この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年10月11日訪問時のものです。
ミステリアスなこの時代、皇位争いに矮小化してみている限り、いわゆる「壬申の乱の謎」がついて回ります。
東アジア状勢と列島全域を視野にした中で、古代の歴史段階を意識しながら、考えれば理解が進むと思われる。
宮滝の集落の旧道と吉野川の間の河岸段丘に広がるのが史跡宮滝遺跡です。
この遺跡は戦前末永雅雄氏によって発掘調査がおこなわれ、戦後国の史跡に指定されました。
宮滝に滝があるわけではありません。
宮滝の滝は「たぎつ」の意味です。
柴橋の中ほどから下流を向くと、今も変わらぬ「たぎつ瀬」の様子が見れる。
ちなみに、宮滝の由来は「激つ宮処」だといわれています。
よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ
この歌は天武天皇の作だといわれています。
歌が詠まれた場所は現在の奈良県吉野町宮滝のあたりにあった吉野宮でしょうか。
このとき天武天皇は自分の子や縁者である6人の皇子たちを集め、みなが結束する事を盟約させたといわれています。
柿本人麻呂 万葉歌碑
巻1-36
やすみしし わが大君(おほきみ)の 聞こしをす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(はなぢ)らふ 秋津(あきつ)の野辺に 宮柱(みやばしら) 太(ふと)敷きませば ももしきの 大宮人(おおみやひと)は 船並(ふねな)めて 朝川渡り 舟競(ふなぎほ)ひ 夕川渡る この川の 絶ゆる事もなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)そそく 滝の都は 見れど飽かぬかも
(やすみしし)我が大君が、お治めになる天の下に、国は数多くあるが、山や川の清らかな河畔の地として、(御心を)吉野の国の、(花散らふ)秋津の野辺に、宮柱を太く宮殿をお建てになって朝の川を渡り、船を競って夕べの川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く、御治めになる、(水そそく)滝の離宮は、いくら見ても見飽きることがない。
巻1‐37
見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑(とこなめ)の 絶ゆる事もまく またかへり見む
見ても飽きることのない吉野川の常滑のように、常に絶ゆることなくまたこの地に帰って来て見よう。
「喜佐谷川」(象の小川)が「吉野川」に流れ込む「夢の和田」です。
夢のわだは『万葉集』にもよく詠まれ、その美しさは多くの万葉人の憧れでした。
また、青く澱んだ淵は昔河童がいた「夢が淵」です。
万葉集で吉野川の流れは「たぎつ河内」「夢のわた」「川淀(かわよど)」等と詠まれ、柿本人麻呂が女帝の持統天皇の吉野行幸に供をして来た時の歌は、
万葉集、巻1-0039
山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
宮滝の「柴橋(しばはし)」昔はもう少し上流の川幅が狭い所に架かり、旧東熊野街道上の橋で、当時は松の丸太を橋桁にしてその上に歩み板を張り、柴垣で欄干を造っていたので鉄橋に架け替えられた今でも「柴橋」と呼ばれます。
また、昔は吉野川の水量も今よりは多く、万葉人達が「滝つ河内」で船遊びを行い、最高の避暑地でした。
万葉集巻6-908
毎年(としのは)にかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
「万葉の道」の喜佐谷集落を流れる現在の喜佐谷川が、万葉の御代「象(きさ)の小川」と呼ばれていた頃、丁度、吉野川と合流する地点の水のよどみに作られていた橋で、名を「うたたね橋」と呼ばれていたそうです。
何時の時代か老朽のため取り壊され、写真のように碑だけが残っております。
「うたたね」の謂われは、源頼朝から追われた義経が吉野落ちのとき、この橋の上で疲れのため、うたたねをしたことからつけられたと云われております。
同型同名の橋がこの後に出てくる桜木神社にもでてきます。
即ち万葉の御代にはが二つあったという。
宮滝から遡ること30分、「象の小川」のほとりに桜木神社があります。
