「あじさい寺」丹州観音寺


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今日はNikon Nikkor Z 24-200mm f/4-6.3 VRの筆おろしの日。
便利ズームという概念が破壊されていておじさんびっくりしちゃったよ!

とか、至高の万能レンズ の必要性が分かる動画~とか、なかなかの評判だ。

寺伝によれば、養老4年(720年)、法道仙人による開山とされ、法道が本尊十一面千手観音菩薩を刻み草堂に安置したのが始まりだという。

画像は、仁王門 明治29年の台風に倒壊し、昭和6年に鎌倉様式で再建されたという。

その後応和元年(961年)、空也により中興され七堂伽藍が建立されたと伝える。

法道は兵庫県播磨地方を中心に寺院開基伝承が残る伝説上の人物である。

鎌倉時代、北条時頼・貞時らの厚い庇護を受け、25余坊の寺坊が軒を並べる中本山の寺院として栄えた。

しかし、天正4年(1576年)、明智光秀による焼き討ちにより焼失した。

現在では、丹波のあじさい寺として知られている。

20世紀半ば頃、秘仏本尊開帳時に万灯万華を供養しようと発願され、その万華の花としてアジサイが選ばれ、多種栽植されたのが始まりである。

丹州観音寺は、奈良養老四年(720年)にこの地を訪れた法道仙人によって開かれたお寺です。

平安時代(961年)になって、空也上人が七堂伽藍を建立し、丹波地方の観音信仰の中心となって栄えてきました。

その後鎌倉時代に最盛期を迎え、北条時頼・貞時等の比護を受け、25余坊の寺院をもつ中本寺の寺として栄える。

約3600通余りの古文書、聖教類(京都府指定文化財)が現存します。

観音寺には、かわいいお地蔵さんがあちこちにおられます。

“今がわるくても 悲観することはない 曇り空のむこうに 青空があるように かならず 幸せは やってくる”

また、丹州観音寺の本堂を参拝するには石段を上らないといけません。

その高さにやや怯んでしまう人もいるであろう石段なのですが、意を決してその石段を上り始めると、手すりの部分に励ましの言葉が。

石段の一段一段に奇麗なアジサイが・・・・・・
今の辛い歩みも無駄ではない、とポジティブ思考をしてしまうような細かい”仕掛け”があるのです。

本堂

あじさいと並ぶ境内のフォトスポットが、本堂の格子のスペースに所狭しと並べられた「だるまみくじ」。

おみくじを格子のスペースに埋めるきっかけとなったのも、お寺を訪れた参拝客なのだとか。

もちろん持ち帰りも可能ですが、多くの方がだるまの背中に願い事を書いて格子に並べるのだそうです。


千羽鶴がきれいです。


ほおずえ地蔵

慈母観音 沙羅双樹も咲いています。

2019年からは手水舎にあじさいを浮かべる「花手水」が新名物となっています。

ピンクや白もありますが、あじさいはやっぱり青が綺麗。

「小国鶏」(しょうこくけい)とあじさいが織り成す景色は、まるで伊藤若冲の世界のよう。

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地獄から極楽へ 全興寺


今から1400年前の昔、聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立して、薬師如来の像を安置されたと寺伝にあります。
これが全興寺の草創です。

その薬師堂を中心に、次第に街が形づくられたことから、「平野」発祥の地とも言われています。

寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。

薬師堂の建立後、周りに人が住み始め、町を形成していった。

これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が転化して「ひらの」になったと言われている)。

中世には藤原氏の荘園となり、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商らが環濠を築き上げ、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。

大坂冬の陣では徳川秀忠の軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられている。

大坂夏の陣により町は戦火に飲まれたが、すぐに再建。

大阪大空襲の被害も逃れ、今日もこの一帯は江戸時代からの古い町並みが残っている。

全興寺の本堂は天正4年(1576年)に建造され、大坂夏の陣で一部を焼失。

1661年に再建されたもので、大阪府内でも有数の古い木造建築となっている。

そして一願不動尊(いちがんふどうそん)の雲海では、中央に立っておられるお不動さまの池に鯉が泳ぎ、時折白い水蒸気の雲海がたなびきます。

地獄堂

西門に入って右手に地獄堂がある。
入り口の壁面には「地獄度・極楽度チェック」というコーナーが設けられており、10問の2択の質問に答え、その結果によって地獄行きか極楽行きかの判定がなされる。

