壱岐では横穴式石室古墳のことを「鬼の窟(いわや)」と呼んでいる。
これは鬼でもなければこんな重い石は運べまいといった解釈からだろう。
6世紀後半~7世紀前半頃の築造。
石室は壱岐最大(全国12位)で全長16m、最大の天井石は4mもある。
当時の豪族・壱岐直の墳墓らしいといわれている。
同じくバスの車窓から、湯ノ本湾を望む。
壱岐島北西岸、美しい島々に夕日が映える風光明媚な温泉郷である。
歴史は古く、神功皇后が三韓出兵の帰路に立ち寄り、自噴している温泉を見つけたと伝えられる。
神功皇后はここで応神天皇の産湯をつかわせたとの伝説もあり、子宝の湯としても親しまれている。
猿岩、黒崎半島のさらに先端にある高さ45mの海蝕崖の玄武岩。
そっぽを向いた猿にそっくりで、気紛れな自然の造形に驚かされる。
壱岐島誕生の神話によると、壱岐の国は生き島である。
神様が海の中でこの島をお産みになったとき、流されてしまわないようにと八本の柱を立てて繋いだ。
その柱は折れ残り、今も岩となって折柱(おればしら)といわれている」とある。
その八本の柱のひとつが猿岩である。
東洋一の黒崎砲台跡、猿岩の駐車場から歩いて1分の位置に東洋一の黒崎砲台跡がある。
対馬海峡を航行する敵の艦船を攻撃するために太平洋戦争のときに造られた。
口径41cmのカノン砲二門の要塞砲で普通は地下にもぐり海からは見えないようになっていたという。
1トンの弾丸を35Kmも飛ばす威力があり玄界灘をすべて射程内にしていたとのこと。
入口に置いてあったのは、黒崎砲台で使われていた砲弾(41cm)と、戦艦大和の主砲の砲弾(46cm)。
左が黒崎砲台で使われていた砲弾(41cm)。
入り口の案内板には、『東洋一の黒崎砲台跡』と書かれていて、その下にはなにやら秘密基地のような再現図…
中に入るとかなり広い、上から光が差していたのは砲台が据えられていた場所… ここは立ち入り禁止。
昭和16年、太平洋戦争が始まったが、航空機が主流になったため、黒崎砲台は1発も実弾を発射することがなく「打たずの砲台」と陰口を言われながら終戦を迎えることになった。
射撃実験の時は、付近の民家のガラスが割れたり、遠くの柱時計が止まったと言われています。
上から見るとけっこうな高さがあります。
穴の直径は10mくらい。
周りのコンクリートに縦すじが入っているのが見えるでしょうか。
これは、アメリカ占領軍によってハッパをかけられた跡。
結局、完全には破壊できず、八幡製鉄所の手によって処分され、鉄屑として製鉄所に引き取られました。
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