文化財を守る戦い 松山城の城山で起きた土砂崩れ

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文化財を守る戦い「なぜ梅雨に工事を」救えなかった命

愛媛大学の研究者で構成するグループの報告会

松山城の城山で起きた土砂崩れについて、愛媛大学で調査報告会が開かれ、専門家の一人は緊急車両道の設置に伴い、天守付近から流れる水の動きが変わったのではないかと指摘。

7月12日に発生した土砂崩れは、松山城の城山北側の斜面が幅50メートル高さ100メートルにわたって崩れ、ふもとの市内緑町の家屋4棟が倒壊するなどし、一家3人が犠牲となりました。
愛媛大学の研究者で構成するグループでは、発生後から原因やメカニズムなどの調査していて、10日は3度目の報告会が開かれた。

この中で森伸一郎特定教授はまず、現場周辺は昔から水の道があり水がたまりやすい場所だったという見解を示した。

その上で、かつて排水は城の周りの様々な場所から流れていたが、緊急車両道の整備にあわせ天守付近の排水をパイプを設置して集約したことで、現場付近に更に水が集中したのではないかと仮説を述べた。

また森特定教授は、土砂災害発生の危険度を示す土壌雨量指数について触れ、土砂災害が発生した12日までの最大値が128で警報ラインの135を超えていなかったにも関わらず土砂崩れが起きたと指摘。

姫路城に次ぐ、壮観な建造物群

松山平野の中央に松山城はある。

標高132メートルの勝山山頂に本丸があり、そこが城郭としての中枢に当たるが、山麓に展開する二の丸と三の丸が政務の中心だった。

山頂部には天守を中心に、多くの櫓や門が建ち並んでいたが、往時のその景観は、紆余曲折を得ながらも、今日まで良好に伝えられている。

「廃城令」により大蔵省の所管に

明治6年(1873)のいわゆる「廃城令」で松山城は廃城となり、大蔵省の所管になった。
廃城になった城の多くで建造物等が競売にかけられ、かつての景観が短期間で失われたのに対し、松山城は本丸と二の丸が大蔵省から愛媛県に払い下げられ、その後、県が一括管理したため、多くの建造物が残された。

放火、空襲で11棟を失う

だが、昭和8年(1933)には放火で、本丸でもひときわ高い本壇(天守曲輪)に建つ連立天守群が、大天守を除いて焼失。その後、大天守をふくむ35棟が旧国宝に指定されたが、太平洋戦争の空襲でそのうち11棟が焼け落ちた。

太平洋戦争の意味 かけがえのない国・日本、かけがえのない日本文明

日本文明と西洋文明とはまったく異なります。
およそ4000年前に中央アジアのステップ地帯に出現してヨーロッパに拡大したアーリア人の文明=西洋の文明と日本の文明との対立が、ある意味で「太平洋戦争」でした。
神る類の歴史を無茶苦茶にしてきたと言っていいアーリア人の文明が、植民地時代の最後に日本と衝突したのです。

正々堂々と戦っても、日本には勝てない。
そこで米大統領フランクリン・ルーズベルトは日本人を皆殺しにしろといい、後継のハリー・トルーマンが戦争行為を止めて原爆投下という虐殺行為を容認しました。
ポツダム宣言は、敗戦でなく、虐殺に耐えられないことをもって受諾したものです。

大戦後に、植民地だった国々が独立しました。
戦後間もない1955年に開催された「第一回アジア・アフリカ会議」(通称「バンドン会議」)に日本は招待されました。

会議には日本を含むアジア・アフリカの29か国が参加し、各国代表から「アジア民族の開放を戦争目的とした日本の大東亜宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリス、オランダ、フランスの食味価値のままだった」として暑い歓迎を受けました。

日本がなければ世界は悲惨なままでした。
日本は西洋文明の暴走に歯止めをかけたのです。
武田邦彦著「かけがえのない国」

それでも大天守は焼失を免れ、昭和43年(1968)以降、焼失した建造物も木造で次々と再建された。
現在、重要文化財21棟をふくむ51棟が建ち並び、江戸時代に近い景観を目にすることができる。