いきなり怖い言葉が・・・・・

堂の中は薄暗く、閻魔大王や2メートル以上ある鬼の像が置かれており、閻魔大王の前にあるドラを叩くと、大王がしゃべり出し、地獄の様子がビデオで映し出される仕組みとなっている。

その恐ろしさに途中で泣いて逃げ出す子も多いが、最後は閻魔大王が「こんな所に行かぬよう、悪いことをせず、自分の命を大切に」と諭すという。

地獄堂の設立は1989年。当時は中高生のいじめや自殺が大きな社会問題となっており、住職の川口良仁は何とか出来ないかと考えていた。

そんな中、近所の高齢の女性から「昔、親に「悪い事をしたら地獄へ落ちる」と怖い顔で何度も言われ、そのせいで年を取っても悪い事をする気になれなくなった」という話を聞き、それをヒントに江戸時代からあった古い堂を改装し、名前を「地獄堂」と改めた。

当初は人が入ると自動ドアで扉が締め切られる仕様だったが、あまりの恐怖に叫び出したり、非常ベルを押したりする人が続出した為、ドアを開けっぱなしにしている。

閻魔大王が「命を大切に」と言っているのは、子供の自殺が頻発していた頃であった為だという。

地獄堂を出た所には中に首を突っ込むと地獄の窯の音が聞こえるという穴の開いた石がある。

小林新聞舗店舗

2つずつ配したアーチ形の窓枠が特徴のレトロな建物で、「新聞屋さん博物館」にもなっている。

明治 22 年 (1889 年 ) 創業の、市内でもっとも古い新聞販売店で、建物は昭和 4年(1929 年)に建てられた。

平成 19 年(2007年)国の登録文化財となった。

旧南海電鉄平野線平野駅跡プロムナード

チンチン電車の愛称で親しまれた南海電鉄平野線の軌道跡地に、昭和 58 年(1983 年)に設置された遊歩道。

南海電鉄平野線は、大正 3 年(1914 年)開通以来、多くの人々の交通手段として活躍したが、地下鉄谷町線の開通に伴い、昭和 55 年(1980 年)に廃止された。

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桜の寺としても名高い世界遺産「龍安寺」


今日の桜旅は北野天満宮からスタートです。

連歌所の井戸の横には、枝垂桜が咲きます。
まだそれほど大きくはありませんが、これからの成長が楽しみです。

北野桜は、北野天満宮の本殿などの東側にある社務所前で咲きます。

一重で中輪の白い花を咲かせる樹齢約120年の桜です。

開花が進むにつれて色が白からピンクに代わる特徴があり、北野天満宮の御神木として大切にされてきました。

特に名前も付けられていませんでしたが、桜の新品種に認定され、「北野桜」と命名されたのは、2016年と実は最近のことです。

ここがらタクシーで原谷苑に向かいます。(先日ブログ化)
原谷苑の後、タクシーで仁和寺に向かうも御室桜はまだ蕾。

徒歩で龍安寺へ。

龍安寺山門 – 江戸時代中期再建。

宝暦5年(1755年)洪水により破損し再建される。

寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。

桜の季節は、桜の島が池に浮かんでいるようにも見えて、かわいらいしい風景です。


龍安寺の桜 龍安寺の桜苑の光景。

龍安寺には鏡容池の他、桜苑と呼ばれる所に桜が植えられており、訪れる観光客、参拝客の目を楽しませてくれる。

桜苑には、八重紅枝垂れ桜が多く植えられており、こちらも見ごろとなっていました。

桜が多いですが、中には「枝垂れ桃」という変わった桃も。

龍安寺は、京都市右京区龍安寺御陵下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。

大本山妙心寺の境外塔頭。
山号は大雲山。
本尊は釈迦如来。
開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。

もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。

円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。

この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。

初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。

義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。

創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。

『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。

方丈庭園(国の史跡・特別名勝)、いわゆる「龍安寺の石庭」。

白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。

幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。

これらの石は3種類に大別できる。

各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。

塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることや、これらの石は全て戦国武将の織田信定が運んだことでも有名。

どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。

今では枯山水の石庭で世界的に知られていますが、ここまで有名になったのは1975年にエリザベス2世が龍安寺を公式訪問した際に石庭を称賛したのがきっかけ。

当時の禅ブームの後押しもあって世界的にブレイクしました。

また石庭の正確な築造時期や作者、意図などが定かでないため、謎深き庭として様々な憶測をよんでいます。

方丈(重要文化財)

元の方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。

慶長11年(1606年)、織田信包による建立。

本来ここには狩野派の手による襖絵があったが、それらは明治初期の廃仏毀釈の影響により寺から出て散逸してしまった。

現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、1953年(昭和28年)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれたものである。

知足の蹲踞(つくばい) – 蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢のこと。

茶室「蔵六庵」の露地にあり、水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられている。

見学コースで方丈北側にある蹲踞は精密な複製である。

蹲踞の上部にある文字は一見「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と読めるが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見て「吾れ唯だ足るを知る」となる。

「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものである。

桜が美しい鏡容池では、春は桜と雪柳、夏は睡蓮や蓮の花、秋には鮮やかな紅葉が見られます。

鏡容池には弁財天の鳥居が建つ弁天島と伏虎島(ふしとらじま)の二つの島があります。

鏡容池を左に見て石庭拝観入り口の庫裏に向かう道には背の高い紅枝垂桜から花の枝が降り注ぎます。

桜の特徴
サクラの種類によって微妙に咲く時期が異なるため、長期間にわたり楽しむことができます。

桜の種類
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ベニシダレザクラ、ヤエザクラ

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法然院


閑静な住宅街を抜けると、うっそうと茂ったみどりのなかに総門の石段が見えてきます。
左側の石碑にある「圓光大師」とは、浄土宗の開祖・法然上人のこと。

鎌倉時代に生きた法然上人ですが、江戸時代、元禄10年(1697)に初めての大師号(高徳な僧に朝廷から贈られる尊称)が贈られました。

大師号といえば、最澄の「伝教大師」、空海の「弘法大師」が有名ですね。法然上人は、現在までに8つの大師号を下賜され、生前の遺徳を讃えられています。

2019年春、参道に新たな枯山水庭園が作庭されました。

ガラス造形作家・西中千人さんによるガラス枯山水“つながる”。

苔の築山の上に配されているのは、石ではなくリサイクルガラス!
そして苔の島を正面に見るとグリ石が山の方から崩れ落ちているようなデザインもかっこいい。

白砂壇(びゃくさだん)
Byakusadan-Terrace of White Sand

山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。
水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

寺の起こりは鎌倉時代に法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。

江戸時代の延宝8年(1680年)に、知恩院の38世である萬無が法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したとされる。

元は浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。

境内の拝観は無料であり、6:00から16:00の拝観時間には、自由に境内を参観できる。
写真撮影が目的ならば朝早い時間が望ましい。

地蔵菩薩像
Image of Ksitigarbha (Jizo Bodhisattva)

本堂正面の石段上にある。この尊像は、1690年(元禄3)、忍澂和尚46歳の時、自身と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されたものである。

本堂の向い側、石段の上に祀られる地蔵菩薩像は「祠の地蔵」と呼ばれ、本堂とほぼ時を同じくして祀られています。

地蔵菩薩の隣に置かれる佛足石も、江戸時代のもの。

境内のそこかしこから、古刹の重みを感じられます。

鎌倉時代初期、法然とその弟子 住蓮・安楽が鹿ヶ谷の草庵で六時礼賛(昼夜に阿弥陀仏を六度拝むこと)を唱えたのに由来するという。

創建からわずか数年後の建永元年(1206)、後鳥羽上皇の行幸中に女官 鈴虫・松虫が住蓮・安楽を慕って出家する事件が起こり、激怒した上皇によって法然は島流しに、弟子の二人は死刑になってしまう。

