲んで、大阪市の『未来樹』に指定して戴き、住吉武道館前に植樹した。

浅澤社(初辰まいり巡拝社)

美容・芸能の神様

住吉の弁天さまともいわれ、芸能・美容の守護神として崇敬をあつめています。

特に女性の方からの信仰が篤く、住吉参詣の時にはここを訪れる慣わしがあります。

鎮座地は、古来「浅澤沼」があり、カキツバタの名所として万葉集にも詠まれています。

祭神
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)

浅沢神社の案内板によると、昔、ここらに清水が湧き、浅沢の池があり、そこに咲くカキツバタが有名になり、歌に詠まれていた。

昭和になり、池が涸れ、カキツバタに代えて花菖蒲が移植されたとのこと。

平成になり、近くの細江川の改修工事に合わせ、水脈を確保し、新たにカキツバタを植えたとのこと(財団法人住吉名勝保存会)。

大歳社(初辰まいり巡拝社)

収穫・集金の神様 大歳社

初辰まいりにて最後にお参りする神社で収穫の神様をお祀りする大変歴史のある古社です。

祭神
大歳神 (おおとしのかみ)

もとは五穀収穫の神として信仰されてきましたが、いつの頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として広く信仰されるようになりました。

また、大歳社境内に鎮座する、おいとしぼし社の「おもかる石」は願いを占う石として知られ、行列ができるほどの賑わいを見せています。

御田植神事は、神功皇后が211年住吉大社の鎮座に際して御供田に田植えをさせられたのに始まる歴史あるもので、明治維新の際に御田が民間に払い下げられ、御田植神事も廃絶しそうになったそうです。

その際に、大阪新町廓が御田を買い上げ住吉大社に寄進、それを機に新町廓の芸妓が、田植えを行う植女を奉仕するようになったそうです。
夕霧太夫の面影をもとめて新町を歩く
四ツ橋駅~西六平和塔~新町橋~新町通(瓢箪町)~新町北公園~新町九軒桜堤跡の碑~ … 続きを読む →

そんな新町廓も現在はなくなり、今は財団法人上方文化芸能協会が引き継いでいるそうです。

住吉大社お田植え神事2013
社伝によれば、千七百六十余年の昔、神功皇后が大社を御鎮祭の後、長門国から植女を召 … 続きを読む →

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早朝 住吉大社


夜明けの住吉公園。
この橋は、大正初期の大改修(大正7年~8年)に造られ、唯一当時のまま残されている石橋。
心字池の景観上重要な石橋。

住の江は摂津の国の歌枕で今の大阪府の住吉大社の付近の海の入り江であった 住吉の津などとも呼ばれた

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ   
古今和歌集 藤原敏行

我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ              
古今和歌集 詠み人知れず

住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て           
藤原定家

まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱             
藤原定家

松と海岸が広がる美しい景色のことを「住吉模様」と呼びます。
実は住吉公園のあたりはかつて海岸線があり、松が植わった風光明媚な土地だったのです

住吉大社の松は歌枕の「住吉の松」として古来著名であったが、江戸時代の天明期に枯れ始めたことを惜しんだ俳人たちが「松苗勧進」を行って献木を斡旋し、併せて俳句の献詠を募り「松苗集」として住吉御文庫に奉納した、ことに因むそうです。

この神事は緑化運動の先駆けともされています。

松苗神事は境内に松の苗を植樹し、献詠俳句の秀作を披露する神事です。

平安時代から伝承される、白拍子舞と熊野舞が奉納されます。

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →


住吉大社前に広がる住吉(すみのえ)の津は、古くから外交や交易の港として栄えましたが、江戸時代の半ばより大和川の付替えなどがあり、大量の土砂が流入して堆積し、その後、埋立開発が急速に進み、海岸線は西に遠ざかってしまいました。

住吉公園は住吉大社の旧境内で、公園を東西に走る「潮掛け道」は大社の表参道でした。

汐掛道の記

ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所で、社前から松原が続き、すぐに出見(いでみ)の浜に出る名勝の地であった。