この神社は、大己貴命・少彦名命、天武天皇を祀っています。
この橋が先ほど説明した二つ目の「うたたね橋」です。
現在は「こぬればし」と呼ばれている。
山部赤人の
み吉野の 象山(きさやま)のまの 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも からとったのでしょうか。
屋根は木橋の橋面が腐らないよう雨水から守ったと考られます。
これなら義経も仮眠ができたことでしょう。
象の小川(きさのおがわ)
喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で、やまとの水31選のひとつ。
吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもつ流れがこの川となって、吉野川に注ぎます。
万葉集の歌人、大伴旅人もその清々しさを歌に詠んでいます。
桜木神社の前を流れる現喜佐谷川を含め、「象の小川」と万葉の頃から呼ばれていたもので近代に入ってから象(きさ)が喜佐に変名したようです。
御神木大杉
樹齢7~800年、高さ35~40m、胴回り65~7m
巻6-924 山部赤人 万葉歌碑
み吉野の 象山(きさやま)のまの 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも
み吉野の象山の山間の梢には、こんなにも多く鳴き騒ぐ鳥の声なのだなあ
桜木神社神殿。
大己貴命、少彦名命は、古くから医薬の神として崇められ、特に初代紀伊藩主大納言徳川頼信公は、たびたび病気平癒を祈願したそうです。
天武天皇は、天智天皇の近江の都から吉野に身を隠していたころ、大友皇子の兵に攻められ、危うくこの地の桜の大木に身をひそめ難を逃れたいう伝説がある神社です。
吉野歴史資料館の外観。
林業が盛んな吉野町の施設ですから、吉野杉が使用されているのでしょうか。
宮滝遺跡から出土した縄文・弥生の遺物や天武・持統天皇が度々訪れた吉野の宮に関する展示を行っている。
吉野歴史資料館の前に建っている万葉歌碑。
「かはず鳴く よしのの川の 瀧の上の あしびの花そ 端に置くなゆめ」 作者不詳 万葉集 巻10-1868
吉野を詠んだ有名な歌で、揮毫は上野誠先生です。
蛙の鳴く吉野の川の滝のほとりの、これは馬酔木の花ですぞ…(ソンジョソコラの馬酔木じゃない!)。
隅に置くでないぞ-けっして!けっして!(奈良大学教授 上野誠さん訳)
吉野歴史資料館に展示されている吉野離宮の復元図。
「宮滝遺跡周辺図」。
やや見づらいが、吉野宮跡と史跡指定地とは少しだけずれていることが分かります。
真正面に見えるのが「象山(きさやま)」で、その奥に遠く「青根ヶ峯」が。
吉野川には「夢のわだ」「象の小川」など、万葉歌にゆかりの深い名前ばかりが見られます。
我々のバスは「宮滝しょうゆ 梅谷味噌醤油」の駐車場に停めているが、実際の離宮はこのあたりにあったのではと考えられているという。
昼食はかつて繁栄を誇った下市の町の老舗アユ料理屋「つるべずし 弥助」
創業八〇〇有余年、歌舞伎「義経千本桜」三段目「すし屋」の舞台となった釣瓶鮨本家。
画像は浄瑠璃三大傑作のひとつ「義経千本桜」三段目の切(鮨屋の段)の「いがみの権太」
すしやの段 すし屋「釣瓶鮓」には、主人の弥左衛門・女房のお米、娘のお里、美男の手代弥助が暮らしている。
そこに一夜の宿を借りに来た若葉の内侍と六代君。
弥助との思わぬ出会いに、彼の正体が三位中将維盛と知れる。
寄合いで平家探索の手が下市村まで伸びてきていることを知って戻ってきた弥左衛門。
そんな中、勘当されている息子の権太が父親の目を盗んで訪れ、母に無心をして出て行く。
いよいよ詮議役の梶原景時がやってきて、弥左衛門は維盛一家を別の場所に移すが、そこに権太が一家を捕らえたと言ってやってくる。
絶望する弥左衛門。
しかしそれは、権太命がけの親孝行だった。
一家は救われ、維盛は出家し高野山へと向かうが、弥左衛門家の権太は絶命しお里は婚約者を失う。
奈良吉野川に架かる千石橋より南へ徒歩5分。
天川村へ抜ける国道309からひとつ中入った旧街道に、ひっそりとたたずむ多くの文人達に愛された老舗。
古びた木造三階建、ベンガラの赤壁にせまる崖にしつらえた山庭は一見の価値あり。
独り言・・・・