その後長らく荒廃するが、延宝八年(1680)知恩院 三十八世 萬無(ばんぶ)とその弟子 忍澂(にんちょう)が法然ゆかりの地の念仏道場として再興した。
近くにある安楽寺も同じ草庵に由来する寺院である。

本堂は延宝九年(1681)、講堂は元禄七年(1694)、経蔵は元文二年(1737)の建立でいずれも修築が行われつつも江戸時代のものが現存している。

方丈は貞享四年(1687)に移築したもので、元は文禄四年(1595)に建てられた後西天皇の皇女の御殿である。内部には狩野光信、堂本印象の襖絵が飾られている。

境内には谷崎潤一郎、河上肇ら文豪の墓がある。

5年前の訪問記
三銘椿、春期特別公開 法然院

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正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。 … 続きを読む →

谷の御所 椿寺 霊鑑寺門跡


「椿の寺」として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。

霊鑑寺-参道入口にそびえる「表門」
霊鑑寺の入り口にある表門は、江戸時代の1687年の建立と伝わります。

別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えています。

本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉が寄進したもので、如意輪観音像を安置しています。

後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇ります。

霊鑑寺散椿

霊鑑寺で参拝客を真っ先に迎えてくれるのは、門をくぐってすぐ左正面目に姿を表す梅の古木と散椿の古木です。

開基の浄法身宮遺愛と伝わります。
日光の巨椿があった頃は、右手に日光、左手に梅と散椿があったことになるので、花の盛りに門をくぐるとさぞや華やかな光景であったことでしょう。

散椿は樹下に紅色の花弁を散り敷いてたいそう華やかです。

後水尾天皇遺愛と伝わる日光椿

かつてここには樹齢400年と言われた日光(じっこう)という椿(京都市天然記念物)がありました。

残念ながら2015年に枯死して今はその姿は見られません。

枯死した日光椿は後水尾天皇も愛でたと伝わる古木椿です。

3メートルほど離れた場所に生えている日光椿は、元の椿と根がつながっていたたので、市の指定天然記念物はこの日光に引き継がれることになったそうです。

在りし日の日光について、「ジャパンカメリア」146号(1995年)では、「当寺第一の巨椿」とし、樹高8m、地上10cmの幹周110cm、地上40cmで二股に分かれている、とあります。

また「根は地上に出て丘を下って、そこから数本の子株が生えている」とあるので、現在天然記念物の名を引き継いだ日光椿はそのうちの一つの子株の木なのでしょう。

日光があったのは門のすぐ近くだったので、通常一般公開されていなくても外から塀越しに眺めることができたという。

それほどに大きな木だったということで、創建当時からあったと考えられ、樹齢350年と推察されていました。

濃朱紅色の花弁と唐子の花姿が印象的な日光(じっこう)は、江戸時代頃には既にあった古典品種です。

京都や関西では日光と呼ばれますが、他の地域では紅唐子(べにからこ)と呼ばれることが多く、中部地方では紅卜半(べにぼくはん)とも呼ばれます。

貞享4年(1687)、後西天皇当時の御所御殿(今の書院・居間)を寄せられた時、諸堂を現地に移建された。

それまでは南の鹿ヶ谷(ししがたに)の渓流に沿っていたので、この寺を谷御所または鹿ヶ谷比丘尼(びくに)御所という。

椿は桜のように一斉に咲いて一斉に散るということはなく、品種によって咲く時期が違うので、長く楽しめるとのこと。

春になって緑が濃くなった苔の上に鮮やかなピンクの散り椿!

