御神体・稲荷山は稲荷の神様が降臨された聖なるお山である。
社殿が建立される永享10年(1438)まではお山が信仰の対象であった。
その巡礼を「お山巡り」といい、現在でも盛んに行われている。
元来は農耕神であるが、現在では五穀豊穰・商売繁昌・殖産興業・交通安全など幅広いご利益があるとされ、年間約1000万人が訪れる。
日本全国に3万社とも4万社ともいわれる「稲荷神社」はその多くが伏見稲荷大社から勧請されたものである。
初詣には三ヶ日で約250万人が参詣、これは関西で最多、全国でも五指に入る。
また2月の初午の日にはお山めぐりをする参拝客で賑わう。
稲荷山には信者から寄進された約1万基の朱の鳥居が林立し「千本鳥居」と称される摂社・末社も多く、山中の神蹟を巡拝する約4km、2時間の「お山巡り」ができる。
日曜日であったこともあり、このように多くの信者がお山を目指す。
信仰心の篤さがうかがわれる。
一発勝負を賭けるときにお参りする方が多いといわれる熊鷹社。
熊鷹社の後ろにある池を新池と言い、谺ケ池(こだまがいけ)との別称があります。
池に向かって手を打ち、こだまが返ってきた方向が吉報であり願いが叶うと云う言い伝えがあります。
また、ほとりで手を打ち、その反響する方角を捜すと、家出人や失跡者が見つかるともいわれる。
展望台から鬱蒼と茂る木々の道を登ると、山の中腹に当たる四ツ辻。
展望台より広い眺めです。
ここから右回りか左回りかのどちらかを選んで頂上の一ノ峯を目指します。
四つ辻から約30分の、ぐるりと周るお山めぐり。
画像真ん中の赤いポイント地点が四つ辻で、今回は左回りで巡った。
お山めぐりで人気のある狐の手水。
ここは御前谷とも記され、稲荷山三ヶ峰の北背後にあたり、往古はここに神饗殿(みあえどの)と御竈殿(みかまどの)があって三ヶ峰に、神供をした所と伝えられています。
三つの峰の渓谷がここに集まって一の峰、二の峰、三の峰を拝する要の所。
毎年1月5日「大山祭 山上の儀」が斎行される聖地です。
祭典期日の由来は諸説があって不明といわざるを得ませんが、この日の午前中大山祭に先立って、稲荷山七神蹟の玉垣(今日では神蹟域の外玉垣)に注連縄を張る「注連張神事」が行なわれます。
これは二月初午までがほぼ一ヶ月であることを考えるとそのゆかしさに興味をそそられます。
清少納言が、枕草子で大変に苦しい思いをしたと書いている急勾配な200段の石段で釼石(長者社神蹟)~一ノ峰(上之社神蹟)迄を一気に約200段の石段を登ります。
三ノ峰(下之社神蹟)
白菊大神と崇められています。
明治20年代の半ば頃、改修工事がなされたらしく、ここから変形神獣鏡が出土しました。
二ノ峰(中之社神蹟)・・・青木大神と崇められています。
ニ神ニ獣鏡(渡来品)1面、変形四獣鏡(国産品)1面が当時の玉垣より東へ10mの所から出土し京都国立博物館に出陳されています。
一ノ峰(上之社神蹟)
稲荷山の最高峰(標高233メートル)でここを末広大神と崇める信仰があります。
勾玉が出土し石室は海石で石棺らしきものがあると伝わります。
稲荷山には幾つかの塚がありますがここでの塚は古墳を意味しています。
親塚を建てた以前から続く信仰らしく、神蹟改修を示す親塚裏面に(明治10年6月、燈明講奉納・末広社)という刻字が見出せます。
上中下社の中腹や裾部ならびに巡拝路の各処に小さな「お塚」が群集している。
一見乱雑に見えるが、三社の周りは中心のお塚を同心円状に取りまいてその間を参詣路が巡っているし、巡拝路添いのそれも一応整然と並んでいる。
これらのお塚には○○大神などの神名が彫りこまれ、その前には石または陶製の白狐像が置かれ、大小の朱の鳥居が奉納されている。
当社にからんで、『和泉式部が稲荷に参る途中、田中明神の辺りで時雨れてきたので、稲刈りをしていた童から襖(アオ、上着)を借りて参詣を済ませ、帰りには晴れてきたので童に返した。
次の日、式部がふと見やると、部屋の隅に“大きやかなる童”が手紙をもって佇んでいた。
手紙には「時雨れする稲荷の山の紅葉は あおかりしより 思いそめてき」とあった。
この歌に心打たれた式部は、童を部屋に招き入れた』という伝承が残っている(古今著聞集、大意)。
この伝承で、童が稲を刈っていたことは、童=田中大神が田の神・穀神であることを示唆され、神婚譚のひとつとも解釈される。
式部に襖を貸した童は田中神(あるいは稲荷神)の化身で、式部はカミの訪れを待つ巫女ともみられ、神と巫女との神婚によって豊饒がもたらされるとの説話である。
伏見稲荷大社へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市伏見区深草藪之内町68
JR奈良線「稲荷駅」下車(徒歩約3分)
京阪電車本線「伏見稲荷駅」下車(徒歩約7分)