長浜ぶらぶら散策

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中心市街は羽柴秀吉が長浜城の城下町として整備して以来の湖北地方の中心地で、長浜城廃城後は大通寺(長浜御坊)の門前町、北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した。
関連記事:琵琶湖にたたずむ湖城 長浜城
私費で建設した明治天皇行在所 慶雲館
秀吉が初めて築いた長浜城

さすがガラスの街、ステンドグラスでつくられた旧駅名表示。

長浜駅の階段口を飾る「こども歌舞伎」をテーマにしたステンドグラス。
ほとんど注目されることなく 人が通り過ぎる、残念。

長浜市石田町生まれの三成が、観音寺で修行をしていたある日のこと。

当時長浜城主だった秀吉が鷹狩りの途中に立寄ったところ、最初は大きい茶碗にぬるいお茶をなみなみと、次は前より少し熱くして半分ほどのお茶を、最後には小さな茶碗に熱くした少しのお茶を差しだしました。

この三成の心配りに感心した秀吉は、やがて三成を召抱えることとなりました。

これが有名な「三献の茶」の逸話です。
この像は、二人の出逢いをモチーフに昭和56年9月に駅前に建立されたもの。

橋の欄干にひょうたん。

長濱の地名起源歌碑
「君が代も わが代も共に 長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで」竹中半兵衛の歌碑を刻む。
この歌が長浜の地名の起源になったとされる。

豊臣秀吉は天正元年(1573年)~天正4年(1576年)に長浜城主であったが、当社は長浜町民が、秀吉の3回忌に当たる慶長5年(1600年)、その遺徳を偲んで建立したものである。

江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた(現在の豊国神社で事代主が一緒に祀られているのはこのため)。

明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建された。

芙蓉の花がきれいに咲いていました。

「豊国神社」本殿。

秀吉が築城した長浜城に庭園が造られたときに、清正が庭石を寄進した。
この庭石を秀吉はたいそう気にいっていた。

秀吉亡き後、江戸時代に庭石は大通寺へ移設されることになった。
それから庭石は夜毎に「いのう(帰ろう)、いのう」と泣き叫んだという。

そこですでに廃されていた長浜城内の敷地に戻し、時を経て、秀吉が祀られた豊国神社へと移された。

加藤清正公銅像。

福万年亀(ふくまねき)という出世・金運・縁談などの幸運招来の精霊石。

豊太閤に参拝のあとは、境内右隣の出世稲荷にもお参りして太閤さんにあやかろう。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕え、長浜城主にもなった戦国武将、山内一豊が妻千代と新婚時代を過ごした屋敷跡。
現在は長浜城の北東に石碑が立てられている。

伊右衛門屋敷と山内一豊

明治6年(1873)の「長浜町地籍ちせき図」によると、当地の周辺は、字名を「伊右ェ門屋敷」と呼んでいました。

また、延宝3年((1675)9月15日付け「長浜古城跡御検地帳」でも、「伊右衛門屋敷」という地名が載り、この字名は江戸初期からある地名であることが分かります。

「伊右衛門」は、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊(1545~1605)の通称なので、ここは秀吉が長浜城主だった時代に、その屋敷があった場所と伝えられてきました。

山内一豊は、その妻・千代の「内助の功」により名馬を購入し、土佐国高知城主20万石の大名に出世したことで有名です。

彼は、天正13年(1585)から5年間、長浜城主もつとめています。

このモニュメントは、一豊とその妻・千代が仲睦なかむつまじく「夫婦円満」に「立身出世」していった事に因ちなみ一豊と千代の夫婦像をイメージして建立しております。

(説明板より)

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