奄美大島の高倉


奄美大島や沖縄には高床式(たかゆかしき)の倉が残っています。

このような高床倉(高倉)は台湾やフィリピンなどの南方地域にその起源があると思われます。

古代には日本国中に存在していたと考えられますが、現在では南西諸島や八丈島にわずかに残るのみとなりました。
本高倉は昭和33年(1958年)に重光家屋敷地内にあったものを移築したものです。

気候に適した屋根や床

高倉の屋根を厚く葺いているのは太陽の熱を遮るため、屋根が急なのは雨水が流れやすく雨漏りを防ぐためだといいます。

床板は板張りが多く見られますが、かつては琉球竹を編んだものが張られ、通気性を良くして湿気から食物を守っていたそうです。

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毎回観光地の案内をしていますが、今回は天空のまち別子銅山です。

東洋のマチュピチュ 別子銅山 東平ゾーン
標高750mの山中にある東平(とうなる)は、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱 … 続きを読む →

マイントピア別子 端出場(はでば)ゾーン
愛媛県新居浜市の別子銅山は、住友財閥の基礎を作ったことで知られ日本三大銅山(あと … 続きを読む →


天空のまち 東平、絶好のフォトスポットは展望台から。

大阪は住友財閥のおひざ元、銅吹所跡が残っています。
住友銅吹所跡
東横堀川 土佐堀川の上流部で南へ分かれて、中央区の船場・島之内の東縁を流れる。 … 続きを読む →

滋賀のラピュタ!土倉鉱山跡
滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ば … 続きを読む →

摂津能勢の古民家


大阪で栗と言えば能勢栗!
能勢栗も大振りでおいしい。
が!
おすすめは和栗の銀寄栗(ぎんよせ)です。

この家は大阪府の北端、能勢町吉野から昭和35年(1960年)に移したものですが、移築に際して、後世改造されていた部分を原形に復元しました。

このような民家は、全国的に少なく、京都府から兵庫県の一部に分布していました。
現在、大阪府内では豊能郡だけに残っています。

その中でもこの家は最古のもので、定かな建築時期は不明ですが、恐らく300年以上を経過していると考えられます。

屋内は二分されている。入って左手は土間が奥まで続き、馬屋や炊事場になっている。
右側は部屋で、なんど(寝室)、だいどこ(居間)など。

だいどこには、いろりが土間近くに切ってあり、土間で仕事をしている時に、履き物を脱がなくても座れるように工夫されている。

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日向椎葉の古民家


宮崎県日向の椎葉村は、飛騨白川村や阿波祖谷村と共に、わが国三大秘境として知られています。
昭和34年(1959年)に移築されたこの民家は、急峻な山の斜面に建てられるため、「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列間取りの細長いつくりをしています。

馬屋の中には、耕運機のようなもの、足踏みの脱穀機、千歯こき(鉄の歯を数十本くしの歯のように並べて、それに稲穂を通して引き籾をはずす。
江戸中期以降に広まり、大正時代に足踏脱穀機が普及するまで使われた)が置かれていました。

正面左手に大戸口があり、内部に入ると「ドジ」と呼ばれる土間となり、炊事場兼作業場として機能していました。

煙出し用に天井は無く屋根裏が露出されています。

中央の3連の竈を挟んで奥は板の間の台所となり、食器の水切り用に竹簀子も備えられています。

土間から家の長手方向を見る。
左側が座敷列で手前から「うちね」「でい」「こざ」。
その右に広い内縁(したはら)が通っている。
写真では見えないがその右に外縁(ひえん)がある。

内縁(したはら)から見た「でい」、囲炉裏が設置されている。

この部屋で椎葉神楽が奉納され、その際の見物人は内縁に座る。
敷居は建具用の溝が無い「無目敷居」である。

民家では能面の展示が行われていた。
椎葉は神楽が盛んなことで知られる。

椎葉神楽の特徴の一つとして「板起こし」という「狩猟」に関する演目がある。
「板起こし」とは「冬まつり」の序の部分における重要な儀礼として行われる。

具体的には、山の恵みである猪肉を捧げ、小片に切り分けて竹串に刺すもので、豊猟と安全を願う「狩猟神事」である。

一方で椎葉神楽には、多くの修験の作法が見られるように殺生を戒める仏教色も合わせ持つ神仏混淆の姿も残っている。

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のんびりと日本海をフェリーの旅というのはいかがかな

新日本海フェリー朝日夕日の撮影ポイント
今回の北海道旅行の楽しみの一つは、往復のフェリーから朝日夕日が計4回も撮れるとい … 続きを読む →

新日本海フェリーでのんびり日本海クルーズ
花の盛りのこの時期、新日本海フェリーでクルーズの旅に出かけた。 舞鶴(00:30 … 続きを読む →


小樽出航が23時30分。
その間、小樽運河散策。

撮影スポットの浅草橋近辺で写真撮影。
もう少し時間が欲しかった。

4年振りです緑地公園


今日は倶楽部の撮影会、4年振りに緑地公園へ。

【 金井良輔「カリアティード1983 3本のねじれた柱」】
ギリシャのラコニアのカリアの町が征服され女たちが苦役に従事した故事から「重荷を支える女」として、女性像による柱をカリアティードと呼ぶ。
そのイメージから、力強く成長しようとする人間の姿を抽象的に表現。

