祭神の一言主神は「悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神」であるという託宣の神ということから、願い事を一言のみ叶えてくれると信仰を集めて「いちごん(じ)さん」と呼ばれ親しまれている。
神社鎮座地は前述の話における一言主神が顕現した地とされている。
また、裏山である神山こそが顕現の地「カミタチ」であると伝わる。
神社一帯は葛城氏の本拠地で、綏靖天皇の皇居(高丘宮)があったという伝承が残る。
葛城襲津彦(かつらぎのそつひきこ)の娘で仁徳天皇の皇后だった磐之媛(いわのひめ)は、夫の浮気に愛想を尽かして難波の宮を出ると、木津川から奈良山あたりをさまよい、故郷の葛城を望んで歌を詠んだ。
その歌が『古事記』や『日本書紀』に記載されて残っている。
彼女の歌の中に「わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」という一節がある。
磐之媛が生まれ育った我が家というのは、襲津彦の屋敷があった葛城高宮あたりを指すのであろう。
その高宮は九品寺からすこし南へ下ったところである。
若き日の磐之媛が日頃目にした大和盆地の景観も、一面に広がった市街地を原野に置き換えれば、おそらく現在と大して変わらなかったであろう。
この一言主の神は、修験道の祖といわれる役行者に葛城山と吉野金武峰山を結ぶ橋をかけるよう命じられたが、顔が醜いので夜しか働かず、完成しなかったとの伝説も残されている。
境内に建てられた「なほみたし 花に明け行く 神の顔」の芭蕉の句碑は、その故事にちなんだものだ。
葛城氏は、実在が確認出来た日本最古の豪族である。
葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されてある。
この一族は、「葛城王朝」と言われる程強大で、天皇家と並び立つ存在であった。
460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。
雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。
天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。
一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。
時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。
これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。
さらに、822年の『日本霊異記』では、一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。
役行者は一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。
雄略天皇と一言主の神の出会った場所というのが金剛山に残されています。
記事はこちらにあります。「金剛山樹氷散策」
境内社四祠、市杵島社、天満社、住吉社、八幡社・神功皇后社の四祠が並んでいる。
至福の像…長寿とボケ封じを祈願するための像。
参道の入口ある樹齢500年のむくの大木。
樹齢約1200年といわれる銀杏の木。
この木に願をかけると健康な子供を授かり、母乳が良く出るようになるといわれています。
頭上からは無数の乳根を付けて巨大に広がった特異な樹形には驚かされる。
亀石、役行者が災いをもたらす黒蛇を調伏し、その上に置いたのがこの石だと伝えられている。
「さち石」「清め石」とも呼ばれる。
蜘蛛塚は、神武天皇の頃に土蜘蛛という部族が抵抗したため、葛の網をかぶせて殺したことに関係があるとされている。
神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。
葛城古道沿いに大きな鳥居があり、ちょっとした集落を抜けると杉並木が西に延びている。
この並木が、昔はもっと立派で美しい、しかも松並木だったらしい。
昭和の後半、奈良と和歌山を結ぶ県道建設のせいで参道が分断され、貧相な姿になってしまったという。
葛城古道、一言主神社、磐之媛皇后に関するエッセイを紹介しておく、非常に面白い。
最後に雄略天皇の面白いエピソードを一つ。
雄略天皇は先の安康天皇が眉輪王によって刺殺されたことを知るや皇位継承権のある兄弟を殺し尽くして皇位についた生命力旺盛な天皇。
要人を殺し尽くすという点では歴代の天皇の中で傑出しています。
それは一つの才能でしょう。
また、童女君(をみなぎみ)という采女(うねめ)を召して一晩で孕ませましたが自分の子であると信じませんでした。
見かねた物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が、一晩のうちに何度召したかと問うと、「七廻喚しき(ななたびめしき)」と、いけしゃあしゃあと答えます。
これを聞いた物部目大連は、清き身体で一晩仕えたのだから疑うべきではない、と諫めます。
これを聞いて初めて雄略天皇は、生まれた女の子を自分の皇女(ひめみこ)として養育し始めました。
「童女君」という名前自体が意味深です。
子供だったことは明白です。
周囲が諫めるのを無視して「童女」を強引に召したのでしょう。
だからこそ子供が妊娠するはずがないと踏んだのでしょう。
一晩で「七廻喚し」ても妊娠するはずがないと確信したのでしょう。
確かに生命力旺盛な天皇ではあります。
一言主神社へのアクセス、行き方歩き方
住所:御所市大字森脇432
電話:0745-66-0178
近鉄御所駅から市コミニュティバス(西コース内回り循環)「森脇」下車すぐ
近鉄御所駅から五條バスセンター行きバス「宮戸橋」下車、徒歩約30分
JR・近鉄御所駅から徒歩約50分、タクシー約10分