春らしく、とても風流です。

庭園で見ることができる椿は、日光椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿など、100種類以上。

椿は種類によって開花時期が異なるため、訪れる時期によってちがった景色を楽しめます。

開花中はもちろん、苔の上にぽとりと花が落ちる姿や、散椿の花びらが地面に散り積もる様子など、散ったあとも美しいのが椿の醍醐味です。

尼門跡寺院

江戸時代は比丘尼御所(びくにごしょ)と呼ばれました。

皇女・女王が住持する尼寺、またはそれに準ずる摂関家の女子・養女が住持する尼寺で、江戸時代末には、皇女・女王が住持の「御宮室」8箇寺と、摂関家の女子・養女が住持の「御禅室」7箇寺がありました。

・御宮室(大聖寺、宝鏡寺、曇華院、光照院、霊鑑寺、圓照寺、林宮寺、中宮寺)
・御禅室(慈受院、三時知恩寺、法華寺、瑞龍寺、総持院、宝慈院、本光院)

明治以降、比丘尼御所号は廃され「尼門跡」と称されます。

最近はいろんなお寺で花手水をされていて、ちょっとしたブームです。

椿ばかりではありません、随所に目を引く仏像など・・・・

ふと見上げると青もみじが陽に照らされています。

男子トイレの案内、オシャレですね。

「霊鑑寺」春の特別公開
2022年3月19日(土)~4月10日(日)

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北野天満宮 花の庭


残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興されたというので北野を訪れた。

今日はあいにく「三寒四温」の寒の日でとても寒い。

「三寒四温」は、本来は冬の気候。
おまけに外国に多い現象。

しかし、今は日本の気候に合わせて2月から3月上旬、冬から春への季節の移り変わりの時期に使われるようになっているようだ。

梅苑「花の庭」 – 明治時代までこの地には、北野社神宮寺成就院(成就坊)があり、そこには俳諧の祖と仰がれる松永貞徳が作庭した庭園「花の庭」があった(一説には祇園にあったともされる)。「

花の庭」は、妙満寺塔頭・成就院の「雪の庭」(現在は本坊の庭)、清水寺塔頭・成就院の「月の庭」とで、成就院「雪月花の三名園」と呼ばれていたが、明治時代に成就院が廃されると「花の庭」も壊された。

しかし今年、2022年(令和4年)に残されていた庭石を利用して「花の庭」が復興された。

苑内を一望できる特設舞台が設置されている、しかし、花はまばらで迫力に欠ける。

その点、道明寺天満宮では参拝者が目の高さで梅を観賞できるよう、梅の剪定を何度か行なっています。
道明寺天満宮梅が見頃
天満宮には、なぜどこにでも「使いの牛」があるかご存じですか。 大宰府天満宮 大宰 … 続きを読む →

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日暮れ時 住吉大社


今回もD800に50mmf1.8の組み合わせ。

この時期住吉っさんは4時半に閉門です。

上の写真の右側の古木、かなりの老木で貫禄です。

結城のしだれ梅

太鼓橋脇の紅梅

住吉公園心字池畔の梅

澪標の巻は、光源氏が住吉神社に参詣する場面を描いている。

その際に、源氏のかつての愛人明石の上が、船に乗って沖合に現れる。

源氏はそれを見て、鉢合わせになることを恐れ、引き返す。

この絵では、牛車に乗っている源氏の前に、明石の上を乗せた船を描いている。

巻のなかの最も劇的な部分をイメージ化している。

無形文化財の住吉踊りがかっぽれのルーツといわれています。

住吉大社では毎年6月14日「住吉の御田」として知られる御田植祭りがあり、無形文化財の「住吉踊り」が奉納されます。

江戸の願人坊主(がんにんぼうず)たちがこの踊りのバリエーションを始めたといわれます。

住吉踊りには「御連中」という一座があり、それは広重の浮世絵江戸百景の中にも描かれています。

汐掛道 此の参道は昔住吉大社の神事の馬場として使われていた場所で社前から松原が続き出見の濱に出る名勝の地であった 浜で清められた神輿が通るために汐掛道と称した  古くから白砂青松の歌枕の地として多くの文人墨客が往来した

住の江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通い路 人目よくらむ         古今和歌集 藤原敏行
我見ても 久しくなりぬ 住吉の 岸の姫松 いく代へぬらむ             古今和歌集 詠み人知れず
住之江の 松のねたくや よる浪の よるとはなげく 夢をだに見て             藤原定家
まつかげや 岸による浪 よるばかり しばしぞ涼む 住吉の濱                藤原定家