松原を東西に貫く道は大社の参道で、浜で浄めた神輿が通るため、「汐掛道」と称され、沿道の燈籠は代々住友家当主の寄進になり、遠近の参詣や行楽の人々で賑わった。 古くから白砂青松の歌枕の地として知られ、近世には多くの文人・俳人がここを往来し、大阪文芸の拠点の一つとなっていた。 

財団法人 住吉名勝保存会

霰松原
古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるよう … 続きを読む →

古代、住吉のあたりは海岸に沿って美しい松林が連なり、あられ(霰)が吹きつけるように風が吹いていたので「霰松原」と呼ばれていた。

松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。

日本庭園部分です。
公園の中の源流部分。石材が豊富に使われています。

源氏物語の碑

真住吉(ますみよ)し 住吉の国」は 万葉の昔から数多くの和歌や文学作品にその名をとどめている

源氏物語 澪標(みおつくし)に描かれた 明石上(あかしのうえ)の悲しい恋もこの地が舞台である。 
船で訪れた明石上はなつかしい 光(ひかる)源氏の華やかな住吉詣に出合ったが 再会することなくそのまま帰る。

中世の住吉は王朝貴族の住吉詣が多く平安のみやびにつつまれていたこの碑はかかる王朝をしのび 歴史を振り返り 郷土を愛するためのよすがである。

昭和五十七年四月吉日
財団法人住吉名勝保存会 建之

住吉公園駅は大正2年に開業。

南海電鉄の住吉大社駅に隣接している。
阪堺電軌によると、最盛期の昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

1日に約200本の電車が運行されていたが、利用客が年々減少していた。

↑2016年1月に廃駅となった住吉公園駅。
駅表示が戦前のままというレトロな駅だった。

前の灯篭は住吉灯篭

住友灯籠とは住吉大社の参道にある石灯籠の事です。

江戸時代から明治の初めにかけて、この地域は、四国の別子銅山から海路運ばれてきた、銅の精錬所があり、銅貿易の中心地でした、その中核が住友家でした、住友家が海路の安全と、家業の繁栄を願い、住吉大社の参道に石灯籠を寄進したのが住友灯籠です。

住吉社は律令制下でも遣唐使との関わりが深く、『延喜式』祝詞[原 7]では遣唐使の奉幣時の祝詞に「住吉尓辞竟奉留皇神」と見えるほか、『万葉集』天平5年(733年)の入唐使への贈には遣唐使船を守る神として「住吉の我が大御神」と詠まれている。

また、円仁は『入唐求法巡礼行記』において遣唐使船の船中で住吉大神を祀ったと記すほか、『日本後紀』では大同元年(806年)に遣唐使の祈りをもって住吉大神に叙位のことがあったと見え、『日本三代実録』では渡唐する遣唐使が住吉神社に神宝を奉ったと見える。

また、神職の津守氏からも遣唐使になった者があった。

後世もこのような航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から600基以上の石燈籠が奉納されている。

一の鳥居と反橋

正面神池に架けられた神橋は「反橋」と称し、住吉の象徴として名高く「太鼓橋」とも呼ばれております。

長さ約20m、高さ約3.6m、幅約5.5mで、最大傾斜は約48度になります。

この橋を渡るだけで「おはらい」になるとの信仰もあり、多くの参詣者がこの橋を渡り本殿にお参りします。

現在の石造橋脚は、慶長年間に淀君(太閤秀吉の妻)が豊臣秀頼公の成長祈願の為に奉納したと伝えられております。

かつての「反橋」は足掛け穴があいているだけで、とても危なかったそうです。

川端康成は作品『反橋』(昭和23年)において、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです、私は母に抱かれておりました」と記しています。

