哲学の道~南禅寺

京都府
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どうやら寒の戻りは終了らしい、いよいよ待望の春到来といったところか。

霊鑑寺へ行ったついでに哲学の道を南禅寺まで歩いた。

道の名は、大正時代に哲学者の西田幾多郎がこの道を散策しながら思索にふけったことに由来する。

法然院近くには西田が詠んだ歌「人は人、吾はわれ也、とにかくに吾行く道を吾は行くなり」の石碑も見られる。

哲学の道の桜は、近くに居を構えた日本画家・橋本関雪と妻・よねが、1921年(大正10年)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのに始まる。

寄贈の経緯は画家として大成した関雪が、京都に対する報恩を考えた際によね夫人が桜を植えてはどうかと発案をした事による。

当初の木はほぼ樹齢が尽きたと思われるが、佐野藤右衛門らの手により植え替えられ手入れされ現在に至っている。

代替わりをした今でも桜並木の名称として「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれている。

「日本の道100選」に選定されている。

若王子橋から浄土寺橋まで続く疏水沿い、全長約2kmの散策道には、約400本のソメイヨノなどが咲き誇る。

満開時の桜のトンネルは感動的だ。

人の顔を思わせる石があった。

蹴上発電所は琵琶湖から京都へ水を導く「琵琶湖疏水」を利用した水路式水力発電所です。

日本初の事業用水力発電所として、明治24年(1891年)に運転を開始し、運転開始から125年以上経った今なお、現役の発電所として電気を送り続けています。

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冷泉通を疏水沿いに行く桜の穴場
川端冷泉通りを疏水沿いに行く道は、桜の穴場として親しまれています。
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この夷川発電所は、明治23年(1890)に琵琶湖疏水が竣工し、翌年にその水力を利用した我が国最初の事業用水力発電所である蹴上発電所が建設された後、第二疎水計画と軌を一にして、下流の墨染発電所と同時に建設されました。

田辺朔郎は、在学中に、京都府知事・北垣国道が、遷都で疲弊した京都の活性化のために、角倉了以・角倉素庵時代からの長年の懸案だった琵琶湖疏水工事を天皇下賜金で断行することを知り、1881年(明治14年)に卒業研究として京都へ調査旅行に赴き、卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させる。

のちに同論文は海外雑誌にも掲載され、イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞を授与された。

大鳥圭介工科大学校学長の推薦により、1883年(明治16年)に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、弱冠21歳で大工事である琵琶湖疏水の担当となる。

工事途中の1888年(明治21年)に議員の高木文平とともに渡米し、ダムや運河の水力利用で世界的な製紙の町となったホルヨーク (マサチューセッツ州)や世界初の水力発電を実現したアスペン鉱山を視察し、当初予定の水車動力を水力発電に変更し、蹴上発電所を創設。この変更は、のちの京都の近代産業化に大いに寄与した。

蹴上インクラインは、南禅寺の近くにあり、全長582mの世界最長の傾斜鉄道跡で、高低差約36メートルの琵琶湖疏水の急斜面で、船を運航するために敷設された傾斜鉄道の跡地です。

1891(明治24)から運航し、舟運の衰退とともに1948(昭和23)年に役割を終え、現在はその廃線跡は京都市の文化財に指定されています。

琵琶湖疏水クルーズの船が着いたところです。

義経地蔵は、鎌倉時代作という。

厚肉彫りの阿弥陀坐仏であり、舟形光背を背負う。

義経伝説と大日如来の信仰が一体化し、義経大日如来とも呼ばれた。

本来は、石造地蔵(九体仏)の一つであり立像もあったという。地

蔵は、義経伝説とは関係なく、近くの粟田口刑場で処刑された人々を弔うために安置されたともいう。

蹴上・義経伝説 

蹴上は古く「松坂」と呼ばれ、松の生い茂る急な峠だったという。

蹴上の語源としては、「馬の蹴り上げ」、「力を入れて蹴り上げる」が由来という。

また、「つま先上がりになるほどの急坂」を意味するともいう。
 
義経地蔵は、蹴上の地名に関わりがあるともいう。

平安時代後期-鎌倉時代初期の武士・源義経(1159-1189)にまつわる伝承が残る。

義経は、平家打倒を胸に秘め、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。

それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願している。

1177年秋、日の岡峠(現在の蹴上)に差し掛かり、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市(与一)重治(せきはら-よいち-しげはる)の一行とすれ違う。

その従者の一人(馬とも)が峠で湧水を撥ね、義経の衣を汚した。

一行は謝罪もせずに通り過ぎたため義経は怒った。

9人(10人とも)の武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払ったという。

また、与一も斬られたともいう。
 
義経は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。

村人は、斬られた9人の菩提を弔うために、9体の石造地蔵(九体仏)を九体町(山科区)に安置して弔ったともいう。

また、我に返った義経は村人に菩提を弔うように頼んで旅を続けたという。

九体仏の1体が安置されたのが現在地、九体町付近だったという。(『異本義経記』『山城名勝志』『雍州府志』)
 
九体仏のうちの1体は、「義経大日如来」としてこの地に安置された。

かつて、祠の傍らに「鎧掛けの松」があったという。

九条山には4体の石仏がいまも点在するという。

国道北側に3体が祀られているともいう。
 
義経が血糊の刀を洗ったとされるのが「太刀洗池」といわれる。

蹴上の南東に当たる、現在の山科区御陵血洗町(みささぎ-ちあらいちょう)付近にあったという。

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