目の前のマンションの入り口、色彩と形がきれいだった。

緑道

緑地公園駅を降りてすぐ、緑のトンネルが出迎えてくれます。
そのまま進むと噴水のある東中央広場に出ます。

ソール・ライタ風に足を少しだけ・・・・

フラメンコ教室がありました、赤が強烈!!
そういえばソール・ライタは赤とか黄の色が好きでした。

道端の石、人面石です、顔がいくつも見えます。

大きな噴水といくつかの彫像で構成された【 福岡道雄「白昼夢」】

通る人々を迎え入れる門。

パンパスグラスが見ごろを迎え、一足早く秋の訪れを告げています。

公園の中央にある時計塔です、鏡面仕上げの美しい塔。

【 松下隆治「仔牛と女」】

この女性いったい何頭身なんだろう。

雀が頭の上に・・・

お待ちかね、「日本民家集落博物館」が木立越しに見えてきました。

噴水のある不思議な建物、コショウ中かな・・・

「日本民家集落博物館」の目の前に・・

水の流れた跡、模様がきれい。

自然は芸術家だ!!

ノウゼンカズラ

中国原産の落葉ツル植物。
幹から気根を出して樹木等に這い登り、夏から秋にかけて橙色を次々と咲かせます。

このノウゼンカズラはさやまで付けています。

河内布施の長屋門(大阪府)国登録有形文化財が博物館の正門として使われています。

旧塩川正十郎氏宅、そうあの塩爺の家の門だったのだ。
塩爺と言っても今の若い人たちにはわかるかな。

古民家を訪ねて・・・・・・4年前に訪れた際の記録です。
今回訪れて色々と変化を感じました。
次回から日本の代表的な民家11棟を巡ります、皆さんもどう変わったか感じ取っていただければ。

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冬季の上高地などいかがですか

明日から閉山というギリギリの上高地を訪れた、9年前のことでした。


中千丈沢の押し出しから大正池を望む。
ゆうべはここから焼岳が見えたのに。
地吹雪舞う晩秋の大正池界隈
今回は上高地で霧氷を撮影すべく訪れたが・・・・・ 明日から閉山というギリギリの上 … 続きを読む →

吹雪の梓川沿いを河童橋まで
吹雪の中を河童橋まで歩くことにする。 中千丈沢の辺りも雪に埋もれる。 焼岳から穂 … 続きを読む →

レトロな今井町町並み散歩 パート2


倶楽部の定例会用に作品用にレタッチをしたものを掲載します。














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金沢も中々いいよ、良く通いました。
幽玄空間 兼六園
今回は兼六園ライトアップ【早春の段】、3月11日(金)~20日(日)の短い期間で … 続きを読む →


霞ヶ池の周囲は映り込みが特にきれいだ。

荘厳空間 金沢城
金沢城ライトアップ冬の段、荘厳な雰囲気の中にうかぶ金沢城。 石川門は金沢城の搦手 … 続きを読む →

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レトロな今井町町並み散歩


飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、現在も江戸時代そのままの情緒と風情を残す町、今井町があります。

飛鳥川のことをかつては蘇武川と言い、その付近には蘇武井、蘇武橋、蘇武田などの地名が残っています。

今井町の東の入り口にある大きな木。

この「蘇武橋のエノキ」は、実は奈良県内で最初に指定された「景観重要樹木」でもあります。
樹齢はなんと400年を超えます。

今井蘇武橋公園として整備された飛鳥川沿いの縦長エリアに蘇武之井が二つ存在しています。

かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。

今井町にはたくさんの鬼瓦が残されています、鬼瓦の散策も面白いかも。

今井町に現存する最古の鬼瓦(1644年・寛永21年製)です。

歴史を感じるくぐり戸、主たる門扉に付属していて高さが低く頭を下げて通る門戸。

城門や寺や民家の門、防火扉の小さい扉、茶室の躙り口など。

こちらは今井町仕様の蓋。
町並みが描かれている。

河瀬権八郎兵部尉宗綱が石山本願寺の顕如上人から寺号を得て、今井郷に念仏道場を建てたことに始まる。

永禄年間(1558年~1570年)、川井長左衞門正冬と共に周辺に堀と土塁を形成し寺内町の体裁を整え、御坊(今井山)を開いた。

1877年(明治10年)、明治天皇行幸の行在所となった折りに西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという逸話があるが、暴発の恐れがあるとの一報が入ったというのが真相のようである。