持統の野望と奇妙な符合
持統は夫天武とともに壬申の乱を成し遂げたと思われているがとんでもない。
とても怖い女だと考えられる説が沢山提出されているので一部を紹介する。
日本書紀は天武の勅によって編纂が始まっというは事実だろうが、出来上がったのは天武の死後20年以上経ってからで、当然時の権力者に都合よく書かれている。
時の権力者が誰だと考えるとこれから紹介する説はある面尤もなことだと考えられる。
当時の東アジア状勢と人気のない天智と人気のある天武を天秤にかけ、蘇我系天武政権の乗っ取りを企んでいたというのです。
天智天皇の死に関して不思議な話が伝わっています。
平安時代末期に僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。
その沓が落ちていた所を山陵としたといいいます。
天武の死後、親新羅政策から天智の拘っていた親百済政策に切り替え、天武朝で干されていた藤原不比等を重臣として取り立て天武政権を乗っ取り、焚書を行ったというのだ。
史実を改竄・偽作した日本書紀の編纂途中で、持統天皇は、日本書紀に都合よく整合させるため、古代から由緒ある神社の古文書や豪族の系図を没収し、抹殺してしまった。
つまり、日本書紀第十卷、応神天皇までを書き上げた691年、記紀の記述と矛盾するものとして、以下の古文書、関連する氏族の系図を没収したという。
持統天皇5(691)年8月13日条に、「其の祖等の墓記を上進らしむ」69)と簡単に書いているが、その意図は推して知るべしである。
○石上神宮(現在の天理市布留町)の古文書(須佐之男尊、大歳(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏=出雲系)
○饒速日大王の陵墓で、三輪山(桜井市三輪)を御神体として祀る大神神社(斎主・三輪氏)の古文書。
○以下、豪族十六氏の系図 ・春日氏 ・大伴氏 ・佐伯氏 ・雀部氏 ・阿部氏 ・膳部氏 ・穂積氏 ・采女氏 ・羽田氏 ・巨勢氏 ・石川氏 ・平群氏 ・木(紀)角氏 ・阿積氏 ・藤原氏 ・上毛野氏の系図である。
自身が皇位に就いていることすら不思議なことだ。
吉野の盟約(よしののめいやく)で、天武天皇と皇后の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)がその間にもうけた草壁皇子を次期天皇であると宣言した。
679年(白鳳8年)(=天武8年)5月5日に吉野へ行幸。
草壁皇子ら皇族に彼を次期天皇とし、お互い助けて相争わない事を誓わせた。
681年(白鳳10年)(=天武10)年には草壁皇子は皇太子となるが、器量優れたライバルの大津皇子も政治に参加する事となり結局天武天皇の後継は曖昧なものとなってしまった。
そして、そうした内に天皇は崩御し、大津皇子は謀反の疑いをかけられて非業の最期を遂げたが、草壁皇子もまもなく夭折し、鸕野讚良皇女が高市皇子等有力跡継ぎ候補を無視して自ら正式に持統天皇として即位するのである。
天香具山の歌も不思議だ。
春過ぎて夏来るらししろたえの衣乾したり天の香具山
この歌が単純すぎるのだ、なぜ万葉集の編者は、このような歌をわざわざ歌集に載せる必要があったのか。
万葉集がたんなる文学書ではなく、抹殺された真実の歴史を告白する書であることは、すでに多くの研究者によって検証されいてる。
持統は天武の死後、異常ともいえる吉野通いを繰り返した。
一説に、これは天武の生前を偲んだ行動とされているが、これが誤解であることは改めて述べる必要もない
むしろ天武の業績を否定する行為であったと考えた方がつじつまが合ってくる。
吉野裕子が指摘するように、それは吉野という神仙境への登仙を意味していたのである。
それによって持統は自らが神になろうとしたのである。
持統は、飛鳥の地で、天の香具山に白い衣が干されていると詠った。
これは天の羽衣伝承であり、衣を盗むチャンスが到来したことを告げていた。
持統が蘇我系天武政権の乗っ取りを企んでいたことは確かである。
とすれば、持統が神になろうとした行為に、それまでの神道の否定・抹殺という、恐るべき陰謀が隠されていたはずである。
全てを信じているわけではないがなるほどと思わせる部分が多々あり古代史の勉強を面白いものにしてくれている。
まだまだ持統、不比等、日本書紀の謎は続くが今日はここまで。