これだけ建造物が連なっている城は、世界遺産の姫路城を除けばほかにない。
また、山麓の二の丸も、多門櫓や門が再建されているほか庭園が整い、かつての御殿の間取りも植栽等で示されるなど、整備が行き届いている

なぜ5重だった天守は3重に改築されたのか

築城に着手したのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功により、伊予(愛媛県)20万石をあたえられた加藤喜明で、約25年をかけて工事を進めたが、完成する直前に陸奥国会津(福島県西部)に移封になってしまった。

その後、寛永4年(1627)に蒲生忠知が入ったが、7年後に急死して蒲生家は断絶。
寛永12年(1635)に徳川家康の甥である松平定行が15万石で入封し、以後、幕末まで15代にわたり、久松松平家が城主を務めた。

加藤喜明がいつ天守を建てたのか、正確なところは不明だが、慶長10年(1605)ごろには、すでに建っていたともいわれる。

ところが、寛永16年(1639)に松平定行は、5重だった天守を3重に改築したと伝えられている。

ただし、この3重天守は天明4年(1784)、落雷を受けて焼失してしまった。
残されているのは嘉永5年(1852)に再建されたもので、全国に現存する12の天守のなかではいちばんあたらしいが、外装などは創建時の意匠が踏襲されているという。

5重の天守を構えることができたのは、将軍家とその縁戚など、原則として特別な大名にかぎられた。
このため、松平定行が幕府に遠慮するあまり、3重に改築したという説があるが、別の説も伝えられる。

築城工事がはじまる前、山頂部には谷や池があった。

谷や池を埋めて整地された
太鼓門をくぐると、北西に向かって細長い平坦地が開け、150メートルほど先に天守が見える。
そして太鼓門の北側に井戸があるが、なんの変哲もないように見えるこの井戸は、深さが44.2メートルもある。

伝えられているのはこういう話だ。

この場所は、加藤喜明が築城工事をはじめた時点では深い谷で、それを埋め立てて平担地を創出したのだが、この井戸は谷に掘られた浅い井戸を、谷を埋めながら残したもの。
だからこれほど深いのだ、と。
本丸にある唯一の井戸は、当時の技術では掘り下げることのできないとされる44mを超える深さである。このことは、本丸は2つの峰の間を埋め立てて築いたとする根拠にもなっており、現在も水が湧き出ている(上屋のみの再建)。

この井戸の場所は天守からは100メートル以上離れているが、じつは、天守が建つ本壇も、かつて谷だった場所で地盤が弱いという説がある。
したがって、5重の天守では倒壊する危険性があるので、3重に改築したというのだ。

太鼓櫓の下は厳しい石垣
いずれにせよ、壮大な石垣で囲まれた松山城の本丸は、複数の谷や池を埋めて整地された場所で、必ずしも地盤が堅固ではない、と考えられるのである。

津山城、鳥取城も被害に

今年の7月は大雨の影響で、「日本三大平山城」のひとつに数えられる津山城(岡山県津山市)でも15日、二の丸の石垣が幅20~30メートル、高さ12~13メートルにわたって崩落した。
蘭丸の弟が築城 名城 津山城

同じ日には、鳥取城(鳥取県鳥取市)の三の丸御殿跡の法面のりめんも、一部が崩落している。
秀吉地獄の兵糧攻め 因幡の名城 鳥取城
津山城も鳥取城も国指定史跡である。
いずれにしても人命と史跡を守るために文化庁の早い対応がもとめられている。


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松山城へのアクセス、行き方歩き方

松山城公式サイト
住所:愛媛県松山市丸之内1
JR予讃線 松山駅 徒歩約30分
松山駅から伊予鉄道「道後温泉行き」で約10分「大手道」下車、徒歩約5分、城山ロープウェイで約2分、山頂駅から天守まで徒歩約10分