床屋らしくない佇まいの理髪店がありました。

【床屋】の起源は江戸時代にまでさかのぼります。
この当時、理髪業に従事する今で言う理容師さんのことを【髪結い】と呼んでいました。

床という言葉が性的な意味合いも持つ為か、【床屋】という言葉は差別表現にあたるとしてか、放送禁止用語の一つとなっています。

テレビやラジオなどのマスコミは 【理髪店】【理容院】などと呼んでいるようですが、歴史を辿れば【床屋】という言葉の意味や由来に性的な意味合いは関係ないことがわかります。

なぜ放送禁止・自粛用語になるのか、ちょっと不思議ですよね。 

豊田家は、福井藩の蔵元も務めた木材豪商が1662年(寛文2年)に建築。

建物正面2階の壁の両端に、「丸に木」の字の家紋があることから「西の木屋」と呼ばれてきました。

「西の木屋」の象徴とも言える定紋。
漆喰を盛り上げて木の字を記している。

「駒つなぎ」と呼ぶそうで、低いのが馬、高いのが牛。

「駒つなぎ」は今井町のシンボルでもありマンホールのデザインにもなっている。

16世紀中頃には、四周に環濠・土居を廻し、武装宗教都市がつくられたとみられるが、逐次東方を取り込み、文禄4年(1595)の太閤検地の頃には、ほぼ現状の規模に拡大されていたとみられる。

しかし、天正3年(1575)織田信長の軍門に降り、環濠、土居が埋めたとされているが、17世紀初期頃旧状に基づき復旧されたものが江戸時代を通じて維持された。

今西家住宅を映す今井町西側の環濠。

戦国時代の寺内町が原型となり、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっており、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あり、2017年(平成29年)4月28日に日本遺産に認定された。

現在も町の大半が江戸時代の姿を残しており、大部分は実際に住居としても使用されているが、中には廃屋同然に放置された建物も存在する。

幕末になると、いろいろな名目で金銀の取立てや重税により町は衰退に向かい、明治維新によって富豪は消滅した。

今日のお昼はこちらの古伊でいただいた。

お昼をいただいてすぐに雨がポツリと、夕方からは降ると予報されていたのでそれなりの覚悟はありましたが少し早すぎます。

本格的な降りにはならずに済みました、一安心。

消火用ホースの収納箱のデザインがいろいろあって面白い・・・
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冬季の上高地などいかがですか

明日から閉山というギリギリの上高地を訪れた、9年前のことでした。


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吹雪の中を河童橋まで歩くことにする。 中千丈沢の辺りも雪に埋もれる。 焼岳から穂 … 続きを読む →

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久宝寺 寺内町


久宝寺という地名は知っているし、過去何度も車でとおったことはあるが歩くのは初めてだ。

久宝寺は緑地のイメージが強く、寺内町が残っていることは全く知らなかった、お恥ずかしい。

倶楽部の撮影会での訪問。

久宝寺の地名のはじまり

この地の氏神として古くからある許麻神社の境内に、宮寺として聖徳太子建立の久宝寺観音院(明治初年廃寺)があったことが久宝寺の地名の始まりであると伝えられ、河内国渋川郡久宝寺村と言われていました。

なお渋川郡一帯は中世では橘島とも呼ばれています。

社名は「コマ」と読み、昔、この地は「許麻荘」といわれ(南西に跡碑がある)、高麗からの渡来民族が多く住んでいました。

式内社で、もと牛頭天王、渋川六座の1です。

境内の手洗いの屋形は、昔の宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りです。

この寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代焼失し、その後観音院のみ復興、明治初年廃寺となりました。

本尊十一面観音は現在は念佛寺にあります。

河内木綿

江戸時代から明治時代にかけて、河内地方で広く栽培されていた綿から手紡ぎ、手織りされた綿布は、山根木綿(高安山麓)、久宝寺木綿、三宅木綿(松原市)などの名で知られていました。
これらを総称して「河内木綿」といいます。

河内地方では、16世紀末頃から綿作が行われていたようですが、その生産が飛躍的に伸びたのは、1704年の大和川付け替え以後のことです。

旧川床を利用した畑は、砂地で水はけがよく、綿栽培に最適だったためです。当時の綿は繊維が短く、従って糸が太いため、織りあげた布地も厚くて耐久性にすぐれていました。庶民の普段着のほか、のれん、のぼり、蒲団地、酒袋などに利用され、全国各地で愛用されました。

