東海北陸20名城 浜松城

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浜松城は野面積みの石垣で有名。
歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた。

天守曲輪の石垣の特徴 邪(ひずみ)と屏風折(びょうぶおり)

天守曲輪に残る石垣は、斜面上半部だけに石を積んだ「鉢巻石垣(はちまきいしがき)」に分類できる。

石垣の平面形には屏風折(びょうぶおり)や出隅(ですみ)、入隅(いりすみ)が随所に見られる。
こうした複雑な形状は、戦闘時に迫る敵に側面から攻撃を加えるための工夫である。
 
邪(ひずみ)は輪取り(わどり)ともいい、天守曲輪西側の埋門(うづみもん)南側で観察できるが、国内の現存例は多くない。

さらに南に行くと、一旦鎬隅(しのぎすみ)になった後に屏風折がある。
いずれも横矢掛(よこやがかり)という防御の技法で天守曲輪からの死角をなくす事ができ、防御機能が高くなる。

天守曲輪南東側には出隅があり、このような部分が大規模になると櫓が建てられる。
一方、本丸北西隅には入隅があり、入隅は多くの城郭で見ることができる。

140年ぶりお目見えした天守門。

本丸跡の徳川家康公の銅像。

元亀元年(1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。
岡崎城は嫡男・信康に譲られた。

当初は天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。
その際、曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園(浜松荘)に因んで城名・地名ともども「浜松」と改めた。

元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながらこれを無視するような行軍をして家康を挑発。
挑発された家康は浜松城から打って出たが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。

拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わった[1]が、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。

天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、新しい礎石と門柱を配置した。石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩(けいがん)である。

天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。
この巨石を鏡石と呼ぶことがある。
 
かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。
 
巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。
また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。

天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組井戸がある。
石組井戸とは穴のまわりを、石を積んで崩れないようにした井戸。

この井戸は直径1.3m、深さ1mほどで、籠城の際、貴重な水を確保するための井戸であった。

昭和33年(1958)、郷土博物館をかねた3層3階地下1階の天守が建造(コンクリート造)された。復興天守は巨大な天守台の半分のみを使用している。

銀明水と呼ばれていたという井戸、浜松城には、10本の井戸があったという。

この庭園は、浜松城天守閣と作左山の谷間を利用し深山渓谷を表現した廻遊式の庭園、この日は寒く、池の水は凍っていた。

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浜松城へのアクセス、行き方歩き方

住所:浜松市中区上島六丁目19-1
電話:053-473-1829 浜松市役所都市整備部公園管理事務所

東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線・東海道本線浜松駅、遠州鉄道鉄道線新浜松駅より徒歩約20分

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