今回の琉球王国の名城と歴史を歩くツアーはまず識名園からスタートです。
機内からの撮影、四国を横切るとき、山の頂は冠雪していました。
沖縄到着寸前です、コバルトブルーの海が出迎えてくれました。
空港近くの国道沿にある観光客にもよく知られている沖縄そばの店「那覇亭」でまずは昼食。
最初の訪問先は識名園、識名の御殿(しちなぬうどぅん)とも、また首里城の南にあることから南苑(なんえん)とも呼ばれた。
造園は琉球の第二尚氏王朝、尚穆(在位・1752年 – 1795年)の時代に始まったと言われるが定かではない。
完成は尚温の時代の1799年。
御殿(うどぅん、または、おどん)は、主に琉球王族の邸宅、またはそこに住む人をさす尊称。
御殿は「うどん」ではなく、「うどぅん」と発音します。
識名園の敷地に入って最初に目に入るのは、番屋とよばれる庭園の番人が詰めていた居住宅。
識名園には家来や使用人が使った通用門と、国王一家や冊封使などが出入りされた正門の二つの門があります。
正門は通用門よりやや大きめなのが特徴ですが、見た目はかなり似ています。
正門と通用門、どちらの門も、屋門(ヤージョウ)とよばれる瓦屋根を乗せた形式になっています。
正門から屋敷に入ると石畳の園路があり、木々の木陰で涼しいのですが、ちょっと神秘的な雰囲気も。
石畳の園路は大きくS字状に曲がっているのですが、これは狭い園路を広く見せるための工夫であり、園内へ魔物などが侵入しないよう、侵入を防ぐ緑のヒンプンの役割を果たしているといわれます。
ヒンプンとは琉球建築の民家における典型的な様式のひとつで、門と母屋との間に設けられる「目隠し」をいい、中国語の屏風(ピンプン)に由来するといわれている。
「魔除け」という役割もあるが、通りからの目隠しと、南風が屋敷へ抜けていくように設計されているという。
中国の様式と沖縄独自の様式の折衷様式で建築されている。完成当時は中国皇帝からの使者(冊封使)をもてなす、現在でいう迎賓館として使われた。
御殿(うどぅん)は赤瓦屋根の木造建築で、往時の上流階級のみに許された格式あるつくりですが、雨端(あまはじ)などに民家風の趣を取り入れています。
明治末期から大正時代の初め頃、増改築がなされました。
総面積は525平方メートル(約159坪)で、冊封使を迎えた一番座、それに連なる二番座、三番座、台所、茶の間、前の一番座、前の二番座など、15もの部屋がありました。
正面の池は「心」の文字をくずした形になっていることから、心字池ともよばれる。
手前にあるのは小石橋、奥に見えるのが大石橋。
小石橋は中国では太湖石(たいこいし)と呼ばれる、穴がたくさん開いた石灰岩が珍重され、屋敷などで飾られています。
それに似た、海岸で波や風によって形づくられた琉球石灰岩を用いて装飾しています
大石橋は、小川の発達した中国南部の地方に見られるもので、船がくぐりやすいように真ん中を高くしてあります。
アーチのつくり方は、石を横方向へ大きく取り、奥行きの短いのが独特で、中国やヨーロッパなどのアーチと技法が異なります。
六角堂は池に浮かぶ島につくられた六角形のあずまや。
屋根の形や瓦を黒く色づけているところに、中国風な趣を感じさせます。
島へは、一つ石(琉球石灰岩)でつくられたアーチ橋が架けられています。
識名園の造園形式は、池の周りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむ、廻遊式庭園(かいゆうしきていえん)と呼ばれるつくりになっており、基本は中国風なのですが、築山があって、これが薩摩の持ち込んだ日本風だとのこと。
敷地内に「育徳泉(いくとくせん)」という泉が湧く。
そこに生える淡水産の紅藻類「シマチスジノリ」は国の天然記念物である。
育徳泉は清冽な水をたたえ、池の水源の一つにもなっています。
琉球石灰岩を沖縄独特の「あいかた積み」にして、巧みな曲線が優しい美しさを感じさせてくれます。
あいかた積みとよばれる石積みの工法は、沖縄県内のあちこちでよく見かけますが、実は沖縄が誇る高度な技術のひとつなのです。
井戸口の上には、泉をたたえた二つの碑が立てられています。
向かって右は、1800年(嘉慶5年)、尚温王の冊封正使趙文楷が題した「育徳泉碑」。
向かって左の碑は、1838年(道光18年)、尚育王の冊封正使林鴻年が題した「甘醴延齢碑」。
もとの碑は、戦災を受けて下部が破損したため、1980年(昭和55年)に拓本をもとにして復元したもの。
船揚場は池で舟遊びをした時に船を揚げる場所。
識名園へのアクセス、行き方歩き方
住所:沖縄県那覇市字真地421-7
TEL:098-855-5936
ゆいレール: 首里駅下車、タクシーで10分
バ ス: 識名・開南線#2、松川新都心線#3、識名・牧志線#5 識名園前バス停下車、徒歩約5分