しかし、明治に入り、機械化による安価な紡績糸や化学染料が出回り始め、輸入綿の関税が撤廃されると次第に姿を消していきました。

長い間忘れ去られ、まぼろしとまでいわれた河内木綿ですが、近年、河内木綿を愛する多くの人々の手によってその技術が復元・継承されています。

2003年、ロシア国立エルミタージュ美術館で「河内木綿特別展」が開催されました。

NPO法人河内木綿藍染保存会が中心となって復元した作品や、八尾市の旧家に残されていた資料などが展示され、訪れた多くの人々を魅了しました。

河内木綿は、郷土の誇る伝統工芸として新たな脚光をあびているのです。



江戸時代からの古い町家も数多く残っていて、寺内町としてのまちなみの歴史的な雰囲気や景観を長く残すために、八尾市では町家や街路、公園等の保全整備事業、小学校体育館や消防団屯所の修景整備、水路の修復、まちなみセンターの建設等を進めて来ました。

消防団屯所の火の見櫓は遠くからでも見え寺内町のシンボルです。

表町通(八尾街道)と大水路との辻にあり、辻には金刀比羅宮の柱石が置かれています。

札之辻地蔵尊は室町時代末期の石仏です。

寺井戸跡

花崗岩角形の井げたの上部は、甚だしく摩耗している。
後側に“天保十四年癸卯閏九月造之”とある。

内側はまるい井戸側で、溜井戸である。
久宝寺御坊が、顕証寺新田の旧大和川底に元井戸を構え、竹樋を埋めて、ここに引水し、村民の飲用水をまかなった。

村では水代として1軒あたり年1升宛の米を御坊に納めた。
古くは屋形をくみ、夜には鍵がかけられていた。

大正12年簡易水道が設けられるまで、村内唯一の上水であった



越前分光堂

久宝寺寺内町で産声をあげたのが100余年前。
なんと店の奥には歴史ある看板が!

古くは文具店を営んでおりましたが、現在に いたるまで教科書の取扱いをしている。

室町時代後期に顕証寺を中核とする寺内町として作られて450年以上の歴史を持つ町で、現在、当時の町を守るための土居(土塁)濠(堀)は、一部に名残りを残しているだけですが、碁盤の目状の道路網などの町割りが残されていて、歴史的価値が注目されています。

久宝寺寺内町の成立

蓮如上人が手がけた久宝寺のまちづくりは、蓮淳に至って完成されました。

寺内町の成立は天文10年(1541)12月15日で、天文日記に「久宝寺、西証寺之制札認来候」と書かれていて、その内容は不明ですが、寺内町としての特権を得ています。

以後、町は人家も増え経済活動が活発となり、当時の代表的な自治組織として繁栄しました。

久宝寺寺内町を守った土居と濠

享保10年(1725)、顕証寺は南側に拡張されました。

現在ただ一ヶ所、顕証寺南辺に残る土居跡は、この時の工事で新しくつくられたもので、久宝寺の貴重な歴史的遺産です。

濠は、久宝寺小学校の西裏地にその名残りがみられます。

久宝寺寺内町の終焉

石山合戦で、大坂をはじめいくつかの寺内町は焼失し消滅しました。

焼失を免れた所もその後の大名による検地で、寺内町として認められていた特権がなくなり、農村部に成立した商工業集落と言われる在郷の町に変容していきまた。

久宝寺寺内町の支配権を返上

久宝寺寺内町は慶長17年(1612)検地を受け支配権を返上し、寺内町としての特権をなくしました。

一般的に、寺内町が存在していた期間は100年余に過ぎなかったと言われていますが、久宝寺の場合は70年余でした。

近世の久宝寺

久宝寺は旧大和川や八尾街道の傍にあったことから、水陸の交通の要衡として栄え、また久宝寺木綿の生産地として木綿商人が活躍する農村部における商業地でもありました。

とくに宝永元年(1704)の大和川付替えによって新しく開発され顕証寺新田、三津新田では綿つくりやその肥料となる菜種つくりが盛んになりました。

旧大和川である久宝寺川(長瀬川)の常水が減少し、船の運行に支障を来たすことが多くなり、次第に商業活動は下降して地域の中心は八尾に移っていきました。



高田家は、江戸時代には油屋と号し、久宝寺村の庄屋を務めてきたため、村に関する貴重な文書等が多数伝わっています。 

顕証寺(けんしょうじ)に通じる東西の通りに面する主屋(おもや)は、屋敷構えを出格子(でこうし)と虫籠窓(むしごまど)で整え、瓦葺きの米蔵は屋敷の東側に建てられています。

本住宅の周囲は碁盤目状の町割りがみられ、寺内町の歴史的な景観を残す貴重な建物であることから、平成20年3月に主屋と米蔵が国登録有形文化財となりました。






初めて久宝寺の街を歩きました。

商業活動は八尾に移ったとはいえ街には古い文化財も多く残り、魅力ある街です。

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熊野古道と醤油の街ノスタルジック散策


湯浅町は、熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として栄え、熊野古道が唯一商店街を通る町としても知られています。

