かってこの付近に我が国最古の交易市場として知られる「海柘榴市(つばいち)」があった。
海柘榴とは椿のこと。以前は、海柘榴市と書いて”つばきち”と読んでいた。
大神神社大鳥居
昭和59年の昭和天皇の御親拝を記念して昭和61年に建てらてた大鳥居。
高さ32、2メートル、柱間23メートルの偉容を誇り、車道をまたぐ鳥居としては日本一。
材質は耐候性剛板で、耐久年数1300年と言われる。
大神神社 一の鳥居。
海柘榴市の 野路に飛び交ふ 虫や何 佐藤春夫
海石榴市の説明がある交差点から、細い道を入っっていくと『海石榴市観音堂』がある。
金屋の集落の裏手で、人の家の裏庭を歩いているような細い道を通りますが、ちゃんと駐車場らしきスペースもあり、観音堂も最近建て直されたばかりの真新しいものでした。
地域の方に大切に祀られていることが伝わってきます。
こちらにいらっしゃるのは、像高「二尺三寸」という二体の石仏。
ガラス越しに拝見するので、個々のお顔は良く見えませんが、向かって右手が十一面観音さま、左手が聖観音さま。
「元亀2年(1571年)」の銘があり、右手に錫杖を、左手に水瓶を持つ姿は、ここから初瀬川の上流にあたる長谷寺のご本尊と同じ形なのだとか。
以前は長谷寺の近くに祀られていたものが、川の氾濫で流れ着いたと伝わっているそうです。
長谷寺へと向かう初瀬街道。
橋の上に立って川上を見ると、初瀬川が三輪山の南麓に沿って流れてくるのがわかる。
初瀬川はこの後三輪山の北側を流れる纒向川と合流して大和川となる。
この二本の川と三輪山に囲まれた地域が、昔から水垣郷と呼ばれてきた”聖なるトライアングル”である。
第十代崇神天皇は、瑞磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)を宮処としたが、その名の由来は水垣郷の域内に位置していたことによる。
水垣郷には、金屋、三輪、茅原、芝、箸中の五つの地区があり、金屋は初瀬川と三輪山とに挟まれた細長い帯状の集落で、もっとも南に位置する。
古代、この金屋の辺りは大阪から大和川を遡ってくる川船の終着地点であった。
さらに、山の辺の道や上ツ道、山田道、初瀬街道が交差する陸上交通の要衝でもあった。
そのためさまざまな物産が集まり、我が国最古の交易市場がこの地に成立した。
市はいつしか海柘榴市と呼ばれるようになった。
椿は三輪山の代表的な喬木であり、その木を市場に植えたためにこの名が付けられたという。
古代の海柘榴市は、大和川の左岸の、現在の地図で言えば桜井市粟殿(おおどの)あたりが中心だった。
平安時代には、長谷詣での宿泊地として栄え、清少納言は「市は たつの市 さとの市 つば市。大和にはあまたある中に、長谷に詣づる人のかならずそこにとまるは、観音の縁のあるにや、と心ことなり」と枕草子に書き付けている。
長谷寺に参拝するものは必ず宿泊し、供物などを整えた所であった。
しかし、この市を一挙に地図上から消し去る大惨事が発生した。
延長4年(926)7月19日、長谷山が崩壊して大土石流が発生し、下流にあった海柘榴市の人家はことごとく流されてしまった。
その後は大和川の右岸に市や長谷寺詣での宿が復旧した。だが、往年の殷賑さを取り戻すことはついになかったという。
海柘榴市跡の歴史公園としてすっかり整備された川岸に、「仏教伝来の地」と大書した石碑が建っている。
朝鮮半島の百済国王だった聖明王(しょうみょうおう)が我が国に仏教を伝えたのを記念して建立されたもの。
だがこの仏教公伝の時期については複数の異なった説がある。
『日本書紀』は「欽明天皇13年(552)冬10月、百済の聖明王、またの名は聖王、西部姫氏達率・怒悧斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献る」と伝えている。
だが、帝説や元興寺縁起では、仏教公伝を欽明天皇7年(538)のこととしている。
『金屋の石仏』は、こんな立派な収蔵庫の中に安置されていました。
説明文には「この中におさめられた二体の石仏は、右が釈迦、左が弥勒と推定されています。高さ2.2m、幅約80cmの二枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は、古くは貞観時代、新らしくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財の指定をうけています。右側の赤茶色の石は、石棺の蓋であろうと思われます。」とあります。
