豊川稲荷(妙厳寺)

東海
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境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。

豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っている。
また、日本三大稲荷の1つとされる。

総門、総欅造り、銅板コケラ葺きの総門は、開創二百十余年後、明暦2年(1656年)の改築に次いで、現在のものは明治17(1884)年4月10日改築竣工したもの。

門扉は、如輪目(じょりんもく)の欅木一枚板で作られ、他に類のないものと言われています。

およそ、600年前の室町時代に開創され、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、大岡越前守忠相、渡辺崋山などの武人、文人達の信仰を集めた。

かの名奉行、大岡越前守忠助相公が生涯の守護神とした尊像は今も東京赤坂別院に奉祀されています。

最祥殿(書院)、昭和四年竣工総桧造りで、間口十三間(23.6m)奥行二十六間(47.27m)の日本式大建築物で内部は四百畳敷きとなり講中、団体などの信者約千有余人の接待ができる大座敷。

当寺二十九世黙堂禅師の揮毫による「此處最吉祥(このところもっともきちじょう)」の大額が正面に掲げられているので、この建物を「最祥殿」と呼ぶ。

山門、天文5年(1536)今川義元が寄進した建物で、境内の中では一番古い建物です。
また、境内で唯一、丸瓦葺の屋根の形をしています。

寛政5年(1792)に修理し、さらに昭和29年春、かなえ講の協賛によって大修理が行われた。
左右の阿吽の仁王像は、昭和41年に篤信者(とくしんしゃ)によって寄進されたもの。

法堂(はっとう)(通称 本堂)、円福山妙厳寺(えんぷくざんみょうごんじ)の中心を占める建物。
妙厳寺は、今から550年前、東海義易禅師(とうかいぎえきぜんし)によって創立された。

寒厳(かんがん)禅師が自ら刻まれた千手・千眼観世音菩薩が安置され、内部正面には浄聖台(じょうしょうだい)の額が、外部正面には大本山総持寺独住第一世奕堂(えきどう)禅師が揮毫した「妙厳禅寺」の扁額が掲げられています。

豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のこと。

1871年(明治4年)、神仏分離令に基づき、妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及ぶが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められる。

しかし、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。
以降は「豊川吒枳尼真天」と号するようになる(だだし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する、現在の鳥居が立ったのは戦後である)。

全国の稲荷神社は京都の伏見稲荷を総本社としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺院であり、上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。

豊川枳尼真天(とよかわだきにしんてん)、通称「豊川いなり」の御本体が祀られている本殿。

昭和5年春に竣工された建物は、総欅(ケヤキ)造、妻入二重屋根三方向拝の型をとり、間口10間7分5厘(19.35m)、高さ102尺(30.6m)、奥行21間4分3厘(38.59m)、
丸柱の直径は8寸(24cm)のもの、3尺(90cm)のものが72本使われています。
 
ちなみに、お参り時に御真言、「オンシラバッタニリウンソワカ」と、21回(7回でも可)と唱えます。

大黒様をお祀りしている、蔵造りの建物、前に並ぶ像は、おさすり大黒天という。

霊狐塚、願いが叶ったら、お礼参りという意味で、狐の像を奉納していったものがたくさん祀られている塚。

荼枳尼天

中世になると、天皇の即位灌頂において荼枳尼天の真言を唱えるようになり、この儀礼で金と銀の荼枳尼天(辰狐)の像を左右に祀るという文献も存在する。
また、平清盛や後醍醐天皇の護持僧・文観などが荼枳尼天の修法を行っていたといわれ、『源平盛衰記』には清盛が狩りの途中で荼枳尼天(貴狐天皇)と出会い、この修法を行うか迷う場面が記されている。

ただし、『源平盛衰記』はあくまでも後世に書かれた文学作品であり、清盛が実際に荼枳尼天の修法を行っていたとする根拠はない。

この尊天は祀るのが非常に難しく、一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされ、もしその約束を破ると、その修法を止めた途端に没落する、あるいは災禍がもたらされるとも考えられていた。

したがって、これは外法として考えられることもある忌まれる信仰でもあった。
荼枳尼天の修法を外法と呼んだ例は中世文学に見られ、『平家物語』には「かの外法行ひける聖を追ひ出さんとす」、『源平盛衰記』には「実や外法成就の者は」、『太平記』には「外法成就の人の有けるに」との記述がある。

狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。
また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。

あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。
荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。

なお、狐と荼枳尼の結びつきは既に中国において見られるが、狐(野干)に乗る荼枳尼天の像というのは中世の日本で生み出された姿であり、インド・中国撰述の密教経典・儀軌には存在しないものである。

戦国時代には、各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀るようになる。
武将たちの生命のかかった城に祀られる稲荷は、怨敵退散を祈願し闘戦に勝利するため荼枳尼天が大部分だったと考えられている。

現在でも、久保田城跡(秋田県)、小諸城跡〈長野県)、浜松城跡(静岡県)など、城跡で稲荷社の祭祀が続けられる所は少なくない。(ウィキ)

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豊川稲荷へのアクセス、行き方歩き方

豊川稲荷公式サイト

豊川市豊川町1番地
TEL:0533-85-2030(代)

JR飯田線豊川駅・名鉄豊川線「豊川稲荷駅」下車徒歩5分