交通上重要な位置にあった湯浅は、近世に入り次第に商業都市として発展を遂げます。

その核をなしたのは、なんといっても醤油です。

鎌倉時代、中国の宋で修行を積んだ僧が伝えた「金山寺味噌」から生まれたのが、現在の日本の醤油の始まりと言われており、紀州湯浅は「醤油発祥の地」と知られています。

白壁の土蔵、格子戸や虫籠窓など、醤油醸造の伝統を感じる家並みが残る東西約400m、南北約280mの一帯は平成18年に文部科学省から、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

醤油醸造など商工業を中心に発展した町が今も地割を残し、近世から近代にかけての重厚な町並みが歴史的風致をよく残す貴重なものと認められたのです。

熊野古道へ向かう分岐点「立石(たていし)の道標」

熊野街道の遺跡として、町民によって大切に守られてきた「立石の道標」。

建立は天保9年(1838年)で、「すぐ(まっすぐ)熊野道」「きみゐでら(紀三井寺)」「いせかうや右(伊勢・高野山は右へ)」の彫文字を確かめられます。

斜め向かいに江戸後期の町家を改修した休憩所「立石茶屋」があり、軽食や名産品を販売しています。

中世には天皇や貴族などの貴賓層が中心であった熊野詣は、時代が下り街道が整備されていくと、庶民にも広がり人々の往来は一層盛んになった。

蟻のように大勢の人々が詣でる様を例えて、「蟻の熊野詣」という言葉もみられるほどである。

さらに、熊野詣だけではなく那智山青岸渡寺から始まる西国三十三所巡礼にも、この辺りでは熊野古道が使われるようになり、多くの人々が行き交っていた。

『湯浅おもちゃ博物館』は文化庁の委託事業として発足。

古民家の良さをできるだけ残し、おもちゃの展示や手にとって遊べる空間をつくり、子供から年配者までが楽しめる地区全体の交流拠点を目指しています。

新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、長期休館中です。

湯浅町は、紀伊半島西部にある広さ20平方キロメートルほどの町。

入江の奥に位置するこの町は、海路の便が良かったこともあり、古くから物流の中心地として栄えてきたほか、1800年代初頭にはなんと92軒もの醤油屋が営業していたという醤油醸造の町としても有名です。

ここには、平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたエリアがあり、いまでも江戸~明治時代の面影を残したままになっています。

近年では、醤油醸造の歴史に触れ、時代を感じられるその町並みが、観光スポットとしても注目されています。

Ⅰ.湯浅姓の由来

1: 湯浅姓は、地名から発祥したものと思われます。
この土地に、湯浅と名が付いたのは、中世の初め頃で、
今よりも海は、ずっと内陸まで入っていて、水がきれいで浅く、
入り江や中洲のある美しい所を意味します。
(他に法皇・上皇命名説など諸説あり)

2: 中世の平安時代末期に(西暦1140年頃)この地に湯浅宗重が湯浅党を旗揚げし、 それ以来300余年に渡りこの地は栄え、1450年頃、町は残りましたが、湯浅党は滅亡しました。 湯浅の主だった人々はその間に、あるいはその時に、全国にちって行ったのです。

3: 明治に近代国家が樹立され、住民の戸籍が整備された時、湯浅姓を名乗る人々が多く出ました。  現在全国に約12,000軒と推定されています。

民家の軒先の連子格子に蒸籠箱を利用した作品がディスプレイされた「せいろミュージアム」

辻行灯は、家屋や建具の古材を用いて津浦氏が自作しており、住民からの依頼にもとづいて設置している。

古い民家の残る通り。

湯浅の風情を短歌に詠んだ野口雨情。

ノスタルジーな路地。

路地から大通りを眺める。

崩れかけた白壁、とてもノスタルジックです。

津浦家(旧内伝麹店)

「内伝麹店」は、醤油や金山寺味噌の製造に欠かせない原料である麹の製造販売業を営んでいました。

主屋は近世後期の様式で、明治 11 年(1878)に建てられたことが判明しています。

岡正

鍛冶屋町通りと北町通りが接する角地に位置する。

建物はもと「京喜屋(きょうきや)」の屋号をもつ呉服店の一部であり、入居者が三代にわたり「岡正(おかしょう)」と称する酒店を営んでいた。

建築年代は江戸の終わりか明治前期頃で、主屋は北面し、切妻造平入(きりつまづくりひらいり)、本瓦葺とする。間口は六間あるが、西三間半と落棟(おちむね)の東二間半は構造的には分離している。

奥行きはわずか二間で、側面から見ると蔵のような外観となる。

あちこちに自転車が・・・・・

屋号“まるしち”で親しまれている鮮魚店。

湯浅湾で水揚げされたばかりの地魚や干物が並んでいます。

「えりすぐった魚でないと、お客さんに出されへんからね」ときっぱり。

隣のカフェに持ち込める「焼さば」は売り切れ御免。
午前中が勝負です!