お釈迦さま。印を結ぶ手、幾重にも重なる衣紋のひだ、浮き出るように見える光背など、素晴らしい。
ただし、現地ではそれほど細かいところまでは見えません。
収蔵庫の床下には、無造作に石棺のふたが置かれていました。まさに「無造作」としか言いようがありません。
歌垣、文字のない時代には、男女が互いに歌に託してかけあいました。
古代、日本だけなく東南アジアなどでも見られる風習で、若い男女が春秋の特定の日に山や川辺に集まって、五穀豊穣を予祝したり、歌で求婚して結婚相手を探しました。
男女が集まり、即興でつくった歌を送りながら相手に求愛する風習。
「市」も男女の出会いの場だった。
市では物の流通ばかりでなく、人々の交流も盛んに行われた。
多くの人々が集まるため、男女の出会いの格好の場所となった。
万葉人のくらし
万葉人はどのように暮らし、どんな恋をし、どんなふうに四季の移ろいを眺めたのでしょ … 続きを読む →
奈良県立万葉文化館の展示からそのあたりを探ってみた。
『日本書紀』は海柘榴市を舞台にして行われた悲喜こもごもの事件を今に伝えている。その中から、影媛の悲恋物語を紹介しよう。
第25代武烈天皇といえば、日本の桀(けつ)王あるいは紂(ちゅう)王といわれるほど悪評高い大王であるが、太子の時代に恋の三角関係のもつれから、平群氏一族を滅亡させる出来事が生じた。
太子は物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘・影媛を娶ろうとして、仲人を影媛の家に赴かせた。
しかし、それ以前に、影媛はときの最高権力者・平群大臣真鳥の息子である鮪(しび)といい仲になっていた。
だが太子の期待に背くことを恐れて、影媛は海柘榴市の歌垣でお待ちしますと返事を伝えた。
約束の当日、歌垣の場所に出向くための官馬を平群真鳥に用意させようとしたが、真鳥はその要求を無視した。
太子は心中穏やかではなかったが、こらえて顔には出さず、約束通り海柘榴市に行き、歌垣の人の中で影媛を見つけそっと誘い出した。
そこへ、鮪がやってきて二人の逢瀬の邪魔を始めた。
三人で歌を掛け合っているうちに、鮪がすでに影媛と通じていることを、太子は知った。
激怒した太子はその夜のうちに大伴金村(おおともかなむら)に命じた。
金村は数千の兵を率いて鮪を襲い奈良山で殺してしまった。
このとき、影媛は「山の辺の道」を半狂乱になって走り奈良山へ駆けつけた。
山道で足を取られ何度も横転し、衣が裂け、両足からは皮膚が切れて血が滲んでいたであろう。
そして、恋人が殺されるまでを一部始終見ていたが、驚き恐れて気を失ってしまったという。
そのときの重い心を詠った歌が、『日本書紀』に記録されている。
それから間もなくして太子の父・仁賢天皇が崩御された。
平群真鳥は太子を殺して大王になる計画を密かに抱いていた。
このことを察知した金村は、太子に真鳥を撃つことを進言した。
歌垣の日に馬の調達を無視されて不愉快な思いをした太子は、真鳥討伐を許可した。
金村は早速手勢を集めて大臣の家を囲み、火をかけて真鳥を焼き殺してしまった。
科(とが)は一族に及んだ。
大伴金村は族を平定し終わると、太子を大王に即位させた。
大王に即位した太子は、金村の功績に報いるべく、金村を大連(おおむらじ)とした。
これを契機に大伴金村は政治の表舞台で活躍するようになる。
万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。
海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963)
紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115)
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116)
「八十の衢(ちまた)」とは、多数の道が合流した地点をさす。
八十の衢である海柘榴市は、物品を交換したり商う市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれた他に、さらに刑場となったり、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われた。
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