錦秋の 和歌山城 西の丸庭園(紅葉渓庭園)

和歌山県
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和歌山城西之丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった。
城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。

勝海舟寓居跡
JR紀勢本線と南海電鉄和歌山市駅から、前の道をまっすぐ約200mの交差点にあるお店の前にあります。
勝海舟は、文久3年4月、海岸砲台検分のため数日間和歌山に滞在していました。

文久3年4月10日、龍馬は勝海舟を訪ねています。
龍馬は16日には越前福井の松平春嶽のもとへ出立しています。
実際の場所は、ここから少し川の方へ行った所だったそうです。

一の橋、大手門。
浅野・徳川時代を通して和歌山城の表門であった一の橋南詰に建つ大手門。
明治42年(1909)に自然倒壊したが、昭和58年(1983)一の橋とともに再建工事により復元された。

県指定特別天然記念物・大楠
「一の橋の樟樹」と呼ばれ、県指定天然記念物。
低く見える石垣は、5mくらいの高さがあります。

江戸時代、和歌山城は別名「虎伏竹垣城」と呼ばれた。
これは、和歌山城の建つ山が虎の伏した姿に似ていたためと言われている。

この像は、和歌山城の別名にちなんで、昭和三十四年に作られた。
(現在の像は二代目にあたり、初代の像は銅製であった為、第二次大戦中、供出させられ。)

西の丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所でありました。

紅葉渓橋
暴れん坊将軍 Ⅱ
第3シリーズ「将軍が消えた!?吉宗暗殺の渦巻く紀州和歌山」では、偽の吉宗が案内される和歌山城中のお庭で、導入に紅葉渓橋が使用されたそうです。

庭園を端の高台から見ると日本庭園らしさがよくわかります。

茶室紅松庵。
昭和48年に和歌山市の名誉市民である故松下幸之助氏が市に寄贈したもの。

紅松庵から鳶魚閣のある池へ降りていく。

左手に鳶魚閣、右手に切石橋、このあたりの紅葉は特にきれいだ。

1972年(昭和47年)に鳶魚閣が再建されたが、御橋廊下復元の際に再び庭園の池などの調査を行った。
それによると、鳶魚閣は実際には現在の場所ではなく、池の中央付近にあったと推測されている。

御橋廊下(おはしろうか)
江戸時代藩主とお付きの者だけが、二の丸と西の丸の庭園を行き来する為につくられた橋で、外からは見えないつくりになっており、斜めにかかる橋としては非常に珍しいもので、滑り止めの段差もつけられています。

鶴の渓門跡付近から見た天守の石垣。
画像の石垣は「野面積(のづらづみ)」といい、石を加工せず、自然の状態のまま積み上げる方法です。
これは戦国時代に多用された手法で、和歌山城でも初期の頃に築造されたことを示しています。

豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。
模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。
和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が見られます。
二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の石垣。
時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込みハギ」の石垣があります。

二の門 後方に大天守

紀州の殿様を謡った童謡『まりと殿様』(作詞:西条八十、作曲:中山晋平)が城内のチャイムに使われており、八十直筆の歌碑が天守前広場に設置されている。

本丸御殿跡、今は水道局の施設になっている。
清掃作業中の人に、ここからの天守が最高の撮影スポットと聞き、上がってみる。
本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。

初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。
また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。

教えられたとおり、さすが最高のスポット。
しかし、ここは通り過ぎる人が多くもったいないことをしているなと思った。

天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。
姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。

天守より紀ノ川加工方向を望む、晴れた日は淡路島も望める。

七福の庭
和歌山城の表坂を登り切ると、松の丸と呼ばれる、本丸南側の石垣に沿って延びる、広くて平坦な道があります。
この中程に、石を並べた「七福の庭」があります。

七福神に良く似た石を巧みに配置してその周囲を小石で囲み、さらに船の舳先と船尾に見立てた石を組み合わせて宝船にするなど、なかなかの凝りようです。
徳川頼宣が紀州徳川藩の興盛を祈念して、元和7年(1621年)本丸御殿に作庭したと伝えられています。
大正12年(1923年)、本丸御殿跡に給水場が建設されることになり、ここに移された。

表坂登り口はつづら折りの急登坂が続く。
上り詰めて右に折れると幻想的で美しい「松の丸」が真っ直ぐ延びている。

三年坂を車で走っていたらひと際目に付く黄色。
和歌山城西(駐車場入口のすぐ南)にある銀杏。

イチョウを遠景から、手前が三年坂。

『岡公園は、和歌山城築城のときの石垣用の石切り場でした。
今もこの付近には石を切り出すときにできる歯形のような跡である「矢穴」がみられます。
また、岡公園内の池は石を切り出した跡に雨水がたまってできた池といわれています。

石の材質は、結晶片岩(緑色片岩)で「紀州の青石」と呼ばれています。
ここで切り出された石は、天守閣や本丸周辺などの石垣に用いられました。
今も緑色の石で積まれた石垣がこれにあたります。

刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)
1000年以上の歴史がある神社。

徳川頼宣が和歌山城に入城してから城の守り神となり、吉宗の誕生時、この社の宮司が仮の親になったという。
神馬の像は吉宗の寄進とされる。

日蓮宗・白雲山・報恩寺は通称武士寺。
元の名前を要行寺と言います。

寛文6年(1666)紀州徳川初代藩主・頼宣が正室・瑶林院の墓所としました。
寛文10年(1670)2代藩主・徳川光貞によって改修され、報恩寺と改めたのです。

紀州徳川家の菩提寺。
初代藩主・頼宣の正室や吉宗夫人の寛徳院など、歴代藩主夫人の墓所が境内にある。

無量光寺(むりょうこうじ)は江戸時代の文政12年(1829年)、紀州藩10代藩主徳川治宝の命により、和歌山県日高郡出身の大行者徳本を開山、本辨を開基として京都の法然院を模して創建された。

境内に置かれた首大仏は大福寺から移された物で、「首から上の願いを叶える」と云われ、多くの受験生らが参詣する。

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和歌山城へのアクセス、行き方歩き方

南海本線 和歌山市駅 徒歩10分ほど。
阪和線 和歌山駅→和歌山バス『公園前』下車、徒歩。