造幣局はなぜ大阪にあったのか?
①大阪遷都論が出た際に国の機関を作ろうとしたから②王政復古の大号令に貢献した関西財界に配慮するため③当時、江戸(東京)の治安がまだ落ち着いていなかったからなどが有力な説とされています。
大阪市北区の大川沿いに位置する本局は藤堂家大坂屋敷の敷地を明治期に再整備して開業した経緯があり、その際、同家の敷地に植栽されていた桜樹木約120品種、約400本も造幣局へ引き継がれて大川の川岸通りに移植され、造幣局敷地内には1870年(明治3年)以降に新たに桜の若木が並木として植えられた。
1883年(明治16年)に当時の造幣局長遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と桜並木の一般公開を始めたのが「桜の通り抜け」の始まりであり「桜の通り抜け」の呼称は1907年(明治40年)頃に定着した。
「欽明門」
明治5年(1872年)、明治天皇が近畿・中国地方に行幸される際、造幣局をご視察されることになり、京都御所を出発し、造幣局の桟橋に到着され、上陸された場所にあったのがこの「欽明門」です。(現在地より北に約10mの地点にありました。)
「鉄柵」
明治元年(1868年)、当時大阪府知事であった後藤象二郎が、大坂城内に動物園を作るために輸入された鉄柵でしたが、中止になるというのを聞きつけた造幣局判事の進言により、これを譲り受けたいと懇願し、井上馨の仲介で建設中の造幣寮に貰い受け、工場の周囲に張り巡らしたものです。
「藤棚の「藤」の木について
この藤は、明治天皇が造幣局に行幸された際に、生け花として使ったものを“挿し木”して育てたところ根付いたものです。
樹齢はゆうに100年を超える古木となり、毎年桜が散ったあと、白い可憐な花を咲かせて目を楽しませています。
(参考)明治天皇は、明治5年・明治10年・明治31年と、計3回造幣局に行幸されました。」
1871年の創設時(創設当時の名称は「造幣寮」)以来、工場内および近隣周辺に貨幣鋳造時の余剰発生ガスでガス灯を灯しており、当初は日本初のガス灯による街灯で見物人が多数訪れている。
寒い中、梅が咲いていました。
「創業期に使われていた圧印機
トネリ(Tonelli)社製圧印機 フランス
1871(明治4)年の創業当時に、金銀貨幣製造に使われていた圧印機です。
閉鎖状態にあったイギリス設立の香港造幣局から、1868(慶応4)年に購入しました。
創業当時、イギリス・ワット社製圧印機6台、フランス・トネリ社製2台の計8台のレバー式圧印機が、金銀貨幣の製造に活躍していましたが、翌年の1872(明治5)年に、銅貨幣の圧印作業用に転用されました。
ユロル(Yhlorn)社製圧印機 ドイツ
創業とともに貨幣製造作業が順調に進んでいることを受けて、1872(明治5)年に購入された大型圧印機です。
1分間に60枚程度の圧印能力を持ったこの圧印機は、合計10台導入されて、金銀貨幣の製造に使われていました。」
めがね橋
この橋は、創業当時からめがね橋とよばれており、橋の中央部にふくらみのあるところからその名がついたとされています。
当初のめがね橋は明治4年2月に竣工、長さは27尺(約8.18メートル)、巾は19尺6寸(約5.93メートル)で石造り、手すりつきのへしでした。
かって淀川からこのめがね橋をくぐり抜けたところが入り江になっており、船着場が設けられていました。
造幣局では、当時、原動力として蒸気機関を用いており、工場の屋根にそびえ立つ大煙突は市民の肝を奪ったとされ、明治初期の大阪地誌には「築造きわめて広壮華麗をつくし、数個の大煙突は高く空中に突出し黒煙日として断ゆることなし」と記されています。
蒸気機関に用いる石炭を積んだ船が、毎日のようにこのめがね橋をくぐったことでしょう。
現在のめがね橋は、長さ8.60メートル、幅8.95メートルになっています。
この大時計は、造幣局創業当時の工作方技師大野規周(のりちか)(本名大野弥三郎(文久2年(1862年)から6年間オランダに留学)が明治9年(1876年)6月に製作したもので、当時の工場の正面に取り付けていたものであり、局内に時刻を知らせていました。
平成10年(1998年)1月に修理を行い、明治の昔そのままに刻を告げる鐘の音を響かせるようにしました。
明治10年銘の金貨が展示されているのはその希少性によるもの、明治3年の20円金貨の発行枚数は46.139枚であるのに対し、明治10年のそれはわずか29枚である。
展示室。
法馬金(分銅金)
法馬金は分銅の形をしており、豊臣秀吉が最初に鋳造し、徳川幕府においても造られました。
大判1000枚で作られた千枚分銅金(約165kg)、大判2000枚で作られた二千枚分銅金(約330kg)の「大法馬金」と、重さ375gの「小法馬金」とがあります。
この「大法馬金」には「行軍守城用勿用尋常費」(戦費以外に用いるな、という意味)」の文字が鋳込まれ、あくまでも非常用・軍事用に備蓄されたもので、展示の「大法馬金」は、徳川時代の鋳造の拓本記録を、また、「小法馬金」は現存のものを基にした模造品です。
造幣局平成2年即位金貨
天皇の即位10万円金貨は、もともとの発行数も在位60年に比べて多くなく、偽造防止用の認証番号もつけられています。
それに加え、使用されている金も約30gもあることから、買取価格もぐっと高まります。
思わぬ臨時収入になる可能性もあるので、眠らせたままになっている天皇の即位10万円金貨があれば、ぜひ買取に出してみましょう。
世界最大の貨幣とされるミクロネシア・ヤップ島の石のお金「フェイ」。
大きさはそれぞれだが、最も大きい石貨で直径4m弱もあったという(DEA/V.GIANNELLA/ゲッティ/共同通信イメージズ)
1円玉
19565年(昭和30年)に誕生して以来デザインが一度も変わっていない。
展示室。
3代目の500円硬貨の特徴とは?!
2代目500円硬貨の特徴は、縁に刻まれた「斜めギザ」でした。
当時の偽造防止に高い効果を発揮してきましたが、令和に登場する3代目には、まさしく進化系「斜めギザ」と言うべき、「異形(いけい)斜めギザ」が導入されました。
これは、斜めギザの一部を他のギザとは異なる形状にしたもので、大量生産する貨幣での採用はなんと世界初だそうです。
造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風建物です。
慶応4年 (1868年)
明治新政府は、混乱した貨幣制度を立て直すため、造幣工場の建設を決定。
明治3年 (1870年)
わが国初の本格的な洋式設備による近代的工場である造幣局の建設が竣工。
造幣博物館
明治44年(1911年)に建てられた火力発電所を、昔の面影を残す外壁の赤いレンガ壁に改装したものです。
通り抜けの途中に明治初期の創業時の正門があります。
菊の花と大阪の「大」の字をあしらった鋳鉄製の門柱の両側に、八角形の当時の衛兵の詰所が残っています。
設計は英国人の建築技術者ウォートルスと言われていますが、一部同じ英国人のキンドルという説もあります。
守衛詰所はモルタル塗りの煉瓦造り。
造幣局旧正門・旧衛兵詰め所 1871(明治4)年
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