住吉大社 松苗神事2013
境内に松の苗を植樹し、俳句を披露する神事。 平安時代から住吉大社に伝承されている … 続きを読む →

岸の姫松
住吉の 岸の姫松 人ならば 幾世かへしと 問わましものを (読み人知らず) 古今 … 続きを読む →

住吉の 岸の姫松 人ならば

幾世かへしと 問わましものを

(読み人知らず)

光と影~レンブラント光線
昨日の日暮れ薄明光線が見られた。 「薄明光線」のほか、別名が多数ある。 気象現象 … 続きを読む →

光芒とも呼ぶ。

天使の梯子(てんしのはしご、angel’s ladder)
天使の階段(angel’s stairs, angel’s stairway)
ゴッドレイ(God Ray)
ヤコブの梯子(Jacob’s ladder)
レンブラント光線

きれいな夕焼けです。

住吉の松を象徴するがごとく公園には松が多い。


位置を変えながらいろいろな構図で撮って見た。

中々絵になると思いませんか。

昨日は二十四節気「雨水」の最終日。

この「雨水」の頃から春にかけて降る雨は、「養花雨 (ようかう)」や「催花雨 (さいかう)」と呼ばれ、梅や桜など春の花の開花をうながすと言われています。

日中はストーブもいらなくなり、ちょっと動けば腕まくりをするほどに暖かくなってきた今日この頃。

この頃から草木も芽を出し始め、昔から雨水は農作業の準備を始める目安とされました。

次の二十四節気は、『啓蟄(けいちつ)』です。

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今熊野観音寺


鳥居橋

参拝するのに、泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、真っ先に目を引くのがこの赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」。

観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる川を今熊野川といいますが、その川を越えるのが鳥居橋です。

古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたので、橋の名前の由来となったとも言われております。

今熊野観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。

総本山泉涌寺の塔頭。
山号は新那智山。
本尊は十一面観世音菩薩

正式な寺号は観音寺である
西国三十三所第15番札所。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

山中に建つのは医聖堂

本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔です。

医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう、との住職の願いを込めて建立致しました。

この「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。

平成28年、丹塗りの塗り替えが施され、33年ぶりに鮮やかな朱色が蘇りました。

塔の足元にある石碑には「杉田玄白」、「華岡青洲」、「緒方洪庵」など偉人の名前がズラリ。
医学部を目指す学生の合格祈願の対象にもなっています

空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。

後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。

鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。

そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。
後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。

後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。

この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。

ぼけ封じ観音

大師堂の前に立たれる観音さまが、「ぼけ封じ観音」。

私たちをとりまく心や身体のぼけを取り除いて下さる観音さまです。

大師堂

当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。
東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々のお詣りが絶えません。

不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。

五智水

当山を開かれた弘法大師が、熊野権現の御霊示にしたがい、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぼうと、錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。

大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。

爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

清水焼の窯元「陶葊(とうあん)」の土塀
芸術作品のようなデザインが印象的です。

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御寺別当来迎院


来迎院は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。
山号は明応山。
本尊は阿弥陀如来。

泉涌寺の塔頭。禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称する(「御寺」とは泉涌寺のこと)。
泉山七福神巡り第4番(布袋尊)札所。

寺伝によれば、大同元年(806年)に空海(弘法大師)が唐(中国)で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされる。

それから約400年後の建保6年(1218年)、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となったが、応仁2年(1468年)の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃した。

その後、天正2年(1574年)、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、慶長2年(1597年)には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たした。

荒神堂に安置されている三宝大荒神像は空海(弘法大師)が唐で感得し、当初は自ら座像を製作したと伝えられる。

伝承によれば、あるとき現在来迎院の建つ山の頂が七日七夜にわたって光を放ち、これにより空海はここを霊地であると考え、来迎院を興したと伝える。

三宝荒神は本来、火の神として台所、かまどを司るとされるが、来迎院の荒神は「胞衣荒神(ゆなこうじん)」とも称され、安産の御利益もあるとされて、皇后宮安産の勅願所として信仰を集め、現在も安産を祈願する参拝客が訪れている。