架橋当時は住吉大社付近に海岸線があり、本殿と対岸の入り江を結ぶ目的で架橋された橋だとされている。

現在は池の上に橋が架かっている形になっているが、この池は当時の入り江の名残だとされている。

橋の基礎部分については創建当初のものをそのまま使用していると考えられている。

その一方で、木製の橋桁や欄干は老朽化に伴って何度もかけ直され、直近の掛け替えは2009年におこなわれた。

島津忠久には以下のような誕生伝説が伝えられている。

丹後局が頼朝の寵愛(ちょうあい)を受けて子供を身ごもるも、これを知った頼朝の正室北条政子に妬まれたため鎌倉を逃れた。

摂津国(現、大阪府)住吉大社までたどり着き、雨の降る夜に狐火に照らされて忠久を産んだ。

現在、住吉大社の境内には忠久誕生石が存在し、島津家における稲荷信仰や雨を瑞兆とする慣わしはこの故事に由来するものである。

その後、元旦参拝のため住吉大社を訪れた摂政(せっしょう)近衛基通(このえもとみち)に救われ、丹後局はその家来の惟宗広言(ひろこと)のもとに嫁ぐことになった。

このため忠久も惟宗を名乗ることになった。

頼朝は誕生の知らせを受け「三郎」の名を与える。

元暦2(1185)年に頼朝と初めて対面し、頼朝の家臣畠山重忠(しげただ)の一字を得て「忠久」と名乗る事になったという。
 
この伝説を背景として、八景釜や血吸が島津家に代々伝えられてきた。
また、十字紋も頼朝から授かったものという説もある。


住吉大社角鳥居

本宮域の幸寿門前に立つ。
石造で、柱に大面取の角柱を用いるが、貫を通し、反りのある島木・笠木を重ねるなど明神鳥居の形式とする。

重心の低いどっしりとした造形で境内の他の鳥居と一線を画する。
同社を代表する鳥居として古くから参拝者に親しまれている。

昭和天皇御製。

いくさのあといたましかりし町々を
わが訪ふたびに立ちなほりゆく

台座には「在位六十年記念奉祀記念」と彫られています。


「升買て 分別かはる 月見かな」と刻まれた、俳人・松尾芭蕉の句碑。

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。

13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。

折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。

その翌日の句席で「升買て……」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。

すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。

その後、芭蕉は発熱下痢を伴い、大坂の花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方、51歳の生涯を閉じた。

この宝の市を詠んだ句は、住吉公園東入り口に、明治元年(1864)芭蕉170回忌に大阪の俳句結社・浪花月花社が建てたもの。

高燈篭は古くから住吉の名所として広く知られ、日本最古の灯台といわれています。

江戸時代の浮世絵にも描かれている高灯篭は、鎌倉時代の創建で現在見られるのは復元されたもの。 夜は灯台として、昼は展望台として使われたそうです。

高燈籠復元の記

昔このあたりが美しい白砂青松の海浜であったころ 海上守護の神住吉の御社にいつの頃にか献燈のため建てられた高燈篭は数ある燈篭の中で最高最大のものであり その光は海路を遥かに照らし船人の目当てとなって燈台の役割を果たし 長峡の浦の景観を添えていた。

寛永年年間の摂津名所図会に「高燈篭出見の浜にあり 夜行の船の極とす 闇夜に方向失ふ時◆中略◆この燈篭の灯殊に煌々と光鮮也とぞ」と見えるが 往時の面影が偲ばれる。

旧高燈篭はここより二百メートル西にあって明治の末年迄度々大修理が行われた戦後台風のため木造の上部は解体され更に昭和四十七年道路拡張のため基壇石積も全部撤去されたが住吉の名勝として永く府民に親しまれた。

この文化遺産を後世に伝えるため 住吉名勝保存会を結成しその復元再建を計り 財団法人日本船舶振興会 その他地元会社有志の寄附を仰ぎ大阪府市の援助を得てこのゆかり深き住吉公園の地に建設されたのである。

昭和四十九年十月吉日  財団法人 住吉名勝保存会

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早朝散策 住吉大社


光が清々しい朝の光線です。

この時間帯乗客もまばら。

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。

例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。

本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。

ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。

元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文[原 1]では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。