戸津井家(戸津井醤油醸造場)

「戸津井醤油醸造場」は江戸文化年間創業の醤油醸造家でした。

創業時には、「竹屋(たけや)」の屋号を称していましたが、明治元年(1868)からは「丸竹(まるたけ)」と屋号を改めています。

主屋は昭和 11 年(1936)の建立で、湯浅の戦前期の建築の特徴をよく伝えています

ノスタルジックな路地散策、今日は雲がとても印象的です。

湯浅駅から歩いて10分ほどのところにある古民家風カフェ「北町茶屋いっぷく」。

旅の疲れを癒してくれる趣ある空間です。

新鮮なお刺身やうどん、カレーといった食事メニューのほか、ケーキやぜんざいなどのスイーツも揃っています。

散策で疲れた時の休憩にぴったりのお店です。

千山庵

1棟まるごと貸し切りの宿。

宿泊棟は「きたまち」に8人用と6人用。
「かじやまち」に10人用。

北町通りに面した築150年を超える古民家を改装した1日1組限定の宿。

土間や吹き抜け、天窓、低い天井など、当時の造りが残されており、湯浅の歴史や文化を感じながら、ゆったりとした時間を過ごせるのが魅力。

みやげ処 ふみよ

ここにしかないローカルなお土産が欲しいなら…

おけきの焼きもちを食べ歩きながら進んでいくと、次のおすすめスポット「 庵茶屋の和(いおりちゃやのわ)」が見えてきました。

こちらは手仕事のカトラリーとアクセサリー、焼き物や手芸品を販売するお店で、カフェも併設しています。

店内には店主自ら製作している木製のカトラリーやアクセサリー、地元の手芸作家さんが手掛けた作品が並びます。

販売されている作品の数々はどれも個性豊かで自由な表現力が目を引きます。

太田家(太田久助吟製)

「太田久助吟製」は、金山寺味噌を製造販売。

江戸時代には醤油醸造を営んでいましたが、戦後に金山寺味噌に業種変更しました。

かつての醤油蔵で昔ながらの金山寺味噌が作られています。

「北町ふれあいギャラリー」も湯浅駅から歩いて10分ほどのところにあります。

古い建物を使用したギャラリーには、絵画や写真などを展示しています。

ひと昔前の日本にタイムスリップしたかのような空間に身を置くと、懐かしい気持ちとともに心が癒されていきます。


歴史を感じる自転車は、現役?
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銭湯跡歴史資料館 甚風呂


湯浅の街歩いていると面白いものが次々と現れる。

散策中に地元のカメラマン氏に遭遇、定例会のネタ探し最後はこの辺りが頼りなんだけど・・・とのこと。

江戸後期から昭和60年まで営業の公衆浴場。

湯浅の町並の特徴である小路の辻に立地し、個性的なデザインの塀を構えた浴場と経営者の住まいであった主屋で構成されています。

瓦葺の塀には、菱型の開口部が設けられています。

とても印象的な塀は大正時代のデザインです。

正式な名称は「戎湯(えびすゆ」でしたが経営者(須井甚蔵)の名前から「甚風呂(じんぶろ)」と呼ばれ、長年にわたり地域住民の憩いの場として親しまれてきました。

廃業から10年以上が過ぎ、主がいなくなった甚風呂は平成13年に町の財産となりその歴史が受け継がれました。

平成19年から2年かけた修理工事を経て平成21年から銭湯跡民俗資料館として公開しています。

一歩入れば、タイムスリップしたような、のんびりとした時代の面影が見え隠れする懐かしい空間です。

番台(ばんだい)

入り口を入ってすぐにあるのが番台です。 

番台は入浴料を徴収するところですが、男湯と女湯の双方が監視できる場所に作ってあります。 

番台の前の脱衣所には、男湯と女湯の仕切りがありますので、双方からは見えません、甚風呂では仕切りは取り外しており、広い空間になっています。 

明日から後のひな祭り 湯浅
平安時代末期から南北朝時代にかけては、湯浅荘を根拠地とする湯浅宗重ら湯浅党が、紀 … 続きを読む →

雛の飾り付けがされています。

浴室(男湯)

男湯の壁面には、昭和30年代に放映された映画のポスターが掲示されています。 

湯浅町にはかつて、湯浅会館と旭座の2つの映画館があり、風呂場の脱衣場に映画のポスターが貼られていました。 

掲示されているポスターは甚風呂の改修工事の際、押入れの長持ちの中から見つかったものをクリーニングして掲示しております。

2本立て50円鑑賞料ですので、当時の物価が偲ばれます。

男湯です。
床は石造りで珍しい。

浴槽へは壁側からも入れるようになっていて親切設計。

とても重い洗面器。戎湯と彫られています。

女湯と男湯とつながっています。
別々で沸かさなくていいし便利ですね。
もぐって女湯に入ってくる強者とか居なかったんでしょうか。

昔は仕切りなど無く子供が行き来してたそうです。

「ゆ」と書かれた蛇口。

浴室(女湯)