また、日本でもっとも古い荒神(荒神像)であるとされる。

弘法大師独鈷水

弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」は、縦穴の井戸ではなく、崖の下の部分から横方向に伸びる洞窟のような形状をしており、柄の長い柄杓を用いて汲み上げる。

伝承によれば、霊元天皇の寵愛を受けた女官、小少将局の娘は生まれつき目が不自由であったが、独鈷水で目を洗うと良いというお告げに従ったところ、たちまちにして目が治ったと言われる。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下において、赤穂藩の大名であった浅野長矩(浅野内匠頭)が吉良義央(吉良上野介)に斬り付ける事件が発生した。

浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となった。

浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝えられる。

大石良雄は来迎院に書院を興し、また、境内に弘法大師が独鈷を用いて掘られて湧水したという伝承のある「独鈷水」が湧き出ることから[茶室「含翆軒」(がんすいけん)、「含翆庭」(がんすいてい、池泉回遊式庭園)を設け、ここで茶会を催しながら同士である元赤穂藩の家臣達と討ち入りの密議をおこなったとされる。

また大石は、現在も来迎院本堂に安置される勝軍地蔵像(しょうぐんじぞうぞう)を念持仏として祈願したと伝えられる。

茶室「含翠軒」は、大石良雄が山科の浪宅に住んだ頃に建てられたという。

大石は茶を嗜み、この茶室で同志と密会したという。
「赤穂忠臣談合所」とも呼ばれた。
 
現在の茶室は、近代、1925年に再建されている。軒の扁額「含翠」は、大石筆という。

明治時代になると廃仏毀釈により荒廃したが、大正時代になって修復され、現在に至る。

また、大正時代になり、当時の玄暁住職によって、大石良雄の遺徳を偲び毎月14日に含翆軒にて茶会が催されるようになった。

また、赤穂浪士による討ち入り(赤穂事件)が行われた12月14日には、「大石忌」として茶会が営まれた。

この茶会は現在も「含翆会」(がんすいかい)の名で継続されている。

庭に「伽藍石の蹲踞」「足利時代の八面仏石幢」「足利時代の八面仏石」「安土・桃山時代の聚楽第灯籠」などが配されている。

含翠庭、足利時代の八面仏石幢

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善能寺庭園 (遊仙苑) 重森三玲の作品を鑑賞できる隠れ名園


善能寺(ぜんのうじ)は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の寺院。

泉涌寺の塔頭のひとつで、本尊は聖観音。
洛陽三十三所観音霊場第18番札所。

この寺は一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823年)に空海がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀って寺の名称を善能寺に改めたという。

句碑 

境内に俳人・荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)の句碑「南無観世音 藤はようらく(揺落)空に散る」が立つ。 
手向けの供養句碑という。

石組は重森三玲による。
白砂に立てられた句碑を石組に入れ、四方正面の三尊石組になる。

その後、平城天皇の勅願寺となったこともあるが、天文24年(1555年)に後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移された。

明治時代の廃仏毀釈で荒廃し、1887年(明治20年)に現在地に移された。稲荷大明神(荼枳尼天)を日本で最初に祀った寺ともされる。

1972年(昭和47年)には作庭家の重森三玲によって池泉庭園遊仙苑が造られた。

本堂を囲むように作庭された池泉鑑賞式庭園“仙遊苑”を手掛けた昭和47年は『豊国神社 秀石庭』なども手掛けた年。

現在は池に水が貼られていませんが、多数の阿波の青石による石組が見所。

雲紋築山、雲とも飛行機の形を象ったともいわれている。
かつては白砂敷きに苔地の築山となっていたという。

三玲は、「飛行機が幾千万の山海上空を飛翔し、窓外に各地の山岳や平野を俯瞰する景観を全庭に畳んだ」と述べている。

航空機にも見える立石の石橋。

現在の本堂・祥空殿は1971年(昭和46年)のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立されたものである。

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