一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。

実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったとみられ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。

朝の強い光に美しく浮かび上がる門。

屋根は檜皮葺 (ひわだぶき) でできており、直線的な屋根で切妻造りです。

第三本宮と第四本宮の間を進む、霧がかかり、空も魅力的だ。

第一本宮の南側には五所御前(ごしょごぜん)という玉垣の区画があり、内側には杉の木が生育する。

社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に3羽の鷺が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという。

元々は祭神来臨の神事を行うミアレ所(御阿礼所/御生所)であったとする説もある。

現在は「高天原」とも称され、毎年5月初卯日(住吉大社創建伝承日)の卯之葉神事ではこの五所御前に卯の葉の玉串が捧げられる。

『五』『大』『力』と書かれた石を拾い御守にすると願い事が叶うという信仰があります。

右は若宮八幡宮 祭神:応神天皇、武内宿禰
本宮南側、五所御前の南側において西面して鎮座する。
祭神の応神天皇は神功皇后の子。
1月12日の例祭では湯立神楽が奉納される。

住吉大社 若宮八幡宮例祭 湯立神事
1月12日、住吉大社で若宮八幡宮例祭 湯立神事が行われた。 穀物の豊穣を祈るため … 続きを読む →


第一本宮の南側には石舞台がある。

南門・東西楽所と同様に慶長12年(1607年)の豊臣秀頼の再興による造営。

池に架けられた石造桁橋(幅約11メートル×長さ約12メートル)の上に、一辺約6メートル、高さ約0.5メートルの規模で築かれている。

前面に階段を付し、舞楽を演じる際には上面に木製の高欄が取り付けられる。
「日本三舞台」の1つに数えられるとともに、国の重要文化財に指定されている。

古式床しく 卯之葉神事 住吉大社
住吉っさんがこの地に鎮座したのが、神功皇后摂政11年(211)の卯年の卯月の卯日 … 続きを読む →

5月の青葉に彩られた神池にかかる石舞台で天王寺楽所 雅亮会により舞楽が行われる。

池の水が抜かれている、初めて見た。

静かな場所で小鳥たちの大切な場所のようだ。

初辰まいりの中心的な神社で「はったつさん」と親しまれ、古くより商いを営む方から篤い信仰を受けています。

ここには樹齢千年を超える楠(くすのき)があり、江戸時代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。

その後、根元に設けられた祠に神様をお祀りするようになったといわれています。

参拝の際、招福猫を受けて祈願し、これを48ヶ月間(4年間)続けると「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の福が授かるとして日本全国より崇敬を集めています。

招き猫は、左手は人招き、右手は金招きといわれ、奇数月は左手、偶数月は右手を求める慣習があります。

種貸社、楠珺社、浅澤社、大歳社の四社をそれぞれにお参りするのが慣わしとなっています。



住吉大社境内では、かつて神宮寺が営まれていた。

『古今著聞集』では本地仏の高貴徳王菩薩の託宣があったとし、『住吉松葉大記』では天平宝字2年(758年)の創建とし、新羅渡来の薬師如来を本尊としたため「新羅寺」とも称されたとする。

津守寺(廃寺)・荘厳浄土寺とともに住吉の三大寺に数えられていた。

明治初年、神仏分離令により廃絶、多くの著名な秘仏も散逸したが、そのうち西塔は徳島県切幡(きりはた)寺に売却、移築され現存している。

なお今に伝わる住吉踊りは、ここの僧徒により広められたものという。

住吉大社には、国宝建造物である住吉四本殿や重要な文化財建造物の他にも重要文化財指定の住吉大社神代記、舞楽面、太刀を始め、古文書類、舞楽装束等の貴重な宝物類が点在して格納され、保存施設設備も十分ではありませんでした。

これら貴重な文化財を火災、破損、散逸等から守るため、一堂に収納保管し、また一般にも公開する等我々祖先が残した大切な遺産を永く後世に継承するため昭和52年5月住吉大社境内地に住吉文華館を建設した。

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