筑紫国造磐井の墓 岩戸山古墳

九州

筑紫の君の幾世代にもわたる墓域と考えられる八女丘陵(やめきゅうりょう)は東西10数kmにおよぶ。

この丘陵には西側から石人(せきじん)山古墳、神奈無田(じんなむた)古墳、岩戸山(いわとやま)古墳、乗場(のりば)古墳、善蔵塚(ぜんぞうつか)古墳、鶴見(つるみ)山古墳、釘崎(くぎざき)古墳群、丸山(まるやま)古墳など11基の著名な前方後円墳がある。

岩戸山歴史文化交流館前の少し小高い芝生の広場から岩戸山古墳を見る。
左が後円部、右が前方部。

芝生の広場から歩いてくると「別区」(べっく)と呼ばれる広場に着く。
岩戸山古墳の後円部に造られた広い空間で、このようなものを持った古墳は全国でもこの古墳だけである。

文献(筑紫国風土記)によると、ここで裁判が行われていたらしい記述があり、特別な祭祀場とも考えられる。

廻りには、古墳造営時のように石造物が並べられているが勿論みんなレプリカである。
本物は近くの「岩戸山歴史資料館」にある。

ここにちょっと奇妙な碑がある。

稲妻や人形が原の魂よばい

芭蕉の門人、向井去来(蕉門十哲に数えられている)が元禄年間、この古墳を訪れた時に詠んだ句だという。

魂よばい(呼ばい)とは、死者の名前を呼び蘇らせようとする呪術的儀礼だ。

「人形(にんぎょう・ひとがた)が原」とは、石人・石馬が林立する風景から、古くは岩戸山古墳のある台地がこう呼ばれていたという。

稲妻は誰を蘇らせるための魂よばいだったのだろうか。
磐井と思いたいところだが、彼の墓所が岩戸山古墳と特定されたのは戦後のことで、江戸時代には石人山古墳(八女市の西側の広川町にある)だと考えられていたようだ。

岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、全長約135m、後円部径約60m・高さ約18m、前方部幅約92m・高さ約17mを測る。

墳丘周囲には幅20mの周堀と外堤を持ち、外堤を含めると全長約170mの大前方後円墳となる。

古墳の東北隅には外堤につづく一辺約43mの方形の区画(別区)が存在している。
墳丘の内部主体は不明であるが、墳丘、別区から多量の石製品、埴輪が出土している。

筑紫国造が成立したのは6世紀の後半ともみられているが、5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一大勢力圏をつくっていたとみられる。

磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦ののち唐に抑留されて天智10年(671)帰国した筑紫君薩野馬はその後裔とみられる。

同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。

八女丘陵上には、現在11基の前方後円墳を含む約150~300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀後半までおよんでいる。

磐井の乱以後も連続して大形墳墓が造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語っている。

前方部の墳丘上に上る人達。

岩戸山4号墳は岩戸山古墳の西方150mに位置する直径30mの大型円墳。
平成6年に市指定となった。

内部主体は大型古墳には珍しい三室構造の横穴式石室です。

石室に使用された石材は非常に大きく、丁寧な加工が施されています。

石室が開口していた鎌倉時代には地場信仰の対象となっており、奥壁に「卍」が刻み込まれています。
7世紀初めのものと思われる。

全体に結晶片岩の一枚岩を用いて箱型に組み合わせて作られている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

岩戸山古墳へのアクセス、行き方歩き方

福岡県八女市吉田1562-1
TEL:0943-24-3200
FAX:0943-24-3210

西鉄久留米駅より八女行きバス「福島高校前」下車。

八女ICから国道442号・国道3号経由で約15分。
広川ICから国道3号経由で約10分。