彦根城の紅葉

紅葉を見たいと彦根を訪れたが少々早めでした、あと1週間は必要かな。

とりあえず腹ごしらえ。

江戸時代に彦根藩主井伊家から献上されたといわれる「伊吹蕎麦」の専門店、献上伊吹そば つる亀庵。

伊吹山麓で契約栽培している「伊吹そば」を伊吹山の湧水で打ち、こだわりの”だし”や”かえし”おいしい「蕎麦」をご提供しているというので早速挑戦。

風味もよくなかなかのものだ。

立て札には二季咲桜と書いてある。

『二季咲桜 昭和47年4月に水戸市(友好都市)より寄贈されたもので 冬(11月から1月)と 春(4月から5月)の年2回開花します。』

二の丸駐車場を入ったあたりが少し紅葉している。

まだまだ青い葉が多く、あと1週間くらい後がいいのかも。

玄宮園からの天守閣の画像を楽しみにしていたのだが、紅葉は今少し早く、空模様も段々と雲が多くなり期待外れに終わる。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝(唐時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。

天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

黒門山道沿いに見る高石垣は見事です。

井戸曲輪の上下の石垣は、高さが10mを越える高石垣となっています。
とくに下方の石垣は高さが19.4mあり、彦根城の石垣の中ではもっとも高く堅牢(けんろう)な構造となっています。

井戸曲輪跡の上にある虎口から彦根城の景観。

井戸曲輪(いどくるわ)、黒門から本丸へ向かう坂道の途中に設けられた小曲輪。

孤状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓(しおやぐら)が築かれ、周囲は瓦塀(かわらべい)が巡っていました。

塩櫓の近くには方形と円形の桝(ます)が現存しており、石組み溝で集められた雨水を浄化して貯水するタイプの井戸であったと考えられます。

曲輪の名も、この井戸に因(ちな)んで名づけられたのでしょう。

「塩」 と 「水」 は、籠城戦(ろうじょうせん)ともなれば兵士の体を維持するために必要不可欠なものです。

井戸曲輪は小さい曲輪ですが、黒門から侵入する敵兵に対する守りであるとともに、彦根城を守備する兵士の生命維持に必要な物品の備蓄が配慮された曲輪でもありました。

能褒野詰めたところが西ノ丸、ここも天守のビューポイントとしてはよい。

国宝4天守(姫路城、松本城。犬山城)のひとつ。
外観三重、内部三階、地下一階構造で屋根にはいくつもの破風が設けられ、変化に富む姿は実に美しい。

東西面と南北面とはまったく違う印象である。

広い西ノ丸、イチョウの黄葉が見事でした。

この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。

三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふう)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗ぬりとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

この建物は浅井長政居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。

折からの西日を受けて木陰が長く伸びる、晩秋を思わせる光景です。

天守台、人気者ひこにゃんが撮影用に用意されている。

天守閣から佐和山城をのぞむ。

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。

佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。

その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年(白鳳元年))・姉川の戦い(1570年(元亀元年))・賤ヶ岳の戦い(1583年(天正11年))・関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。

戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。

また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。

鐘の丸「登り石垣」、彦根城には全国的にも珍しい「登り石垣」が5ヶ所に築いている。

石垣に向かって左側が溝状に窪んでいるので「竪堀」で登り石垣とともに斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築いた。

大手門は大阪城に向かう西側に構えられている。     

一の門を高麗門、二の門を櫓門とする左折の枡形であった。
この枡形は奥行に対して入口が1対2となる横長の構造になっている。

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。

建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

最後は夕日に期待したが雲が多くこれもダメ、今日は期待を裏切られた一日だったかな。

ま、自然相手なので致し方なし。

以前の訪問記井伊家の名城 国宝彦根城も併せてお読みください。

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彦根城へのアクセス、行き方歩き方

滋賀県彦根市金亀町1-1

JR西日本 東海道本線(琵琶湖線) 彦根駅から徒歩約15分。
駅前大通りを真っ直ぐ西に向かい、護国神社にあたったら護国神社を囲むように回り込みいろは松の通りを通ってクランクを抜け内堀に突き当たったら左に折れれば正門の木橋がある。

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