歴代赤穂藩主の菩提寺 花岳寺

兵庫県

播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が眠る大石家墓地、義士墓がある。
浅野家、赤穂浪士に関する展示物が収蔵されている義士宝物館が併設されている。

明治維新後、赤穂城が解体され塩屋惣門が花岳寺の山門として移築されたとされる。
現在山門は、赤穂市文化財に指定されている。

曹洞宗の寺院で、山号は台雲山(たいうんざん)。

義士宝物館の義士像。

墓所の入口から見た「義士墓」

「浅野家廟所」の西側を通り抜けるとすぐ先に「大石家先祖の墓所」がある。

三基の大きな墓が目につくが、右から大石良雄の祖父、祖母、父の墓である。
これらの右側に良雄の妾の娘の墓があるのが面白い。

手前の灯篭は大石良雄の寄進になるものといわれている。

「大石家先祖の墓」の前を東の方向へ、次いで、北側に曲がり奥に進むと、左手正面に赤穂藩代々の藩主(初代藩主の父も含め)、浅野氏の墓があるが浅野内匠頭長矩の墓はこの場所になく、「義士墓」の中に置かれている。

森家の墓所
花岳寺の義士墓所が建てられたのは、元文4年(1739年)義士の37回忌の時です。
花岳寺の住職で言うと、七世在天益龍和尚の時代です。

当時の赤穂藩主は森家でした。
その家臣・小林貞真を中心とする有志によって建てられました。

伝によると、墓には赤穂義士の遺髪が埋められています。


浅野長友公の墓
播磨赤穂藩の第2代藩主。初代藩主・浅野長直の長男。
正室は内藤忠政の娘波知。子には長男・浅野長矩(内匠頭)、次男・浅野長広(大学)がいる。

浅野長重公の墓
浅野長政の三男として近江国に生まれる。
母の姉・ねね(おね)が豊臣秀吉に嫁いでいる関係で浅野氏は豊臣時代に優遇され、秀吉は長重を嗣子がなかった宇都宮国綱の養子にさせようと宇都宮家に働きかけを行なった。
文禄2年(1593年)5月に国綱は一度了承したものの、国綱の弟である芳賀高武の反対によりこの計画は中止となった。

初代播磨国赤穂藩主浅野長直公の父親。

浅野長直公の墓
浅野家では初代の播磨国赤穂藩主。
5万3,000石。赤穂藩の基礎を築いた名君である。

この絵はもともとは五月の節句の幟として描かれた虎の絵といわれており、安政元年(1854年)に赤穂の画家である法橋義信によって描かれたとされている。

雨情詩碑「春のあけぼの 花なら桜 武士の鑑ぢゃ 赤穂義士
野口雨情が昭和11年4月18日から3日間赤穂に滞在した時に詠んだ。雨情自筆写刻。

現在花岳寺の境内に「二代目大石なごりの松」があります。

今では、「一代目」は千手堂(休憩所)に切り株として記念保存されています。
昭和2年(1927年)に松くい虫のため2本あったうち2本とも同時に枯死しました。

播州の名松として天然記念物に指定され、木目で数えると310年の銘木でした。

さて、この「一代目」は、大石内蔵助良雄が、母松樹院がなくなられた時冥福を祈るために植えたものだったのです。
領地相生村の裏山から2本の松を移植したのが、元禄4年(1691年)3月14日。
これは浅野内匠頭長矩公の切腹の日よりちょうど10年前のことでした。

浅野家断絶、赤穂立ち退きの時、大石内蔵助が大石家先祖の墓を詣で、この松のもとで名残を惜しみ旅立ったことを指し、後の人々はこの松を「大石手植えの松」「大石なごりの松」と呼ぶようになりました。

鳴らずの鐘
もともとの鐘は赤穂二代目藩主浅野長友公の鋳造になるものといわれている。
その後、三代目藩主長矩公の刃傷事件後、元禄15年(1702年)の四十七士の討ち入り、翌年の切腹と続く。

この悲報に接した人々は寺に集まり、冥福を祈りこの鐘を打ち続けたといわれている。
あまりにも撞きすぎたため、以来、この鐘は鳴らなくなってしまい、寛政9年(1797年)に再鋳造されるまで鐘の鳴ることはなかったという。

勿論、現存の鐘は再鋳造されたものであるから撞けば鳴る。

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花岳寺へのアクセス、行き方歩き方

花岳寺公式サイト

住所:兵庫県赤穂市加里屋1992
電話:0791-42-2068
FAX: 0791-45-2885

JR赤穂線・播州赤穂駅下車、南へ徒歩10分(600メートル)