浴室は左右対称に、男湯と女湯に分かれています、甚風呂の浴槽は特徴があり立ち湯(立ったまま入浴する方式)の構造になっています。 

奥に見えるのが子供用の浴槽で浅くなっています。 

浴槽は二つあります。浅い方は子供用?
深い方は立って入るそうです。

顕国神社秋祭りの展示室

毎年10月18日に、顕国神社の秋祭りが行われます。 

各町内から、神輿を繰出しお渡りが執り行なわれます。 

この神輿は、伝建地区の北中町のものです。 

壁面には昔の祭りの古写真が展示されています。 

湯浅の祭りの特徴は、馬宿を設け、祭りで馬の早駆けが行われ、町中を馬が疾走する豪快な祭りでした。 

特に明治の頃には、中町の通りが広かった為、賞金を掛けた競馬も行われていたそうです。 

昨今は、馬を飼う家もなくなり、祭りに馬使われなくなりましたが、北浜町が馬でのお渡りを復活させています。 

吹抜展示室・駕籠(かご)

江戸期の終わりから、明治にかけて使われたものですが、お医者さんの往診に使われていたようです。 

大名や武家が使ったものに比べて、質素な作りになっていますが、駕籠かきを雇うのにかなり経費が掛かったようです、昔もお医者さんはお金持ちだったようですね。



焚口

甚風呂では、最初のころは、薪やおが屑でお湯を沸かしていましたので焚口が残っていますが、後年重油ボイラーに切り替わったので、焚口が改造されています。 

燃料タンクと循環ろ過器が写っています。 

焚口の周囲は、防火のためレンガが使われています。

2階展示室・徳利(とっくり)

「とっくり」といえばお酒を連想される方も多いでしょうが、湯浅は醤油の醸造業者が多く、この写真に写っているのはすべて醤油徳利です。 

大きいのから小さいのまで、様々な醤油徳利が作られていたようです。


右の取っ手を廻すと「リ、リ、リン」と音が鳴る手回しの電話機。


蓄音機。現役で使えるそうです。

アクセ  JR湯浅駅下車徒歩約10分

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坂越浦 レトロ散歩


播州赤穂から一駅、「坂越」

日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」坂越 これからゆっくりと歩きます。

坂越(さこし)は、兵庫県赤穂市東部の坂越湾に面する港町。

都市景観大賞(都市景観100選)にも選ばれた伝統的建造物群による古い町並みと、秦河勝聖域の島、生島(国の天然記念物、瀬戸内海国立公園特別保護地区、ひょうごの森百選)を包むように広がる美しい坂越湾の眺望で知られる。

