壇ノ浦の戦いで平家が滅亡、建礼門院は一門と共に入水したが、敵方の源氏の手によって助けられた後、この長楽寺で髪を下ろし仏門に入った。
本堂内にはそれにまつわるいろんな資料が所蔵展示してある。
また花の名所としても知られている寺である。
日陰が多いので、紅葉は遅め。晩秋の散り紅葉は見事。
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円山公園 の池の南を東へ進むと正面に長い石段が見える。
その先が「長楽寺」で、古木の枝が街の喧騒を遮り、苔むした石垣が美しい。
長楽寺の境内地は円山公園の大部分や大谷祖廟(東大谷)の境内地を含む広大なものであったが、大谷廟建設の際幕命により境内地を割かれ、明治初年、境内の大半が円山公園に編入され今日に至る。
『平家物語』ゆかりの寺であることから、安徳天皇画像、安徳天皇の衣をもって作ったと伝える幡、松久朋琳作の建礼門院彫像などがある。
建礼門院御影は源氏の目に入らぬように、墨をぬって隠されてきたといいます。
『平家物語』ゆかりの寺ということで訪れてみた。
建礼門院塔
元々長楽寺山山腹八丁台の景勝地に建っていたが、明治初年この地が国有地になった為、現在地に移された。
髪をおろした時の御髪塔と伝える。
5月1日この寺で髪をおろし、出家された。
時に29歳であった。
まもなく、建礼門院は大原の寂光院へ移り住まれ、69歳で亡くなられた(亡くなられた歳については、37歳、59歳、70歳など諸説あるという)。
一説には建礼門院の舎利塔とも言われる。
平安の滝
「八功徳水」と称される清冽な水が山腹から湧き出ている。
「八功徳水」の「八」は、甘い、冷たい、軟らかい、軽く、清浄、無臭、飲時不損喉、飲己不傷腹。
滝壷を囲む石壁には、多くの石仏が刻まれており厳かな雰囲気が漂う。
梵鐘は明暦三年に鋳造され、その妙音は「長楽寺の鐘」として広く市民に親しまれていましたが、戦時中惜しくも供出され、その後昭和31年に再興、その黄鐘調(おんじきちょう)の音色が蘇り、毎年大晦日の除夜の鐘として鳴らされ、全国に中継放送をされたこともあります。
相阿弥(そうあみ)が、室町八代将軍 足利義政の命で銀閣寺の庭園を作るとき、試作的にこの庭を作ったといわれる。
頼山陽とその家族の墓
長楽寺へのアクセス、行き方歩き方
京都市東山区円山町626番地
TEL.075-561-0589 FAX.075-561-8550
公共交通利用の場合
JR京都駅前市バスターミナルD2のりばより206号系統(北大路バスターミナル行)に乗車約25分「祇園}下車後、約10分、円山公園東南奥
私鉄利用の場合
京阪電車京都線「祇園四条」駅から八坂神社を目標に円山公園を抜けて徒歩約20分
阪急電車京都線「河原町」駅から四条通を東へ八坂神社から円山公園を経て徒歩約23分