長崎県長崎市新地町に形成された中華街、横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称される。
長崎市は狭隘な谷間に線状に市街地が形成され、面的広がりを持たない。
これは、公共交通機関を運営するにあたり集客の面で有利な条件である。
また、均一制運賃の採用、車両や線路の敷石などを他の企業から譲り受け、カラー電車、電車内の広告などの宣伝料により黒字経営を実現している。
日本初の車体広告(カラー電車、1964年)
日本初の商業ビル内を走る路面電車(浜口町 – 松山町間の長崎西洋館)
路面電車としては日本一安い運賃(一律120円)
現役営業車両としては日本最古かつ唯一の木造電車(160形168号 明治44年製)
玄武門(北門)に掲げてある「長崎新地中華街」の書は、門の建設当時中日友好協会名誉会長であった王震によるものだ。
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いかにも中国的な灯り。
江戸時代の鎖国下でも長崎は対中貿易港として認められ、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居した。
当時の長崎の人口は7万人であったから、いかに華僑が多かったかがわかる(参考:オランダ東インド会社が存在した18世紀まで、オランダ船が来航していない期間に出島に住んでいたオランダ人は約15人)。
その後、中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが、1698年の大火で五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。
この地域が新地と呼ばれた。
幕末の鎖国政策の放棄により、1859年長崎港は国際開放され、唐人屋敷は廃墟となり、在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった。
これが長崎新地中華街の起源。
長崎新地中華街の石畳の中の四神、これは朱雀。
南北250メートルの十字路には長崎市の姉妹都市である福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねている。
南門:「朱雀」(赤)
湊公園は新地中華街の通りを抜けて道路を渡ったところにある公園ですが、ランタンフェスティバルの中心会場の一つになります。
ランタンフェスティバル期間はステージイベントがあったり、露店が出たりで人が多い。
中国式の廟はいろいろ祈願する人で混雑。
長崎新地中華街へのアクセス、行き方歩き方
長崎県長崎市新地町
長崎駅よりタクシーで約4分
長崎駅より路面電車で8分- 築町下車から徒歩で1分