播州赤穂産『坂越のかき』の養殖生産地である。

坂越大道 – 千種川の高瀬舟船着き場と坂越の港を結ぶ通り。

通りの両側には、坂越で最も往時の面影を残す美しい町並みが続く。

近年、古民家を活用したカフェや人気スイーツ店が出店、赤穂の新しい観光スポットになっている。

大道から延びる細い路地ものぞき見ながら、ゆるやかな坂道を海に向かって下っていきます。

しあわせなより道

店名の由来は、店主が好きな歌詞のフレーズから。

「ここに立ち寄って幸せになって帰ってもらえたら」との思いが込められています。

店主が好きなものを詰め込んだという店内は、やさしく温かな空気をまとっています。

「坂越の人気カフェ「暖木(のんき)」の姉妹店として、4軒隣にオープンした雑貨店「紡木」。

ノスタルジックな佇まいが町並みに溶け込んでいます。

大道のほぼ中央にある「坂越まち並み館」は、大正末期の建造物である旧奥藤銀行を、坂越のまち並み景観創造のための拠点として整備した施設です。

古いアメリカ製の大きな金庫が残されており、銀行として機能していた当時の歴史を感じることができます。

開けてもいいよと言われ開けてみると中は物置になっていました。

年代を感じさせるタコつぼ。

塩焼く煙も懐かしい西浜塩田風景(昭和初期)
暖木・紡木 店主より寄贈とのこと。

坂越の舟祭りは国の重要無形民俗文化財 10月第2日曜 開催。

坂越まち並み館のおばちゃんから通りを歩くだけではつまらん、路地路地に入り、路地から大通りをのぞくといいと教えられる。

なるほど言われるとおりだ、路地をのぞくより、路地から大通りを覗くのがいい。

自転車屋さんのユニークなカンバン。

こんなかわいいカンバンも。

奥藤酒造 創業は、慶長6年(桃山時代1601年)。

現在も操業する酒蔵では、神戸市にある剣菱酒造、伊丹市にある小西酒造に次いで兵庫県で三番目に古く、全国でも有数の歴史を持つ老舗の酒蔵として知られる。

ちなみに赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒は剣菱。

近年、兵庫県立上郡高等学校農業科の生徒が仕込んだ清酒の販売も行っている。

約400年続くこちらの大きな酒蔵の一角に、江戸時代の酒造りの道具や廻船に関する道具、当時の資料などが展示された「奥藤酒造郷土館」があります。

豪商奥藤家の栄華を思いつつ見学したあとは、銘酒「忠臣蔵」「乙女」などの利き酒体験もOK。お気に入りの銘柄を、お土産にぜひ。

教えられた通り奥藤家の路地を覗いてみる。

坂越港と千種川とを結ぶ低い峠越えの中心通りを下りきった場所に位置する『旧坂越浦会所』。

1831年~1832年に行政や商業などの事務をする為の村会所として設立されました。

また、赤穂藩の茶屋としても役割を持ち、2階には『観海楼』と呼ばれる部屋があり、窓からは美しい坂越港が眺められます。

現在では、歴史的建造物の公開施設として、多くの観光客を迎えています。

大避神社の祭礼の写真がいい。

やはりここは路地を覗かないとダメなんだ、あちこちに写真が飾ってある。

二階の藩主専用の部屋は観海楼と呼ばれていて、床の間付きの藩主専用の間、落ちの間と呼ばれる寝所はベンガラが壁に塗り込められています。

藩主専用の部屋だった『観海楼』からは、その名の通り美しい坂越の海が見渡せました。

現在は埋め立てによって海岸線が遠くなりましたが、当時はこの建物のすぐ前が海だったそうです。

「歩」という字はすこし止まると書く、たまには立ち止まることも大事  ぜひ入って休憩を・・・・  なるほど!!

ここでも覗いてみる。

聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝(はたのかわかつ)は坂越に漂着し千種川の開拓を手がけたとされます。

その秦河勝をご祭神とする「大避神社(おおさけじんじゃ)」には、謎が!

拝殿に向かう階段は12段。境内のヤスライ井戸は12本の石柱から成り、注目の拝殿天井絵は12×8枚あるという……。

石段を登って神門をくぐると、大避神社の拝殿が鎮座します。

拝殿の両脇に絵馬堂が連なる珍しい形をしており、そこに江戸時代以降の貴重な絵馬が約40ほど掲げられています。

播磨灘に位置する天然の良港坂越浦には、渡来人であった秦河勝を始め、南朝(南北朝時代)の忠臣であった児島高徳など、多くの偉人伝説が残る。

地元に残るそれら人々の伝承記録をみると、坂越が瀬戸内往来の重要な中継地として長くあった事が窺える。

807年(大同2年)、中国からの帰途であった空海、901年(延喜元年)、都から九州の大宰府へ下る途中であった菅原道真、1565年(永禄7年)、長崎・平戸から京都に向かう途中のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの他、1587年(天正15年)、九州遠征中の豊臣秀吉を見舞った細川幽斎も、その帰途に坂越に足跡を残す[6][7]。

17世紀に入ると、瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点として発展[8]、奥藤、大西、岩崎、渋谷などの豪商が廻船業を営み、坂越浦には西回り航路用の大型廻船31艘、内海航路用の小型廻船15艘余りが犇いていたという。

また、西国大名の参勤交代の港としても使われていた。

この頃の坂越港には、数回にわたってオランダ船の入港記録もあり、1787年(天明7年)には、蘭学者でもあった司馬江漢が坂越に立ち寄っているのが興味深い(『江漢西遊日記』)。

18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって瀬戸内の港町の多くが衰退する中、坂越は「赤穂の塩」を運ぶ北前船の港として明治時代まで栄え、坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道(だいどう)」と呼ばれる通りの風格ある町並みは、往時の繁栄を今に伝えている。

裏道の終点にある『船岡公園』は、旧『坂越浦城』の跡地に整備された展望公園。

芝生広場と休憩用の東屋があります。

坂越浦城は坂越浦砦とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いた城。

江戸時代には赤穂藩の番所が置かれ、坂越浦に出入りする船を監視していました。

もう少し登れば妙見寺観音堂だが炎天下を歩き続けもう限界です、ここから引き返します。

秦氏は、「古代史最後の謎」といっても過言ではない、京都に足跡が多く存在する。

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やっと「暖木」までたどりつまました。

ここでおいしいかき氷にありつき、息を吹き返しました。
今日は結局、23,000歩歩いていました。

千種川、「ちぐさがわ」とも呼ばれる。

ここを渡れば坂越駅はもうすぐ。

清流で知られ、名水百選に選ばれている。

加古川・市川・揖保川・夢前川と並び播磨五川と呼ばれる。

水深が浅く流速が速いために川底の石の苔の育成が良く、兵庫県下で屈指のアユ釣り場として知られる。

若かりし頃ここまで鮎釣りに来ました、もう50年以上昔の話です。

これから姫路まで行き夕ご飯を頂きます、何度でも途中下車できるのが青春18切符のいいとこですね。

交通アクセス
JR赤穂線坂越駅から、坂越港までゆっくり歩いて徒歩約30分。

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